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訴状

当事者 別紙「原告目録」「原告訴訟代理人目録」「被告目録」記載のとおり

事件名 「らい予防法」違憲国家賠償請求事件

訴訟物の価額 金二四億一五〇〇万円
貼用印紙額 金五九四万七六〇〇円(訴訟救助申立中)

一 証拠方法 口頭弁論において提出する。

一 添付書類 訴訟委任状 二一通

一九九九(平成一一)年六月二日

原告ら訴訟代理人弁護士 徳田靖之 外一四二名

熊本地方裁判所 御中

請求の趣旨

一 被告は、別紙原告目録記載の各原告に対し、それぞれ金一億一五〇〇万円及びこれに対する本訴状送達の翌日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二 訴訟費用は被告の負担とする。との判決並びに仮執行宣言を求める。

請求の原因

第一 はじめに

ハンセン病患者とされた人達を収容した国立療養所には、かつて望郷台と呼ばれた高台があった。療養所に入った者は、二度と故郷に帰ることができない。せめて故郷の方角を眺めるために、幾人もの療養者がこの場所にたたずんだ。

今でも療養所には、引き取り手のいない遺骨が、数千人分も残されている。らい予防法によって、死んでも家に帰ることができなかったと言われる所以である。死んで荼毘に付され、煙が大空に解き放たれると、それを見送る療養者たちは、「煙になってようやく社会復帰した」とささやきあった。

療養所の長い歴史の中で、強制的に収容された療養者たちは、社会から隔離されただけではなく、強制労働を課され、断種や堕胎を強要され、数知れない人権侵害にさらされてきた。また、国の行なう隔離政策のために、ハンセン病に対する正しい国民の理解が得られず、患者だけではなくその家族も、長い間差別と偏見とに苦しめられきた。

一九九六年、被告国はついに「らい予防法」を廃止した。

被告国は、法の廃止が遅れたことを認めて謝罪し、退所者に対し一定の援助を行なうことを決めた。しかしそれは、療養所の外で自立していくためにはあまりに不十分なものであった。何よりも国の措置は、過去の人権侵害の被害について、過去を清算するものには到底なり得ないものであった。そして、らい予防法がハンセン病に対する誤解、偏見、差別を生み出したことに対しては、その是正措置を取ることすらしていない。

原告らは、長い間「らい予防法」の廃止を待ち続けた。国のまちがった政策がまちがったものとして認められ、それにふさわしい対策が講じられるときが来ると信じてきた。ところが明らかにされた国の対応を知り、深く失望するほかなかった。

こうした被告国の態度に対する怒りが、原告らをして、この訴訟に踏み切らせたものである。

第二 ハンセン(らい)病と当事者

一 ハンセン(らい)病は、らい菌によって引き起こされる慢性の細菌感染症の一種であるが、感染力及び発病力がいずれも弱く、ほとんどの人に対して病原性をもたないため人の体内にらい菌が侵入し、感染が成立しても、発病することは極めて稀であり、又発病しても、適切な治療により、治癒する病気である。
もとより、感染症治療ないし予防の立場いずれにしても、「らい予防法」に定めるような強制隔離収容を必要とする医学的理由は存在しなかった。

二 当事者
  1. 被告国は、患者を含む国民の基本的人権を尊重しつつ、政府・厚生省がハンセン病やエイズその他の慢性感染症対策を含む医療・公衆衛生政策を立案・執行(措置)し、国会がこれを立法化する責務を負っている。
  2. 原告らは、「癩予防法(旧法)」及び「らい予防法(新法)」に基づき、かつてハンセン病であるとされ、別紙「収容施設・収容期間一覧表」のとおり、収容・隔離されていた。
    原告らは、治癒後も「ハンセン病患者」「患者」と呼ばれることもあるが、本訴では「収容者」と呼ぶ。

