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第一準備書面

平成一〇年(ワ)第七六四号事件
原告 原告番号一ないし一三番    被告 国

平成一〇年一一月六日 右原告ら訴訟代理人  弁護士 徳田靖之    外一三六名

熊本地方裁判所 第三民事部 御中

第一 わが国におけるハンセン病政策の歴史

一 はじめに

1 わが国のハンセン病政策及び患者が受けた苦難の歴史の概要は、本書面末尾の年表に示すとおりである。原告らは、国の政策によって引き起こされたこれらの悲惨な歴史的事実のうち、本書面において、以下の各点を主張するものである。

2 ハンセン病は、感染力・発病力が極めて弱い病気である。このことは、一九〇七年の立法当初より知られていた事実であったが、ハンセン病の患者らが施設に収容されるようになった一九〇九年以降、全国の施設内で感染した職員すらいないという事実はこのことを裏付けるに余りある。

しかも、わが国におけるハンセン病は、生活の向上等により、明治時代より発病者数が減少し続けており、疫学的には、終焉に向かいつつあった。

このようなハンセン病の実態からみても、ハンセン病患者を強制隔離して治療を施す必要は無く、治療施設を整備しさえすれば、外来治療で十分に対応可能であった。

被告は、右のいずれの事情も、癩予防に関する件を制定した一九〇七年頃から新憲法制定時までに知っていたし、あるいは少なくとも知ることが容易であった。

3 以上のようなハンセン病の実態に照らし、被告が、戦前、戦後を貫いて実施してきた強制隔離政策は正当性を持っていなかったし、強制隔離下で実施した優生政策は非人道的なものであり、そのことを、被告はその時々において十分に知りえた。

このような非人道的な取扱を受けてきた患者らは、新憲法の制定後、人間性の回復を求めて患者運動を展開するようになり、昭和二八年には癩予防法の廃止を求めて、ハンスト等を含む激烈な闘争を展開した。しかし、被告はその要求に応えることなく、旧法(癩予防法)の非人道的な隔離思想や体系をそのまま引継ぎ、新憲法が基調とする基本的人権の確立、化学療法の進歩、諸外国の開放外来治療等に全く配慮のない新法(らい予防法)を制定した。

4 被告は、戦前から、戦後の昭和三〇年頃まで、警察権力を動員した直接の強制収容を行ってきた。またその後、患者本人ないし保護者による「入所」の形を取って収容することが多くなったが、その実態は、ハンセン病に対する社会的偏見と、らい予防法上の強制隔離規定の法的な強制力とに基づく強制的な収容であったということができる。

原告らは、被告によってハンセン病に罹患した患者であるという認定を受けることによって、被告の強制隔離政策の対象とされたのである。

5 被告が、国民優生法の下において、法律の根拠もなく違法に実施してきた断種や堕胎等の優生政策は非人道的な政策であった。

一九四八年に優生保護法が制定され、形の上では本人の同意に基づく堕胎として合法化が装われたが、その実態は、強制隔離政策下において「園内では子どもを生ませない、育てさせない」という徹底した優生政策を貫徹するための方途として用いられたもので、旧来の優生政策をそのまま承継したのである。基本的人権を最大限に尊重する日本国憲法の下では、その存在自体が許されないはずのハンセン病患者に対する優生政策は、この優生保護法上の差別的な「らい条項」によって、継続されていったのである。

二 ハンセン病の伝染力の弱さ

1 ハンセン病の伝染力は極めて弱い。一〇〇年以上にわたるわが国のらい療養所の歴史においても、療養所の職員が伝染発病したり、ハンセン病患者と結婚した非感染者が伝染発病した例は一件も報告されていない。この事実がハンセン病の伝染力の弱さを端的に示している。

国内外で成人に対するらい菌接種実験がなされた報告があるが、これも血管に大量の菌を注入したとき以外には感染が成功した例はほとんどなく、健康な成人の場合、たとえ感染したとしても発病することはまずない。ハンセン病は免疫異常を伴う感染症であり、たまたま免疫異常の体質をもっている者が、乳幼児期に感染者と長期にわたり濃厚接触することにより、感染発病するものと考えられている。

2 ハンセン病の伝染力の弱さに対する知見

ハンセン病が伝染病であることが国際的に確立されたのは、一八九七年(明治三〇年)一〇月にベルリンで開かれた第一回国際らい会議においてのことである。その後ヨーロッパではほどなくして、ハンセン病の伝染力の弱さについて、既に次のような指摘がなされていた。

一九〇二年(明治三五年)、ウルバノビッチは「メーメル地方におけるこれまでのらい治療経験について」と題する論文において、「らいが接触伝染をすることは、今日では全く確実とみることができる。少数の例外はあるが、らいは貧困な人たちの病気である。これは伝染が起こりにくいので、その実現には過密居住による密接な接触が必要だからである。」と指摘している。

また、キルヒナーは一九〇六年(明治三九年)、「らいの蔓延と予防」の中で「らいは分泌物によって人から人へ伝染するが・・・らい菌は人体外では比較的急速に死滅するので、かなり長期にわたる接触によってのみ感染が成立する。」と論じた。一八八七年(明治二〇年)に設立されたわが国最初のハンセン病療養所神山復生病院の第五代院長ドルワール・レーゼは、一九〇七年(明治四〇年)に自著の小冊子の中で「らいは伝染病としては、その力は弱い。これよりもさらに危険なものが少なくない。・・・したがって、らい患者に対して余りに厳格な取締法を立てるのは、学理上よりみても適当でない。」と書いている(以上増補日本らい史・東京大学出版会・山本俊一・四五頁なお以下「日本らい史」という)。

また、一九〇七年(明治四〇年)に成立した「癩予防ニ関スル件」の責任者であった窪田静太郎内務省衛生局長は、後に次のように述べている。

「伝染病には相違ないが、思ふに体質によって感染する差異を生ずるので、伝染力は強烈なものではない、古来遺伝病と考えられたのもその辺に存るのであらうと思うたのである。」

「故に島嶼に患者を送るが如き、患者の精神上に大打撃を与ふるが如きは全然目的に反するものと考えた。のみならず島嶼に送るが如き処置はこの病気の伝染力に対して患者当人に余りに過大な犠牲を要求するものであって、公正でないと考えた」(『予防法廃止の歴史』五一頁)

このように、日本で強制隔離政策がはじまった一九〇七年には、ハンセン病は伝染病ではあるものの、体質的素因(免疫異常)が伴わなければまず感染することはなく、したがって伝染予防のために患者を隔離する必要性に乏しいことは既に臨床経験上明らかになっていたのである。

3 ハンセン病患者の減少 疫学的終焉

ハンセン病は、前項で引用したウルバノビッチが一九〇二年に既に指摘しているとおり、衛生状態の粗悪な環境において密接接触することにより伝染しやすい感染症である。我が国では、一九〇四年(明治三七年)から一九四〇年(昭和一五年)にかけて七回にわたり全国患者調査が実施され、戦後は各施設長の届出による患者数の把握がなされているが、その統計に拠れば、患者数は治療薬プロミンが開発される一九四三年を待たずに一貫して減少している(『日本らい史』一三一頁以下、『予防法廃止の歴史』一八頁、『ハンセン病医学』八九~九〇頁)。

これは、公衆衛生の向上により、ハンセン病が疫学的には早期から終焉に向かっていたことを示すものである。

4 以上のようにハンセン病が本来伝染力の弱い感染症であること、およびハンセン病自体が疫学的終焉に向かいつつあったことに鑑みれば、ハンセン病は一九〇七年以前から外来により治療可能な慢性疾患であったし、そのことを被告は知り、あるいは少なくとも知ることができた。

一九〇七年以降も、ハンセン病の伝染力の弱さについて、これを変更すべき事情や科学的根拠に基づく指摘がなされたことはない。かえって、伝染力の弱さは一九〇九年以降の政策実施により歴史的に裏付けられていったのである。

三 強制隔離収容と優生政策の歴史(新憲法制定まで)

1 強制隔離収容にかかる法と政策
(一) 法律第一一号「癩予防に関する件」制定

国は、一九〇六(明治三九)年にこの法案を成文化し、一九〇七(明治四〇)年二月一二日第二三回帝国議会衆議院に提出、可決したのち、同月二六日からの貴族院での審議を経て、同年三月一日可決し、同月一八日公布、一九〇九(明治四二)年四月一日から施行した。

この法律の骨子は、救護者がなく自ら治療の方法を有しない患者については同法三条により、一定の収容所に集めて公費で治療するとともに、同法一条、二条により病毒の伝播を防ぐ措置をとり、他方、救護者があり、あるいは自ら治療の方法を有する患者については、同法三条の適用はなく、同法一条、二条にもとづき病毒の伝播を防ぐ措置だけをとる、というものであった。

