平成11年11月、熊本の菊池楓風園で、熊本訴訟の検証が実施されました。
検証とは、裁判官に実際に園を見てもらい、園の過去の施設、現在の施設の状況を感じてもらうための手続きです。現地に入る前に原告、被告双方から指示説明書を提出した上で、実際に現場でも説明しました。ここでは、原告側の指示説明書をご紹介します。
1:強制収容所であった事実、2:終生隔離施設であった事実の2点に指示のポイントを置いていますので、そういう視点から指示説明を読んでいただけると、施設の意味合いがよく分かります。
平成一〇年(ワ)第七六四号、一〇〇〇号、一二八二号
平成一一年(ワ)第三八三号、同第六四九号
「らい予防法」違憲国家賠償請求事件
検 証 指 示 説 明 書
原 告 番号第一 ほか一四八名
被 告 国
平成11年11月16日
右原告ら訴訟代理人
弁護士 徳田靖之
同 八尋光秀
同 古賀克重ほか一四〇名
熊本地方裁判所民事第三部 御中
一 事務本館・旧事務本館 古賀克重・原告二名
1 ハンセン病療養所は、「療養所」との名のもとに設置された「強制収容所」であり、そして「終生隔離施設」であった。そして、その運営は、患者自身の作業に依存していたのである。
菊池恵楓園も、例外ではない。
2 一九〇七年(明治四〇年)、法律第一一号が交付され、ハンセン病患者の隔離実施が決定した。そして同年内務省令第二〇号「県らい療養所設置区域」が交付され、全国五地域に道府県立のらい療養所が設置されることとなり、一九〇九年(明治四二年)、九州(沖縄を除く)には、第五区九州らい療養所が設立された。これが菊池恵楓園の前身である(写真撮影報告書(一)・チ)。
最初の収容者は、熊本県が送致した本妙寺境内の浮浪患者二七名であった。
強制的な収容はその後も続き、同年末には患者数一一五名と一〇〇名を越え、
一九一六年(大正五年)には二〇二名、一九二四年(大正一三年)には三一八
名と収容者は増え続けた。
3 しかし「療養所」とは名ばかりであり、収容者自身が患者の世話をし、そのほかにも営繕・畳の表替・包帯、ガーゼ再生作業、共同便所掃除、掛け布団・敷布団の洗濯、理髪、道路修理、し尿処理など様々な作業を行わせられた。
この患者作業は、全療協の努力により国(職員)の側へ次第に返還されたが、いまだ完全に返還はされていない(別表1「患者作業の返還等一覧表」)。
そのような劣悪な生活環境のなか、毎年一〇名以上もの収容者が死亡していた。
その後、一九四一年(昭和一六年)、国立に移管され、国立療養所菊池恵楓
園とされた。
ちなみにこの年の収容者数は一一五二名、死亡者数は一〇六名に達していた。
4 旧事務本館は、昭和二六年に落成し、その高い棟が威容を誇った(写真撮影報告書(一)@)。在園者に園名を付けさせ、また断種・堕胎をつかさどったのも、この旧事務本館となる。由布園長によると、「お前は偽名は何にするかと半ば強制的に付けられた人も多い。」とのことである。
5 老朽化により、旧本館の東に隣接していた木造の旧看護学校跡地に、現在の事務本館が新築され、法廃止の三年前である平成五年五月二八日にやすらぎ総合会館とともに、落成した(別表2・施設設置年度一覧参照)。
国側指摘の啓発・啓蒙活動は、国の施策として全国一三の療養所にて実施されているものではない。また、由布園長によると、「昭和六二年から啓発活動をやりましょうと提言をいたしましたが、受け入れられず、幹部の先生からしかられた。」「私が園に入った昭和六一年当時は、どこでもやっていなかった。」とのことである。
二 監禁室跡 同
1 一九一六年(大正五年)、法律第二一号、らい予防法・同施行規則が改正され、第四条二項において「療養所長に入所患者に対する懲戒検束権を与えるとともに、各療養所に悪質患者を収容するための監房を設置する」こととされた。裁判を行わずに患者を処罰するという、患者の人権を無視した規定である。
これは全国の療養所において恣意的な運用がなされたが、恵楓園も例外ではなかった。
2 菊池恵楓園にも、一九一七年(大正六年)に監禁室が設置された。
強制的に故郷から引き剥がされた収容者の中からは、逃走者が後を絶たなかった(別表3)。逃走者が、巡視に捕まった場合は当然数日間の監禁室入りとされた。
また、園内で園長ほか施設側の人間に従わない場合は、それがいかに理不尽なものであっても、やはり監禁室入りとなった。
事実、恵楓園の監禁室内部の木壁にも、監禁室に入れられた収容者の苦痛・恨みをつづった書き込みが残っていたが(写真撮影報告書(一)ニヌ・ビデオ「見えない壁を越えて」)、最近、園当局により白いペンキで塗りつぶされてしまった。
「悲しい」という文字や、監禁された日々を指折り数える書き込みなどがはっきりと読みとることができた。今も目を凝らすと、「昭和5年 逃走犯スニヨリ監禁7日ヲ命ズ アア思ヘバ長キ日ヨ 我ハ罪ナレド泣キテ晴レノ日ヲ待ツ」などの生々しい書き込みを読みとることができる。
