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第六準備書面

平成一〇年(ワ)第七六四、一〇〇〇、一二八二号「らい予防法」違憲国家賠償請求事件

原告  原告番号一ないし一二七番  被告  国

二〇〇〇年(平成一一年)五月  右原告ら訴訟代理人 弁護士 徳田靖之・八尋光秀  外一三九名

熊本地方裁判所第三民事部 御中

第一 総論・絶対隔離絶滅政策・措置による被害・損害

一 はじめに

原告らハンセン病患者の被害は、らい対策としての絶対隔離絶滅政策・措置によって、家庭や故郷、地域社会で幸せに生きる権利を奪われたというものである(乙第一四号証四一八頁参照)。

日本のらい対策における「隔離」は、家庭や地域社会から患者を排除し、そのつながりを厳しく遮断するものである。国際的ならい対策において使用される「隔離(分離)」に比べ極めて厳しく、患者の人権・人格への配慮を著しく欠くものである。
それは、すべての患者に向けられた政策によるものと個別の患者に加えられた措置によるものとに分けることができ、また(1)強制、(2)絶対、(3)終生、(4)絶滅という四つの特徴がある。これを絶対隔離絶滅政策・措置と総括することができる。

このような政策・措置の四つの特徴に対応して、ハンセン病患者が受けた被害・損害も、同じく四つの側面に分けることができる。それらは、家庭や故郷、地域社会で幸せに生きる権利を奪われた被害であると総括することができる。

そこで以下、まず、内務省・厚生省の考えを概観し、らい対策が絶対隔離絶滅政策・措置にほかならないこと、およびこれによる被害・損害が(1)強制、(2)絶対、(3)終生、(4)絶滅という四つの特徴をもつことを確認する。つぎに、この被害・損害の四側面という枠組みにしたがって、被告も争いえない被害事実を分類整理し、もって絶対隔離絶滅政策・措置による被害・損害を具体的に明らかにする。

二 被害・損害の分類枠組み

1 らい対策・絶対隔離絶滅政策・措置に関する厚生省の考え

日本のらい対策が右にみたような四つの特徴をもつ絶対隔離絶滅政策・措置であったことは、次のような内務省・厚生省(幹部)の考えを概観するだけでも明らかである。

  • 昭和五(一九三〇)年六月の、内務省高野予防課長の地方衛生技術官会議における発言によれば、次のとおりである(甲第二号証一七〇頁)。
    「らいの絶滅は患者を全部隔離することに尽きる。当局においても目下この理想に向かって研究を進めつつある。現在第一期計画の事業として五、〇〇〇人収容できる設備の完成を急ぎつつあるが、これが完成した暁には第二期計画として設備増加をはかるつもりである。」
  • 昭和六(一九三一)年一月二一日の、安達謙蔵内務大臣のらい予防協会発起人総会における発言によれば、次のとおりである(甲第二号証八三頁)。
    「すべての患者を社会から隔離すれば、これで目的(本病の予防根絶)は達せられる。文明諸国で本病を根絶した方法も一にこれである。…そこで根絶策を計画してみた。」
  • 昭和一一(一九三六)年一月の、官公立らい療養所会議における内務省衛生局の示したらい根絶二〇年計画案によれば、次のとおりである(甲第二号証一四一頁)
    「らい予防根絶方策は一に新患者の発生を途絶するにあり。新患者の発生断ゆるにおいては、旧患者は漸次死亡してその数を減じ、らいの絶滅をみること期して待つべきなり。らいは伝染性疾患なるをもって、新患者の発生を阻止せんと欲せば、患者を隔離して病毒感染の途を断つを要す。これはらい療養所の建設をもってらい予防の第一方策となすゆえんなり。
    わが国において一万人に対する収容施設を完成し、予防上必要なる患者を先ずもって収容するにおいては、残余の自宅療養患者はその病歴においても、はたまた環境においても、大体病毒伝播の危険軽少にして、衛生当局あるいはらい予防協会等の保護指導により、ほぼ予防の効果を全うするを得べし。すなわち、らい患者収容力を一万人となすにおいては、大体において爾後新患者発生防止と逆比例して旧患者死亡するをもって、療養所の患者収容率はますます向上し、いくばくならずして全患者収容の期に達すべし。かくの如く推算すれば、もしこの後十年にして一万人の病床を備うるにおいては、次の十年間には患者著しく減少し、二十年度にありては、らい患者の大部分はその影を失い、ほぼらい根絶の目的を達し得べきなり。」
  • 昭和二三(一九四八)年一一月二七日の、衆議院厚生委員会における東竜太郎医務局長の国会証言によれば、次のとおりである(甲第二号証二六五頁)。
    「らいというものは普通の社会から締め出して、いわゆる隔離をして、結局その隔離をしたままで、らい療養所内に一生を送らせるのだというふうな考え」
    「らいに対する根本対策・らいのいわゆる根絶策といいますか、全部死に絶えるのを待つ五〇年対策」。
  • 昭和三三(一九五八)年一〇月の、第七回国際らい学会議における小沢龍医務局長の発表は、次のとおりである(乙第一四号証一九八頁)。
    「日本におけるらい患者数は、一九五八年三月において推定一五、〇〇〇名であり、このうち施設に収容されている患者数は一〇、八三四名である。未収容の登録患者数は一、〇九八名であり、未登録患者は約三、一〇〇名と推定されている。
    日本においては、従来よりらい予防対策として隔離主義をとっており、これらの患者に対する収容施設として、国立が一一施設一三、九五〇病床、私立が三施設三一一病床あり、計一四施設一四、二六一病床ある。
    現在の患者数は、一九〇四年実施の実態調査時の患者数三〇、三九三名と比較すれば、約二分の一に減少しており、更に入院患者、在宅患者いずれも平均年齢が高年齢になっており、これらのことは日本におけるらい流行が極期を過ぎたことを示している。
    しかし、まだ在宅の未収容患者が相当あり、これらが感染源になっているので早期に収容することが望まれ、これが収容促進のため次のごとき施策が行われている。」
  • 昭和五二(一九七七)年一月の行政強制に関する座談会における熊代昭彦大臣官房人事課秘書官事務取扱・元環境衛生局食品衛生課課長補佐による発言は次のとおりである(ジュリスト増刊一三一頁以下)。
    「強制隔離とか強制収容とか交通遮断についてですが、強制収容の場合伝染病予防法七条で伝染病患者を伝染病院等に強制的に入れるべしということになっています。特に強制的にやるということは、昔であればライ患者なんか警官がいやがっても強制収容したということがあったわけですが、現在ご存じのようにライ患者が野放しになっているのはまず見あたらないということですし、患者も自分自身病気のままでぶらぶらしているのはたいへんこわい、社会的にもみんなが入ってもらいたいと考えているというような社会的な心理強制があるわけですから、物理的な暴力というものを使う必要はほとんどなくて大体必要なものはみんな入っているというようなことになっています。」
  • 昭和五三(一九七八)年の、高島重孝、北川定謙ほか「国立らい療養所在所患者の統計学的にみた将来予測」によれば、次のとおりである(甲第三二号証九頁)。
    「現在八、六〇〇余名のらい患者が全国一三か所の国立療養所で療養を受けているが、全患者の九割弱を占めるこれら在所患者数の将来推計をおこなった。
    ・・・在所患者数は二〇年後(一九九五年)に約半数、四〇年後(二〇一五年)に約一〇分の一に減少し、八〇年経てば在所患者はほぼゼロになると推計された。」(本研究は、昭和五三年度厚生科学研究「国立らい療養所在所患者の処遇に関する研究」の一部として実施されたものである。)
  • 昭和五七(一九八二)年三月一八日の、三浦公衆衛生局長の衆議院社会労働委員会答弁によれば、次のとおりである(甲第三五号証)。
    「(現行法は空洞化し死文化していると思いませんか、という質問に対し)先ほどから隔離のお話がでているんですが、伝染力が弱いとはいえ、これはやはり伝染病でございますのである程度の一定の制限は仕方ないと思う。」
2 絶対隔離絶滅政策・措置の四特徴