当時の提案理由説明では、本法が「浮浪らい」に対する救護を目的としたものであることを明らかにしている。すなわち、ハンセン病について遺伝病ではなく、伝染病であることを定説とし、その発病力はコレラやペストとは比較にならないほど弱いことを前提としながら、「救護者もなく、自ら治療の方法も有せざる者は、一定の収容所にこれを集めまして、公費をもって治療をなし、かつその病毒の伝播を防ぐということが必要であると考えます。また自ら治療の方法を有する、あるいはまた救護者のあります者に対しても、その病者のあるとき、あるいは死亡いたしましたときに、その病毒を予防いたしますところの施策をなすことが必要なりと考えまして、本案を提出いたしました理由でござります。」(衆議院第一議会における吉原政府委員説明、一九〇六-七 第二三回帝国議会衆議院議事速記録)としている。

また、同法九条が定める指定医の検診に関する質疑において、政府としては患者の検診を強行するものではなく任意を原則とすることを明確にしている。すなわち、「この浮浪はいかいいたす者、もしくは自宅とは申せどもはなはだ不潔なる部落で、人戸密集いたしておるような所で、危険極まるような部分につきましては、療養所のない者は、検診の上で療養所に移すということをいたします積りでありますけれども、余りに厳格に適用して、そうして普通の家で治療をしておる者を、これを求めてゆくということは、よほど事情を見てやりませぬというと、かえって大局において目的を達し難いというようなこともあろうかと思っております」(貴族院委員会における窪田政府委員答弁、一九〇六-七 第二三回貴族院委員会議事速記録)と述べている。

結局、本法の趣旨は「主として浮浪はいかいしている者で、病毒を散漫し、風俗上にもはなはだよろしからぬというものを救護いたしてこの目的を達することを第一とし」、その他についてはできるかぎりの消毒予防をそれぞれの患者の「自宅で行わせるというようなことに」して、しだいに予防のための(収容以外の)様々な方策を準備してゆくというものであった(同前)。

同法の制定を受けて、同年七月二二日内務省令第二〇号「道府県癩療養所設置区域」が公布された。これに伴い、また、ハンセン病患者救済の目的で我国最初に設立された神山復生病院の当時の院長による「らいは伝染病であっても、決して島流しを受けるような罪人ではない」旨の申し入れ(犀川一夫 一九八二年「すむいで」九一号一頁)を受けて、内務省は療養所の設置について具体的な最終方針を決定した。その内容は次のとおり、患者に対してそれなりに人道的な配慮をしたものであった。

一 市街地への距離が遠くない、交通便利な土地を選んで設置すること。

二 全国に該当患者が約五万ある。これらの人はみんな日本国民であるからその醜悪な病気を嫌うのはよいが、国民は病人を嫌悪すべきではない。深い同情をもってこの病人に対すべきである。

三 収容した病人が満足して一生を終えられるような、また安心して毎日を送れるような場所を選ぶこと。

四 設備がよく、散歩ができ、農業等の労働に従事できるような場所を選ぶこと。

五 空気の流通がよく、また、かなり樹木のある場所を選ぶこと。
(一九六一年 「愛生」一五巻九号 七〇頁以下、日本らい史七三頁)

このような、立法制定時の方針を要約すれば、当時の内務省衛生局長窪田静太郎が述懐しているとおり、まさに「救済の目的に重きを置き、これに適する様な施設を為すべしというのであった。故に島嶼に患者を送るが如き、患者の精神上に大打撃を与ふるが如きは全然目的に反するものと考えた。のみならず島嶼に送るが如き処置はこの病気の伝染力に対して患者当人に余りに過大な犠牲を要求するものであって、公正ではないと考えた」(藤楓協会三十年史、「らい予防法廃止の歴史」五一頁)というにあった。

法制定の際のこのような状況は、ハンセン病の伝染力が弱く、その伝染力自体では、強制隔離収容の必要性も合理性も肯定しえなかったことが、政府及び議会にとってすでに自明であったことを示している。

(二) 強制隔離収容の政策の変遷

一九〇七年法が、新憲法下での人権基準からして強制隔離収容そのものが違憲であると評価されるにしても、同法の制定時における「浮浪らい患者の救護」の精神を貫き、「浮浪らい以外のらい患者」に対する通所治療を中心にした医療の充実が図られてさえいれば、現在に至る未曾有の深刻な被害をみることはなかった。

しかし、法制定後の政策及び施設運営は、一九一六(大正五)年療養所長に懲戒検束権を与えて年々管理強化し、一九三一(昭和六)年、癩予防法を制定し、すべてのハンセン病患者を対象とした強制検診、強制連行、強制消毒の実施を背景に、全戸を回って患者を引きずり出し、親子兄弟の絆を切り裂きながら島嶼隔離による終生の絶対隔離政策へと変更し、収容下においては所長による取締りと懲戒検束権等の権力行使を背景とした強制労働や徹底した優生政策を押し進めていったのである。

(三) 強制隔離収容の実態

このような法及び政策下における強制隔離収容の実態は、たとえば「痛みのなかの告訴」(一九六八年一一月二五日 全国々立療養所ハンセン氏病患者協議会編集・発行)にその一端をうかがうことができる。

「患者の意見にかかわりなく、また有菌、無菌の区別なく、強制隔離するためには、社会人の病気に対する恐怖、偏見を必要以上に煽る結果を招いた。こうした政府の施策が、患者及び家族に与えた精神的、経済的、社会的苦悩、犠牲は計り知れないものがあった。
療養所の運営はきびしい隔離主義と、患者への所内作業の強制、劣悪な待遇でつらぬかれ、外出はいうに及ばず、所の運営に批判的な態度をとる患者には、施設長の権限「懲戒検束規定」行使で一方的な懲罰が日常的に加えられた。まさしく、自由のひとかけらもない、患者にとっては生地獄そのものの世界であった。」(同パンフ 「発行について」)「予告もなく、家族一同朝食を摂っている最中、突然衛生課よりトラックを駆って係官が来訪し、『今から三〇分後に君を護送するから用意せよ』との命令で、自分も家族もその不意打ちに吃驚してしまい、何等の準備も今後の家事の話し合いも出来ず、まるで犬、ねこを追い立てるようにして私はトラックに押込められたのです。」(同パンフ 「福岡県 男 四三才」)

「私の店(自転車修理販売)に警察官がきて、『警視庁医務局まできて健康診断をしてほしい』と命令された。診断の結果、それほどでもないと医師はいわれ、白いのみ薬をもらってきました。それから二ケ月して、また警察官がきて、『おまえは××とグルだろう。かくすとためにならぬぞ、営業停止だ。速刻ここを立ち去れ』といい渡された。商売の後始末もあるので一〇日間の期間をもらい、店の整理を自転車修理組合長に頼み療養所に入ったのです。その後、組合長の手紙によると私の売った品物全部を集めて消毒せよ、と警視庁の命令もあり、そのために品物は全部使い物にならなくなったと一銭も送ってきませんでした。そのうえ、家財道具一切焼却されました。」(同パンフ 「東京都 特に名を秘す 多摩全生園」)

「第二次世界大戦も苛烈をきわめて生活が一段と厳しくなりつつあるときで、特に食糧事情が日増しに窮屈の度合いをしめし、津軽や秋田の穀倉地帯の農家の出である入所者にとっては、すべてに急変した生活状態に耐えられず、逃走を企てる者、あるいは死亡する者等、かつてない混乱が生じた。その年一年で、全体の一割近い七〇人の患者がたいした手当ても施されず次々と死んでいった。火葬場の煙突からは連日のようにけむりが吐き出された。」(同パンフ「松丘保養園の狩り込み」)

「あるものは、野良仕事の現場から、否応なく家事整理のいとまもあたえず拉致された。あとにのこされた家族の生活が心配で逃走を企てようものならそれだけで三〇日以内、あるいはそれ以上監禁室に放置した。施設の長が『警察権力』を有する建前から、特に施設運営にとって都合の悪い『不良』は、さらに監禁を継続することもできる仕組みであった。こうして療養所内に監房をつくり『おい、こら』式の監督の眼がぎらぎら光り、高度の不良性に対しては、草津の特別病室におくりこんでいった。・・・・・・・・

ライ療養所栗生楽泉園の右手、熊笹のしげる松林の中に高さ一丈二尺、二重のコンクリートベイでかこまれたいわゆる草津特別病室がある。ライ患者にとっては終世わすれることのできないライ房監である。あるものは当時の療養所の行政に、批判的なことを手紙に書いた(すべて検閲されていた)というかどで、あるものは作業をさぼり、園当局の方針に反抗したかどで、またあるものは患者自治会の役員であったというかどで、この重監房におくりこまれた。しかも罪状をしらべる書証もつくらず、当局の『どうだ涼しい所へいって静養してこないか』の一言で処理されるものが多かった。監房の内部は四重の鉄扉でとざされ、零下二〇度をこす冬でも毛布一枚だけ、たべものは一ケの梅干しと握りめししかよこさなかった。窓から吹き込む粉雪でふとんは凍り、死体は雪にうもれた。こうして殺された患者は二百人に及ぶ」(同パンフ 「所内の弾圧」、らい白書より抜粋)

