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第三準備書面

平成一〇年ワ第七六四、一〇〇〇、一二八二号「らい予防法」違憲国家賠償請求事件

原告  原告番号一ないし四五番    被告  国

平成一一年二月 右原告ら訴訟代理人  弁護士 徳田靖之・八尋光秀   外一三五名 熊本地方裁判所第三民事部 御中

第一 本準備書面の目的

本書面では、はじめに責任論及び除斥期間論に関連する事実につき論じた上で、本件における国の責任と、本件に除斥期間の適用がないことを明らかにする。

第二 不必要な隔離政策による社会的・身体的監禁の継続・放置

ハンセン病患者は訴状、準備書面(一)で繰り返し述べてきているように国の隔離政策により強制的に施設内へ収容され、高い塀による身体的な監禁状態におかれた上、国の隔離政策により生み出され助長された差別・偏見という国民の心の中の高い塀による社会的な監禁状態にもおかれた。国の隔離政策により患者は自己の親族のみならず社会的な人間関係までも根本から破壊され、社会内での仕事や治療も含め社会的生活基盤を全て奪われた。国は患者を隔離政策に基づき不当に自己の実力的支配下におくことにより、患者から社会的な動物としての人間の属性の全てを奪い去ったのである。

しかし、ハンセン病患者を強制的に隔離し、国の実力的支配下におく必要性は全くなく、その政策は根本的に誤っていた。ハンセン病患者には治療と社会的な啓蒙こそ必要であった。国はその政策の誤りを政策の開始と政策の立法化の当初から知り、少なくとも極めて容易に知りうる状態にあった。

一 隔離政策(新・旧予防法)必要論を否定する事実

1 隔離不要の知見

ハンセン病は伝染病である。その事実は一八九七年(明治三〇年)一〇月にベルリンで開かれた第一回目の国際らい会議で既に確立されていた。

その伝染力が弱いことも同じ頃には既に臨床経験上明らかになっていた。一九〇二年(明治三五年)、ウルバノビッチは「らいは貧困な人たちの病気である。これは伝染が起こりにくいので、その実現には過密居住による密接な接触が必要だからである。」(「メーメル地方におけるこれまでのらい治療経験について」)と指摘し、またキルヒナーは一九〇六年(明治三九年)、「らい菌は人体外では比較的急速に死滅するので、かなり長期にわたる接触によってのみ感染が成立する。」(「らいの蔓延と予防」)と指摘している。我が国においても我が国最初のハンセン病療養所神山復生病院第五代院長ドルワール・レーゼが一九〇七年(明治四〇年)に自著の小冊子の中で「らいは伝染病としては、その力は弱い。これよりもさらに危険なものが少なくない。」と指摘している。

重要なことは、右の各事実を、同じ年成立した「癩予防ニ関スル件」の責任者が知っていたということである。すなわち、責任者窪田静太郎内務省衛生局長は、「伝染力は強烈なものではない。・・・島嶼に送るが如き処置はこの病気の伝染力に対して患者当人に余りに過大な犠牲を要求するものであって、公正でないと考えた。」と後に述べているのである。

また国が行った一九〇〇年(明治三七年)以降の調査における患者総数が原告主張のとおりであることは国も認めており、患者総数が調査開始以降、しかも治療薬プロミンの開発以前から一貫して減少しているのは明らかである。国も厚生省五〇年史(記述篇)において「我国のらい患者は年々減少傾向を示し、昭和一〇年に約一万四〇〇〇人いた患者が、昭和三〇年には約一万二〇〇〇人、昭和五〇年には約一万人、昭和六〇年には約八五〇〇人に減少した。」とその認識を明らかにしている。国は答弁書において調査方法の違いなどからハンセン病が終焉に向かっていたことに疑問を呈するが、らい患者が年々減少傾向にあることを認めた前記厚生省五〇年史(記述篇)における認識は国もハンセン病が終焉に向かっているとの認識を有していたことを裏付けるものである。

以上の各事実に鑑みれば、ハンセン病は一九〇七年以前から外来治療により治療可能な慢性疾患であり、隔離はいかなる意味でも不要であった。そしてその事実を国は知り、少なくとも極めて容易に知ることができた。

2 隔離政策必要論の欺瞞的変遷

右のことを裏付けるかのように隔離を必要とする国の理由は変遷を重ねてきた。

1 国辱論・財政便宜論(一九〇〇~一九二五)

富国強兵政策による大国化を目指した明治政府は、浮浪するハンセン病患者を文明国たる大日本帝国の国辱と考え、治安維持の観点からも患者を警察力による取り締まりの対象とした。

例えば、一九〇二年、斉藤寿男外三名が衆議院に提出した建議案には、「らい病は野蛮国の標徴に属す。」、あるいは「外国人が日本に参って、一番恐れますのがこのらい病患者が路傍にゴロゴロ致しておるのには実に驚いている。」等と記載されている。

「癩予防ニ関スル件」は右のような認識をもとに策定され、実質的には、社寺仏閣、公園、温泉場などを徘徊する、いわゆる「浮浪らい患者」を公衆の面前から一掃するため「浮浪らい患者」のみを強制収容することを目的としていた。

