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ハンセン病国賠訴訟

ハンセン病国賠訴訟とは?

古賀克重法律事務所 ハンセン病国賠訴訟

はじめに

国立の療養所というと、皆さんはどういうところを想像しますか。

結核の療養所やガンセンターなど、そこに最新の医療設備が整えられ、医師・看護婦が充実した施設を思い浮かべるのが普通でしょう。

ところが、医師や看護婦の数が少なく、患者自身が患者の面倒を見る施設、しかも自発的に入院するのではなく、患者さんを強制的に収容した施設があります。

それが、全国に13箇所あるハンセン病療養所です。

行われた人権蹂躙

ハンセン病と判明した患者さんは、強制的に療養所に収容されました。患者さんの中には、警察にピストルを突きつけられてやむなく入所した人、警察のジープに家畜のように乗せられた人もいます(そのすさまじい生の光景は、ハンセン療養所(監禁室)・強制収容等の写真をご覧下さい。)。

ところが、収容された施設では、十分な医療体制が取られていませんでした。患者さんが患者さんの面倒を見て、泊まり込みの看病を行うほか、注射などの医療も患者さん自ら行わせられました。

また、24畳の大部屋に12、3人で居住させられました。そして、終生の療養所での生活を余儀なくされた患者さんは、療養所内で結婚しましたが、当初、夫婦寮はありませんでした。結婚した男性の患者さんは、夜中、女性寮の大部屋に通うという「通婚(かよいこん)」を強いられたのです。

しかも、結婚の条件として、男性の中には、子どもができないように断種手術をさせられたり、子どもができてしまった女性は、子どもを堕胎させられたのです。

そして、園長や園の人間にはむかうと、いかに不合理な理由であっても、懲罰として監禁室へ入れられました。

なぜ、このような人権蹂躙が、しかも国立療養所の中で行われたのでしょうか。

国の隔離絶滅政策

ハンセン病は、らい菌による感染症です。古くから差別・偏見の対象となり、業病、天刑病などとされました。

このハンセン病の患者さんに対する国の政策は、以下の3期に分けて考えられます。

1907年(明治40年)法律11号が制定されました。この時期が第1期です。
日清・日露戦争に勝利した日本は、この法律により、患者さん達を社会から隔離し、絶滅しようと企てたのです。この法律が制定された当初は、浮浪する患者さんを救済するという側面もありました。

ところが、その後は、治安維持的色彩を強めていきました。そして、1931年(昭和6年)には隔離対象をすべての患者に広げた旧法が制定されたのです。国は、浮浪していた患者さんを救済するという側面を越えて、日本にいるハンセン病患者を撲滅するための、「絶対隔離」政策に足を踏み出したのです。この時期が第2期です。

さらに、1953年(昭和28年)には、患者団体の猛烈な反対にもかかわらず、旧法とほとんど代わらない予防法改正が行われたのでした。これ以降が第3期です。

患者による予防法廃止闘争

第3期、つまり1953年(昭和28年)、予防法が絶対隔離政策を維持したまま改正されることに対して、患者さんの全国組織である全国ハンセン病療養所患者協議会(全患協・ぜんかんきょう)は、猛烈な反対運動を実施しました。

戦後に日本国憲法が施行されたことにより、人権意識が患者さん達にも広がったこともありますが、何よりも画期的な薬がアメリカから日本に紹介されたことが大きく影響しました。その薬はプロミンといいます。この薬により、ハンセン病は「直らない病気(不治の病)から「直る病気(可治の病)となったのでした。

治る病気になったのに、どうして療養所に一生閉じこめられていないといけないのか、この想いが全国の患者さん達を突き動かました。

患者さんは、全国の療養所でハンストを決行したり、作業を放棄したり、国会に駆けつけて国会の周りに座り込み・泊まり込みを行うなど、あらゆる抵抗を試みました。詳しくは、ハンセン療養所(監禁室)・強制収容等の写真を見ていただきたいのですが、まさに「激烈な」闘いを、患者さん自身が国に対して挑んだのでした。

それにもかかわらず、不当な差別意識のままに、1953年の改正がなされてしまったのです。

患者さんの挫折と新たな闘い

こうして患者さん達の「普通の患者として生活したい」との純粋な想いはうち砕かれたのでした。命をかけて闘った患者さん達には挫折感が広がったのもやむを得ないことでした。

しかし、その後も療養所の中での処遇改善などに患者さん達は、力を注ぎました。

たとえば、患者さんが患者さんの面倒をみるという付き添い看護や、療養所の運営を患者さんの作業によってまかなうという運営が、まだまだ当然のように行われていたからです。

1964年(昭和39年)からは、先ほどの予防法廃止闘争に次ぐ、患者運動が行われました。それは、全国の療養所の看護数等の増加を求める、患者としては当然の闘いでした。

法廃止に向けて

しかし、患者さん達は、1953年の闘いを忘れてはいませんでした。「なぜ、私たちだけが虐げられなければいけないのか。」・・・・・当時の全患協の曽我野一美会長を中心に廃止運動についての議論が全国的に高まり、この動きに対して大谷藤郎元厚生省医務局長を中心とする廃止運動も加わり、大きなうねりがまきおこりました。

そして、1996年(平成8年)3月、らい予防法は、すさまじい人権侵害の末に、その長い歴史に幕を引いたのでした。

原告らの求めるもの

こうして予防法は廃止されました。

では、それで患者さん達は報われたのでしょうか。幼い頃に、両親から引き剥がされた人、ハンセン病というだけで真っ白に実家を消毒された人、園内の作業を強要されたため手足の障害がひどくなった人、園内で結婚したにもかかわらず子どもを産むことを許されなかった人、恣意的な懲戒を受け監禁室に長期間入れられた人、親の死に目にも会えなかった人・・・・・・・・・こういう方々が今もその余生を療養所で過ごしています。

  • なぜ、このような悲惨な人権侵害が90年にも渡って行われたのか(事実の解明)
  • 国が、その法的責任を認めて人権侵害の回復を図る(被害回復)
  • 国が、二度と同じ過ちを繰り返さないこと

この3つが、ハンセン病国賠訴訟において、原告らの求めるものに他なりません。

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