右にみた内務省・厚生省の考えの概要から、日本のらい対策が(1)強制収容、(2)絶対隔離、(3)終生隔離、(4)絶滅という四つの特徴を有する絶対隔離絶滅政策・措置にほかならないことが明らかとなった。
それぞれの特徴はつぎのとおりである。

(1) 強制収容政策・措置であること。

隔離は、普通の社会から患者を締め出す政策であるとともに、隔離施設であるらい療養所の建設とそこへの患者の収容措置である。そして、収容および隔離措置は強制によることとなる。

普通の社会から患者を排除し締め出す隔離政策は、事実上の入所強制、終生隔離、退所後の退所者が地域社会で幸せに生きることができないことなど、すべての被害の基礎をなすものである。

明らかな強制によらず表面上は自己の意思に基づく入所のようにみえても、「社会的な心理強制」による事実上の強制収容であることに変わりはない。普通の社会から締め出された結果、療養所以外に行き場がないからである。

(2) 絶対隔離政策・措置であること。

病型の別、感染力の有無、症状の程度、在宅療養手段の有無を問わず、すべての患者を社会から隔離する。いわゆる相対隔離ではない絶対隔離政策・措置である。この結果、在宅診療制度・外来診療制度の整備がなされることもない。

なお、らい対策としての「絶対隔離」という言葉には、次の三つの意味が含まれている。

第一は、隔離の対象を限定するかどうかに関してであり、感染(伝染)のおそれの有無および家庭内療養手段の有無にかかわらず、すべての患者を隔離の対象とするという意味での絶対隔離である。

第二は、隔離の期間を限定するかどうかに関してであり、終生隔離を原則とする政策を絶対隔離主義と称する場合である。

第三は、隔離の方式・程度に関してであり、孤島その他遠隔地に隔離し、家族や地域社会との人的・社会的交流を厳格に遮断するという意味での絶対隔離である。

原告らは絶対隔離を、右のうち第一と第三の意味における隔離に限定し、第二の意味における隔離を終生隔離として区別して用いる。

(3) 終生隔離政策・措置であること。

隔離したままで、らい療養所内に一生を送らせるものである。患者が治癒すると否とを問わない。終生隔離政策の表裏をなすものとして、退所を促進する政策・施策は著しく貧しく、この点について厚生省は極めて冷淡である。入所者のほとんどは死ぬまで退所できず、退所は例外的事象である。また、退所したとしても終生隔離政策・措置の影響で、家族や故郷、地域社会で幸せに生きることができない。

(4) 絶滅政策・措置であること。

全部死に絶えるのを待つものである。療養所がこのような性格をもつものであることから、断種・堕胎、低劣な医療・食・住環境、患者作業による療養所運営の維持などの政策・措置が帰結される。

3 被害・損害の四側面

このような政策・措置における四つの側面に対応して、家庭や故郷、地域社会で幸せに生きる権利を奪われたというハンセン病患者の被害・損害も、次の四つの側面に分類することができる。

  1. 強制収容政策・措置による被害・損害
  2. 絶対隔離政策・措置による被害・損害
  3. 終生隔離政策・措置による被害・損害
  4. 絶滅政策・措置による被害・損害

以下、右枠組みにしたがい、原告らハンセン病患者の受けた被害・損害を分類整理する。

本章では、厚生省関連文書で繰り返し確認されている被害を分類整理することにより右枠組みを具体化し、そのうえで、第二~第五の各論において原告らの陳述書記載の被害を分類整理する。

三 厚生省も認める被害・損害

らい予防法の廃止に関する法律案提案理由説明、厚生省らい見直し検討会報告書、厚生省委託事業であるハンセン病予防事業対策調査検討会中間報告書、「らい予防法廃止の歴史」(乙一四号証)などにおいて、ハンセン病患者の被害は繰り返し確認されている。これら文書記載の被害は被告国・厚生省も争えないはずである。これら被害を前記被害・損害の四側面という枠組みに基づいて分類整理し、もって地域社会で幸せに生きる権利を奪われたハンセン病患者の被害を具体的に明らかにする。

1 強制収容政策・措置による被害・損害
(一) 強制収容政策による被害

絶対隔離絶滅政策は、らい伝染予防の目標を全面的に掲げることによって、すべてのらい患者を根こそぎ地域社会から排除する道筋をつけてしまったものであった。ただでさえ黒い血統として一般国民から忌避され嫌悪されていたらい患者と家族は、このことにより決定的に「無用の存在であり、しかも社会に害をなす危険人間」として地域社会に住むことを許されなくなった。一般人が、患者らしきものを見つければ警察に密告するまでになって、患者は療養所という名の隔離収容所以外に行き場をなくされてしまったのだ(乙第一四号証六七頁)。

一九三一(昭和六)年制定の旧癩予防法は、大戦争が遂行されるなかで患者をまるで犯罪人のように狩りたて、農民として労働者として地域社会で幸せに働き住む願いを全く許さなかった。そこに生きる権利を剥奪してしまった。

一九五三(昭和二八)年改正された現行らい予防法は、…地域社会に住むことを断固として許さなかった点において、その間違いにおいて変わりはなかった。つまり、わが国のハンセン病対策は一貫して人権を無視した戦前の絶対隔離主義を中心に置いて、差別排除の思想を国民に強制してきた(乙第一四号証四一八頁)。

この法律のために少数者であるハンセン病の患者が家族と生き別れさせられ(乙第一四号証二二頁)、多くが今も本名を隠して偽名を騙り、肉親家族に差別迫害の累が及ぶのを恐れてその故郷を秘めてあかさず、かつてはどの人も自らの病気に絶望して、一度は自殺を考えたといわれている(乙第一四号証(ローマ数字3)頁)。

この点は、らい予防法見直し検討会が「社会から物理的にあるいは心理的に隔離」した、あるいは、「法により、あるいは社会的圧力により、療養所への入所を余儀なくされ」たと述べ(乙第一四号証三六九、三七三頁)、また、厚生省委託事業によるハンセン病予防事業対策調査検討会が「在園者は国によって現在の療養所以外に行くべきところがないように強制されてきたもの」と表現している(乙第一四号証三五六頁)。

(二) 強制収容措置による被害・損害

ハンセン病患者に対して一貫して強制検診、強制入所、強制隔離という人身拘束を推進するように法は規定しており(乙第一四号証二一頁)、これらに基づき強制収容・強制入所させられた原告がほとんどである。

また、表面的にはこのような収容隔離措置を受けず自分から入所した原告も、政策と法とによって隔離収容所以外に行き場をなくされてしまっているので、実質的には事実上の強制入所にほかならない。つまり、「患者をらい療養所以外に行き場のない状態にして追い詰め収容」したのである(乙第一四号証七五頁)。

2 絶対隔離政策・措置による被害・損害

一度ハンセン病にかかればどんなに軽症であっても、「らい予防法」の名の下に危険な伝染源として隔離拘束された(乙第一四号証三頁)。

3 終生隔離政策・措置による被害・損害

ハンセン病の患者(殆どが治癒者)は、平成の今日になっても離島などの一五療養所に何十年にわたって隔離されたままその生涯を終える生活を強いられ、その数は五千数百人にもなる。死者を入れれば優に万人を超える(乙第一四号証三頁)。

この点は、前掲「国立らい療養所在所患者の統計学的にみた将来予測」も、昭和五三(一九七八)年当時の実状として、「現在、全国に約九、九〇〇人いるらい患者の九割弱に当たる八、六二九人が、全国一三か所の国立療養所に収容されている。・・・らい患者は同じ慢性疾患ではあっても結核などとは異なり、一旦療養所に入所すると殆ど退所に至ることがなかった。近年の退所状況をみても死亡退所が圧倒的に多い」ことを認めている(甲第三二号証三頁)。