さらに同法は一九一六年(大正五年)改正され、療養所長に懲戒検束権を付与し、療養所内の監禁室の設置、懲罰による統制が基礎づけられた。患者の救護やらい伝染の予防と監禁、懲罰による統制とは全く相容れないものである。これに加え、治療が名ばかりであったこと(『らい予防法廃止の歴史』五二頁)や患者の収容定員が五公立らい療養所でわずか一〇五〇床分程度であったことなどの事実からすれば、同法が一応立法目的とする「放浪らい患者」の救護、らい伝染の予防が名目だけで、その実質が国辱である「放浪らい患者」の収容隔離のみにあったことが明確となった。

2 民族浄化論(一九二六~一九四五)

一九二〇年代半ばから光田健輔らにより強力に展開されていたハンセン病に対する絶対的隔離主義は一九三〇年、内務省に採用されることとなり、同省は全てのハンセン病患者を当然隔離対象として予定するらい根絶策の再検討に着手し、「らい根絶二〇年、三〇年、五〇年計画」を公表し(『ハンセン病医学』二八八頁)、同年一一月国立療養所長島愛生園の開設を決定した(『らい予防法廃止の歴史』八一頁等)。

翌年、その政策を実現すべく内務省により「らい予防法(旧法)」案が作成され、内閣提出法案として国会に提出され、同年四月同法が制定された。これにより隔離対象が全ての患者に拡大され、さらに同法制定を推進力として、無らい県運動、患者狩り、収容列車等法律の枠を超えた隔離政策が内務省により展開された。国がアジアへの侵略を進めていたこの時期、「日本民族」の質を低める病気は全て排除される必要があると考えられた。軍国主義、国粋主義の台頭による民族浄化のための患者絶滅の考え方がその基礎にある。

3 社会防衛論(一九四五~一九六〇)

戦後直後の混乱期を経て、厚生省は一九四九年国立らい療養所増床計画を樹立し(『らい予防法廃止の歴史』一四〇頁)、戦前の絶対的隔離政策を維持継続することを明らかにした。翌年には衆議院厚生委員会で懲戒検束権、代用刑務所案が承認されている(『増補日本らい史』二三〇頁)。その理論的基礎は、今度は感染・伝染の危険からの社会の防衛という点に求められた。その典型が一九五一年の光田健輔(長島愛生園)、林芳信(多摩全生園)、宮崎松記(菊池恵楓園)ら三園長証言である(『らい予防法廃止の歴史』一四〇頁等)。彼らは社会防衛論に立ち、患者の意思に反してでも収容できる法律の必要性、断種の必要性、逃走罪などの罰則の必要性などを参議院厚生委員会で証言した。

一九五三年成立した「らい予防法(新法)」は「予防には隔離以外にはない」という社会防衛論に立脚したものである。

3 国際的批判と責任隠匿
1 責任隠蔽期(一九六〇~一九九六)

新法の下、隔離政策の表向きの理由は感染からの社会の防衛に求められたが、その不当さは国際的な批判を浴びたことからも明らかであった。

一九五六年(昭和三一年)の「らい患者の救済と社会復帰のための国際会議」において採択された「ローマ宣言」では、ハンセン病が伝染力の弱い病気であることが確認され、強制隔離主義の是正、差別待遇的法律の撤廃、早期治療の必要、社会復帰援助等が求められた。一九五八年(昭和三三年)の第七回国際らい学会議では強制隔離政策を採用している国はその政策を全面的に破棄するよう推奨された。さらに一九六〇年(昭和三五年)、WHOのらい専門部会ではハンセン病の管理は隔離でなく外来管理で行うよう勧告がなされた。

このような中、国の隔離政策の誤りは明らかで、国はそのことを熟知しながら責任追求を回避するために部分的な処遇改善を行うことで隔離政策自体は変更しないまま責任を隠蔽してきた。

2 部分的責任承認期(一九九六~)

ところが、国もその政策の誤りを隠蔽し続けることはできなかった。一九九四年(平成六年)、国立療養所長連盟はらい予防法見直しを求める具体的意見書を提出し、その後一九九六年(平成八年)には法廃止の遅れや優生手術などにより在園者やその家族らに多大な損害を与えたことを厚生大臣が公式に謝罪するとともに、同年らい予防法が廃止された。「らい予防法の廃止に関する法律」決議に際し、国会衆参両委員会は「長年にわたりハンセン病患者・家族の方々の尊厳を傷つけ、多くの痛みと苦しみを与えてきたことについて、本案の議決に際し、深く遺憾の意を表するところである。」とした上で、「ハンセン病療養所から退所することを希望するものについては、社会復帰が円滑に行われ、今後の社会生活に不安がないよう、その支援策の充実を図ること」という付帯決議をなした。ところが、一九九八年(平成一〇年)公表された「社会復帰支援事業実施要綱」は右付帯決議に照らしても極めて不十分なものであった。