これらは被害のほんの一部である。なぜなら、「直接の被害者たちは半ば諦観したというか、いまさらどうなるものかといった状態で、その多くは口をつぐんで語ろうとしないが、このなかで筆者を招き参考になるならばと話してくれたもの」(同パンフ、三頁)だからである。

このような一端からすけて見える当時の政策は、戦争による混乱という事情を差し引いて考えても、明らかに法にも人道にも反するものであったと言わざるを得ない。

2 強制隔離収容下における優生政策

療養所における強制隔離収容下での優生手術は、一九一五(大正四)年ごろ療養所長が「院内出生児の始末」の必要から、所内結婚を許す条件として、始めたものといわれている(日本らい史、一〇九頁)。収容患者に対する終生にわたる収容を維持するためには、所内結婚を一定限度で許さざるをえなくなったという背景があった。やむなく結婚を許しながらも「所内では子どもを産ませない、育てさせない」という優生政策を維持するために優生手術を利用したのである。

以来、療養所長は政府をも巻き込み、優生手術を結婚の条件とし、なおかつそれは患者の「希望」にもとづくものと喧伝しながら、「所内では子どもを産ませない、育てさせない」という徹底した優生政策を貫徹していった(同書、一〇九頁以下)。しかし、患者の心情はどうであったか。

「潮のひいたような寂莫の中で一人寝の私はY子(近く結婚する相手)を慕いながらワゼクトミーについて考えこんでいました。何故当局はワゼクトミーを強制するのか、子供を産んではいけないからだ、何故いけないのか、分かっているじゃないか、医学的に伝染の可能性が考えられるし、経済的には患者が産んだを子を養う予算がないし、倫理的には子供を産むことはその子供の将来に暗い影を投げかけるではないか。もし産まれても、その子に対する責任がもてるか、考えれば考えるほど手術を拒否する理由がなくなってくるのを感じて私は焦っていたのです。しかし拒否の理由を求めようとしても、結局らいという壁にぶつかってしまうのでした。」(同書、一一一頁)というものであった。

療養所における優生政策のもとでの優生手術は、患者の「希望」にもとづくものではなく、このような「絶望」の果てに強いられたものでしかなかったのである。
政府は、一九三三(昭和一四)年になり、収容所におけるハンセン病を理由とする優生制度の法制化を進めたが、議会は結局、一九四〇(昭和一五)年ハンセン病は伝染病であり、遺伝病ではないこと、及びハンセン病が遺伝病と誤解されることを回避するために国民優生法の対象疾患にハンセン病を入れず、またハンセン病を理由とする断種手術を合法化する特別法の制定もしなかった。

このとき成立した国民優生法(法律第一〇七号 昭和一五年五月一日公布)は、同法一五条において法にもとづかない優生手術を明文をもって禁止し、同法一八条において刑事罰を定めたため、以後の所内における優生手術は刑事罰の対象となるものであった。

しかしながら、療養所長は、ハンセン療養所内における優生手術を、右法に反することを承知しながら、徹底した優生政策を維持、貫徹するために繰返し行なっていった。その結果、被収容者の「希望」にもとづくものとして、ある者は結婚をあきらめさせられ、ある者は精管を断たれ、ある者は卵管を結さくされ、ある者は堕胎されて、「所内では子どもを産むことも育てることも許されなかった」のである(同書、一一九~一二〇頁)。

このような徹底した優生政策もまた、法と人道に反するものと言わざるを得ない。

3 国の誤り

一九〇七年に始まったわが国のハンセン病に関する法及び政策は、その始まりの時点から、強制隔離を許容し優生政策を有した点で、明らかに自然法と人道に反するものであった。

しかも、その後に実施された政策のひとつひとつは国策としてなされたものであり、国費を投じてなされたものであって、その一部始終が国にとって明らかな事実であった。国は当然のことながら常時、実施状況について報告を徴し統計をとる等しながら、その時々において、法及び政策をレトロスペクティブに慎重かつ論理的に検討し、とりわけ隔離及び優生政策の必要性や合理性を再考し、その誤りを早期に正さなければならなかった。

その意味で言えば、一九〇七年立法当時の法制定責任者であった内務省衛生局長窪田静太郎らの、前述した認識や答弁は極めて重要であったし、更には、一九三六(昭和一一)年当時の、小笠原登ら研究者、臨床家のハンセン病に対する隔離及び優生政策は、「厳格な消毒は不必要であるばかりでなく、一般社会に対して、らいがいかにも伝染力が強い疾患であるかのような誤解を与えるので好ましくない。」旨の主張を看過してはならなかったのである。

右小笠原は当時、国の強制隔離収容の強化策に対し、例えば次のように反論した。

「らい程に誤解せられている疾患は他にないであろう。この誤解が患者に加わる迫害の根源をなしている。(第一に)らいは遺伝病ではないことは種々の事実が証明しているので、今日では知識階級にはこれを疑う者はなくなったようであるが、なお一般民衆には徹底するには至っておらぬ。これがために患者およびその一族が迫害を被むっていることは周知の事実である。第二の誤解は、らいは極めて伝染性の強い疾患であるというのである。
この誤解もまた、はなはだしく患者を苦しめている。交通機関の利用が禁ぜられたり、一家を支える中心人物が強制的に隔離せられて一家の生計が脅かされたり、患者の家族に勤労が拒絶せられ、また絶交が宣告せられた等のことは、余の親しく遭遇している事実である。第三の誤解は、らいは不治であるというのである。らいは、ある人たちが考えている程重大な病気ではない。自然治癒さえ営んだ例が報告せられている。らいをもって万病を懸絶せる重大な疾患の如くに考えている人のあるのは、かような人々は、おそらく、重症に陥ってしまった患者を主として見ているためであろう。従ってこれらの人々の所見は、一般のらいについての所見ではない。」(日本らい史、一〇二頁)

国は、遅くとも新憲法公布に先立って、一九〇七年以来四〇年近く優生政策を伴う強制隔離収容政策を自ら実行してきたのであって、右窪田や、右小笠原らの主張の正当性を容易に理解しえたはずであった。

四 新憲法と患者運動

戦争は終り、一九四六(昭和二二)年、基本的人権の保障を基調とする日本国憲法が公布された。

一九〇七年法制化以来「生き地獄」のなかを生き抜いて来た人達はこの憲法の公布を心から喜び、この憲法によって自らの踏みにじられた人権と奪われた人生を取り戻すことができると信じたのである。

1 戦争の終結と新憲法の制定

一九四五年(昭和二〇年)、第二次世界大戦は日本の敗戦という形で終結した。一九四六年(昭和二一年)に新憲法が公布され、基本的人権がうたわれることにより、戦前らい予防法によって非人道的な取り扱いを受け続けていた入園者も権利意識を高め、以下のように、人間としての権利回復を目指した運動を次々と起こしていった。

(一) 自治会の発足(復活)及び連携

一九四六年(昭和二一年)一月には星塚敬愛園で自治会が発足するなど、自治会の発足ないし戦時中に解体した自治会の復活が相次いだ。またこれまでは、自治会同志の連絡は余り密接ではなく、各自治会がまちまちに厚生省や園に対して要求を行っていたが、一九四七年(昭和二二年)九月には星塚自治会から「全国患者連盟」結成が提唱され、一九四八年(昭和二三年)一月一日、星塚、菊地、駿河、東北、松丘の自治会により、「五療養所患者連盟」が発足した(全患協運動史・全国ハンセン氏病患者協議会編・一光社・三八頁乃至四〇頁。なお以下「運動史」という)。

(二) 特別病室事件

群馬の栗生楽泉園では、一九三八年(昭和一三年)以来「特別病室」が設置されていた。 特別病室とは名ばかりの重監獄であり、半暗室で零下一七度の部屋に布団二枚、浴衣一枚で投獄された。一九四七年(昭和二二年)の時点で、判明しただけでも投獄者数九二名、死亡者二四名であったが、全て裁判抜きの恣意的な拘留であり、九二件中三〇日以上の拘留が八五パーセントを占め、一〇〇日以下三五件、二〇〇日以下二八件、二〇〇日以上一四件であった。また二二件の死亡のうち、冬期が一八件であり、冬の特別病室がいかに過酷であったかを示している(同年一〇月二日付け「栗生楽泉園之真相」)。