このように退所は例外的事例であり、退所できた者も家族・故郷や地域社会に差別・偏見なく受け入れられることはなく、ひいては、再び入所に追い込まれる者も少なくない。すなわち、地域社会で幸せに生きる権利を奪われたままである。

このように故郷・地域社会に戻れない、退所しても地域社会で幸せに生きることができない原因は、(ア)社会復帰を認めない隔離法の構造、(イ)隔離法の存続およびそれが助長・拡大した差別偏見の放置、(ウ)強制隔離措置による社会内生活基盤の破壊、(エ)政策及び法の廃止が遅れたことによる在園者の高齢化、(オ)強制隔離・絶滅措置が在園者に与えた心理的・精神的影響、(カ)外来診療制度の不整備による社会内療養手段の不存在、(キ)断種・堕胎による子孫の不在、(ク)強制労働(患者作業)・低劣な医療などによる後遺障害の重篤化などにある。

この点について、政府・厚生大臣は「これらの方々は、既に平均年齢が七〇歳を超え、また、その大多数が視覚障害、肢体不自由などの後遺障害を有しておられます。さらに、差別・偏見や三十年以上の長きにわたる療養所生活の結果、社会に復帰して自立するのが困難な状況に置かれておられます」と述べた(らい予防法の廃止に関する法律案提案理由説明、乙第一四号証三九八頁)。また、らい見直し検討会報告書は「らいには長年根強い社会的な偏見・差別が存在してきたこと、多くの患者が久しく家族と縁を切っており、また、結婚に際し優生手術を受けた入所者など頼るべき子供がいない等帰るべき家族が存在しないこと、七割以上の患者の在所期間が三〇年を超えているなど長期にわたる療養生活を送ってきた結果、社会に復帰して自立する手段をもっていないこと等の理由により社会復帰することが極めて困難な状況にある」という(乙第一四号証三七三頁)。

以下、各要因ごとに検討する。

(ア) 社会復帰を認めない隔離法の構造

いったん入所させた後、回復してからの退所や、社会復帰については一片の規定もなく、病気が治って社会に戻る場合(実際は治ってしまう)を考慮していない。予防という名目でハンセン病と診断した患者を社会から除外して永久に葬り去るための患者撲滅の法律といわれる所以である(乙第一四号証二二頁)。

(イ) 隔離法の存続およびそれが助長・拡大した差別偏見の放置

一般社会では「らい予防法」が国家の名により伝染の危険を説いているのだから、今なおらいの伝染に対する恐怖心や差別の心を払拭しきれないでいる。「らい予防法」の存在はハンセン病患者と家族に対する間違った偏見・固定観念(ステレオタイプ)・社会的烙印(ステイグマ)の原因となり、今なお残っているらいに対する国民の間の根強い差別の温床となっている(乙第一四号証三頁)。
この隔離法の存在そのものがこの病気を持つ人々に対する一般国民の有形無形の差別感情を誘発し続け、社会疎外の国民感情を醸成する根強い遠因となっている(乙第一四号証三七頁)。
この点について、政府・厚生大臣も「旧来の疾病像を反映したらい予防法が存続し続けたことが、結果としてハンセン病患者、その家族の方々の尊厳を傷つけ、多くの苦しみを与え続けてきたこと」を認めている(らい予防法の廃止に関する法律案提案理由説明、乙第一四号証三九八頁)。

(ウ) 強制収容措置による社会内生活基盤の破壊(他方における療養所内生活基盤形成の強制)

在園者の最も大きい特色は、国の強制入所の措置により、家族や親戚とも別れさせられ、自分の故郷を失わされてきたことである。また、教育や就職の自由を奪われてきたために社会に復帰して自立する手段を持っていないことである。 この結果、療養所を、第二の故郷、最後の墳墓の地として考え、ある人は夫婦となり、ある人は隣人友人となり、共同納骨堂をつくり、数十年にわたり独特のコミュニテイを形成してきたのである。これも、国によって強制された結果である。 すなわち、在園者は国によって現在の療養所以外に行くべきところがないように強制されてきたものである(厚生省委託事業によるハンセン病予防事業対策調査検討会中間報告、乙第一四号証三五六頁)。

(エ) 隔離政策及び法廃止の遅れによる在園者の高齢化

政府・厚生大臣は、らい予防法の抜本的な見直しにいたらず、その見直しが遅れたことは認めている(らい予防法の廃止に関する法律案提案理由説明、乙第一四号証三九八頁)。
法廃止が遅れた結果、一三国立らい療養所に五七三五名、二私立らい療養所に四四名の在園者がおり、若い頃から数十年にわたる在園生活とともに平均年齢は、七〇歳で高齢化していた(厚生省委託事業によるハンセン病予防事業対策調査検討会中間報告、乙第一四号証三五六頁)。
この点は、昭和五三(一九七八)年当時、既に在園者の平均年齢は五七・九歳に達していたものである(甲第三五号証三頁)。

(オ) 強制収容・絶滅措置が在園者に与えた心理的・精神的障害

この点について、大谷藤郎証人はV・E・フランクルの「最初は驚き、何とか逃れたいとするんだけれども、しばらくすれば、もうその状況というものにどうしても慣れてきてしまうと、その慣れというのはどいういうことかというと、結局未来が自分にはないというようなことから、身体的、人格的に崩壊をしてしまうようにせざるを得なくなっている」という考えを援用しつつ、次のとおり証言している。
「やっぱり皆さんは強制収容されて、まず軽快退所などというのはなかなかできないというふうな環境で、ずっとこられていて、ここで一生を終わるというような覚悟をされてきておると思いますね。・・・その心の切り替えというのはなかなか難しいと思います。・・・ハンセン病療養所に入っておられる療養者の方々を、私たちのように自由気ままに社会で生きている人間と同じようにお考えになるのは非常な間違いであるという印象を受けております。やはり国家が一生出ることがないということで入れて、しかも子供さんを奪う権利も認めておいて、そしてその方に人生観、世界観というものが備わってきているわけでありますから、そういうお考えについて、私たち社会でそういうのを横目でみて、何もしてこなかった人間が、そういう人のお考えについてとやかく言えるあれはないというふうに私は思います。」(第六回口頭弁論大谷証言一一七項)
犀川一夫証人も同旨の証言をおこなっている。
「隔離政策というのは、強制的に法の下に収容するということは、やはりどうしても強制的な発動がありますので、強制的に収容されるということですが、もう一つ、療養所の器、入る療養所そのものが問題になります。そして先ほど申しましたような治外法権的な場所に患者さんが入るということは、自ら好んで、好んでというか、自ら進んで療養所に入った人でも、そこで治外法権的な処遇を受けるというところで、大きく人間性を疎外されるというふうに私は思っております。」(第九回口頭弁論犀川証言三〇一項)
「(国側の主張では、患者は退所しようと思えば退所できたはずだと、退所できなかったのは、患者が勝手に療養所にいることを選んだんだという趣旨の主張をしているわけですけれども、こういった意見についてはどのようにお考えですか、との問に)それはありません。私の知る限り、あのケースのように、帰りたくても帰れない、それが三年、四年というふうに長くなればなるほど帰れない。大体施設に入るということは、ある程度家族と別れて、別れない人もあるんですけれども、家族と別れ、子供と別れてはいる、学問をしている人は学校を中退してはいる、職業をもっている人は職業を捨ててはいるんですから、三年、四年して復職するということもまずできません。また学校にはいるということもできません。帰ろうにも、家庭が破壊されているということもありましょう。そういうことも考えますと施設に入れるということが、先ほど申しましたように、ハンセン病の患者さんをスポイルすることで、ハンセン病自体が患者さんをスポイルしているのではないという私は結論に達しています。」(前同三一五項)