国はその責任を部分的にしか承認していない。

二 隔離政策(新旧予防法)による社会的・身体的監禁その他の人権侵害とその継続

1 隔離政策の展開により、先行する社会的・身体的監禁(~一九四五)

国辱論、民族浄化論というそれ自体正当性を欠く理由を根拠として展開された隔離政策により、ハンセン病患者は社会的にも身体的にも監禁された。

1 差別・偏見の助長・拡大(社会内で平穏に生活する権利の剥奪と継続)

ハンセン病患者は、国辱、民族浄化の対象として、国の制定した法律である「癩予防に関する件」、「らい予防法(旧法)」により差別・偏見のレッテルを貼られ、罪人以下の扱いを受け、その家族も国辱、民族浄化の対象者の家族として同様の差別・偏見の下におかれた。患者の暴力的な入所に伴う患家の不必要な消毒、「らい患者用」と表示しその危険性を煽る輸送列車、療養所の周囲の刑務所の如き高い塀と見張り、そして「らい予防法(旧法)」の存続そのものが差別・偏見を助長・拡大させた。

ハンセン病研究者の小笠原登が、一九三六年(昭和一一年)頃、当時の強制隔離政策について述べた次のような主張がその一端を示している。「らい程に誤解せられている疾患は他にないであろう。この誤解が患者に加わる迫害の根源をなしている。(第一に)らいは遺伝病ではないことは種々の事実が証明しているので、今日では知識階級にはこれを疑う者はなくなったようであるが、尚一般民衆には徹底するに至っておらぬ。これがために患者及びその一族が迫害を被っていることは周知の事実である。第二の誤解は、らいは極めて伝染性の強い疾患であるというのである。この誤解もはなはだしく患者を苦しめている。交通機関の利用が禁ぜられたり、一家を支える中心人物が強制的に隔離されて一家の生計が脅かされたり、患者の家族に勤労が拒絶せられ、また絶交が宣告せられたなどのことは、余の親しく遭遇している事実である。」(『増補日本らい史』一〇二頁)

右に示されている仕事の拒絶、村八分、交通機関の利用拒絶等がなされればハンセン病患者及びその家族はもはや社会の中で平穏に生きることはできない。社会内で仕事に就けず、治療も施設内でなければできないような状態では患者及びその家族は社会内で暮らしていく基盤はない。その上、差別・偏見により従前の人間関係は根本的に破壊されている。このような状況下で患者は社会内で平穏に暮らしていけるはずがない。国の隔離政策及びそれを法的に追認する前記各法律(「癩予防ニ関スル件」、「癩予防法(旧法)」)によって助長・拡大された差別・偏見はハンセン病患者監禁の社会的な手段であり、「社会的監禁」と呼ぶことができる。そして、この「社会的監禁」により国は患者を自己の実力的支配下におき、患者から社会的な動物としての人間の属性の全てを奪い去ったのである。

2 身体的監禁による身体的自由の剥奪

ハンセン患者は、有無を言わさず強制的に連行され、収容後は外出さえ厳しく制限され、違反者には罰則が科され懲戒が行われた。その上、恣意的で不当な懲戒権行使が行われ、懲戒処分中に患者が餓死や凍死などで死亡に至ることも多くあった。

「痛みのなかの告訴」の中の次の一文はその一端を伝えている。「・・・草津特別病室がある。らい患者にとっては終生忘れることのできないらい房監である。あるものは当時の療養所の行政に批判的なことを手紙に書いた(全て検閲されていた。)というかどで、あるものは作業をさぼり、園当局の方針に反抗したかどで、またあるものは患者自治会の役員であったというかどで、この重監房に送り込まれた。しかも罪状を調べる書証も作らず、当局の『どうだ涼しいところへいって静養してこないか』の一言で処理されるものが多かった。監房の内部は四重の鉄扉で閉ざされ、零下二〇度をこす冬でも毛布一枚だけ、食べものは一ヶの梅干しとにぎりめししかよこさなかった。窓から吹き込む粉雪でふとんは凍り、死体は雪にうもれた。こうして殺された患者は二〇〇人に及ぶ。」

法にも人道にも反する身体的監禁が行われていた。

2 隔離政策の継続により、継続・放置された社会的・身体的監禁(一九四五~)
1 差別・偏見の放置(社会内で平穏に生活する権利の剥奪の継続)

国辱論、民族浄化論の下、誤った絶対的強制隔離主義が国の政策としてとら れていく中で、助長、定着させられたハンセン病患者及びその親族に対する差別・偏見は、個人の尊厳、人権の尊重を基本原理とする新憲法下においても、その解消に向けた政策がとられるどころか、社会防衛論というさらなる誤った正当化論の下、追認され、放置された。その上、「らい予防法(新法)」が社会防衛論の下成立することで、病気に対する誤解をいっそう強め、患者や家族に対する差別・偏見がより助長・拡大された。「社会的監禁」状態はより強化され、患者から社会的な動物としての人間の属性の全てを奪い去る悲劇的状況が継続した。患者の社会的な「死」を意味するこの状況は患者自身の高齢化、親族の死亡等に端的に示されるようにその継続だけで人権侵害状態を日々拡大していった。