3 設置当時は、写真でも明らかなとおり(写真撮影報告書(一)ト)、レンガ壁が監禁室の周囲を囲堯して外界から内部を遮断していたが、一九五五年(昭和三〇年)八月に、レンガ壁がとりはずされたため、現在は監禁室自体のみが残存している状況である。
三 県警留置場跡 同
1 一九三八年(昭和一三年)一二月、恵楓園内に熊本県警により留置場一棟(三六坪)が設置された(写真撮影報告書(一)ノ)。
2 「藤本事件」、すなわち殺人事件の容疑者がハンセン病患者であったために、捜査・公判・上告及び死刑執行の過程で患者に対する偏見と差別が影響し、公正さの欠如した裁判という疑いが暗い影をおとし、わが国裁判史上に問題を残す結果となったとされる事件において、容疑者であった藤本氏が一時収容されていたのも、この留置場である。
3 また、昭和一五年七月九日、熊本市本妙寺部落の強制収容が行われた際(写真報告書(一)ハからメ)、トラックにて根こそぎ強制収容された患者らが、一時的に収容されたのも、この県警留置場と監禁室であった。
当時の九州療養所長から厚生省予防局長への報告には、次のとおりの記載がある(「菊池恵楓園五〇年史」・恵楓園刊)。
「水も漏らさぬ検挙を行い身柄は一応「トラック」にて順次九州療養所に運び、構内にある警察留置所及び当所監禁室に収容し、翌々一一日まで検挙を続行残存患者・・合計一五七名を一網打尽に検挙したことは近来の快事として慶幸の至りに堪えず。」(昭和一五年七月二四日報告)、さらに「男は警察留置場、女は監禁室に分割収容致し申候。・・最高八二歳の老人から最低生まれ立ての赤ん坊までの百鬼夜行の老若男女一五〇名余を一時に留置したる光景は見物に御座候。・・・・これは警察当局のはてなき勇敢なる態度と周密なる計画の結果と存じ候。・・・・今回の挙に対しては地方民はもちろんのこと、市長初め一般市民の感謝は非常なるものにて早速市長、・・・・などが警察部長のところにお礼に参り、(警察)部長も会う人毎にライの話をされるので、近頃は「俺もいよいよライ部長になってしまった」と笑はれ居り申候」(昭和一五年七月二六日報告)とあり、当時の国のハンセン病患者に対する意識が如実に現れている。
4 木造一階建てで、恵楓園でも人の近づきがたい薮の中にひっそりと設置されており、他の収容者が近づくことはなかった。
監禁室のレンガ壁が取り外されたのと同じ年、すなわち一九五五年(昭和三〇年)、厚生省の指示で取り壊された。
四 面会人宿泊所
1 別表2のとおり、近年建てられた施設である。
五 ちどり寮周辺 同
1 療養所で結婚することを昔は、「ぜんざい(善哉)」と隠語で呼んだ。園内で結婚したお祝いの席では、ぜんざいを出したからという。
終生隔離のため、独身の療養者達は、園内で伴侶を求め、一方、伴侶を故郷に残してきた者は、園内で再婚するものも少なくなかった。
2 創立当初、園内に舎は一六棟あったが、一棟は三〇畳敷で、一五名が雑居生活を強いられた(写真撮影報告書(一))。しかも、一舎毎に鍋釜などが支給され、自炊を強制された(「菊池恵楓園五〇年史」・菊池恵楓園刊)。
夫婦で住む部屋はなかった。そのため園内で結婚しても、夜、夫が妻のいる棟に通う、いわゆる「通い婚」を強いられたのである。
3 初めて夫婦寮ができたのは、戦後六年もたった一九五一年(昭和二六年)二月であった。それも、十軒長屋式であり、四畳半一間の部屋であった(写真撮影報告書(一)。
4 なお、結婚の条件として、断種・堕胎が強要された。この断種・堕胎は戦後も強要され、子どもを生むことが許されることはなかった。
そのため、このちどり寮周辺にも、在園者の子どもや孫はいない。「高齢化が進んだいま、恵楓園はこどもがいない世界になった。」(恵楓園園長・由布雅夫)のである。
六 菊池医療刑務支所跡 同
1 一九五三年(昭和二八年)三月、全国唯一のハンセン病患者専用の刑務所として、定員を七五名とする菊池刑務支所が設立された(写真撮影報告書(一)ヤ)。
国は、刑務所までも一般社会と隔離する、徹底した隔離政策を実施した。
2 一九五〇年(昭和二五年)の第七回国会衆議院厚生委員会では、療養所懲戒検束規定の効力について質疑が行われ、新憲法下においてもなお有効であるとの再確認がなされた。
ところが、右審議は、さらに代用刑務所設置の件にまで発展し、厚生省と法務府との協議により、設置の方針が決定した。そして当時の恵楓園の園長曰く「昭和二四年一〇月、その際全国一〇か所の国立らい療養所長も集まったでのあるが、…(その時に)らい刑務所を恵楓園で引き受けてもらえないかとのことであった。・・そしていわゆる多数決によって、新設を予定されるらい刑務所は菊池恵楓園にもってゆくことに決定した」ものである。
3 本刑務所は、一九八六年(昭和六一年)三月、収容定員一〇名で更新築されるなど、国のハンセン病患者隔離の政策に変化はなかった。
4 「菊池医療刑務支所」の正面表札が、平成九年一二月二六日、ようやく取り外され、現在、旧刑務所支所の外壁及び新設された刑務所施設が残存している状況である(写真撮影報告書(一)。
七 ゲートボール場
(指示説明事項)