(カ) 外来診療制度の不整備による社会内療養手段の不存在

わが国のらい予防法の諸規定は一般医療機関の外来で自由に多剤併用療法を行える仕組みになっていなくて、多剤併用療法の諸薬物は一切手に入らないシステムになっている。つまり、現状では物々しく人権侵害の恐れさえある国立療養所に入所する以外には初期治療が行えない仕組みになっている(乙第一四号証三八頁)。
なお(キ)断種・堕胎による子孫の不在および(ク)強制労働(患者作業)・低劣な医療などによる後遺障害の重篤化は、終生隔離を実現した要因としても重要であるが、被害そのものとしては絶滅政策・措置によるものに分類するのが相当と考えられるので、次項にて整理する。

4 絶滅政策・措置による被害・損害

療養所が「全部死に絶えるのを待つ」施設であることから、そこにおいては(ア)医学的根拠(優生保護法制定までは法的根拠さえ)を欠く断種・堕胎、(イ)低劣な医療、食・住環境の提供、(ウ)患者作業という名の強制労働などの人権侵害行為がおこなわれた。これらは絶滅政策・措置による被害・損害にほかならない。

そしてこれらは、過去の被害・損害にとどまらず、社会復帰への最大の動機・基礎となるべき子孫の不在や後遺障害の重篤化という現在までつづく被害・損害をもたらしている。

(ア) 断種・堕胎による被害・損害

「かつて感染防止の観点から優生手術を受けた患者の方々が多大なる身体的・精神的苦痛を受けたこと」は、政府・厚生大臣も認めている(らい予防法の廃止に関する法律案提案理由説明・乙第一四号証三九八頁、らい予防法見直し検討会報告・乙第三七八頁)。
「結婚に際し優生手術を受けた入所者の場合など頼るべき子供がいない等帰るべき家族が存在しないこと・・・の理由により社会復帰が極めて困難な状況にある」のである(らい予防法見直し検討会報告・乙第三七三頁)。

(イ) 低劣な医療、食・住環境の提供による被害・損害

同病相憐、相互扶助の楽園と称する癩療養所においては、現実には定員以上の患者を詰めこみ、予算不足、食糧不足、燃料不足で、ことに戦争のさ中にはどこの療養所もさながら地獄の様相を呈することになった(乙第一四号証二七七頁)。療養所内の在園者の生活や医療福祉の処遇については、戦前戦中戦後、「地獄のような状態」がみられた(乙第一四号証二七七頁)。
大谷藤郎氏が国立療養所課長に就任した昭和四七年当時、国立療養所は医療も食・住も、劣悪な状況ないしまだまだ低い水準にあった(乙第一四号証二五二頁)。
このような状況のもと、健康を損ね、適切な医療を受けられないために後遺症を悪化させた原告は少なくない。

(ウ) 強制労働(患者作業)による被害・損害

前記のとおり、同病相憐、相互扶助の楽園と称する癩療養所においては、現実には定員以上の患者を詰め込み、予算不足、食糧不足、燃料不足であったから(乙第一四号証七五頁)、患者作業という名の強制労働によらなければ療養所の運営が成り立たない状況であり、安静療養が必要であったにもかかわらず、原告らは諸々の労働を強いられ、後遺障害を悪化させられた。

四 まとめ

絶対隔離絶滅政策・措置による加害行為は、少なくとも昭和六(一九三一)年の癩予防法制定から、平成八(一九九六)年三月の法廃止以後・現在に至るまで続く一個のものである(もっとも、原告らが本訴で請求する損害は日本国憲法が施行された昭和二二《一九四七》年五月から平成八年三月までの損害である)。
ハンセン病患者は、右期間中、絶対隔離絶滅政策・措置により、地域社会で幸せに働き住む権利を奪われた。この家庭や故郷、地域社会で幸せに生きることができないという被害は、ハンセン病患者に共通のものである。
以下、第二~第五の各論において、(1)強制隔離政策・措置によるもの、(2)絶対隔離政策・措置によるもの、(3)終生隔離政策・措置によるもの、(4)絶滅政策・措置によるものという、被害・損害の四つの側面ごとに陳述書に現れた原告らの被害・損害を分類整理する。

第二  強制収容政策・措置による被害・損害

一 強制収容政策による被害・損害

1 強制収容政策の本質

既に第一において概観したように、被告国は、伝染病予防という大義名分のもと、すべてのハンセン病患者を社会から隔離することにより絶滅させることを企図し、そのために必要な収容施設の完備を図り、感染源である患者を収容し、社会より隔離して新患者の発生を途絶するとともに、収容を確保した旧患者が漸次死亡して数を減らしてその絶滅を待つという絶対隔離絶滅政策を展開した。
最終的な目的はハンセン病患者の(4)絶滅であり、そのために全てのハンセン病患者を((2)絶対)、一生涯にわたって((3)終生)、療養所内に隔離することになるが、その政策の出発点であるところの、入所するか否かの判断を患者の自発的な意思に委ねてこのような政策目的が達成されることはあり得ない(第七回口頭弁論和泉証言一二六項)。すなわち、患者の自発的意思とは無関係に療養所に収容する手段が必要とされる。

この手段の最も直接的なものは法律による直接強制であるが、それに止まるものではない。ハンセン病に罹患すれば学業・仕事・家庭生活、そして社会との絆をも一切断ち切って収容施設である療養所に入所せざるを得ない体制(治療手段であるプロミンの独占、外来診療制度を整備しないことによりハンセン病の初期治療を療養所以外では不可能ならしめている等)が構築され、ひとたびハンセン病に罹患していることが発覚すれば当該地域社会に留まることが許されないような環境の整備が、政策的に図られたのである。

被告国の右政策により、ハンセン病患者は自分たちが根ざしていた地域社会から締め出され、社会内で安息できる場所を奪われるという被害を被った。そして、療養所への入所を余儀なくされていったのである。

2 社会的烙印(スティグマ)押しによる被害・損害
(一) 社会的烙印(スティグマ)の押印

この政策展開の過程において、ハンセン病患者を社会から隔絶した療養所へと囲い込む様々な方策が採られたが、その中核をなすと言っても過言ではないのが被告国によってなされたハンセン病患者に対する社会的烙印(スティグマ)の押印である。被告国は、既に社会にあったハンセン病患者に対する差別・偏見の意識を巧みに利用しながらさらにその差別・偏見を助長し、「無用の存在であり、しかも社会に害をなす危険人間」という社会的烙印(スティグマ)を押してハンセン病患者が地域社会に住むことを許されないように追い込んでいったのである。この社会的烙印(スティグマ)の効果は絶大で、一般人が、患者らしきものを見つければ警察に密告するまでになり、ハンセン病患者は療養所以外に行き場をなくしてしまったのである。

この社会的烙印(スティグマ)の押印において、決定的に重要な役割を果たしたのが、次項に述べる「無らい県運動」の展開である。

(二) 「無らい県運動」及び「第二次無らい県運動」の展開

内務省は、一九三六年(昭和一一年)、全国衛生部長会議とらい療養所長会議の合同会議を招集し、「らい根絶二〇年計画」の策定を明らかにするとともに、「在野の未収容患者の収容に勤める様」指示した。これを受けて全国の地方公共団体で展開されたのが、「無らい県運動」である(乙第八〇号証犀川一夫「ハンセン病政策の変遷」九四頁)。

自分たちの県には、一人たりともハンセン病患者の存在を許さないというこの運動は、「住民の投書や村人の噂などをも根拠にし、警察官を動員しての、山間へき地のらい患者をも、しらみつぶしに探し出しては療養所に送り込む」(甲第二号証山本俊一「日本らい史」一二八頁)官民一体のファシズム運動として展開されている。

