古賀克重法律事務所ブログ

福岡県弁護士会所属弁護士 古賀克重(こが かつしげ)の活動ブログです。

「薬害肝炎 国と闘い12年」、全国原告団前代表山口美智子さんインタビュー

 薬害肝炎全国原告団の代表を2006年から12年務めてきた山口美智子さんが2018年、原告団代表を退任しました。

 ちょうど2018年4月の代議員総会が役員改選時期でしたが、山口さんから退任の申出があったものです。九州原告団はもとより全国の原告団からも慰留の声が強かったのですが、山口さんのお気持ちを尊重して最終的には受け入れられました。

 退任を受けて朝日新聞がインタビューを行い、記事にまとめてくれましたので一部ご紹介したいと思います。

 5月、全国原告団の代表が、山口さんから東京原告団代表だった浅倉美津子さんに託された。山口さんの申し出だった。「今年で国と原告団・弁護団との基本合意から10年の区切りでもあり、残りの人生は自分のやりたいことにも使いたい」

 山口さんは1987年、次男を出産した際に、止血のため血液製剤「フィブリノゲン」を投与されてC型肝炎に感染。当時は感染の原因が分からなかったが、闘病のために小学校教師を辞めざるを得なかった。

 2002年、東京や大阪で薬害肝炎訴訟がおこされたことを新聞で知り、出産時にフィブリノゲンが使われたことに思い当たった。「感染は運命だと思っていたが、避けることのできた人災だった」。翌年、福岡地裁に提訴した。

 2002年8月に全国の集団訴訟や医療過誤訴訟にかかわる弁護士が集い、薬害C型肝炎問題について討議。
 被害の救済のため、国と製薬企業を被告として全国的な集団訴訟を提起する方針が決まりました。

 こうして2002年10月に東京地裁と大阪地裁、続いて2003年4月に福岡地裁で訴訟が開始。
 肝炎や集団訴訟に対する差別・偏見から薬害エイズ訴訟と同様に、多くの原告は匿名とされました。

 その中で山口美智子さんは2003年4月の提訴時点から実名を公表して自ら先頭に立って被害を訴えました。

 提訴の際、実名を明かし、取材に応じた。「悪いことをしていないのに、なぜ名前や顔を隠さないといけないのか。国と正面から闘っていきたいと思った」と語る。その後、実名で訴える原告が増え、社会的な関心も高まっていった。

 06年に全国原告団が設立されて代表に。各地の裁判の応援や記者会見、国会への働きかけのため、全国を飛び回った。
 「解決を待たずに亡くなった原告もいて、私の裁判だけの問題ではなくなっていた。こんな思いは次の世代にさせたくないと思った」と振り返る。

 山口さんは福岡地裁で被害を訴えるだけではなく、東京・大阪・名古屋・仙台という全国の裁判所にも足を運びました。
 裁判終了後の集会でも必ずマイクを握り、全国の原告を励まし、そして支援の輪を広げていきました。

 福岡や東京などの訴訟では、国や製薬会社の責任を認める判決が相次いだ。08年1月に薬害肝炎救済法が議員立法で成立。国が給付金を支払うことで基本合意した。「(出産時の感染で)負い目を感じていた次男が喜んでいた。私もほっとした」。
09年に肝炎対策基本法も成立した。

 薬害肝炎訴訟は5地裁判決が出そろった時点で、全国原告団弁護団が政府に対して、一律救済の政治決断を求めました。

 そして当時の福田総理が最終的に政治決断し、薬害被害者の時期による線引きをしない一律救済方針を決め、解決に向かいました。

 気がかりなのは薬害肝炎への関心の低下だ。ここ数年、大学で講演をしても学生の反応が薄いと感じる。5月に放送された肝炎についてのテレビ番組では、血液製剤の問題が全く触れられなかった。「社会の認識は、裁判の前とほとんど同じというのが現実だ」
と肩を落とす。

 課題も残っている。推計1万人超の感染者のうち、給付金を受け取ったか、受け取る予定の人は6月末現在で2324人。背景には、感染に気付かなかったり、投与の証明が難しかったりすることがあるという。国が約束した医薬品行政を監視する
第三者組織の設置も実現していない。「感染した人の救済を進め、二度と薬害が起きないようにもした。原告団と一緒にこの問題を訴え続けたい」(2018年7月19日朝日新聞)

 2007年の政治決断、2008年の救済法成立からも10年にわたって全国原告団の活動をリードしてきた山口さん。

 一緒に活動し自らの病気にかかわらず全国原告団代表のバトンを受け取った浅倉さんを支えつつ、薬害肝炎問題の残された課題に引き続き取り組んでいく決意を述べてくれています。