第三 被告国による強制収容・終身隔離政策の展開、継続と放置

一 憲法施行までの強制収容・終身隔離政策の展開
  1. 一九〇七(明治四〇)年、被告国は、無資力で浮浪するハンセン病患者の強制収容を規定した法律第一一号「癩予防に関する件」を制定した。
    富国強兵策による大国化を目指した明治政府は、浮浪するハンセン病患者を文明国たる大日本帝国の国辱であると考え、また、治安維持の観点からも、患者を医療ではなく警察力を中心とした取締りの対象とした。
    同法の下、公立療養所(九州では、熊本県に「九州療養所」、国立に移管されたのちは「菊池恵楓園」)が設置され、患者の強制収容・終身隔離政策・措置が始まった。
  2. 一九一六(大正五)年、被告国は、同法の改正を行い、療養所内の秩序維持のため療養所長に懲戒検束権を付与し、療養所内に監禁室を設け、救護ではなく懲罰による統制を行っていった。
  3. 被告国は、満州事変を惹起せしめた一九三一(昭和六)年、法律第五八号「癩予防法(旧法)」を制定し、隔離対象を全ての患者に拡大し、強制隔離の強化によるハンセン病・患者の根絶を企図した。
    しかしながら、疫学的にみたわが国のハンセン病は、隔離とは関係なく終焉に向かっていた。減少の実態は、社会の生活水準の向上に負うところが大きく、伝染源の隔離を目的に制定された「旧法」すら、あえて立法化する必要はなかったのである。
  4. 被告国は、国立療養所を設置する等患者の収容範囲の拡大を目指し、一九三五(昭和一〇)年、鹿児島県に「星塚敬愛園」を新設した。
  5. ナショナリズムの台頭と戦時体制の確立の中で、被告国は、隔離を国策となし、地方自治体や民間団体、宗教団体をも巻き込んで、「無らい県運動」を全国で展開し、収容を徹底した。
  6. 療養所に収容された患者は、強制労働である患者作業が課され、検閲や懲戒検束によって自由を奪われ、子孫を断つ堕胎および結婚を許す条件として断種(主にワゼクトミー)手術を施された。 戦時体制強化の中で、患者らは眼や手足が不自由であったにもかかわらず、自給自足を余儀なくされ、医療レベルは低下し、飢餓と欠乏と辱めのなかで、おびただしい人々が死んでいった。食糧が不足したため、死因の大半は栄養失調によるものであった。また医療が欠乏したため、つぶれた眼の中や傷口にうじ虫がわき、些細な傷から指を切り、足を断つことを余儀なくされ、切断された肢はごみ穴に捨てられる有様であった。
二 憲法に反する強制隔離政策の継続と優生保護法の制定
  1. 一九四七(昭和二二)年、基本的人権を侵すことのできない永久の権利として保障する日本国憲法が施行され、被告国はこの憲法の秩序と相容れない法律や制度の多くを見直し、廃止する等の適当な措置を講じなければならなかった。
    強制収容・終身隔離制度を定めた「癩予防法(旧法)」も、基本的人権保障を基調とする憲法秩序と相容れないものであったが、被告国はこれを放置した。
  2. のみならず、一九四八(昭和二三)年、被告国は、ハンセン病が遺伝病でないことを知りながら、ハンセン病患者に対する優生手術を明文で認める「優生保護法」を制定した。法制定以前より、施設内において夫婦が子を産み育てることは禁じられており、結婚を許す条件として、事実上の強制的な断種手術が行われ子供を産めなくし、また妊娠した女性には人工妊娠中絶が行われてきた。遺伝ではなく伝染病であるとしながら優生手術を認めることは、明らかな論理矛盾である。収容者は逃げ出さないように療養所に囲い込まれたうえに、人間の「いのち」の精管まで断たれたのである。
三 立法事実を欠く「らい予防法(新法)」の制定
  1. 被告国の調査結果によれば「患者」総数は次のとおり著減していた。