この「無らい県運動」こそ、すべてのハンセン病患者を根こそぎ収容隔離する絶対隔離絶滅政策の中核を担ったと言うべきであり、この運動は戦後においても継承されている。

すなわち、厚生省は、戦後である一九五〇年(昭和二五年)以降「全国らい調査」を実施し、在宅のハンセン病患者の調査を徹底して行い、全国の未収容患者の数を都道府県別に明らかにし(一九五〇年八月現在で、その総数は二五二六名とされている。乙第八〇号証一二三頁表四二)、こうした調査結果に基づいて、再び国立療養所の増床計画に着手し、一九五三年末までにすべての「未収容患者」を収容するに足る一万三五〇〇床の整備を終えるに至った。さらに厚生省は、こうした増床計画と併行して、都道府県に対し、「未収容患者」に対する収容の徹底と入所拒否理由の調査を指示した。

こうして一九五〇年以降展開されたのが「第二次無らい県運動」(藤野意見書一一頁によれば無らい県運動の戦後版)である。

厚生省は、こうした施策の推進を新たな「らい絶滅三〇年計画」と呼んだのであり、原告らの多くは、この「第二次無らい県運動」によって収容・隔離されるに至ったものである。

(三) 居場所を喪った原告たち

原告らは、かかる被告国の政策により、社会内生活基盤を破壊され、家庭・地域社会における居場所(生活空間)を奪われ、地域社会から排除されて現在に至るもなおその大半が療養所内での生存を余儀なくされている。多くのハンセン病患者が行く場所留まる場所を失い、死に場所も見出せず療養所に入所していったのである。

たとえば、原告番号一番は、

  • (発病が分かり)失意のなかであちこちを放浪し、死に場所を探しました。阿蘇山の火口に飛び込んで死のうとも思いましたが死にきれませんでした。そのうちに私には行き場所がなくなっていきました。
  • (一九三九年当時は)無らい県運動が激しく、ハンセン病の患者だとわかると強制的に収容される時代でしたから、世間の目を逃れて放浪を続けることは不可能となっていたのです。こうして私は、行く所を失い、死に場所も見出せず、故郷に近い星塚敬愛園を訪ねる外はなくなったのです。(一番)

と述べている。

また原告番号九番は、役場の保健課の人間がやってきて「早く行った方が良いよ。早く行かないと、長島という島に島流しになるよ。」「この病気はね、人にうつすと罪になるよ。」と言って入所を勧められたため、父に山の中に小屋を建ててもらって隠れ住む。しかしそこに警官がライフルを背負ってやって来て「行かなければ罪に落ちるぞ。」「手錠をしてでも連れて行くぞ。」などと言われて、さらに山奥に小屋を作ってもらい隠れ住む。

被告国の強制隔離政策の結果、ハンセン病患者は、ハンセン病に罹患しているという事実だけで、社会内で適切な治療機会を得られず、人目を避け社会との交流をたった生活を強いられ(社会の中で自分のことを隠して、自分自身を殺して生活していかなければならなくなる)、まさに逃亡者としての生活を強いられる。ハンセン病患者は多かれ少なかれこのような過程を辿り、そして、ついには療養所へと入所していっている。しかし、入所に至らずとも、社会の中で行き場をなくし逃亡者のような生活を強いられること自体重大な人権侵害であり、原告らを含むすべてのハンセン病患者に共通する被害・損害なのである。

二 強制収容措置による被害・損害

原告らを含むハンセン病患者は、先に見たように強制収容政策により家庭・地域社会における自らの居場所を奪われ、さらに次に見るような法律上、事実上の個別的な強制を受けて療養所へと収容されていった。

1 法律上の強制による収容

らい予防法は、ハンセン病患者に対する強制検診(第五条)、国立療養所への強制入所(第六条)を規定し、強制隔離を推進し、また、ハンセン病患者の社会的基盤を奪う従業禁止(第七条)、消毒措置(第八、九条)を定めている。かかる明文の規定に基づき原告らを含め大多数のハンセン病患者は、社会内での生活基盤、社会や家庭との絆を断たれ、強制収容・強制入所させられていった。
被告国は、かかる法律に基づき、「お召し列車」と呼ばれる専用列車での収容をはじめとする直接物理的手段により、原告らを含むハンセン病患者を強制的に収容していったのである。
例えば原告番号九番は、前述のように山奥の小屋に隠れ住んでいたが、そこにも六、七人やってきて「どこに逃げても追いかける。」「山狩りする。」などと言われ、結局、ジープに乗せられ保健所に連れて行かれ園の大きなバスで療養所に収容されている。

また、原告番号六四番は、列車に乗っている途中腕章をつけた重々しい出で立ちの駅員一〇人ほどが車両に乗り込んできて強制的に下車させられ、ホームで消毒服をまとった一〇名以上の駅員に取り巻かれ、トラックで名古屋大学病院に連れていかれ、そこでハンセン病との診断を受け、結局「お召し列車」により療養所へ入所させられている。「お召し列車」による強制収容は、このほか、原告番号三五をはじめとする多数の原告が経験している。

白衣を着た保健所の人間がやってきて「伝染病だから、ここにいたらいかん」と言われトラックの荷台に乗せられて収容された原告番号二七番のケース、拳銃を身につけた警官がジープでやって来て後部座席に押し込められ強制収容された原告番号四四番のケース、自宅に警察官と県の予防課の人間がやってきて父と一緒に強制的に駅まで連行されお召し列車に乗せられて強制的に入所させられた原告番号一二〇番のケースをはじめとして直接物理的手段により強制収容された者は枚挙に暇がない。

2 事実上の強制による収容

直接物理的手段に及ばずとも、被告国はハンセン病患者を事実上療養所に入所せざるを得ないような状況に追い込み、その入所を確保する社会構造を作り上げていた。
地方公共団体職員・警察官等による説得は、最終的には直接強制の手段を背景としたものである以上、拒絶するにも限界がある。またハンセン病患者は地域社会に存在することが許されないという固定観念が植え付けられている社会においては、地方公共団体職員・警察官等の自宅を訪問しての執拗な説得は、近隣住民の耳目を集め、そのこと自体が患者の地域における生活基盤を掘り崩す。さらに自宅を消毒でもされれば、患者の生活基盤の崩壊は決定的なものになる。こうして患者たちは抵抗を諦め、あるいは自分が地域に留まることによる家族・親族の迷惑を考えて、療養所に追い込まれていく。

こういった社会構造の上に、戦後はさらに治療薬独占が加わる。ハンセン病治療のためには療養所に入所するほかないという状況の下で、患者は入所を余儀なくされる。こういった様々な条件付けの他、詐術を用いられ入所しているものも多い。

たとえば、次のようなケースがある。

原告番号八番は、「県庁衛生課が警察、療養所とともに在宅患者取締をして各部落を一軒一軒訪問して自宅療養者がいないか調査していた」と述べている。そのような中で「どこそこの子が引っ張られたとか、隣近所まで消毒され村八分になった」という話も聞こえてきたり、新聞にも毎日のように患者摘発の記事が載り、恐怖におののく毎日を過ごし、自分がいれば親戚などに迷惑をかけると考えていたところ、ついに、県衛生課が警官を伴って調査に来るに至り、地域社会の中で平穏に、幸せに生活していける場所を奪われ、親、兄弟、親戚に及ぼす迷惑を考え入所やむなきに至っている。
原告番号九七番は、衛生課の人間がやってきて「アメリカの命令だから行かんといかん」と言われ、さらに「衛生課だけじゃすませんからな、警察官を連れてきて引っ張って行くからな」と脅され、そのまま留まっていたのでは家族にどんな迷惑がかかるかわからないので入所した。
原告番号七四番は、癩患者は療養所に強制入所させられることを知っていたので、隠れていたが、村の人間から通報を受けたのであろう保健所の役人が予防服を着てやって来た。繰り返しやってくるので村中の噂となり、家や共同井戸を消毒などされては親族も村にいられなくなり迷惑をかけることになるので入所した。