戦後においても、例えば結婚して幼い子どもがいる仲のよい夫婦でも、妻がハンセン病だと診断されると、子どもや夫の受ける差別・偏見を心配して、幼い子どもを夫に預け、あるいは子どもとともに、離婚して療養所に入らなければならなかった。

2 監禁による身体的自由の剥奪の継続・放置

差別や偏見の放置と同様、監禁による身体的自由の剥奪も放置された。

差別や偏見が社会防衛論の下、放置され、むしろ強化されるという状況の中では、仮に暴力等の直接的な強制力ではなく、形の上では説得という方法がとられたとしても、強制的な入所には変わりなかった。拒否すれば強制収容できるとする「らい予防法(新法)」の構造もそのことを裏付けている。また、昭和三〇年代頃までは、戦前と同様、療養所の周りには塀が存在し、脱走防止のための巡視がなされていたし、違反者には拘留・科料の処分や謹慎処分がなされた。さらに「らい予防法」には退所規定がなく、患者は入所の際に死体解剖承諾書に署名を求められ、一生ここから出られないとの絶望の下、入所させられていた。

戦後においても監禁による身体的自由の剥奪が放置されたままだったことを象徴するものとして、患者運動が「らい予防法」改正に反映されなかったことについての大谷藤郎の次の一文がある。「死刑の冤罪裁判を見るようで人間社会として見過ごすことのできないまことに恐ろしいこと」(『法廃止の歴史』一八四頁)。

3 民事・刑事裁判を受ける権利の剥奪・放置

ハンセン病患者は民事・刑事裁判を受ける権利を実質的に剥奪されていた。そのことを象徴的に示す事件として藤本事件がある。この事件は藤本松夫がハンセン病であることを密告したとされる男を殺害したというものであったが、一九五三年(昭和二八年)八月、熊本地方裁判所は死刑の判決を下した。この裁判で藤本は「らい予防法」の隔離の下、通常の裁判を受けることができず、身柄は菊池恵楓園内の監房に監禁され、裁判官が同園に出張するという形で裁判が行われた。厳格な手続が要求される刑事裁判においてすらハンセン病患者は通常の裁判を受けることができなかったのであるから、民事裁判においてはなおさらである。

また、前述したように戦前において、患者を監禁状態におき、身体的自由を奪う重要な手段の一つであった懲戒検束権を療養所長に認める規定は戦後においても残され、「らい予防法(新法)」でも存続された。この懲戒検束権による懲戒処分はいわゆる重監房内に身柄を拘束するものまであり、刑事処分以上の実質をもつものもあった。それにも関わらず、懲戒処分がなされるにあたっては療養所長の一方的権限で行われ、弁明の機会は実際上与えられなかった。また、そもそも懲戒処分の正当性、必要性自体、先の「痛みのなかの告訴」の中の一文に記されているように疑わしいものが多かったにも関わらずそれを争う具体的機会は与えられなかった。つまり、患者は療養所内においていわば刑事裁判を受ける権利を剥奪されたに等しい状態であった。また、患者はこのようないわば冤罪的な処分に対し賠償請求をすることも事実上できる状態ではなかった。そのような動きをすればそれだけでまた懲戒処分が待っていたに違いない。つまり患者はいわば民事裁判を受ける権利も療養所内において剥奪されたに等しい状況にあった。

3 隔離政策から派生した人権侵害

国辱論、民族浄化論、社会防衛論とその根拠自体、正当性を欠く隔離政策の下でむりやり続けられた強制隔離の下では、前述したように社会的な動物としての人間の属性の全てが奪い去られた。患者は社会的には抹殺されたのである。社会的に抹殺された患者に人としての尊厳をもった取扱がなされることは当然のことながらなかった。プライバシーは無視され、治療は放置され、労働を強制せられ、断種・堕胎が強行された。

特に国がハンセン病を理由に患者への優生手術を認めた優生保護法を成立させた人権侵害性は甚大である。これは戦前から強制隔離下で違法に行われてきた「民族浄化論」に基づく徹底した優生政策を追認し、合法化するものであった。正当性を持たない優生保護法のらい条項は在園者の「いのち」を絶ち、その尊厳を踏みにじるだけでなく、患者及びその家族への差別・偏見の壁をより高く、より厚いものにし、社会的な「いのち」をも絶ってしまったのである。

三 隔離政策(「らい予防法」)の死文化・形骸化論を否定する事実

国は隔離政策(「らい予防法」)が実質的には死文化・形骸化していたと反論する。しかし、以下の各事実を見るだけでもその反論は全く根拠のないことが判明する。

1 退所者・在所者数の推移

国が運用上認めてきた退所者は入所者総数からすれば、ほんのわずかな数でしかない。また、軽快退所者数も一九六〇年をピークに減少に転じている(国の答弁書添付の資料参照)。

2 退所規定の欺瞞性・非周知性

国の言う軽快退所基準は療養所内部の行政的な取り扱い基準にすぎない。すなわちらい予防法には退所規定そのものは設けられていないのだから、あくまでも隔離政策を前提にした恩恵的なものに過ぎない。退所者数が少ないという事実はまさにそのことを示しているし、またこの基準自体、患者にとって周知のものとなっていなかったことを示している。