一九四七年(昭和二二年)八月一五日、一七日と楽泉園で初めての患者大会が開催されたが、その中では、在園者の生活改善要求のほか、特別病室に対する不満が噴出した。その後、厚生省の調査団が調査に入るも、園側を擁護する立場を崩さないため、運動はさらに広がり、同年九月二一日には国会調査団が派遣され、その様子が朝日新聞やNHKニュースで報道されるなど社会問題化した。

こうして特別病室は事実上、廃止されたのである(「風雪の紋(栗生楽泉園患者五〇年史)」・楽泉園患者自治会編)。

2 プロミン獲得運動

以上のように日本国憲法の公布後、権利意識の高まりとともに患者運動も活発に行われ始めたが、さらにこの運動に火をつけ、いわゆる「五三年闘争」の下地を作ったのが、プロミン獲得運動であった。

(一) 一九四三年(昭和一八年)にはアメリカにおいて、プロミンがハンセン病治療に有効であることが公表された。戦後すぐに日本でも開発が手掛けられ、一九四六年(昭和二一年)には治験が開始された。

(二) 従来不知の病とされてきたハンセン病が治療可能とされたことにより、全国の療養者に明るい希望の灯をともした一方で、政府のプロミン購入予算は十分ではなく、投与者全員には行き渡らなかった。

そこでまず一九四八年(昭和二三年)に、多摩全生園で「プロミン獲得促進委員会」が結成され、請願書を提出するなど積極的に政府への働きかけを行った。また既に成立していた「五療養所患者連盟」(前述)本部の星塚敬愛園が右委員会へ運動資金を送るなど、療養所間の連携をさらに深めつつ、この運動は全国に波及していった。

(三) そして一九四九年(昭和二四年)、昭和二四年度の予算折衝にてプロミンの予算が大蔵省により大幅に削られたことから、多摩全生園は全国の園自治会に電報で事態を伝えるとともに、ハンストを行うなどの運動を行い、さらに時の大蔵大臣池田勇人に面談するなどして、要求通りに増額させた予算を国会において通過させた。

こうして各療養所の支援を受けた多摩全生園を中心とした運動により、要求通りのプロミン予算を獲得したのであった(運動史・三四頁。日本らい史・二六一頁以下)。

3 五三年闘争

このように日本国憲法の公布による権利意識の高まり及びプロミン獲得運動を通じて高まった患者運動は、その後もさらに全国的に組織化されるとともに、いわば「火に油を注ぐ」形になった三園長発言を経て、全国の患者の力を結集しつつ、激烈ならい予防法改正運動へと向かっていった。

(一) 全らい患協(全国国立らい療養所患者協議会)発足

まず、「らい予防法は人権無視の憲法違反であり、治る時代に沿った内容に改正させよう」という主張が急速に高まる気運の中で、全患者の総力を結集するための全国組織が必要とされていた(運動史・四〇頁)。

前述のように、既に成立していた五療養所患者連盟は、多摩全生園のプロミン獲得促進委員会を支援するとともに、多摩全生園に対して五療養所患者連盟への参加を勧誘していた。

これに対して多摩全生園は一九五〇年(昭和二五年)二月、逆に全国組織の結成を提案した上、設立準備会を全生園内に設置し、五園も了承した。そして一九五一年(昭和二六年)二月一〇日、全国国立らい療養所患者協議会(以下、「全らい患協」という)の発会式が行われたのであった(らい予防法廃止の歴史・大谷藤郎・一四七頁、以下「法廃止の歴史」という)。

(二) 三園長発言・時代への逆行

こうして全らい患協は立ち上がり、療養所内での各種の待遇改善要求のほか、懲戒検束権・強制隔離政策を全面的に見直す予防法改正問題につき議論し、政府に対する請願を開始したが(運動史・四一頁。法廃止の歴史・一四七頁)、かかる患者達の動きに逆行する事件が起きた。

一九五一年(昭和二六年)一一月八日、第一二回国会参議院厚生委員会が開催され、当時のハンセン病の国立療養所所長であった光田健輔(岡山・長島愛生園)、林芳信(多摩全生園)、宮崎松記(菊地恵楓園)の三園長が、患者の意思に反しても収容できる法律の必要性、断種の必要性、逃走罪などの罰則の必要性などを証言したのであった。
例えば林は、一方では「現在相当有効な薬ができました・・その治療の効果も相当に上がりまして、各療養所におきましても患者の状態が一変したと申してよいのでございます。・・治療の問題はもう一歩進みますれば全治させることができるのではないかと思うのであります。」というハンセン病治療の知見に関する認識を示しながらも、未収用者患者に関しては「速やかにこういう未収用の患者を療養所に収容するように、療養施設を拡張していかねばならんと、かように考えるのであります。」と述べた。

また光田も、収容に関して「強権を発動させるということでなければ何年たっても同じことを繰り返すようなことになって・・」と述べ、さらに委員からの質問に答える中で「手錠でもはめてから捕まえて、強制的に入れればいいのですけれども・・」「そういうものはもうどうしても収容しなければならんというふうの強制の、もう少し強い法律にしていただかんと駄目だと思います。」などと述べ、さらに宮崎も、徹底的な完全収容が必要などと光田と同旨の証言をしたのであった(法廃止の歴史・一四一頁。日本らい史・二六七頁)。

(三) 予防法闘争

予防法改正運動の開始

これらの三園長証言はより一層の強制隔離を求めており、全らい患協の予防法改正の高まりとは逆行するものであったため、この証言内容が療養者の間で明らかにされると、当然のことながら療養者の怒りを買った。菊池恵楓園では宮崎園長の証言撤回を求める運動を引き起し、長島愛生園では真相を究明する療養者の集会がもたれるなど各療養所での抗議集会を展開した。

このようならい予防法改正の気運の高まりを受け、一九五二年(昭和五二年)一〇月一〇日、全らい協は「らい予防法改正促進委員会」の発会式を行った。また「らい」の名称を排する立場から組織名も「全国国立ハンセン氏病療養所患者協議会」(以下、「全患協」という)と改めるなど、予防法改正へ向けて実質的な取り組みを強めた。

(1) 厚生省による抜き打ちの法案提出

当初厚生省は、改正の必要なしとの態度を崩さなかったが、衆議院厚生委員会が多摩全生園に現地調査に入り、衆院厚生委員会案として改正案が国会に提出されそうな情勢になるや、一九五三年(昭和二八年)二月一〇日、急遽予防法改正の方針を決定し、改正委員会を設ける旨を伝えた。

しかし厚生省主導の改正に大きな危惧を感じた全患協は、厚生省に対して強力な働きかけを行う針を決定するとともに、再三に渡って改正内容の提示を求めた。しかるに厚生省側は、終始明確な言明を避けた上、同年三月一四日、抜き打ち的にらい予防法改正案を提出した(運動史・四八頁。日本らい史・二八二頁)。

その内容は全患協の危惧通り、強制隔離の方向を明確に打ち出すなど、全患協の願いからは大きく隔たったものであった。

(2) 作業スト・ハンスト

いったん解散により流案したものの、再提出が確実な状況を受けた全患協は反対運動を精力的に進めていった。

まず全患協は各支部の意見を聞いた上、・強制検診・強制入所・都道府県知事に対する通知・秩序維持法規・無断外出の罰則規定の五点に対して断固反対する旨を決定した。

また各支部でも厚生省案に対する反対の火の手が燃え上がり、菊池恵楓園で五月二五日から無期限作業ストに入ったのを皮切りに、各園での作業ストやハンストが相次いだ(運動史・五〇頁、日本らい史・二九九頁)。・ 国会座り込み

一方、厚生省の担当者は「患者諸君の了解を求め、抜き打ち的に法案を提出しない。」と全患協に約束していたにもかかわらず、またもや抜き打ち的に法案を提出したため、全患協の運動は国会へと注がれた(運動史・五四頁)。

まず七月一日、全患協は四八人の代表を国会に送り、各党代議士一七名と会見して要望を伝えた。七月三日には多摩全生園から五四名が国会に到着し、参議院通用門前にて座り込みを開始した。雨の降る中、その後も園からの応援隊が続々と到着し、夜明け頃には一二〇名に達していた。また各支部におけるハンスト者の合計は八八人に達した。

この時衆議院厚生委員会では、らい予防法案の審議が既に始まっていたが、慎重に審議するどころか陳情団について「園長に無断で、集団でここにこられた場合に、政府はなぜこれに善処しないのか」との緊急動議を出すなどした上、七月四日午後には、らい予防法案改正案が衆議院本会議で無修正で可決された(日本らい史・三〇〇頁、三〇一頁)。

座り込みはすでに一五〇人を越えていたが、この報告に寂として声がなく、泣きだす者がいたが、やがてそれは怒号に代わっていった(運動史・五六頁)。

(3) 長期闘争

可決後、厚生省の担当者が帰園勧告にあらわれたが、その背後には白衣、マスクも物々しい二、三〇〇人の東京都の衛生課員が控え、さらに国警隊員二〇〇人も武装して待機していた。