原告番号三四番は、頻繁に保健所の人間が家にやってきて近所の人にハンセン病であることが知られてしまい、忌み嫌われ、両親にも迷惑をかけられないので入所を決意した。
原告番号五五番は、県の予防課の人間がやってきて、町内会長にハンセン病にかかっていることを告げたため町内にいられないようになった。家族みんな入所しなくてはならないという説明のため入所を拒んでいた。そのため病気が悪化。外来治療ができていれば入所しなかったが、療養所でしか治療ができないので入所せざるを得なかった。

原告番号八四番は、サーベルを下げた警察官が何度も家にやってきて「いい病院があるから行かないか」と療養所への入所を要請され、ハンセン病にかかっていることが近所に知られると家族に迷惑がかかると思い入所した。
原告番号九三番は、故郷である長野の保健所から入所するように言われたが、岐阜に逃れた。しかし、岐阜でも県の役人がやってきて、「この病気の人は外におったらいかんのだ」と言われた。どこに逃げても追われ続けるのだとあきらめて入所。また、家族にも迷惑がかかるので入所治療するには療養所に行くしかなかった。
原告番号七七番は、警官がやってきて「三年したら治るから病院に行かんか」と言われた。学校の教室なども消毒されて学校にも行けなくなった。警官の言葉を信じて療養所へ。警官の乗ったジープに乗せられて駅まで連れていかれた。
原告番号一二番は、大学病院で診察を受けハンセン病と診断され療養所に行くことを勧められた。「大学では薬が手に入らない」と言われた。保健所からひどい消毒をされるということで、海産物の食品加工をしている父の会社にどのような影響があるかわからないので入所することにした。
原告番号七八番は、警官が家にやってきて「細かいこと言わんと、○月○日のバスで行け」と命令された。療養所でしか病気が治せないということなので一日でも早く治したいと考え入所。警官の命令で癩患者専用車両に乗せられた。
また、県の衛生課の人間がやってきて「三か月くらいいれば治る」と言われハンセン病のことをよく知らないままその言葉を信じて入所したケース(原告番号一一番)、医者から療養所で診察を受けるように言われてよくわからないまま療養所に行ったところ、すぐ治るから入れと言われその言葉を信じて入所したケース(原告番号三七番)、診察のため療養所に行ったところ、「半年もすれば帰れるから」と言われて入所することになったケース(原告番号三八番)、病院で「すぐ治る」との虚偽の説明(説得)を受けて療養所へ入り、その後無断退所、自宅に職員が一一名もやってきて強制収容させられたケース(原告番号四八番)、保健所から「マッカーサー司令部の命令により、療養所に行かなければならなくなりました」という手紙がやってきたこと、三年で帰れるということで入所(原告番号七五番)などのように詐術を用いられ入所させられたものも目立つ。

このように、原告らハンセン病元患者は、療養所へと追い込まれていったのである。

第三 絶対隔離絶滅政策・措置による被害・損害

一 すべての患者を強制隔離の対象としたことによる被害

1 国立療養所年報にみる絶対隔離の実態

厚生省の発行にかかる国立療養所年報は、一九五二年(昭和二七年)から一九五八年(昭和三三年)までの間について、ハンセン病患者の病型別患者収容状況を明らかにしている。
同年報によれば、一九五二年度当初の在所患者数九四三八名の内、結節型は六二五三名、神経型は二九二一名であるとされており、各年度毎の新入所者については、以下のとおりとされている。
(注) 一九五八年度のみは、斑紋型が特定して公表され、その余の年 度はその他としてしか把握できない。
以上から明らかなことは、病型つまり感染性の有無・程度の如何を問わず、すべての者が収容されたということである。

2 原告らの陳述書にみる絶対隔離

こうしたすべての病型の患者を対象にした無差別の強制収容の実態は、原告らの陳述書によっても、以下のとおり裏付けられている。
原告番号二八番は、一九五五年(昭和三〇年)四月に長島愛生園に入所させられているが、「入所にあたり、向こうずねや首の神経から細胞を採取する菌の検査を受けましたが、菌は検出されなかった」のであり、光田健輔園長によって「神経らい」と診断されたことを明らかにしている。
見た目には何の異常もなく、一度も「らい菌」が検出されたことのない者までもが強制隔離の対象とされたことの何よりの証拠である。
原告番号二二番は、一九四七年(昭和二二年)三月に奄美和光園に入所させられているが、「私はいわゆる伝染性のない神経らいでした」と述べ、同じく一九五四年(昭和二九年)一〇月に星塚敬愛園に転院した。

原告番号三二番も「定期検査で医師から神経らいと言われた」ことを明らかにしている。
原告番号八三番は、一九六二年(昭和三七年)七月に奄美和光園に入所しているが

  • 私は斑紋らいで、結節が出たことはありません。今思えば人にうつすおそれはなく、結局予防のための入所は必要なかった(八三番)
    とまさに歯ぎしりしたい程のその思いを吐露している。
    原告番号一〇八番は、一九四八年(昭和二三年)七月に大島青松園に入所しているが、
  • 私は神経らいとの診断であり、入所以来一度もらい菌が検出されたことはありません。そもそも菌の排出がないのですから、予防のための隔離は不要だったはずですし、臨床的にはハンセン病は既に治癒していた状態にあったと言えるかも知れませんから治療のための入所も実は必要なかったのです。(一〇八番)
    とその怒りを明らかにしている。

原告番号三一番に至っては、入所にあたって、まともな診断すらされておらず、ハンセン病ではないことが判明しても、「誤診の露見」を恐れて、退園が許されず、結局一三年もの長きにわたって隔離され続けるという被害を蒙っている。
これこそは、すべての患者を隔離の対象とし、医学的な診断結果によらず、外見その他で疑いのある者を手当たり次第に隔離しようとした絶対隔離政策による被害の典型である。

3 全てのハンセン病患者に対する烙印

このように、病型の如何を問わずすべての患者が強制隔離の対象とされたことによる被害の根本は、すべてのハンセン病患者が、法の名において社会から排除され、療養所に収容されるべき存在であるとの烙印を押されるということである。
このため、すべてのハンセン病患者は、療養所への入所を強制されるところとなり、これを拒む者は、「未収容患者」と位置付けられて、継続的に監視、説得の対象となり、危険な「感染源」であるとして、あるいは法に従わない者であるとして、差別・偏見・迫害に曝され、社会の片隅で息を密めて暮らすことを余儀なくされることになる。
その意味で、絶対隔離政策による被害は、その根本において、収容された者も、在宅の「未収容者」も共通であり、社会(あるいは地域)で生活すること自体を許されない存在として物理的あるいは社会的に排斥され続けたということになる。

二 一般社会から隔絶されたことによる被害の実態

1 外出制限と懲戒検束権による社会からの隔絶

新旧「らい予防法」による外出の絶対的制限と懲戒検束権に基づく患者弾圧の実態については、すべての原告がその陳述書において、明らかにしているところである。
例えば、原告団長でもある原告番号一番は、療養所内で結ばれた妻との郷里での挙式のための外出すら許可されず、その外出を無断外出と咎められ、監禁室に入れられている。
また原告番号四番は、園外にタバコを買いに二回出たところ、二回とも四日間監禁室に収容され、減食させられたこと、一九五八年(昭和三三年)頃においても、妻の実家に帰るのを許可されずに無断外出したことを明らかにしている。
しかも、多くの原告が陳述しているとおり、「逃走」防止のためと称して、入所者の所持金は取り上げられ、家族からの仕送りや荷物まですべて調べられて、園券に変えられ、偽名を強要されて、完全に一般社会から遮断されたのである。