1 「終生隔離」を余儀なくされた療養者らは、園内に、趣味を見つけるほかなかった。
2 当初は、野球・相撲などが活発に行われたが、在園者たちは、高齢化とともに、運動量の少ないゲートボールを愛好する者が多くなった。現在では、恵楓園だけではなく、他の療養所においても、ゲートボールが広く行われている。
ちなみに、恵楓園創立八〇周年記念誌には、「昭和三〇年まで隆盛した野球にかわって、現在はゲートボールが盛んである。」とある(一〇〇頁)。
しかし、あくまで入園者らが自発的に趣味としてゲートボールを実施し、かつ親睦団体としてゲートボール会が存在しているにすぎない。すなわち、園が啓蒙活動の一貫として実施しているものでは何らなく、入園者らの趣味が、社会との交流に役立っているにすぎない。
3 園側は、むしろ在園者にその運営を任せきりであった。例えば、ゲートボール場横に設置されている休憩所は、自治会の好意にて古い居住者棟の材木を使用して、在園者自ら、すなわち自治会が制作したものである。
4 過去、存在していた土俵などが姿を消し、また、使用されていた野球場が在園者により使用されることがなくなり、変わりにゲートボール場に姿を変えていることこそが、国の終生隔離政策の結果に他ならない。
八 車庫
1 一九五九年(昭和三四年)、恵楓園では、オート三輪講習が開始し、さらに自動車運転講習へと進んだ。
園側の発案ではもちろんなく、当時の自治会長荒木正氏の発案で、園側と折衝した上に、導入された。もちろん、全国的な園の方針・施策ではなかった。
当初の講師は、療養所に入所する前から運転免許証を所持していた在園者であった。
2 病棟から居住棟への入退院者の送り迎え、園内作業の塵運搬、物品配給、糞尿処理のバキューム運転手なども、このような免許を取った収容者が行った(別表1「園内作業の返還年度等一覧表」参照)。
そのため、患者作業用の車庫が設置されたのも、この時期からである。
3 この講習を受けて免許を取ったのは在園者のごく一部であったし、何よりも一般の教習所には通うことができないために導入されたものであって、「強制隔離政策」の結果、誕生した制度にすぎない。
4 ある在園者は、こう語っている(自治会機関誌「菊池野」)。
「一〇代に入所して四〇年。実家には以来一度も戻ったことがなく、人生にとって最も若い年齢期をここで過ごしてきたんです。もだえ苦しんだ毎日、正常であれと言うのが無理です。自動車講習はぼくらが最初の口で、自分なりに技術習得も通信教育で勉強してきたんです。でも、それは社会復帰に備えたものではなく、人間としての生き甲斐が欲しかったんです。」
九 養豚場
1 一九二六年(大正一五年)六月に結成された自治会(当初は、「時光会」と呼ばれた。)は、同年七月から養豚を始めた(写真ル)。
当初は、四頭だった数が、昭和五年には三六頭になり、昭和一一年には豚舎を二舎新築し、翌一二年の屠殺数は、年間七五頭にも達した。
終戦までは、ほとんど自家用に屠殺していたが、戦後は、頭数を増やして外部にも出荷した。
自治会による運営が行われていたが、一九七四年(昭和四九年)労働力不足により閉鎖された。
現在残っているのは、最も新しい豚舎の一部である。
一〇 火葬場跡
1 一九二〇年(大正九年)、檜の森の片隅に火葬場が設置された。強制収容された患者の遺体は、故郷に帰ることもなく、園内で荼毘にふされた。また、この作業自体も、三人の療養者による患者作業により行われた。
2 クヌギの森の中にひっそりと設置された火葬場には、誰も寄り付かず、また火葬作業はなかなか引き受け手がいなかった。国の主張するような「精神慰安」として、火葬作業を引き受ける者など誰一人いなかった。
一九六〇年(昭和三五年)、自治会の粘り強い申し入れ・交渉の末、ようやく廃止され、外部の火葬場へ委託されるようになった。それまで火葬作業は、実に四〇年にわたり患者自身の手で行われたのである。
なお、遺体運搬は、昭和三七年四月にようやく園側に作業返還を果たした(別表1・「患者作業返還等一覧表」参照)。
3 終生を隔離施設で過ごすしかなかった在園者は、寮友に看取られるほかなかった。
昭和五八年一〇月、鎮魂のレイクイエムとして、「やすらぎの碑」と記した記念碑が建てられた。建立したのは、園ではなく自治会であった。
一一 北側壁・側溝
1 全国の各療養所は、終生隔離の完全実施のため、厳重な隔離施設が設置されたが、恵楓園もまた、例外ではなかった(以下、「菊池恵楓園五〇年史」恵楓園発刊による。)。
2 明治四二年の創立当時から、逃走予防のために壕が掘られるなどしていた。
昭和四年には、園の西側と北側は、高さ約二メートルのコンクリート塀及び素ぼりの堀で患者の居住地区を囲み、患者の外出・逃走を阻んでいた。
壁以外は幅一・五メートル、深さ二メートルの素堀を掘り、その外側にも土手とひのきを設置して、外界から遮断した。この堀の中はえぐり取られ、土は全て外部側に盛られ、堀に入ると足掛かりがなく、堀の上には容易に登れない構造になっていた。