全患協は威嚇の下での交渉には応じられないと退去を拒否したため、話し合いの結果「厚生委員への面会を斡旋する」などを条件とし、三〇人を残して他の陳情団員は引き上げた。

またこの日、菊池恵楓園でのハンストが五四人に達したのをはじめとし、各園でハンストが爆発的に拡大しつつあったため、全患協本部は各支部にハンストは中止するように要請するとともに、かわってほとんどの支部の作業拒否が全面的・無期限に強化された。

こうして全患協は長期闘争の体制に入っていったのである(日本らい史・三〇二頁、運動史・五六頁)。

(4) 参議院に対する陳情

七月八日、参院厚生委員会との話し合いが実現し、慎重審議・小委員会設置を申し入れたことにより、全患協はいったん座り込みを中止して引き上げた(日本らい史・三〇五頁)。

参院厚生委員会でらい予防法案の審議が進行していくなかで、全患協のらい予防法改正促進委員会は討議を続け、七月二二日に日帰り陳情を実施するとともに、七月三〇日には陳情団四〇人が国会に向かい、徹夜の座り込みを行ったが、各園からも続々と応援がかけつけ朝方には一三三人にも達していた。

七月三一日には、多摩全生園から六〇〇人もの陳情隊が国会に向け徒歩行進を開始した。真夏の炎天下のもと国会まで三二キロにも渡る距離を歩くという壮絶な計画であった。事実、複数の者が日射病で倒れ、内女性一人が死亡した(運動史・五九頁)。

この身を挺した陳情計画は、二〇〇名余りの武装警官によって途中で阻止されたが、一部の者がバスに乗り国会に駆けつけ、座り込みに加わった。固く閉ざされた参院通用門の柵にしがみつき、百余人の陳情団が遠くに見える窓に向け「らい予防法改悪反対」を絶叫していた八月一日午後四時一五分、参院厚生委員会において政府原案は通過された(運動史・六〇頁)。

そして八月三日からは、全患協の座り込みは厚生省前に移動し、四つのテントを張り、一〇〇ないし一六〇人が整然と座り込みを続けた(運動史・六一頁、日本らい史・三一〇頁)。

こうした全患協及び各園の運動にもかかわらず、八月六日、らい予防法改正案は参議院に上程され、九項目の付帯決議が行われたのみで原案のまま通過した(法廃止の歴史・一五〇頁以下)。

(5) 悲願は未だ達成せず

八月六日以降も全患協主導の座り込みは続けられ、八月一〇日から一三日までは、全患協と厚生省側の会談が行われた。

特にらい菌の伝染力については、結核予防課長が「その伝染力は激甚なものと思えない。先般世界保健機関の報告でもフィリピンでは伝染率は千対六・二三、これは結節ライで、その他は千対一・六」」、「国会においても我々も職員が感染したことは言ったことはない。感染したものはないと理解している。」と発言していた(法廃止の歴史・一六五頁)。

また無断外出と所内秩序についても相いれず、全患協側は今日までの濫用による被害事例をあげてあくまで反対の姿勢を崩さず、次の国会で改正するよう要求した。厚生省側は、意見は分かるが立場上同意できないと逃げ、問題は今後に残されたが、全患協はこの日をもって座り込みを解き、全患協の五三年予防法闘争は全患者の悲願である隔離からの解放を達成することはなかった(運動史・六一頁)。

4 こうして戦後の患者運動は一つの区切りを迎えた。 新憲法の制定後、特別病室事件、プロミン獲得運動などを通して人権意識を高めた患者達は、全らい患協(後の全患協)を立ち上げ連携し、五三年予防法闘争という人間としての解放を求める運動を行った。それにもかかわらず、国、特に厚生省は、右運動とは全く逆の方向性で予防法改正を行った。

まず、前述した一九五三年一〇月一〇日から一三日にかけての全患協と厚生省のやりと りに端的に現れているように、厚生省はらい菌の伝染力の微力であることを認識しながら、プロミンを初めとする化学治療の進歩について過少評価していた。

さらに、元厚生省の医務局長であり、在任中及び退官後もハンセン病問題に深くかかわってきた谷藤郎は、「政府関係者は・・戦後の基本的人権の認識も弱く、古典的伝染説を間違って信じたまま、戦前の絶対隔離を中心とする管理取締まり体制をそのまま維持しようとしていたことは明らか」(法廃止の歴史・一八三頁)だったという。

そしてこのように患者運動が法律に反映されなかったのは、まさに、右大谷のいうとおり「死刑の冤罪裁判をみるようで人間社会として見過ごすことのできないまことに恐ろしいこと」(法廃止の歴史・一八四頁)だったのである。

五 「らい予防法」下の強制隔離政策

被告は、一九五三年(昭和二八年)に「らい予防法」を制定し、新憲法の下でも再び、強制隔離政策を法的に規定してしまった。

すでに述べたように、戦前から強制収容の生々しい実態が存在しており、それは昭和に入ってからの無らい県運動にみられる患者狩りを一つのピークとして、四〇年以上にわたって続いていた。ら患者となれば、強制収容されて二度と戻れないことが国民に知れわたっていた。強制収容のみならず、収容後の物々しい消毒の様子、特別車両による輸送の様子などをも通じて、患者・病気に対する偏見は、助長され定着していた。奇しくも、一九〇七年(明治四〇年)「らい予防に関する件」が制定された当時の内務省衛生局長窪田静太郎の「島嶼に送るが如き処置はこの病気の伝染力に対して患者当人に余りに過大な犠牲を要求するものであって、公正でないと考えた」(らい予防法廃止の歴史・五一頁)等の発言にみられるように、強制絶対隔離主義が、患者やその家族についての過大な人権侵害となり病気に対しての偏見が形成されてしまうことへの懸念が現実のものとなったのであり、逆に、当時同人が考えていた外来治療については、その後もまったく手がつけられていなかった。

そして、患者の生命をかけた法廃止運動にもかかわらず、被告は、一九五三年(昭和二八年)に「らい予防法」を制定し、新憲法の下でも再び、強制隔離政策を法的に再確認してしまったのである。

長年にわたる強制隔離政策の下、病気に対する偏見は確立しており、新憲法下でもらい予防法を制定し、存続させたことにより、これ以後、国によって患者と認定された者は、社会的偏見と法律的な隔離強制の下で、自由に生きる場も権利も奪われた。旧法下の患者と同様に、国によって一度「らい」を宣告されると死に値する烙印を押されたも同然であった。「らい」患者となれば、「らい予防法」によって各療養所への入所を余儀なくされ、社会からの隔離を強制されたのである。強制的に連れてこられた人も、役人に説得され、自らの足で入所した人も、親に連れてこられた人も、それ以外に選択の道がなく強制されたのである。入所しないことは法律を破ることであり、病気をひた隠して逃げ回る逃亡者となり、差別は家族にまで及んだのであった。

1 入所の強制

ある者の入所は、再三にわたる説得という名の下の強制であった。例えば、新憲法下での「らい予防法」制定当時頃の入所の模様について次のように語っている。

「~巡査どんが来たよ。いかめしい格好をして、背中にいろんなものをかろうてね。『こら、おはんな病院へ行け行けち、いろんな人が何回もここへ来たどが』『おはんな、その病院にいかんな罪に落つっど、自分から行かんな、手錠をはめてひっぱって行かるっど』『おはんがここにおって、ここに来た人にうつしたり、人の中に行ったりしてうつしたら、罪が重いんじゃぞ。どしこ行かんちゅうても、引っ張ってでも連れて行っとじゃ!』『巡査さア、私は手錠を掛けられてまで引っ張っていかれるような悪いことは何もしていません。ましてや、私の病気がうつったという人も、部落には一人もおらん。なんで病気だというだけで手錠を掛けられんとならんか』」~「あんまり解らんことばかり言っていても父を困らせるばかりだし皆にも迷惑をかけるかな…と思うようになってきたところに、まーたあん人たちが来たよ。今度はな*保健所と町役場の衛生課の人達が三人来たよ。~もう今度行かんかったら、今度こそ手錠をはめられて、親戚一同どころか今まで知らなかった人達まで知るようになるんだと、また私を脅かすのよ。仕方がないから~」(星塚敬愛園入園者自治会機関誌「姶良野」二七〇号八一~八四頁抜粋)。

ある者は、白衣を来た保健所の職員が、働いている職場にやって来たので、発覚と差別をおそれ、やむなくそのまま職場から直接入所した。ある者は、突然学校長から呼び出され、もう学校に来なくてよいと言い渡された。そして、役人が家を再三訪問して「子どもを死なせてよいのか」と詰め寄り、説得された親に連れられて入所した。