2 九弁連アンケートにみる社会からの隔絶の実態

九州弁護士会連合会が、一九九六年(平成八年)一月に、九州の五つの国立療養所の在園者に対して実施したアンケート調査によると、「在園中特に不自由を感じたことは何か」との問に対し、一三三六名の回答中、「外出」と答えた者は実に七四二名に達し、「面会」と答えた者も二一三名に達している。
しかも、「現在(一九九六年一月)でも園外の外出に外出許可証明書を携帯しているか」の問いに対し、何と三六九名が携帯していると答えており、「らい予防法」廃止の直前においても、多くの在園者が、同法の外出制限規定の有効性を前提にしていたことが明らかにされている。

3 社会からの隔絶がもたらす人権侵害

このような一般社会からの隔絶がもたらす被害は、単に入所者の行動の自由の侵害にとどまらず、次の三つの点において許し難い人権侵害となる。
第一は、療養所入所者の人間としての尊厳を著しく傷つけ、屈服感、屈辱感に苛まれて、社会復帰への意欲の減退・喪失・絶望・あきらめをもたらすということである。
原告らの多くがその陳述書において、「動物以下の取扱い」といった表現をしているのも、こうした意味においてである。
第二は、家族、友人等一般社会との人間的交流の機会を奪われ、社会復帰のための技術習得の機会も著しく制限されることとなり、社会復帰のための条件作りが不可能になってしまうということである。

第三は、療養所が治外法権の施設となり、療養所長らによる人格的支配とも言うべき苛烈な療養所運営を可能にし、憲法によって保障された権利の大半が事実上剥奪されるに至るということである。

この点で特筆すべき事件が二つある。一つは、多摩全生園での山井道太事件であり、もう一つは星塚敬愛園での安村事件である。
前者は、一九四一年(昭和一六年)、患者の洗濯作業について、ささやかな改革要求をしたことを理由に、妻ともども草津の「特別病室」(重監房)に収容されて死亡した事件であり、後者は、一九三六年(昭和一一年)に、断種の強制に反対したことへの制裁報復として、両足義足の在園者を園外追放処分とし、遠く宮崎県都城の河原に放置した事件である。

こうした非人道的な犯罪行為が平然と行われることを可能にしたのは、療養所がまさしく治外法権の場だったからであり、こうした事件を背景に、療養所内では、在園者に対する差別が横行した。
例えば、原告番号三番の陳述書によれば、療養所においては、在園者の居室での医師の診断は、畳の部屋に土足のまま立入って行われていたというのであり、更に原告番号九番によれば、長島愛生園に併設された新良田分校の教師は、生徒から受取った紙幣等をクレゾールにひたし、窓ガラスに貼りつけて、乾燥してからでなければ手に触れなかったというのである。
原告ら在園者の人権が如何に剥奪されてきたのかについては、例えば、裁判を受ける権利一つをとってみても明白である。

原告番号八五番の陳述書は、無断外出中に強盗未遂、殺人未遂を犯して逮捕された同原告が、ハンセン病を理由に釈放された後に菊池恵楓園内の監房に入れられ、公判は園内の会館での審理と自治会事務所前での判決言渡しで終わったことを明らかにしている。

つまり、裁判所内の法廷での審理すら受けることができなかったということであり、裁判所は「らい予防法」を根拠に、ハンセン病患者の裁判所への立入りを認めなかったということである。
こうしたことは、有名な藤本事件においても同様で、裁判所は、療養所内での刑事事件について、すべて療養所内の「特別法廷」(出張裁判)で審理し、裁判所構内にハンセン病患者の立入りを全く許していないのであり、その意味で裁判所も「らい予防法」による絶対隔離施策の一翼を担ってきたということになる。

こうした「治外法権」は教育を受ける権利や自由財産権等々にも及んでおり、この点を犀川証人は、「私はハンセン病患者さんに対する人間疎外、人権侵害というのは強制収容だけではないと思います。入る器が治外法権的な特殊な地域で、あそこに入ったら、療養所に入ったら生涯刻印を押されるような、取締り的な療養所であったというところに大きな人間性を疎外した問題があり、そのことが現在問われているのではないか」と鋭く指摘しているところである。(第八回口頭弁論犀川証言一九四項)

4 今日にも残る社会からの隔絶

なお、こうした社会との隔絶を強制し、在園者の人権を剥奪、侵害する政策や措置は、法廃止後の今なお、療養所長の庁舎管理権の名の下に存続しており、沖縄愛楽園では、本年四月、弁護士が参加する在園者の集会が所長名で禁止(公会堂の使用不許可)される事件が起こり、菊池恵楓園では本件訴訟提起直後の時点で、弁護士やマスコミ関係者の園内立入りについて所長の許可を要する等という措置がとられたこともある。また、星塚敬愛園では、国賠訴訟に関係する弁護士その他の関係者に対し、一年以上にわたって、面会人宿泊所への宿泊を許さない事態が続いている。

第四 終生隔離政策・措置による被害・損害

一 総論

1 在所期間にみる終生隔離の実態

らい患者たちの受けた被害は、これまで述べてきたように強制的にしかも病型や症状に関わりなく全員が隔離されていたというだけでない。感染のおそれがなくなったりまたは病気そのものが治癒したとしても、療養所から出て社会に帰ることはできなかったのである。
「らい予防法廃止の歴史」(大谷藤郎著、乙第一四号証)四三四頁によれば、平成六年入所患者五八六一人において、在所期間が二〇年未満の患者は全体の一六・四パーセント

三〇年未満は九・九パーセント
それ以上に及ぶものが七三・七パーセントを占める。

これは端的に、ハンセン病療養所が、いったん入所したら出ることのできない施設であることを示したものである。

そして、原告ら一二七名中療養所を出て現在社会で生活している者は四名にすぎず、終生隔離は今日まで継続しているのである。

2 終生隔離の根本原因・退所規定の不存在

この終生隔離の原因は、根本的には退所規定の不存在にある。
被告も、答弁書三3(五)で述べているように、らい予防法に退所規定が存在しなかったことは争いのない事実である。
実際に八四番は、菌陰性になっても退所が認められなかったので園の職員に退所したいと申し出たところ、「らい予防法には退所規定がないのを知らないのか」と一喝され、退所はできなかったという。

3 軽快退所基準準則の問題点及びその機能不全
(一) 陳述書にみる軽快退所基準の運用実態

この退所規定がないために生じる被害を回復する手段として、被告は、昭和三二年に「軽快退所基準準則」(乙一四号証二一九頁、乙五五号証)が策定されたと主張する。

しかし、この準則の中には、同基準を「暫定的に」定めたとの記述や、「本準則はあくまでもその必要最小限度を示すものであって、各療養所長が本準則よりも一層高度のものを定め、それに基づいて退所の決定を与えることをさまたげるものではな」いとの記述があり、あくまでも基準案にとどまるものであることを示している。また、これは厚生省医務局において作成され、療養所長会議で配布されたというに過ぎず、何ら法的効果を持つものではない。

そしてさらに、「本準則は厳秘として、あくまで療養所長単独の資料として活用し、部内外に対して漏示しないよう固く留意されたい」との記述がある。被告は、この記述にもかかわらず、本準則策定の翌年にはこの存在や内容が「全患協」ニュースに掲載され、患者に周知されることになったと主張するが、ニュースにはあくまで菊池恵楓園における基準しか公表されておらず(乙五七号証)、全患者に周知されたわけではない。

また、この基準は自ら「必要最小限度を示す」といっておきながら、実質的にその要件は非常に厳格であるし、「顔面及び四肢に著しい畸形、症状を残さないこと」といった病気の回復とは全く異なる要素を退所可不可の判断要素としている点も問題である。
この点に関し、一二番は以下のような体験をした。