3 これは、明治四三年二月一九日の九州療養所の園長から熊本県知事に提出された報告書に記載された要望が実現したものであった。
つまり、「周囲の雨水溝を幅五尺、深さ五尺に塹壕的に堀り広めることとし、脱柵防止の目的となりしも、・・・依然脱柵するものありて其目的を達する能わず。故にこれが目的を達せんとなれば、さらに二尺余りの広さを増すと同時に、病・無病毒地の境をして如上の溝を掘るか、又は板壁等の類を以て防止するにあらざれば到底満足の目的を達する能はざるは既に実績の示す処なるに依り、之が設備の必要を認む。」との要望に応じて、「隔離の厚い壁」が恵楓園と外界、さらには、居住地区と職員地区を隔てることになったのである。
4 また、旧正門横及び患者居住区内の二か所に、巡査詰所が設置され、二四時間勤務・五名前後の巡視が常時巡回していた。別表3の「その他」欄のとおり、医師・看護婦の数より、園が雇傭する巡視の数が多かった。この巡視による逃走防止は、実に昭和三四年四月まで実施されていた。
園からの逃走を図り、捕まれば数日間の監禁室入りとされた(指示説明地点ツ監禁室跡内部の書き込み)。そして、カルテには、赤文字で「逃走」と記載されるとともに、「逃走者」として園内の記録にも残された(九州療養所統計年報)。
5 このように、医師・看護婦の数よりも巡視の配置に意を配るなど、九州療養所は、設立当初から「強制収容施設」でしかなかったのである。
一二 納骨堂、旧納骨塔及び宗教施設
1 旧納骨堂
一九三九年(昭和一四年)三月、全国各宗派本山及びキリスト教団の寄贈により、旧納骨堂が建立された。
患者作業として礼拝堂係が置かれ、収容者自身の手により、運営されていた。火葬場で荼毘に付されたお骨は、翌日、作業担当の患者及び親しい者の手により、納骨堂に安置されたのである。
昭和四五年一月時点での患者死亡数二四七三名に対して、納骨堂内部の骨壺数は七八八しかなかった。古いお骨は、園により無縁仏として整理された。
2 納骨堂
一九七四年(昭和四九年)ころから、老朽化のため旧納骨堂の雨漏りがひどくなり、湿気のため遺骨の名前も判読できないような状態になった。
対応を迫られた自治会は、一九七四年(昭和四九年)一一月一九日、自治会創立五〇周年記念として新納骨堂を建立することの合意をなし、納骨堂建立委員会を発足させ、募金を募るなど再び自らの努力により新納骨堂設置に踏み出し、一九七六年(昭和五一年)一〇月一五日、落成式が行われた。
厚生省及び国は、自らの手で患者を強制収容しておきながら、骨になっても故郷に帰ることのできない療養者については、無関心であり、自治会の申し入れまどがなければ、自ら在園者の死語に意を配り、積極的に納骨堂を建立することは決してなかった。
3 宗教施設
また、九州療養所設立当初から、収容者は宗教に慰安を求めるほかなかった。恵楓園で団体を結成している宗教は(平成元年四月一日現在)、真宗報恩会、真言宗真愛会、日蓮宗報国会、天理教道友会、カトリック暁星会、金光教求信会、キリスト教、日蓮正宗創価学会、仏立宗など幅広い。
建物としても、園北側の礼拝堂が存した通り沿いにカトリック聖堂、法華堂、仏立宗親会、黎明教会が立ち並んでいる。その他、写真撮影報告書謔ェ設立当時の説教所、艨E蛯ェ礼拝堂である。
なお、九州療養所の設立当初から、園側は、宗教を園内統治の手段として利用していた。
つまり、九州療養所が一年ごとに発刊していた「統計年報」には、慰安・娯楽事業の方針として「患者に精神上の慰安を与えるを目的とし、思想善導を図り以て脱柵逃走等の如き違反行為をすくなからしむる」と明記していたほか、「患者宗教別人員調査」として患者の思想調査を行い、どの宗教を信仰しているかなどの統計を毎年取っていた。
例えば、昭和元年の右調査によると、真宗一六三名、浄土宗三名、真言宗七〇名、禅宗七名、日蓮宗一〇一名、キリスト教六九名、神道一名、不明三とある。
4 他の病院や療養所と異なり、これらの納骨堂・宗教施設の存在こそが、「療養所」が終生の隔離施設であった現実を、無言のうちに象徴している。
一三 恵楓園分教場跡・公園
1 強制隔離で収容され、終生隔離を余儀なくされた収容者らは、外で教育を受ける機会も奪われ、療養者内にて、しかも自ら学ぶ他なかった。
2 当初は、読書・習字が寺子屋式に行われていたが、一九三一年(昭和六年)、学校兼図書館が設置され、一九四一年(昭和一六年)、恵楓学園と改称され
た。児童数約六〇名を患者教師四名が、教えていた。
3 一九四九年(昭和二四年)に至りようやく、学校令に基づき、合志中学校・栄小学校の園内分校設置が認められた(写真轣A閨A驕j。
つまり、それまでは、「療養所内の教育は、法令に基づいて設置した学校によるものではなく、所長が卒業証書や修了証書を出しても、それは所内限りのもので世間には通用しなかったのはいうまでもない」(「菊池恵楓園五〇年史」・恵楓園刊)状態だったのである。