    調査年 「患者」総数 人口一万人比
    一九〇〇(明治三三)年 三〇、三五九人
    一九〇六(明治三九)年 二三、八一五人 五・〇人
    一九一九(大正 八)年 一六、二六一人 二・九二人
    一九二五(大正一四)年 一五、三五一人 二・七二人
    一九五〇(昭和二五)年 一二、六二六人
    前記のとおり、疫学的にみたわが国のハンセン病は、隔離とは関係なく終焉に向かっていた。減少の実態は、社会の生活水準の向上に負うところが大きく、伝染源の隔離を目的に制定された『旧法』でさえも、あえて立法化する必要はなかったのである。
  2. 一九四三(昭和一八)年、画期的な特効薬プロミンが発明され、ハンセン病は「治る病」となり、世界では、一九五一(昭和二六)年の「第三回汎アメリカ癩会議」、一九五二(昭和二七)年の「WHO国際らい会議」、一九五三(昭和二八)年の「MTL国際らい会議」等において、早期治療による治療に主眼をおいた開放外来治療が主流となっていった。
  3. 一九四七(昭和二二)年、日本におけるプロミンの治験が開始され、一九四八(昭和二三)年の日本癩学会その他においてプロミンの画期的な「治らい効果」が次々と発表され、一九四九(昭和二四)年、被告国はプロミンの使用を予算化した。
    プロミンの治療効果によって、園内では菌陰性者が多数となり、一九五一(昭和二六)年に、全国で三五人の軽快退所者が出たことが公式に認められ、その後一九六〇(昭和三五)年までしだいに増加したが、これをピーク(二一六人)に減少した。
    これは、「らい予防法」及び「優生保護法」が存続したうえ、社会復帰促進政策が遅延、不足したことによるものである。
  4. 収容者(患者)らは、一九四八(昭和二三)年、「全国らい患者プロミン予算獲得闘争委員会」を結成し、プロミン使用の国家予算化を各方面に要請する活動を開始していたが、右プロミンの治らい効果を踏まえて、一九五一(昭和二六)年、「全国国立らい療養所患者協議会」を結成し、この「全患協」を中心に、強制収容反対や退園の法定化、懲戒検束規定の廃止等を求めて、療養所でのハンストや陳情団の国会での座り込みなど「癩予防法(旧法)」の改正運動を展開した。
  5. こうした全患協の運動などにもかかわらず、一九五三(昭和二八)年、被告国は、プロミンを初めとする化学療法の進歩に反して、戦前の絶対隔離を中心とする体制をそのまま引き継ぎ、強制収容・強制診察・入所の知事に対する届出・秩序維持及び無断外出に対する罰則等の規定を維持し、退所規定は盛り込まない「らい予防法(新法)」をあらためて制定した。
    同法を制定するに際し、被告国(政府・厚生省)は、従来からの強制収容・終身隔離政策を継続することに既得権益その他の利害関係を有する三人の国立療養所長をして、前記1ないし4項の事実に逆行する強制隔離や断種の強化を求める意見陳述をなさしめた。
  6. 被告国(国会)は、このような意見陳述に盲従し、医学的根拠を欠きながら、一つの疾患を負う患者の尊厳と基本的人権を著しく侵害ないし制限する条項を骨格とし、結果として今日のわが国におけるハンセン病患者に対するいわれなき差別と偏見を醸成した主要な原因となった新法を可決した。
    右決議に際し、参議院厚生委員会においては、収容者に対する人権保障の観点から、「近き将来法の改正を期する」との付帯決議を行なったが、被告国は、「近き将来」における法改正さえ行わなかった(被告国がこれを廃止したのは四三年後のことである)。
四 国際的な批判に背を向けた強制隔離政策及び優生措置の放置