ある者は、医者に病気を宣告され、療養所の紹介状を渡された。そして絶望の中、病気を秘して職場を退職し、家族にも内緒で身を隠すようにひっそりと入所した。

新憲法下で警察権力による拘引の事例は減ったかもしれないが、強制隔離を定めた「らい予防法」が存在することにより、患者は法律に従って療養所に入所するしかなかった。療養所に入所する以外、病気の治療を受けることもできず、治療薬も入手するすべはなく、治療どころか入所強制されないためには病気自体を隠して生きねばならなかった。患者は法律の定めるところにより入所するしか道がなかったのである。戦前からそして戦後も、法律に従わない者については、多様な強制がされていたのであり、そのような強制収容の実態が国民に知れわたっており、病気への偏見が確立していた状況では、自ら入所したといってもその入所は強制されたことと何ら変わりない。「らい予防法」は、「らい」と宣告された者に、社会から強制隔離すべき者との死に値する烙印を押したのである。

2 外出禁止

外出は原則として禁止され、法律上外出が許される特別事情は、非常に限られていた。昭和三〇年代頃までは、療養所の回りには塀が築かれ、脱走防止に巡視が見回っていた。違反者は、拘留・科料の処分に付され、また療養所長による謹慎処分もなされた。

また、許可を得て外出できても、厳しい社会的偏見のために、入所者は療養所から来たことを隠さねばならず、また療養所から来たとさとられないために、後遺症に痛んだ手や顔などを隠さねばならなかった。療養所から来たとわかると、「外出禁止だろう、帰れ」といわれ、乗っていた汽車やバスから降ろされた。後遺症が目立つ者は、そもそも外出することすらできなかった。

3 退所条項の不存在

「らい予防」は退所を規定する条項のない、終生隔離の法律であった。入所した時点で、治癒による開放の夢すら奪われていた。入所の際に、死体解剖承諾証に署名を求められ、一生ここから出られないとの思いを強くし絶望した入所者も多い(九州弁護士会連合会アンケート調査結果)。また、仮に退所できても、療養所入所の経歴を隠し、詐称しなければ、社会では生きていけなかった。そして、病気が再発した時には療養所に戻るしかすべはなく、強制隔離の「らい予防法」が存続する限り、一度患者となれば烙印を押され、社会からの隔離、疎外がついて回る人生を送ることを余儀なくされたのである。

4 偏見・差別の助長

新憲法下でも、強制隔離を規定する「らい予防法」が存続し続けたことは、古くからの病気に対する偏見・差別、そして戦前からの四〇年以上にわたる強制隔離政策の中で助長され、確立されてきた偏見・差別を、さらに追認することになった。「らい予防法」が存在すること自体で、病気に対する誤解を強め、患者やその家族に対する社会的差別をよりいっそう強めることになった。そのため、一度病気を宣告された者は、家族や親族らとのつながり、故郷とのつながり、療養所外の社会とのつながりを断たれるという構図は、以後も変わるところはなかった。

5 被告国が一九五三年(昭和二八年)に制定した「らい予防法」は、一九九六年(平成八年)三月まで存在し続けた。「らい予防法」により、新憲法下でも強制隔離政策が法的に承認規定され、この法律に従って患者は療養所へ強制入所させられ、強制隔離させられた。人権侵害の根拠となった法律と差別が存続し続け、原告らの人権は回復されないまま侵害し続けられ、今日に至ったのである。言うまでもなく、法律と差別は、国の誤った政策が作り上げたものである。

六 優生保護法下の優生政策

1 優生保護法の制定

一九四八年(昭和二三年)、被告国は、ハンセン病が遺伝病でないことを十分知りながら、ハンセン病患者に対する優生手術を明文で認める、いわゆる「らい」条項を含む「優生保護法」を制定した。すなわち、優生保護法には次の規定がある。

第三条  医師は、左の各号の一に該当する者に対して、本人の同意並びに配偶者(届出をしないが事実上婚姻関係と同様な事情にあるものを含む(以下同じ。)。があるときはその同意を得て、優生手術を行うことができる。(以下略)

三 本人又は配偶者が、癩疾患に罹り、且つ子孫にこれが伝染する虞れのあるもの

四 以下略

第一四条 都道府県の区域を単位として設立された社団法人たる医師会の指定する医師(以下「指定医師」という。)は、次の各号の一に該当する者にて、本人及び配偶者の同意を得て、人工妊娠中絶を行うことができる。(以下略)

三 本人又は配偶者が癩疾患に罹っているもの。(以下略)

右条項は、同意を要件とし、他の優生保護条項と同列に規定するものではあるが、ハンセン病が遺伝病ではなく、単なる感染症であり、ペストや結核などと比較しても全く問題にならないほどの感染力しかみとめられなかったことからして、当時の優生保護施策上全く合理性を欠くものであった。この「らい条項」は、まさしくハンセン病患者を差別する法律だったのである。

2 優生保護法の「らい」条項の意味

何故、被告国は、優生保護法にこのような全く合理性のない差別のための「らい」条項を加えて立法したのか。法制定以前は、国民優生法に違反しながら園内においては子どもを産み育てることを禁ずる「規則」を作っており、これに基づいて園長は園内において夫婦が子を産み育てることを禁じ、結婚を許す条件として、事実上の強制的な断種手術、妊娠した女性に対する人工妊娠中絶と徹底した優生政策を行ってきたことはすでに述べた。右優生保護法における「らい条項」の定めは、ハンセン病患者に対して戦前から強制隔離下で違法に行われてきた徹底した優生政策を追認し合法化するものとして制定されたのである。

3 実施の現実

九州弁護士連合会が平成八年一月に菊池恵楓園、星塚敬愛園、奄美和光園、沖縄愛楽園、宮古南静園の在園者全員を対象として実施したアンケート調査によると、優生手術あるいは堕胎手術を受けたとする者は回答者総数の三八・一%にも及んでおり、手術を受けたとする男性回答者の四八・二%が結婚の条件として「精子管切除手術」を受けている(「緊急出版!らい予防法の廃止を考える」一三七頁)。一人の子どもももたない者がこれほど多くの断種手術、人工妊娠中絶を受けているのである。一部の特殊な情況下でのことは別として、園内で子を産み育てた者はいない。ある者は、戦前から一貫して行われてきた徹底した優生政策に従い、結婚の条件としての優生手術を受け入れた。ある者は、園内で子どもをつくり育てることができないということで結婚それ自体を断念したのである。

優生保護法の「らい条項」はこのような徹底した優生政策を支えつづけ、在園者の「いのち」を絶ち、その尊厳を踏みにじり、差別の壁をより高く、より厚いものにしていったのである。

七 終わりに

以上述べた、ハンセン病患者の苦難の歴史について、大谷藤郎は、(国家や社会が)「『ハンセン病という病気を阻止したのではなくて、ハンセン病を病んでいる弱い人間を社会的に撲滅し、抹殺してしまうという消し去ることのできないナチスばりの大罪を犯してしまった』のだ。『医学者が伝染病として誇大に恐怖心をあおり、その結果としての隔離行政が何千何万人のハンセン病患者の一生を台無しにしてしまった。患者本人の人権侵害はもとより、その家族にまで拭いがたい社会的烙印(スティグマ)をやきつけ、再び立ち上がれないような差別を強いた。この加害行為の責任をいったい誰がとったというのか。悔やんでも悔やみきれないこの過ちを、過去に対する謝罪とともに二度と繰り返してはならない』」と総括している。(法廃止の歴史 四二九頁)

第二 国の責任

一  らい予防法の違憲性

1 旧らい予防法(一九三一年改正)の違憲性
(一) 旧らい予防法の概要

旧らい予防法(一九三一年、昭和六年改正、施行。以下、「旧法」という。)は、明治四〇年に制定された「癩予防ニ関スル件」において、救護者がなく自ら治療の方法を有しない患者についてのみ、一定の収容施設に収容すると定めていたものを、すべての「らい患者」にまでその収容対象を広げ、患者全体を社会から隔離することを定めた法律である。

同法は、その第三条第一項に「行政官庁ハ癩予防上必要アルト認ムルトキハ・・・癩患者ニシテ病毒伝播ノ虞アルモノヲ・・・入所セシムベシ」と規定したうえで、同時に制定された「国立療養所患者懲戒検束規定」によって、外出者に対する「謹慎若しくは減食」、逃走者に対する「減食若しくは監禁」の懲罰を定めて、強制入所、外出、退所の禁止という強制隔離の法体系を形成したものであり、いったん入所したものは、無期限に社会との交流を閉ざされるに至ったのである。