4 一九四九年(昭和二四年)に二九名だった児童数は、一九五四年(昭和二九 年)には、七五名を越えた(ちなみに同年の入園者数は、一六二八人であった)が、一九七一年(昭和四六年)には小学校児童〇人、一九七六年(昭和五一年)には中学校就学児童〇人となり休校になり、やがて廃校となった。
5 一九七五年(昭和五〇年)頃までは、本校からの派遣教員だけでなく、療養者自身も、補助教員として教壇に立たされていた。
派遣教員が教壇に立つときは、白い予防衣と顔全体がかくれる帽子をかぶり、さらにマスクをつけ、黒いゴム長靴を着用した。学校の廊下や教室でも、派遣教員は、土足のままであることを許されていた。それら防具一切は、更衣室に備え付けてあった。そして、教員は、授業終了後、毎日入浴して帰宅するのが習慣であった。
患者地帯と職員地区は、高さ二メートルのコンクリート塀で区切られていたが、職員室も、職員地区に設置されていた。学校と職員室は、二〇〇メートルほど離れていたが、教員は一時間毎に職員室に戻り、使用した教科書は職員室の入口に備え付けられたホルマリンの消毒箱の中に入れ、さらにクレゾール液の入った洗面器で手を洗った。
これらは、実に、一九七六年(昭和五一年)に廃校になるまで行われていた(以上、「忘れえぬ子どもたち」・元教員藤本フサコ氏の手記)。
6 さらに、高校進学を希望する者は、岡山県の長島愛生園内に唯一設置された、岡山県立邑久高校の新良田教室に進学するほかなかった(新良田教室は、一九五五年(昭和三〇年)九月に開校し、一九八七年(昭和六二年)三月に閉校になっている)。一九五五年までは、高校に進学する機会も与えられていなかったのである。
つまり、外で就学する機会を奪われただけでなく、高校に進学する機会、さらに新良田教室設置後も、希望する地域で就学する機会を奪われていた。
7 校舎跡は、一九九〇年代まで残存していたが取り壊され、平成八年五月一〇日、いこいの丘公園となっている(別表2・施設設置年度一覧)。
一四 少年舎・少女舎跡
1 一九三三年(昭和八年)、少年舎・少女舎が開設された(写真黶E)。
幼い入園者は、この舎で生活した。一二畳に一二、三名が雑居し、部屋の窓際には支給品の所持品入れ箱がビッシリと並べられ、各少年の小物入れとともに机の代わりもはたした。部屋が狭く、一人一人の寝床が敷けないために、一つの寝床に二人の子どもが共寝をせざるを得ず、一人が風邪をひくと、たちまち全室の子どもたちに感染してしまう状況だった。
舎には、患者夫婦が住み込み、子供達の面倒をみていた。つまり、入寮者の
世話も患者作業だったのである。これは、一九六四年(昭和三九年)一二月に、作業返還を果たすまで行われた(別表1・「患者作業返還」参照)。
2 患者作業返還がなされ、職員が子ども達の世話をするようになり、職員地区の新入所者の一時宿泊施設が、児童寮とされた。
3 少年舎・少女舎は、恵楓園の北西部、外界と遮断するための壁の近く、分教場からは五〇メート ル程西に設置されていたが、現在は取り壊され、中不自由者夫婦寮(合志寮) が建てられている。
一五 築山(望郷台)跡
1 収容・隔離された患者たちは、故郷との縁が切れ、死んで骨になっても帰れ
ない者が大半であった。しかし、故郷への思いは絶ちがたく、各療養所にはそれぞれ望郷台と称する高台が設置された。
終生隔離された療養者は、その高台から故郷の方向を眺め、故郷への思いを満たすほかすべはなかった。
2 恵楓園も例外でなく、北西部の壁近くに望郷台がひっそりと築かれ、築山と呼ばれていた。高さは約三mもあり、外部と隔絶する生活を強いられていた在
園者は、この築山に登り、約一〇〇m先を通る菊池街道や菊池電鉄の電車を見
ては涙した。
3 一九五三年(昭和二八年)に一三歳で入所したある在園者は、次のように語っている(自治会機関誌「菊池野」)。
「母恋しさに、(少女)寮の傍らにあった築山に登り、それこそ厚い壁の向こう側に見える菊池電車の屋根を眺め、電車が通るたびに帰りたく辛い日々を過ごしました。隔離政策が取られていなく、一般の病院でプロミン注射を受けられたら家庭で療養生活を送り、母と暮らすことができたと思います。」
4 恵楓園における築山は、一九九〇年代に入り、取り壊されたが、多摩全生園など今も築山が残る園も少なくない。
一六 隔離壁
設置された経緯等は、ヒ北側壁での指示説明のとおり。九州療養所の所長が県に対して要望を出して、昭和四年に設置されたものである。
西側の一番南側に残存する壁部分は、垂直に曲がったところで途切れている。依然は、隔離門を通り事務本館の裏側まで、さらに東に真っすぐ隔離の壁が延びていた。この園を東西に分断する壁は、患者地域と職員地区を隔てる二重の隔離の壁であった。
また、南側の隔離壁内側には、精神科の疾患を主たる診療機能とする病棟があった。その設置経緯は、終身隔離のために精神に異常をきたす在園者が少ないからであった(菊池野・当時の医師の投稿)。
この壁が途切れる園の中央部分には、「関門」と呼ばれる場所があり、クレゾールなどの消毒液が浸されていた。職員は、患者地区から職員地区に戻る際は、この関門で長靴を消毒して、職員地区に戻っていた。