  1. 一九五六(昭和三一)年、日本からも多摩全生園長及び大島青松園長等が参加した「ライ患者の救済と社会復帰のための国際会議」において、「ローマ宣言」が採択された。同宣言は、ハンセン病が伝染力の微弱な病気であることを確認し、強制隔離主義の是正、差別待遇的法律の撤廃、早期治療の必要、社会復帰援助等の内容を含むものであった。
  2. 一九五八(昭和三三)年、東京で開催された第七回国際らい学会議の社会問題分科会の技術決議において、強制隔離政策を採用している国はその政策を全面的に破棄するように勧奨された。
  3. 一九六〇(昭和三五)年、国連世界保健機構(WHO)のらい専門部会は、ハンセン病の管理は隔離ではなく外来管理で行うよう勧告を行った。
  4. 一九六一(昭和三六)年、沖縄地域において、琉球政府は「ハンセン氏病予防法」を公布、翌年より、WHO方式による外来治療を開始した。
    被告国は、右WHO方式導入に際し、技官を派遣、「琉球におけるらい対策に関する調査報告書」を作成し、在宅治療制度の必要性を勧告した。被告国は、沖縄地域においては一九七二(昭和四七)年の復帰後も、特別措置法を制定し、在宅治療を継続した。
  5. 一九六三(昭和三八)年、被告国厚生大臣に対し「らい予防法改正要請書」を提出する等、全患協は、その後も「らい予防法(新法)」改正運動を継続した。
  6. ところが、被告国は、入所者総数からすればわずかな数の収容者について退所を認めるなど運用面での小手先の改善しか行わず、「らい予防法(新法)」を廃止し、差別・偏見を撤廃する措置をとらなかったことはもちろん、収容者に対する十分な補償・十分な社会復帰支援策など原状回復に必要な施策・措置をとらなかった。
  7. このように、「らい予防法(新法)」が放置されてきたこと等により、被告国は、長年にわたり収容者・家族の尊厳を傷つけ、多くの痛みと苦しみを与えた。
五 遅きに失した「らい予防法(新法)」廃止と不十分な原状回復策
  1. 一九九一(平成三)年、全患協は被告国厚生省に対し、「らい予防法(新法)」の廃止要請を行った。
  2. 一九九五(平成七)年五月、被告国厚生省から委託を受けて検討を進めていた「ハンセン病予防事業対策調査検討会」は、ハンセン病患者について施設隔離の必要性がない旨認めた中間報告を提出した。
  3. 同年一二月八日、被告国厚生省の設置した「らい予防法見直し検討会」は、「らい予防法を一刻も早く廃止し、九〇年近くにわたる隔離を主体としたらい予防行政に名実ともに終止符を打つことを強く求める」との報告を行った。
  4. 一九九六(平成八)年一月一八日、被告国厚生大臣は、全患協代表者らと面談、「らい予防法」廃止が遅れたことや優生手術などによって在園者やその家族らに多大な損害を与えたことを公式に謝罪するとともに、通常国会へのらい予防法廃止法案の提出を表明した。
  5. 同年三月、被告国は、「らい予防法の廃止に関する法律」を成立させ、これをもって「らい予防法(新法)」を廃止した。
    同法律の議決に際し、被告国衆参両委員会は、「ハンセン病は発病力が弱く、又発病しても、適切な治療により、治癒する病気になっているにもかかわらず、『らい予防法』の見直しが遅れ、放置されてきたこと等により、長年にわたりハンセン病患者・家族の方々の尊厳を傷つけ、多くの痛みと苦しみを与えてきたことについて、本案の議決に際し、深く遺憾の意を表するところである」としたうえで、「ハンセン病療養所から退所することを希望するものについては、社会復帰が円滑に行われ、今後の社会生活に不安がないよう、その支援策の充実を図ること」という付帯決議を行った。
  6. ところが、被告国が一九九八(平成一〇)年三月四日公表した「社会復帰支援事業実施要綱」は、収容者らが望み・要求していたものに遠く及ばないのはもちろん、右付帯決議に照らしても極めて不十分な内容のものであった。