3 差別・偏見の放置(社会内で平穏に生活する権利の剥奪と継続)

国の主張の欺瞞性はなによりも現在も続くハンセン病患者への差別・偏見の放置にある。その差別・偏見の内容は先に詳論したとおりである。そのような差別・偏見の解消に向けた措置が何らとられることなく、むしろ社会防衛論を基礎にした隔離政策(「らい予防法」)が存続し続けることで患者への差別・偏見がより強化されている状況の下では、退所の恩恵を受けようと考えても実際には受けることはできないし(後遺症に苦しむ者にとっては特にそうである。)、仮に退所の恩恵を受け退所したとしても、経歴を隠し、詐称しなければ、社会では生きていけなかった。

差別・偏見のない社会に戻れるのでなければ、退所の意味はない。

4 その他運用の実態

隔離政策(「らい予防法」及び軽快退所基準)の運用の実態を端的に伝えるものとして一九六三年(昭和三八年)、全患協が厚生大臣宛に出したらい予防法改正要請書がある。同要請書には一九項目の具体的要請事項があげられており、その中には例えば従業禁止に関する項目、医療に関する項目、さらに退所者の保障に関する項目がある。

従業禁止に関する項目については、次のような記載がある。すなわち、「現行法・・・に規定されている『従業禁止』の範囲は無限に近い程広大で、一度ハンセン氏病に罹れば、治癒しても就職が困難となり、復職も不可能な実情にあります。」

医療に関する項目には次のような記載がある。すなわち「ハンセン氏病療養所は、その医学的解明がなされ、DDSなどの治療薬で退所者も送り出せる現状でありながら、その医療は全く旧態依然であり患者の医療管理のシステムすら確立されていない状態であります。現在までの不完全な医療管理のために、らい性マヒ(神経系疾患)及びこれに伴う身体障害、その他、後遺症を治療されないままの患者が激増しているにもかかわらず、患者は、自分の菌の有無さえも知らないままの状態であります。・・・このようになっている最大の原因は、現行予防法が、患者を隔離することによって予防の目的を果たすことをねらっているものであり、医療については『必要な療養を行う』ということだけを簡単に規定しているのみであります。換言すれば、治すことを目的としていないところにあると云わねばなりません。」「・・・療養所に入所できないハンセン氏病患者については、ほとんど治療が施されていない実情にあります。・・・今後国は各都道府県に大学病院、公立病院等数カ所を指定し在宅患者の医療管理を、国費により徹底的に行って頂きたいのであります。尚、退所した患者の医学的観察を併せて行う措置を講ぜられたい。」

退所者の保障に関する項目には次のような記載がある。すなわち「かつて患者を強制的に隔離して人間としての権利と未来への全ての希望を奪い、その保障もなされないまま、病気が治ったから退所せよ、ではあまりにも無責任であります。」そして、所内の更生指導、職業訓練と技能習得までの生活資金の支給、職業の斡旋、住居の提供、退所支度金の支給、生業資金の貸付、退所後の観察の具体的項目があげられている(以上につき、『らい予防法廃止の歴史』二二八頁以下)。

この要請書は退所者が減少している中で厚生大臣宛に出されたもので、これら記載は当時の隔離政策(らい予防法及び軽快退所基準)の運用の実態を伝えるものである。このような要請がなされたにも関わらず、その後も前述のように退所者が減少し続けたという事実は、その後も運用の実態が変わらなかったことを示している。

第三 責任論

一 国の責任の特色

国は、一九四七年時点において、すでに一九〇七年以降、四〇年に及ぶ多くのハンセン病患者に対する強制隔離政策及び措置という重大かつ大量の人権侵害の継続を行ってきている。

かつ、国はかかるハンセン病患者を自ら設置運営する施設に収容し、自己の実力的排他的支配下におきつづけてきた。

よって、国は、これら違法かつ非人道的な先行行為並びに原告ら収容者を自らの実力的排他的支配下においていたことによって、原告らの人権を回復すべき作為義務を負っていたことは明らかである。

また、強制隔離を含む政策を継続してきた行為は、単なる隔離という人権侵害の継続ではない。ハンセン病患者に対する絶滅政策の完結に呼応してもたらされる、人権侵害の深化であり拡大であった。

断種、堕胎等を強要され子孫を残すことのできなかった入所者にとっての、社会復帰の最後の綱である親族らが長年の経過により死去し、あるいは、入所者と本来の生活場所とのつながりは、長年の経過により絶えさせられ、社会復帰は時間の経過のみにより著しく困難さを増していったのである。