なお、国側は、南西部の壁が病棟建築のために取り壊されていることを指摘する。しかし、既に指示説明したように、隔離壁の外側には巡視の見回りがなされていたほか、壁を取り壊して新設された病棟にも職員がおり、新病棟から外部に逃亡できなかった以上、病棟建築のために南西部の壁が一部取り壊された一時をもって、逃亡を許さない終生隔離政策に変化があったものでは何らないのである。
一七 隔離門跡
1 療養所と外界だけではなく、園内でも、職員地区と患者地区は遮断され、二重の徹底した隔離政策が実施され、差別偏見が助長がされた。
2 職員地区は「無菌地帯」ないし「安全地帯」、患者居住区は「有菌地帯」と称され、両地区は、高さ二メートル、長さ一〇〇メートルのコンクリート壁により厳しく分け隔てられ、無断で職員地区に進入した患者は、懲戒処分を受けた。
このように、外界と、そしてまた職員地区とも隔離されていた患者にとっては、隔離の門のみが唯一外界に通じる門であった。
隔離門の内側には、職員が、患者地区から職員地区に戻る際に、手を消毒する手洗い所が設置されていた。
3 「かつての国の隔離政策を実証する遺物として取り残されていた旧収容門とそれに連なる長いコンクリートの壁などが立ち並んでいたところで、その朽ち果てたさまは昔の暗かった療養所の雰囲気を漂わせていた。」が、「数種類の樹木が植えられ過去の暗いイメージは一新された。」(自治会機関誌「菊池野」・恵楓園自治会長)。
平成九年一二月三日、全面的に撤去され、記念碑のみが建つ。
写真撮影報告書(二)からは、患者地区と職員地区を隔てていた隔離の壁をクレーンで撤去する様子である。
右全面撤去に伴い、隔離壁沿いに設置されていた、旧教職員更衣棟、旧外来相談室及び旧木造倉庫なども取り壊された。
一八 第二病棟
1 平成一〇年六月一日、第二病棟が開陳した。
旧一病棟と旧二病棟という既存施設を利用した工事であった。
2 第二病棟工事の理由は、江藤副園長によると、「入園者の高齢化が進み、重症の成人病患者も年々増加している傾向の中で、その人たちを収容している第三病棟は、築後二三年を経過しているために建物・設備等の老朽化が目立ち、ベッド移動等の必要な作業にも支障を来すほど狭狽ナある。また、医療ガス等の整備も不十分で、現代医療に合致した質の高い医療看護を行うには不適で、特に病床に臥す患者に、せめてもの慰めとして、ハードの面の快適さを感じてもらうことも出来ない」からであったという。
3 厚生省の定める医療看護要員等の定数によれば、国立療養所の医師定員は、患者一〇〇名に対して、四・六名である。
入園者を七九〇名とすると、三六・三四名の医師が必要であるところ、約半分の一九名しか配置されていない。
看護婦定員は、同じく患者一〇〇名に対して、四六・六名である。したがって、三六八・一四名の看護婦が必要であるところ、半分にも満たない一五九名しか配置されたいない。
別表3・「在園者と医師・看護婦実数の対比」のとおり、医師の数はほとんど変化がなく、看護婦の延びもわずかにとどまる。全患協(全療協)の長年に渡る医師・看護婦増員の要求にも、国は誠意を見せず、現在に至るも、先のとおり不十分な人員配置しかなされておらず、今の療養者らの人員不備及び厚生省の人員削減方針に不満を覚える人は多い(自治会機関誌「菊池野」)。
4 戦前から戦後にかけての時期は、往診の際、医師らは、長靴の土足のまま部屋に入り込んだ。また、診療の時は、看護婦が持参の扇子でさっと患者の顔を隠した。呼吸する息が医師にかからぬようにとの配慮であった。一〇〇〇人に余る患者を収容しながら、夜間の当直は宅直で、死亡があっても臨終にかけつけるということも少なかった。(以上、自治会機関誌「菊池野」・元恵楓園勤務の内科医の体験談)。
5 このような「国立療養所」というには、極めて貧弱な九〇年の医療歴史を見れば、ここが「収容所」でしかなかったことは明らかである。
一九 第一不自由者棟
1 「療養所」でありながら、必要な医療整備がなされていなかったため、軽症者が不自由者の付添看護を行わせられるなど、まさに「収容所」に他ならなかった。
2 重不自由寮の「掃除夫」として指名された在園者は、重不自由寮に布団類一式を持ちこみ、大部屋一間・二〇名近くの不自由者と共同生活を行った。
二名の掃除夫が、二〇名の重不自由者の生活介護のほか、時間給水のため大きなタンクに水を汲んだり、給食棟からの食事運び、木炭運び、病棟退院者の送り迎え等を一か月単位・二四時間勤務で行った。その一日のスケジュールは、別表4・「不自由者付添業務内容(昭和三五年・恵楓園)のとおりであり、自分の治療時間も満足にとれないほどの重作業であった。
また、同じ寮から入院患者が出た場合、寮員の輪番制でベッドを並べて付添看護を行わねばならなかった。従来、看護婦が行うべき看護を、在園者が泊まり込みで行うという重労働であった。
3 全患協運動の二大闘争の一つと呼ばれる「六・五闘争」の成果により、不自由者棟の患者作業返還がようやく始まった。