第四 絶対隔離・断種政策下における人権侵害状況

被告国は、「癩予防法(旧法)」及び「らい予防法(新法)」「優生保護法」に基づいて、絶対隔離・断種政策を施行し、甚大な人権侵害を行なった。

一 強制収容による人権侵害
1 入所の強制

被告国は、入所の強制に際し、入所する者の人権に配慮することはなかった。有無を言わさず引っ立て連行する、拒否しようとすれば家族ともども暮らせなくなると威圧する他、強迫暴言を吐き、罪人同様の扱いにより、入所を強制した。

2 秘密漏洩

被告国は、診療・入所等の措置に際し、患家の消毒を実施し、また輸送列車に「らい患者用」と公に表示し、収容者の秘密保護に万全を期するどころか、逆に、消毒、輸送を通じ、あるいは検診医・療養所職員・市町村職員などから患者の感染、入所の事実が漏洩され、本人及び家族に甚大な苦痛を与えた。

二 療養所内の人権侵害
1 強制隔離

被告国は、外出さえも厳しく制限し、療養所の回りには高い塀を築き、見張りを巡回させ、外出禁止に違反する者には罰則を科し、懲戒を行なった。このような措置は、入所時の消毒、輸送などと相俟って、社会の中に目に見えない差別と偏見の高い塀と深い溝を構築した。その結果、社会の目の届かない閉ざされた世界がそこに形成され、人権侵害を伴う絶対隔離が持続されていった。

2 断種手術、堕胎の強制

被告国は、ハンセン病は伝染病であり、断種、堕胎が正当化される根拠を欠くことを知悉しながら、女性が妊娠すれば堕胎を実施し、療養所内で結婚を許す条件として、男子の精子管切断手術、女子の卵管結索手術を強制した。また、医師ではなく看護士や看護婦によってこれら手術を受けた収容者も多数存在する。これにより収容者は自由のみならず、「いのち」をも奪われた。

3 劣悪な治療及び生活環境並びに強制労働

被告国は、医師・職員の配置をはじめとして療養所内の生活環境の整備を十分におこなわず、本来病気治療を受けるべき患者の収容者に対し、低賃金で、重症者の看護、死亡患者の火葬等様々な園内作業をさせ、強制労働させた。疾患に対する有効な治療はなされず、肢体切断中心の処置がなされ、収容者は過酷な労働のもとで飢えと障害に苦しみながら死んでいった。

4 懲戒による人権侵害

被告国は、施設管理支配のために療養所所長に懲戒処分権を与えたが、その行使に制約や手続保障の規定は設けず、恣意的で不当な懲戒権行使が乱発された。多くの者が懲戒処分中に、餓死、凍死、病死し、その悪用は目に余るものがあった。その反面、理由等に関する記録すら残さず、一年以上にわたる長期拘留処分がなされ、「特別病室」と呼ばれる拷問部屋を設置し、処断することを許した。

三 偏見・差別の助長、名誉毀損・侮辱、社会とのつながりの切断

このような法及び強制隔離措置の実施は、病気に対する誤った恐怖宣伝となり、社会的偏見・差別を助長した。患者のみならず、家族の中にも自殺者が出、そうでなくとも転居や戸籍の改ざん等を余儀なくされた。 収容者は偽名を使い、入所時に解剖承諾書を書かされ、家族・親族そして社会とのつながりを絶たれたのである。