ハンセン病患者の子孫を絶やし、離れ小島や陸の孤島に隔離し、ハンセン病患者をひっそりと絶滅に追い込もうと考えてきた内務省、厚生省の強制隔離政策は、患者の収容後は、積極的な行為がなくとも、法を存続させ続け、強制収容に形式的根拠を付与し続け、時間を経過させることにより完結するものであった。 結局は、一九九六年にようやく法が廃止されたが、その時点において入所者の平均年齢はおよそ七〇歳に達していたのであり、社会復帰したいと考えても、すでに社会とのつながりが立たれて数十年を経過しており、高齢化していた入所者は、人生のやり直しをすることが事実上不可能な状況に追い込まれていたのであり、当初からの強制隔離によるハンセン病患者に対する絶滅政策は、ここに完結したと言っても過言ではない。
このような絶滅政策による人権侵害の重大性、特殊性に鑑みれば、一九四七年以降に国がとるべきであった行為は、単に隔離政策を終了するだけでは足りず、自ら生じさせた社会の偏見・差別を積極的に除去し、入所者が完全に円満に社会復帰を果たすことができるよう万全の対策をとることであった。

二 厚生省の責任

厚生省は、厚生大臣を頂点とし、公務員により構成されているが、これら構成員はいずれも憲法九九条により憲法尊重擁護義務を負っていることは自明である。従って、厚生省は、憲法に違反して国民の人権を侵害してはならない義務を有していることは明らかである。

一九〇七年以来、長期間にわたり、ハンセン病患者に対する絶滅政策を策定、実施してきた内務省から政策を引き継いだ厚生省は、(1)強制隔離政策及び措置をとり続けた行為、(2)強制隔離政策及び措置を展開した行為、(3)新らい予防法案を提出した作為及びらい予防法廃止法案を提出しなかった不作為において、いずれもすでに述べたとおり、旧法・新法の違憲性同様、憲法一三条、一四条、一八条、二二条、三一条の各条項に反し、違憲であったことは明らかである。

三 国会の責任

1 個別の国民に対する立法義務

本件では、以下の通り、国会議員の憲法尊重擁護義務を定めた憲法、先行行為、排他的支配等が存在したため、一九四七年時点において、国会及び国会議員は、既に収容しているハンセン病患者に対し旧法の廃止義務を負っていた。

新旧らい予防法は、いずれも国がハンセン病患者であると認定したものに対して具体的な強制関係を規律している。しかも、その内容は、即時強制を主とした個々の国民に対する直接の行政強制である。

一九四七年には、ハンセン病が、伝染病ではあるものの、特殊な条件が伴わなければまず感染することはなく、当時既に、ハンセン病が疫学的には終焉に向かっていたことなどから、伝染予防のために患者を隔離する必要性がなかったこと、及びこのことが知られていたことは既に述べたとおりである。従って、旧らい予防法は、その前提となる立法事実を欠き、憲法一三条、一四条、一八条、二二条、三一条に反し違憲であった。
ハンセン病患者が侵害を受けた人権は、人身の自由、あるいは社会内で平穏に生活する自由という、通常の国民が生活する上で、それを人権と意識することがあり得ないほどの極めて基本的な自由権である。

人が人として尊重されるためには、社会との自由な交流が不可欠であり、それを欠いては、憲法に規定されたあらゆる基本的人権が実質的には保障されていないものというべきである。
また、本件における侵害態様は、法令による期限の定めがなかったため、数十年という長年月にわたっている。

従って、具体的個人に対し人身の自由、あるいは社会内で平穏に生活する自由を剥奪するという自由権侵害を積極的に行う立法が存在し、それにより現に長期間人権を侵害し続けられた本件のような場合には、立法不作為によって侵害を受けた人権の性質及び侵害の態様において、極めて特殊かつ甚大なものであったことは明らかである。

国は、一九四七年時点において、すでに一九〇七年以降、四〇年に及ぶ多くのハンセン病患者に対する強制隔離政策及び措置という重大かつ長期間の人権侵害の継続を行ってきている。

また、強制隔離政策を継続させてきた結果、国はかかるハンセン病患者を自ら設置運営する施設に収容し、自己の実力的排他的支配下におきつづけてきた。

国家に対し、国民の基本的人権を侵害しないようその権力行使を制限するとともに、国会議員に対し憲法尊重擁護義務を課した日本国憲法が施行された一九四七年には、国会及び国会議員が、右の政策を改める義務があったのは明らかである。

よって、国は、これら個別具体的な個々のハンセン病患者との関係で、人権侵害を是認する旧法を廃止し、ハンセン病患者の人権を回復すべき作為義務を負っていたことは明らかである。
最判も、国会議員が個別の国民に対する関係で立法義務を負う場合が存在することを否定しない。

従って、国会が、一九四七年以降、旧法及び新法を廃止せず、また、一九五三年には新法を制定させた行為は、いずれも国家賠償法上違法である。

2 憲法の一義的文言に反すること

新旧らい予防法は、既に述べたとおり、その人権制約に何らの合理性もなかったため、憲法一三条、一四条、一九条、二二条、三一条の各条項に反し違憲であった。

本件で原告らが侵害を受けてきた人権は、人身の自由、あるいは社会内で平穏に生活する自由という、通常の国民が生活する上で、それを人権と意識することがあり得ないほどの極めて基本的な自由権である。