当初、厚生省の方針は、「全国で介護職員総数二五〇名。昭和三五年から三九年までの五年間で終わる。介護職員の不足は、入園者の軽症者を准職員として採用し、これに当てる。」というものであった。つまり、患者による患者介護の継続を図るものであった。
この患者介護を図る厚生省案に全患協は、猛烈に反対し、一九六四年(昭和三九年)、厚生省前の座り込み・中央折衝を行った。そして、時の小林厚生大臣から「皆さんから各施設の事情を聞いて二五〇名では不足することがわかった。昭和四〇年以降も要因を確保して完全実施を約束する。患者が患者を看取るという過ちを認める。回復者(患者の軽症者)の准職員採用は誤解もあるようなので撤回する。」との回答を引き出したのである
4 こうして恵楓園でも、昭和四三年までの五年間をかけて切替が行われたが、それでも昭和四三年で三三五名の未切替が残り(「最近一〇年の歩み」・恵楓園刊)、本当の意味での職員による全患者の介護という、完全切替が実施されることはなかった(別表3・「在園者と医師・看護婦実数の対比」)。
5 国の指示説明では、各寮の開始年度につき、銀杏寮が不明、有明寮が不正確である。別表1のとおり、銀杏寮は昭和四一年七月の開設、有明寮は昭和四〇年七月の開設である。
6 なお、国は「切替以来、手厚い看護を行っている。」と説明する。
しかしながら、昭和五九年一二月一七日時点で、特別重度障害者数一五六名、重度障害者二二八名、中度障害者三四一名であり、右障害者数に対する看護の数は、特重二・五人に一人、重度四人に一人、中度六人に一人にすぎなかった。昭和五九年当時の収容者の数一一四三名に対して、現在の数は、七三六名であり、昭和五九年の数の六五パーセントにまで減少している。
このように、「終生隔離政策」の結果、収容者の数が減少するに従い、看護の収容者数に対する比率が増加したにすぎないのであって、「切替以来手厚い看護を行った」というのは事実に反する。
二〇 治療棟
1 「療養所」である以上、最も重点を置くべきは、治療棟の整備であるにもかかわらず、ハンセン病療養所では、治療棟の整備は後手後手に回された。
2 恵楓園では長年、大正一五年建築の旧治療棟を温存して建築した外来治療棟にて、診療を行ってきた。
しかし、大正一五年建築であるため、老朽化が進み、「旧治療棟二階の薬局における雨漏りもひどくなり、日常業務に著しく障害を来すに至ったこと」(当時の恵楓園園長・熊丸茂の式辞)から、ようやく再新築に踏み切った。
平成二年五月二四日、落成式が行われ、同年六月一一日より新治療棟での診療が始まった(国の説明にある「平成元年三月」とは、着工年月にすぎない。)。
3 平成元年段階では恵楓園はもちろん「他のハンセン病療養所ではこれら機器(MRI、CT)の設置を見ているところはまだ一つもない」(「創立八〇周年記念誌」・恵楓園発刊)とともに、「最近当園に勤務する医師はいずれも近代設備を備えた大学や病院から来るので、内視鏡室もない今までの古い外来棟ではその腕をふるうことも出来」なかったのである(同記念誌)。
また、「六〇周年記念誌を見ると医療費の不足が強く嘆かれているが、所長連盟、全患協の強い要望の下、厚生省の努力の結果ここ数年かなりの増額をみるようになった。他だ医療機器整備費についてはまだ十分とはいえず今後とも強く増額を要望していかねばならない」状況である。
二一 福祉棟
1 療養所は、繰り返し述べるように、収容者の労働がなければ成り立たない構造であった。このことは別表1・患者作業の返還等一覧表からも、疑いようのない事実であった。国の指示説明にある「このような職員配置は、昭和五五年ごろからのものであり」とあるが、極めて不正確な記述である。
2 患者が労働を強制されていた時期、福祉の人間は「補導員」とも呼ばれていおり、療養者との間でトラブルも少なくなかった(自治会機関誌「菊池野」)。
二二 文化会館
1 一九九四年(平成六年)六月九日に、落成式が行われた。
2 終生隔離を余儀なくされた療養者らは、その自らの英知と工夫により、九州療養所の設立当初から、様々な文化活動を自ら行い、精神的安息を得た。
しかし、強制収容しながら、国は、かかる文化活動に目を配ることはなかった。そのため、療養者の文化活動も、既存施設を利用しながら、そして施設整備と更新築とともに、空き屋から空き屋へと移転を繰り返しながらの実践であった。
恵楓学園の校舎においては、校舎正面の教室で「アマチュア無線クラブ」が、かつての理科準備室では「草の花俳句会」、その他「絵画クラブ」の部屋として、活動を行った。囲碁・将棋クラブは、旧居住者棟(夫婦寮跡)の一部を利用するなどしていた。
3 文化活動の拠点である文化会館が設立されたのは、九州療養所開所から実に八五年後であった(別表2「施設設置年度・一覧表」)。
二三 やすらぎ総合会館
1 一九三六年(昭和一一年)四月、園の北側の隔離壁沿いに、礼拝堂が設置された(写真撮影報告書(一)艨E蛛j。
様々な宗派を信じる在園者の共通の礼拝堂として、在園者に愛されたが、平成三年の台風一七号・一九号により使用不可能となっていた。