四 被告国は、前記のとおり「らい予防法の廃止に関する法律」を成立させたが、法の形式的廃止だけでは、収容者の受けた被害は何ら回復されていない。

第五 被告国の責任

一 国会の責任
1 一九四七(昭和二二)年における義務

「らい予防法」は、その始まりである一九〇七(明治四〇)年法律第十一号「癩予防ニ関スル件」から、強制隔離を政策の中心にする点で、その必要性、合理性はなく誤りであった。
被告国は、一九四七(昭和二二)年の憲法施行後、「癩予防法(旧法)」が第四の「絶対隔離・断種政策下における人権侵害状況」で見たような人権侵害(先行行為としての人権侵害)を惹起したこと、また同法を廃止しないまま放置すれば将来にわたって人権侵害を惹起しつづけることを認識していた。
断種等の人権侵害をともなう強制収容・終身隔離措置は、刑事拘禁としての終身刑を上回る人権制約・侵害行為である。
強制収容・終身隔離制度・政策を定めた「癩予防法(旧法)」、これに基づく個別の強制収容・終身隔離措置は、憲法の定める個人の尊厳、生命・自由・幸福を追求する権利(一三条)、差別の禁止(一四条)、居住・移転の自由(二二条)及び、奴隷的拘束及び苦役からの自由(一八条)、適正な内容及び手続によらねば人身の自由を奪われない権利(三一条)をはじめとする基本的人権を侵害し、憲法に違反するものであった。一九四七(昭和二二)年に憲法が施行されたとき、被告国(国会)は、「癩予防法(旧法)」を直ちに廃止し、収容者が受けてきた損害を填補した上で、収容者が円満に社会復帰できるよう万全の立法的・予算的措置をとる義務を有していた。

2 一九四八(昭和二三)年における義務

被告国は、右強制収容、終身隔離措置下において、非合法のうちに療養所内において収容者には「子どもを産むことを許さない」断種、堕胎を含む徹底した優生政策を実行してきた。
しかし、そもそもハンセン病は遺伝病ではなく、優生政策を合法化し得る合理的根拠を欠いていたのであり、被告国(国会)はこれを知悉していたのである。したがって、非合法下における優生政策を直ちに廃止し、優生政策によって侵害してきた収容者の人権回復のために有効な万全の立法的・予算的措置をとる義務を有していたとともに、非合法下に行われてきた優生政策を合法化する法律を成立させてはならない義務を有していた。
ところが被告国(国会)は、この年、ハンセン病患者に対する優生手術を認めた優生保護法を制定した。この当然の帰結として、自ら犯した義務違反行為の結果を正すべく、ハンセン病患者に対する優生保護条項を直ちに廃止すべき義務があった。

3 一九五三(昭和二八)年における義務

一九四七年に日本においても特効薬プロミンの治験が開始され、一九四八年には日本らい学会その他においてもプロミンの画期的な「治らい効果」が次々と発表され、一九四九年には被告国は、プロミンの使用を予算化した。従って、一九五三(昭和二八)年までには、被告国は、ハンセン病が感染力及び発病力が極めて弱く、また発病しても、適切な治療により、治癒する病気であることを知り、国会における三園長発言が医学的にみて誤りであり、「癩予防法(旧法)」が新憲法に明確に反することを知っていたため、これを廃止する義務があった。
ところが被告国(国会)は、この年、「らい予防法(新法)」を成立させたのであるが、これもまた、「癩予防法(旧法)」以上に強制隔離政策を明確に打ち出したものであり、前述のとおり必要性も合理性もなく、医学的根拠のないもので、各種の基本的人権を侵害する違憲な法律であった。被告国(国会)としては、容易な調査によって、この法律が根拠のない人権侵害を惹起する違憲な法律であることを知り得たのであるから、かかる法律を成立させてはならない義務があった。したがって、被告国(国会)としては、その自ら犯した義務違反行為の結果を正すべく、「らい予防法(新法)」をも直ちに廃止すべき義務があった。

4 法廃止に伴う義務

「癩予防法(旧法)」及び「らい予防法(新法)」「優性保護法」の見直し・廃止の内容は、これらの法によって収容者らが被った、先行する人権侵害による被害を原状に復するものでなければならない。つまり、強制隔離制度の撤廃、優生政策を含むハンセン病患者に対する差別立法の廃止だけでは足りず、収容者に対する損害の填補を行った上で、収容者が円滑に社会復帰できる万全の施策としての社会からの差別と偏見を一掃する立法・広報や十分な予算的措置による経済的支援等が必要不可欠である。彌縫的な緩和政策によって、かかる義務を免れるものではない。