人が人として尊重されるためには、社会との自由な交流が不可欠であり、それを欠いては、憲法に規定されたあらゆる基本的人権が実質的には保障されていないものというべきである。
しかも、その人権侵害には終期の定めもなく、解放される道も閉ざされていた。
このような、ハンセン病患者を同じ人間として尊重することなく、憲法の人権規定の適用を一切否定する法令は、憲法の一義的文言に反する明白な違憲であった。国会議員が旧法を廃止し、ハンセン病患者の人権を回復する作為義務を有していたのは明らかである。

従って、国会が、一九四七年以降、旧法及び新法を廃止せず、また、一九五三年には新法を制定させた行為は、いずれも国家賠償法上違法である。

3 結論

一九四七年時点において、旧法の合憲性を支える立法事実が存しないことを国は知っており、国会及び国会議員も少なくとも容易に知り得たため、過失が存在する。

よって、国会は、一九四七年以降、旧法及び新法を廃止せず、また、一九五三年には新法を制定させた行為につき、国家賠償法上の損害賠償責任を負う。

第四 民法七二四条後段(除斥期間)の適用について

一 はじめに

現在も一三の国立療養所二つの私立らい療養所に五千数百人のハンセン病回復者がいるが、その多くが今も本名を隠して偽名を語り、肉親家族に差別迫害の累が及ぶのを恐れてその故郷を秘めて明かさず、かつてはどの人も自らの病気に絶望して、一度は自殺を考えたといわれている。彼らは提訴すれば園当局の報復・不利益取扱を受けるのではないかと怯え園当局の管理支配下に今日でも置かれている。園外にいる人たちも、病歴・在園歴を隠し、これらが露見しないかと常に怯え、家族や故郷を離れ、学習や就職など生きる手段を奪われてきたために今もなお困難な社会経済生活を強いられている。

ハンセン病かつてはらい病とよばれたこの病に罹ることによって、これらの人々を自ら痛めつけ卑下させ、他人からは人間が人間でない差別の仕打ちを平気で加えさせるようになった、今もそうであることはまさにいわれなき人権侵害そのものである。

その理由は国家によって不治の伝染病と規定された「らい予防法」が、ハンセン病者をして健康者を脅かす伝染源であり、汚れた恐怖すべきものとして仕立てあげ、つい最近の平成八年三月まで存続していたからである。隔離法の存在そのものが患者、回復者に対する一般国民の有形無形の差別感情を誘発し続け、社会疎外の国民感情を醸成する根強い原因となったのである。

情報を大量に収集・保持し多数の専門官僚を擁する厚生省においても、一九九〇年代より前はハンセン病回復者が省内や食堂へ出入りすることが自由ではなかったし、一九八三(昭和五八)年の大谷藤郎氏の出版記念会においてらい回復者が祝辞を述べることでさえ「らい予防法が現存して外出を禁じているのに、医務局長の記念会で公然と演説させるのは行き過ぎではないか」との意見さえあったのである。

ことほどさように少なくとも法廃止までは、「国家・社会が根強く抱えている壁のような偏見・差別」が厳然として存在したのである。

被告国の強制隔離政策、すなわち差別・偏見の助長・放置、監禁にひとしい隔離措置などの不法行為は、一回的に行われて即終了したのでなく、少なくとも、平成六年三月まで継続して行われてきたのである。本件に対し、被告国は厚顔無恥にも民法七二四条後段の適用があり、原告らが訴えを提起した平成一〇年七月三一日から二〇年前である昭和五三年七月三〇日以前の行為を理由とした国家賠償請求権は同条項により消滅したと主張する。それが正義に反することは明らかである。以下、本件に同条後段を適用することの誤りを述べる。

二 不法行為を正当化する法律の存在と「不法行為の時より」の解釈

民法七二四条後段の規定の起算点は「不法行為の時より」である。不法行為を正当化する法律が存在する場合は同期間は進行せず、同法が廃止された時が「不法行為の時」に当たり、起算点であると解すべきである。

被告国の強制隔離政策及び「らい予防法」の制定により、原告らは社会において平穏に生活する権利を奪われ、施設に強制隔離された。同政策及び同法の存在の誤りを被告国が認め、これを廃止したのは平成八年三月のことである。それまで被告国は国民に対し強制隔離政策の正しさを強弁し続けていたのである。

本件隔離政策に関する最大の情報所持者で、多数の専門官僚を擁する被告国がその誤りを認めない前に本件強制隔離政策の誤りを裁判を提起して主張せよというのは原告らに対し不可能ないし著しい困難を強いるものである。

したがって、国が法律を根拠にして監禁にひとしい不法行為を行い、または、監禁にひとしい不法行為を法律によって正当化してきた本件のような事案については、民法七二四条後段の「不法行為の時より」とは、当該法律が廃止されたときよりを意味するものと解すべきである。

三 拡大累積する被害と法廃止による損害の確定

原告らの被害は日々拡大累積している。三年間隔離されると一般的には社会復帰は困難になる。学業、職業、親族の支援などを奪われ、ハンセン病の療養所にいたことが社会的差別や偏見を招き、社会復帰をする妨げとなるからである。この事情は隔離が長くなればなるほど増大していく。