また、らい予防法施行規則(内務省令第一六号)第二条は、「癩患者ニシテ病毒伝播ノ虞アルモノアルトキハ警察官署ハ患者ノ所在、環境及病状等ヲ具シ地方長官ニ報告スベシ。地方長官ニ於テ前項ノ報告ヲ受ケタル場合癩予防上必要ト認ムルトキハ所定ノ療養所ニ照合ヲ経タル上送致ノ手続ヲ為スベシ。」と定め、被収容者に対し、何らの告知、聴聞の機会を与えず強制収容を行うことを認めていた。

加えて、強制収容の期間について定めがないだけではなく、ハンセン病について伝染のおそれしかなくなり、あるいは、治癒したものについての退所を認める手続保障は、らい予防法及び同施行規則には一切存しなかった。

(二) 一三条違反

旧法は、ハンセン病患者に対し、自己が生活したい場所で生活する機会を奪った。

憲法一三条の幸福追求権の一内容として、個人が一定の重要な私的事柄について、公権力から干渉されることなく自ら決定することができる権利が保障される(自己決定権。東京地判平三・六・二一、判時一三八八号一五頁)。

個人が、どこで生活し、誰と交流するかは、人格形成に不可欠な事項であり、それを自ら決定する権利は、自己決定権として、憲法一三条により保障されている。

このように重要な事項に関する自己決定権に関する制限立法の合憲性判断基準は、・立法目的が合理的なものであり、・手段はその目的を達成するために必要最小限度のものであるか、という厳格な合理性の基準によるべきである。

本件においては、立法目的が、ハンセン病の感染を予防することとされており、一応は合理的なものといえる。

しかしながら、ハンセン病が、感染力・発病力ともに極めて微弱であるという点に鑑みれば、その感染予防のために個人の生活領域に関する自己決定権に制限を加える必要はないのであるから、かかる制限は、立法目的達成のための必要最小限度の手段といえないことが明らかである。

従って、旧法は、憲法一三条に違反する。

(三) 一四条違反

旧法は、ハンセン病患者または元患者から、自己が生活したい場所で生活する機会を奪った。患者らは、ハンセン病に罹患している、若しくは過去に罹患したことがあるというだけの理由で不利益処分を受けているものである。一四条にいう「社会的身分」とは、判例においては「人が社会においてしめる継続的な地位」(最判昭三九・五・二七)とされており、また、狭義に解する説でも「後天的に人の占める社会的地位にして一定の社会的評価を伴うもの」(佐藤幸治「憲法(新版)」四二三頁)であるから、ハンセン病に罹患していること、若しくは過去に罹患したことがあることは、これに当たる。

一四条後段列挙事項については、憲法は、平等思想の根源と過去の経験に鑑み、特に「差別」を警戒し、その事項に関してはやむにやまれぬ特別の事情が証明されない限り「差別」 として禁止する趣旨と解すべきである。

従って、かかる事項に関する立法の合憲性判断基準は、・立法目的が、やむにやまれぬ政府利益の達成のためのものであり、・手段が、必要不可欠なものであるか、によるべきである(前同書四二一頁、四二六頁)。

本件においては、立法目的が、ハンセン病の感染を予防することとされており、一応はやむにやまれぬ政府利益の達成のためのものと言える。

しかしながら、ハンセン病が、感染力・発病力ともに極めて微弱であるという点に鑑みれば、その感染予防のために強制隔離をする必要はないのであるから、手段として必要不可欠とはいえないことが明らかである。

従って、旧法は、憲法一四条に違反する。

(四) 一八条違反

旧法によれば、らい患者は、自己の意思に反しても施設に強制的に収容されるのであり、仮に任意に入所したとしても、いったん入所したが最後、外出することは認められず、これに反すると罰則を課されるのであり、自己の意思に反して社会との自由な接触を断たれる。
憲法一八条前段は、「何人もいかなる奴隷的拘束も受けない。」とさだめており、「奴隷的拘束」とは、自由な人格者であることと両立しがたいような身体の拘束をいう(佐藤幸治著「憲法(新版)」五一一頁)。憲法一八条の立法趣旨は、個人の尊厳を確立する前提条件として、およそ非人道的な自由拘束状態の廃絶を企図したものである。本条にいう「奴隷的拘束」は、公権力によって加えられることが絶対的に禁止されることはあまりに当然のことであって、本条の趣旨は、むしろ私人によるこの種の行為(いわゆる「監獄部屋」的拘束など)を禁ずるところにあるとされる(前同書五一一頁)。このような、人身の自由の重要性、本条の立法趣旨等に鑑みれば、国家によって当然に禁止される「奴隷的拘束」とは、拘束を行わないことにより、個人の人身の自由をはるかに上回る重大にして回復困難な被害が生じている、若しくは、そのような被害が生じる明白かつ高度の蓋然性がある等の極限的な事由が存在しないにもかかわらず行われる、自由な人格者であることと両立しがたいような身体の拘束と解すべきである。
本件では、客観的には、既に述べたとおり、ハンセン病は感染力が極めて弱く、日常生活において感染することが極めて少ないため、拘束を行わなくとも、多数人に感染することはない。また、仮に感染したとしても、発病力は極めて弱いうえ、薬剤投与等により治癒する病気であり、かつ、当時においてもそれらの条件はあったのであるから、回復困難な被害が生じうるものとは到底いえない。

また、ハンセン病患者及び元患者を、その意に反して、その生活領域から切断し、一切の自由な社会交流を認めず強制隔離した行為は、自由な人格者であることと両立しがたいような身体の拘束であることは明らかである。従って、旧法による身体の拘束は「奴隷的拘束」に当たる。また、仮に旧法による拘束が「奴隷的拘束」の程度に至っていないとしても、明確に正当な理由の認められない人格侵犯的な身体の自由の拘束としての「意に反する苦役」(浦部法穂「憲法学教室・」三四三頁)に当たることは明白である。従って、旧法は、憲法一八条に違反する。

(五) 二二条違反

憲法二二条一項にいう「居住、移転の自由」とは、自己の好むところに居住し、または移転するにつき、公権力によって妨害されないことをいう。

この自由は、資本主義経済を成り立たしめる不可欠の要素として経済的自由の一環をなすとともに、自己の移動したいところに移動できるという点で人身の自由としての側面を有する。のみならず、自己の選択するところに従い様々な自然と人とに接し、コミュニケートすることは、個人の人格形成・精神的活動にとって決定的重要性を持つことであって、その意味で精神的自由としての性格を持っている(佐藤幸治「憲法(新版)四八五頁)。

かかる人権の重要性に鑑み、経済的規制目的以外の目的で制限する規定については、厳格な判断基準により、合憲性が判定されなければならない(伊藤正巳「憲法」三四〇頁)。すなわち、・立法目的が合理的なものであり、・手段はその目的を達成するために必要最小限度のものであるか、という基準によるべきである。

本件においては、立法目的が、ハンセン病の感染を予防することとされており、一応は合理的なものといえる。

しかしながら、ハンセン病が、感染力・発病力ともに極めて微弱であるという点に鑑みれば、その感染予防のために強制隔離を行う必要はないのであるから、かかる制限は、立法目的達成のための必要最小限度の手段といえないことが明らかである。

従って、旧法は、憲法二二条一項に違反する。

(六) 三一条違反

旧法では、強制隔離自体が、行政処分の実体として適正でなかった。また、強制隔離が行われるに際し、告知、弁解、防御の機会が与えられなかったうえ、菌陰性になっても退所することが認められなかった。

憲法三一条は、科刑の手続の法定のみを定めているようにも読めるが、科刑の手続及び実体要件の双方につき法定されなければならないのみならず、その内容はともに適正なものでなければならないとするのが通説である(佐藤五一三頁)。また、本条は、行政手続きにもその性質によっては、適用ないし準用される(最判昭四六・一〇・二八、最判平四・七・一など)。

旧法は、身体の自由を奪う行政処分であるから、本条の適用ないし準用が認められる。

行政処分の実体の適正さがなかったことは、既に検討したとおりであるから、旧法は憲法三一条に違反する。

また、告知、聴聞の機会がなかったこと、退所規定がなかったことについては、告知、聴聞により、感染力が極めて微弱であること、通常の社会生活を営んでも他人に感染するおそれが極めて低いことの反証が可能であったこと、従って、直ちに退所が認められるべきであったことに鑑みれば、行政手続きの適正を欠くものとして、憲法三一条に違反するものというべきである。

2 新らい予防法(一九五三年改正)の違憲性
(一) 新らい予防法の概要

一九五三年に改正されたらい予防法は、旧らい予防法の隔離規定を一層強化し、らい患者の国立療養所への強制入所(六条)や外出の制限(一五条)、外出制限違反に関する罰則(二八条)等を定め、露骨な強制隔離主義を採用した。また、らい予防法六条二項及び三項は、「都道府県知事は、前項の勧奨を受けたものがその勧奨に応じないときは、患者またはその保護者に対し、期限を定めて、国立療養所に入所し、または入所させることを命ずることができる。