5 国会の義務違反

ところが被告国(国会)は、一九四七(昭和二二)年の憲法施行後も「癩予防法(旧法)」を廃止せず、それどころか、一九四八(昭和二三)年には、ハンセン病患者の優生手術を「優生保護法」によって公認し、一九五三(昭和二八)年、強制収容・終身隔離政策を維持した「らい予防法(新法)」を制定し、その後一九九六(平成八)年まで、同法を廃止しないまま放置したものであり、その義務違反は明白であるとともに、責任は重大である。

二 政府・厚生省の責任
1 政府・厚生省の役割

もとより、法律の制定、改廃権限は国会が独占している。他面、憲法第九九条は国務大臣に憲法遵守・擁護義務を課し、内閣法第五条は内閣に法律案の提出権を認め、法案の策定については、各大臣が主任の行政事務について法案をそなえて提出した資料に基づき、閣議を開いて行うこととされる(国家行政組織法第一一条)。
ところで厚生省は、厚生省設置法により一般に国民の保健に関する行政事務を司り、また国立ハンセン病療養所を監督する最高責任者である。したがって厚生省には、かかる地位にあり、明治四〇年以降永きにわたり現実に行われてきた前記人権侵害の実情を知るだけではなく、国内外のハンセン病とその治療に関する情報をも集中するところであった。そこで、憲法に違反する「癩予防法(旧法)」及び「らい予防法(新法)」のいずれについても、これを廃止し、収容者らの人権を回復する措置をとるべき役割を実質的に担うのは、厚生省ならびに内閣であったというべきである。

2 政府・厚生省の義務

前記「国会の責任」で述べた各時期において、厚生省は、ハンセン病が既に隔離の必要のない疾病であることを承知していたのであるから、「癩予防法(旧法)」及び「らい予防法(新法)」自体がそもそも違憲な法律であることもまた十分理解していたはずであった。
したがって、前記「国会の責任」で述べたと同様に、あるいはそれ以上に重い右各法の廃止及び収容者の人権回復のための法案策定及びその国会への提出の義務があったと言わなければならない。
もとより、厚生省としては、ハンセン病の正しい知識の普及のための規則制定、行政指導等を含むあらゆる措置を取るべき義務があった。自ら策定した違憲な立法によって惹起された収容者に対する人権侵害に対し、社会復帰、原状回復に向けてのあらゆる措置をなすべき義務があったと言うべきである。

3 政府・厚生省の義務違反

しかしながら厚生省は、なすべきこととは逆に、前記のとおり何らの合理的根拠のない優生保護法案及び明らかに違憲の「らい予防法(新法)」案を策定し、閣議を経て国会に提出せしめたのである。また、一九九六(平成八)年三月の「らい予防法(新法)」の廃止後も、今日に至るまで、実効性ある原状回復策を講じていない。
先行する人権侵害の放置、実行性ある原状回復策の不実施は、それ自体あらたな人権侵害行為である。

三 よって、被告国には、一九四七(昭和二二)年から現在に至るまで、収容者に対する人権侵害行為を継続している責任がある。

第六 損害と結語

一 ハンセン病は感染力及び発病力が弱く、又発病しても、適切な治療により、治癒する病気になっていたにもかかわらず、「癩予防法(旧法)」及び「らい予防法(新法)」に基づく誤った強制隔離政策のもとで、原告らは、数十年にわたり、その人間としての尊厳を奪われ、多くの痛みと深い苦しみを受けてきた。これら数十年に及ぶ違法行為による逸失利益及び慰謝料その他の損害合計は一人につき金一億円を下らず、原告らはこのうち金一億円をそれぞれ請求する。

二 本件における弁護士費用は、原告一人につき、金一五〇〇万円が相当である。

三 よって、本訴に及ぶ。

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