また、隔離が数十年に及ぶと右に原告ら及びその家族・親族の高齢化という事情が加わる。「らい予防法」が廃止された時点で在園者の平均年齢は七〇歳を超えており、このよな高齢化した被害者にとっては、年々社会復帰が困難になっているのである。

この拡大累積する被害も、法が存続するかぎりは正当行為の結果生じる被害であって、せいぜい損失補償の対象となる損失に過ぎない。被告国が法の存在が誤りであったことを公式に認めることによって、それが正式に不法行為の損害であると国民一般が認識できる状態になる。ここに被害が損害に転嫁、確定し、不法行為が完成するものというべきである。

この意味でも、民法七二四条後段の「不法行為の時」とは法廃止の時をいうものと解すべきである(鉱業法一一五条二項類推適用)。

四 裁判を受ける権利を奪う不法行為と「不法行為の時より」の解釈

被告国の強制隔離政策によりハンセン病患者に対する差別・偏見が助長・放置され、原告らは社会内で平穏に生活する権利を奪われた。法廃止後の現在でも多くのハンセン病(元)患者は差別・偏見を恐れて裁判参加を躊躇している。少なくとも、「らい予防法」を廃止してその誤りを被告国が公式に認めるまでは、被告国の強制隔離政策の誤りをハンセン病(元)患者が裁判所に対して提起することなど到底不可能な状況であった。

偽名で生きることを強いられてきた彼らが本名で提訴することなど不可能を強いるものであった。

殊に、療養所に在園中の者が裁判を提起することは、右のような心理・社会的のみならず、物理的にも不可能であった。

すなわち、原告らは、もろもろの人権侵害を回復するための基本権中の基本権である裁判を受ける権利(憲法三二条)さえ、被告国の強制隔離政策により奪われていたのである。

このような事案においては、「不法行為の時より」というのは、被害者の自由を剥奪する不法行為の継続が終了し、被害者が裁判を受ける権利を行使し得る状態を回復したとき、をさすものというべきである。

五 裁判提起不能事案における民法七二四条後段の適用

被告国が民法七二四条後段が除斥期間を定めたものとして援用する最高裁第二小法廷平成一〇年六月一二日・判例時報一六四四号四二頁は、いわゆる予防接種集団訴訟のうちの東京訴訟の事案であって、「不法行為の被害者が不法行為のときから二〇年を経過する前六箇月内において右不法行為を原因として心神喪失の常況にあるのに法定代理人を有しなかった場合において、その後当該被害者が禁治産宣告を受け、後見人に就職した者がそのときから六箇月内に右損害賠償請求権を行使した等特段の事情があるときは、民法一五八条の法意に照らし、同法七二四条後段の効果は生じないと解するのが相当である」と判示している。

本件は、被告国が九〇年に及ぶ強制隔離政策を行った結果、差別・偏見を助長・放置することにより原告らから社会内で平穏に暮らす権利を奪い、監禁に等しい強制隔離によって身体的自由を奪い、ひいては原告らの裁判を受ける権利さえ奪い、それが平成六年三月まで公式に続き、その後も差別・偏見はなくならず、大半の在園者にとっては療養所からの復帰もままならないという、原告らがその間損害賠償請求権を行使することが右事案にもまして困難であったという特段の事情のある事案である。

したがって、本件についても、民法一五八条ないし一六一条の法意に照らし、同法七二四条後段の効果は生じないと解すべきである。

六 違憲の立法の放置と民法七二四条後段の適用

本件に民法七二四条後段の適用を認め、被告国が主張するように、「原告らが本件訴えを提起した平成一〇年七月三一日から二〇年前である昭和五三年七月三〇日以前の行為を理由とした国家賠償請求権が・・・、民法七二四条後段に依り消滅したと解する」とすると、公序良俗に反するものというべきである。

民法九〇条は公序良俗に違反する事項を目的とする法律行為は無効とし、民法七〇八条前段は不法の原因のため給付をなしたる者はその給付したるものの返還を求めることを得ないと定める。現在においては、すべての法律関係は、公序良俗によって支配されるべきであり、公序良俗は、法律の全体系を支配する理念と考えられている。民法九〇条や民法七〇八条前段は、それぞれその法律行為や不当利得におけるその現れである。

民法七〇八条の趣旨は、自ら不徳な行為をしておきながら、しかもそれを理由として自己の損失を取り戻そうとするような者は、その心情において非難せらるべきだから、法もまたこれを保護しないというにある。すなわち、イギリスの衡平法における「衡平法廷に入るものは、汚れのない手を持って入らなければならない」、フランス法における「何人も自己の恥ずべき行為を援用する者は、その要求を容れられない」という原則と同一の思想に基づくものと解されている。

本件に関する情報を最も多く集積し多数の専門官僚を擁する被告国が違憲・不要な「らい予防法」の存在を平成八年月まで放置しながら、その存在のゆえに裁判提起が著しく困難であった原告らの損害賠償請求権について除斥期間により利益を得るのは、公序良俗に反するものというべきである。

七 以上いずれの点からしても、本件に民法七二四条後段の適用はないものというべきである。

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