都道府県知事は、前項の命令を受けたものがその命令に従わないとき、または公衆衛生上らい療養所に入所させることが必要であると認める患者について、第二項の手続をとるいとまがないときは、その患者を国立療養所に入所させることができる。」と定め、被収容者に対し、何らの告知、聴聞の機会を与えず強制収容を行うことを認めていた。

加えて、療養所内に於いてハンセン病が治癒したものについて退所を認める手続保障を法定しなかった。

(二) 憲法違反

新法は、旧法下では「国立療養所患者懲戒検束規定」によって定められていたにすぎない外出、退所の禁止を法定し、強制隔離の法体系を完成させたものである。

その内容は、旧法令と同様であるから、既に検討したとおり、憲法一三条、一四条、一八条、二二条、三一条の各条項に違反するものである。

3 優生保護法(一九四八年制定)の違憲性

一九四八年に制定された優生保護法は、ハンセン病を他の疾病と差別して優生手術を認める必要性、合理性がないにもかかわらず、これを認めた。被告国は、同法制定以前より、施設内において夫婦が子を産み育てることを禁じ、結婚を許す条件として、事実上の強制的な断種手術を行い子供を産めなくし、又妊娠した女性には人工妊娠中絶を行っていた。同法は、これに明文によるお墨付きを与えた。これは、憲法一三条、一四条の各条項に違反するものである。

なお、同法同条項は、成立経過並びにその趣旨、内容からして、旧らい予防法並びに新らい予防法の一部をなすものである。以下、特に断らない限り、らい予防法とは、優生保護法を含む実質的なそれを指すものである。

二 厚生省の責任

1 強制隔離政策及び措置をとり続けた行為
(一) 違法性

厚生省は、一九〇七(明治四〇年)法律第一一号「癩予防に関する件」が定められて以降、ハンセン病患者を、患者自身が本来生活している社会から隔絶し、国立療養所に強制的に入所させ、隔離した。

また、いったん入所した患者に対し、菌陰性になっても社会復帰をさせず、継続して強制隔離を行いつづけてきた。

かかる政策及び個別措置は、ハンセン病患者及び元患者に対し、その行動の自由を剥奪し続けてきた継続犯としての監禁行為若しくは監禁類似行為である。

右監禁行為は、らい予防法による法令行為ではあったが、右法令は、旧法、新法いずれも既に検討したように、少なくとも憲法が施行された一九四七年時点において、違憲であった。

従って、らい予防法の存在は、監禁行為の違法性を阻却する正当化事由には当たらないものというべきである。

(二) 故意、過失

かかる強制隔離政策をとり続けた主体は、厚生省である。

厚生省は、強制隔離政策に基づく個別措置により、ハンセン病患者及び元患者に対し、その行動の自由を剥奪していることの認識を当然に有しているので、監禁行為につき、故意を有していたものである。また、法令の違憲性につき、一九四七年当時において熟知していたものであるから、監禁行為に対する違法性の認識も有していた。

(三) 損害賠償義務

従って、厚生省は、強制隔離政策及び措置をとり続けたことにより、ハンセン病患者若しくは元患者に対し、行動の自由を奪ったことに対する国家賠償法上の損害賠償責任を負う。

2 強制隔離政策及び措置を展開した行為

そもそも、厚生省は、古典的な三権分立論通りにらい予防法の執行のみを行ってきたのではない。ハンセン病患者撲滅を目指して強制隔離政策を展開してきたのである。旧法や新法という法律でさえ、その政策展開の手段にすぎない。厚生省は、ハンセン病が感染力と発病力が微弱な感染症であり、疫学的に著減しつつあった情報等を把握しながら、これら情報を隠蔽しつつ、ハンセン病が恐ろしい感染症であるという逆宣伝を行い、その政策を展開し、患者らに対し数々の人権侵害を行ってきた。

その違法性と故意は明らかである。

3 新らい予防法案を提出した作為、及びらい予防法廃止法案を提出しなかった不作為

厚生省は、厚生省設置法により一般に国民の保健に関する行政事務を司り、また国立ハンセン病療養所を監督する最高責任者であり、一九〇七年以降行われてきた療養所における人権侵害の実情や、国内外のハンセン病の知見等に関する情報が集中していたため、らい予防法に何らの必要性、合理性がなく違憲であることを熟知していた。

従って、旧法が違憲であることを認識した時点において、旧法を廃止し、直ちに入所者の人権回復措置をとる法案を提出すべきであった。

しかしながら、厚生省は、かかる行為を行うことなく、むしろ一九五三年には、強制隔離政策を完成させる新法の法案を策定し、閣議を経て国会に提出させた。

また、一九九六年に至るまで新法の廃止法案を作成せず、また、新法廃止後も、入所者に対する謝罪や実効性ある現状回復、並びに完全に円満に社会復帰できるための経済的、社会的措置をとっていない。

従って、厚生省は、新らい予防法案を提出した作為、及びらい予防法廃止法案を提出しなかった不作為により、ハンセン病患者及び元患者に対する行動の自由を奪ったことに対する国家賠償法上の損害賠償責任を負う。

三 国会の責任

1 新法制定の作為

国会は、一九五三年にらい予防法を改正し、新法を成立させた。

国会の立法行為につき、国家賠償請求が認められる要件は、・憲法規範上一定内容の立法をしない義務が明確であって、・憲法に違反する立法行為が国民の具体的権利に直接影響を及ぼす処分的性格を持ち、・そのような立法行為と損害との間に具体的、実質的な関連性が認められること、とされる(佐藤三一九頁)。

本件においては、既に検討したとおり、新法の内容が、明白に違憲であったことから、かかる立法をしないことが憲法規範上明確に義務づけられていたものというべきであり、新法は、国民の基本的人権に直接影響を及ぼす処分的性格を持っており、新法制定と人権侵害との間の関連性は、具体的かつ実質的なものといえる。

従って、国会は、一九五三年にらい予防法を改正し、新法を成立させたことにより、ハンセン病患者及び元患者に対する行動の自由を奪ったことに対する国家賠償法上の損害賠償責任を負う。

2 旧法及び新法廃止の不作為

国会は、一九四七年以降、旧法及び新法を廃止せず、らい予防法による強制隔離を存続させ続けた。

国会の立法不作為につき、国家賠償請求が認められる要件は、・憲法規範上一定内容の立法義務が明確であって、・憲法に違反する立法不行為が国民の具体的権利に直接影響を及ぼす処分的性格を持ち、・そのような立法不行為と損害との間に具体的、実質的な関連性が認められ、・一定の合理的期間が経過したこと、とされる(佐藤三一九頁)。

本件においては、既に検討したとおり、旧法及び新法の内容が、明白に違憲であったことから、かかる法令を廃止すべきことが憲法規範上明確に義務づけられていたものというべきであり、旧法及び新法は、国民の基本的人権に直接影響を及ぼす処分的性格を持っており、らい予防法を廃止しない不作為と人権侵害との間の関連性は、具体的かつ実質的なものといえ、遅くとも三年間の合理的期間を経過した時点において国家賠償法上の責任を負うものというべきである。

従って、国会は、遅くとも一九五〇年にらい予防法を廃止しなかったことにより、ハンセン病患者及び元患者に対する行動の自由を奪ったことに対する国家賠償法上の損害賠償責任を負う。

3 先行行為に基づく作為義務

そもそも本件は、国による四〇年に及ぶ強制隔離政策及び措置という長年月の重大かつ大量の人権侵害の継続がある。

かつ、その結果として、国は原告ら収容者を自らの実力的支配下においていた。

よって、国は、これら先行行為並びに原告ら収容者を自らの実力的支配下においていたことによっても、原告らの人権を回復すべき作為義務を負っていた。

4 最高裁の判断基準について

国会議員の立法行為(立法不作為を含む)は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定しがたいような例外的な場合でない限り、国家賠償法一条一項の規定の適用上、違法の評価を受けない(最判昭六〇・一一・二一)とするのが最高裁の立場である。

かかる基準は、理論的にも問題であり、厳格にすぎるし、国の重大かつ大量の人権侵害が先行する本件とは事案を異にすると考えるが、仮にこの基準によったとしても、本件立法行為は違法と評価されるものである。

すなわち、右の要件は要するに、・立法内容が憲法の一義的文言に違反していること、・国会議員が、当該法令を廃止しないことが違法と評価されること、の二点である。旧法及び新法の違憲性は、既に検討したとおり、憲法一三条、一四条、一八条、二二条、三一条に違反するものであったから、立法内容がこれら憲法各条項の一義的文言に違反している。

また、国会議員は、らい予防法を廃止することは一九四七年以降いつでも可能であったのにこれをおこなわず、むしろ一九五三年には強制を明文化する法改正を行っているのであるから、かかる行為が違法と評価されることは明らかである。

以上

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