2 そこで、入園者自治会側から「福祉棟」名目で再新築を申請し、一九九三年(平成五年)五月二八日、新事務本館とともに「やすらぎ総合会館」として落成した。
各宗派(一〇宗派)の祭壇付きのホールが設置されている。正面左から金光教、真言、日蓮、真宗、神道、物故者、天理教、創価学会、キリスト教(予定)と様々な宗派のホールが並んで配置されている。
なお、一九七四年(昭和四九年)九月に作業返還されるまで、礼拝堂係(二名)も患者作業であった(別表1「患者作業返還一覧」)。
3 礼堂などの宗教施設とともに、礼拝堂、しかも様々な宗派が存在していたことが、終生隔離の結果に他ならない(別表2・施設設置年度一覧表)。
二四 盲人会館
1 一九五一年(昭和二六年)、盲人会は、「杖の友会」として会員一六〇名で発足し、昭和三〇年に「盲人会」と改め、今日に至っている。
一九五三年(昭和二八年)の予防法闘争の際には、事務本館前の座り込みなどを積極的に行った。そして、一九五五年(昭和三〇年)五月には、ハンセン病盲人の全国組織である全盲連が結成された。
2 かかる活発な盲人会の活動の障害となっていたのは、その会場がなかったことである。「空き部屋を借りてやる外はなく大変不自由した」(自治会機関誌「菊池野」・盲人会会員)状況であった。
一九五六年(昭和三一年)、東京の新橋芸奴組合の明和会から会館建設資金として五〇万円の寄贈があり、一九五七年(昭和三二年)二月、一二坪余の拠点がようやく完成した。この建物は、寄付先にちなみ「明和会館」ないし「明和館」と呼ばれた。
しかし、一五畳の部屋一つでは、十分に活動できないため、日本MTLから一〇六万円の募金をさらに受け、一九六一年(昭和三六年)、二〇坪が増築された。
その後の数々の盲人会の活動の成果は、このような寄付によって建立した「盲人会館があったことと、会員自らが努力し運動を続けてきた結果」(前出・「菊池野」・盲人会会員)に他ならないのである。
3 そして、昭和三一年からは、患者作業として、盲人会世話係・掃除婦が行われ、かかる盲人会の活動を支えた。
一九八〇年(昭和五五年)二月、ようやく六名の盲人会世話係も作業返還されるに至り(別表1・「患者作業返還等一覧」)、不自由者棟からの配置換えにより、職員が配置された。なお、世話係の人数は六名から三名に縮小した。
4 一九八五年(昭和六〇年)五月二四日、開設当時の説教所跡、次は患者自治会事務所、そして最後は印刷所に使用されていた跡地に、現在の盲人会館が落成した。
盲人会発足後、実に三四年が経過していた(別表2・施設設置年度一覧表)。
二五 西一八寮
1 昭和五一年八月三一日、竣工した普通独身寮である。
在園者らからは、いわゆる「ハーモニカ長屋」と呼ばれているように、一軒長屋をぶつ切りにしたような規格の木造平屋建てである。
2 収容者らは、戦後しばらくまでは、大部屋に共同生活を強いられていたが、
当時は、三六畳に一五人から一八人が居住していたので、一人あたりはわずか二畳分であった。九〇年を経て増えた畳は、わずかに二畳半である。
その後、ここ西一八寮でも改築が行われたが、軒を継ぎ足して、園側に部屋を増やすという極めてその場しのぎの改築であったため、普通舎に住む療養者の不満は大きい。
3 さらに医療の側面では、「普通舎」は外来扱いとし看護員の割り当てなどは極めて低い数字に押さえられている。このような数字合わせにより、少ない人員配置にて、厚生省はお茶を濁してきたのである。
二六 福祉会館
1 一九七四年(昭和四九年)一〇月一五日、船舶振興会の寄付などにより、財団法人藤楓協会が新築した。
在園者自身がこの施設を利用して、自発的に文化活動を実施している。
例えば、内部施設である冷暖房クーラー、カラーテレビ、ステレオ、座机座布団、パチンコ、輪投げその他のゲーム各種は、二〇〇万円の入園者の負担で購入・設置した。
このように、藤楓協会が所有する建物を、在園者が自発的に使用しているのであり、園が主体となって維持・管理する施設ではない。
2 また、年々高齢化していく在園者の数に比例して、ゲートボールと同じくカラオケ愛好者も増加していったにすぎない。園が主体となって実施してきた啓蒙活動でないことは明らかである。
3 昭和四九年の建設以来、福祉会館での事務は、福祉会館係三名、高齢者会事務係二名、白内障事務係一名、計六名による在園者による患者作業によりまかなわれてきた。
職員が常勤するようになったのは、患者作業の返還が行われた一九七〇年(昭和五五年)二月からであり、その人数も二名にすぎなかった(別表1・「患者作業返還等一覧表」)。
4 現在高齢者会は、四一四名であり、実に入所者数七三六名の六割近くを占める。終生隔離の場所だった療養所においては、高齢者は必然的に増えるしかないのである。
添付資料
一 別表1 患者作業の返還年度・職種・作業人員
二 別表2 菊池恵楓園・施設設置年度・一覧表
三 別表3 在園者と医師・看護婦実数の対比
四 別表4 不自由者付添業務内容
以 上