  • 当時の園長の宮崎は、自分もと思って社会復帰したいと願い出た人に対して「どうだ、手を見してくれ。」と言ってその人の手を見て「小指が曲がってる。これでは社会復帰できない。これを見たらあんたがらいだということが社会の人は分かるだろう。まだ、「社会的治癒」していない。」と言って退園を許しませんでした。
    私は昭和三七年に無菌になったのですが、その頃も退所後に住む家や生計のめどが立っていないと退所は許可されませんでした。(一二番)

さらに、被告は、患者は「基準に当てはまるかどうかを自ら判断し、退所したいと考える者は退所しうる実状にあった」と主張する(準備書面三の二2)。しかし、そもそも患者には判断の前提となる自己の病状に関する資料の開示はされていなかった。そして、たとえその資料を持っていたとしても、この基準に該当するか否かの判断は医学的知識がないと不可能であって、患者自身が自ら判断できたとはいえない。また、あくまで退所は園長の裁量として認められたものに過ぎず、患者自身に退所の請求権が付与されたものではない。したがって、被告の主張には全く根拠がない。
医者から菌はないと言われながらも、多くの者が理由もなく退所を許されなかった経験を持つことは、患者自身が自らの意思で退所することが不可能であったことの証左である。

  • 私は、昭和三〇年頃、毎年、何度も退所したいと申し出ましたが、一時外出を含め、一切認められませんでした。
    園では、入ってすぐからプロミンの投与を受け、昭和三五年頃には、「表面上は菌がいなくなった」という説明を受けました。
    しかし、退所してよいという説明は受けたことがありません。(九一番)

原告番号七番に至っては、昭和五〇年三月には証明書に菌陰性になったと記載され、平成五年には「治癒」と書かれた外出許可証明書をもらっているにもかかわらず、平成のはじめ頃まで副園長との間で次のような会話を交わしたと言う。

  • 私は、「らい病専門の医者が菌検査をして菌が出なかった。それも何年間も検出されないとしたら、それは医学的に見て『治癒』したと判断していいんじゃないんですか。病気でありながら、治癒判定基準がいまだにないと言うことは、おかしいじゃないですか」と言いますと、先生は、「○○君、だかららい病は死ななきゃ治らんのだよ」と、まるで医者の言葉、それもハンセン病にかなり詳しい副園長の言葉とは思えないような内容でした。(七番)
(二) 国立療養所年報にみる軽快退所

最大の問題は、軽快退所準則自体に「本準則を定めたことによって積極的に患者の退所を行わせる意図を含むものではない」とあることである。
国立療養所年報(昭和二六年から五四年)によれば、全入所者中軽快退所したとされる人の割合は、一番高い年でも昭和三五年の一・九八パーセントにとどまる。しかも、一パーセントにも満たない年は年報の存在する二七年中実に一九年もあり、一番低い年である昭和五二年に至ってはわずか〇・二パーセントの人しか軽快退所していない。これでは、軽快退所が法に退所規定そのものがないことによって生じる被害を回復するものとして機能していたとは、一切評価しえない。

4 周到な逃亡防止策

このように退所規定がなく、また軽快退所制度も全く機能していなかった状況において、逃走者が出るのは必至であった。そのため、療養所は意図的にまたは結果的に逃走防止手段を置いている。 まず療養所の立地であるが、ハンセン病療養所が作られようとした当時の住民の激しい反対運動もあり、療養所はいずれも住民の少ない離島や寒冷地など辺鄙な地域に作られた。これが、結果的には逃走を防止する手段としての役割を担うことになる。

また、物理的にも昭和三〇年代ころまでは園の周りは高い塀で囲まれて意図的に逃走防止の手段が講じられていた。
そのうえで、外出は法律上原則として禁止されており、例外的に外出が許される特別事情は非常に限られたものであった。そしてこれを担保するために、塀の周りには巡視が見回っていたし、逃走を試みた者は拘留・科料の処分に付されて、療養所長による謹慎処分もなされた。
無断外出して職員によって連れ戻された様子について、原告番号三一番は、次のように述べている。

  • 敬愛園を出る時には見つからず、無事芝居小屋に着いて芝居を見ていたときのことです。この芝居小屋にいきなり敬愛園の職員三人が駆けつけてきて、まるで刑事が凶悪犯人を捕まえるかのように芝居小屋の中に踏み込んで来たのです。芝居をやっていることなどお構いなしで、せっかくの芝居が台無しでした。(三一番)

さらに大島青松園では、外出の際には保証人を提供することを条件とした。

  • 一時帰省する時は、保証人を立てないといけません。そして一時帰省の期間を守らないと、保証人が監禁室に入れられるのです。ですから、黙って戻らないと迷惑をかけますので、大の親友に話をして、了解した上で保証人になってもらったのでした。(一一七番)

二 社会に戻れない理由

このように一旦入所した者は退所することはできず、事実上の軽快退所をすることも困難ではあったが、ごくまれに医師から退所を許された者も、様々な理由で結局は社会に戻れなかった。

1 社会内における差別・偏見

その一番の理由は、なんといっても家族を含む社会にハンセン病に対する誤った認識に基づく差別と偏見が厳然と存在していることである。そしてこの差別・偏見は、被告国が絶対隔離絶滅政策を遂行していく過程で社会に植え付けられていったものであった。

  • 私が青松園に入った後、自宅が消毒されました。役場から消毒液を担いできた役人が「本人の服はどれか」と言って入ってきて私の服はおろか家中真っ白に消毒されたそうです。そのことで、私がハンセン病にかかって園に入ったことが回りに知れ渡ってしまいました。それ以後、私の家には月に一度の組合の寄り合いも家からハンセン病患者をだしたということで外されて、村八分の状態にされました。
    そのような状態で私が故郷に帰るとどんなに迷惑を及ぼすことか、それを考えると、帰ることはできませんでした。(九三番)
2 家族・故郷の喪失

社会の偏見に追われて家族が離散したり、家族との連絡が途絶えていたりして、すでに帰るべき故郷を失っていることも社会復帰できない原因となっている。
原告番号三二番は、姉妹に迷惑をかけまいと連絡を絶っていたために、医師から退園を示唆されたにもかかわらず、頼るべきところがなく社会復帰は結局できなかったと述べている。
さらに、子どもをもつことが許されなかったため、社会復帰の受け皿がないことも同様に社会復帰を拒む原因となっている。

2 求職の困難さ

さらに、退所後の就職先が見つからなかったこともその原因である。
原告番号四、五番夫婦は症状が軽かったので社会復帰の夢を捨てず、妻の血のにじむような患者作業によって費用を作り、その費用で夫は国に無断で運転免許を取得した。免許取得後、夫の職探しが始り

  • 夫は毎週のように園を抜け出しては職を探しに行きました。また、求人欄はいつも穴があくほど見つめていました。(五番)

というが、結局はハンセン病患者と分かってしまって職を手に入れることはできず、そして今日でも社会復帰できずにいる。

4 社会内療養手段の不存在

療養所は、一度入れば二度と社会には戻れないところとして人々に恐れられていた。そのためハンセン病に罹患した者は入所を逃れようと努力をするが、他方社会内には療養所以外に適切なハンセン病医療を施してくれる機関がなく適切な治療を受けられなかったために、多くの者が重い後遺症を残している。その後遺症ゆえに社会復帰できない者もいる(原告番号五五番など)。

5 絶対隔離絶滅政策の心理的・精神的影響

在園者は強制的に療養所に追い込まれ、そこから這い上がろうとしても社会から拒絶される。このような仕打ちを受けた在園者は、次第に社会復帰したいという気持ちそのものが萎えてくる。
一三番は、その気持ちの変化を次のように言っている。

  • 私はなんとかこの療養所を出て、社会復帰したいと考えました。こっそり療養所を無断外出して○○の実家に戻り、両親に「なんとか働くことはないだろうか」と相談しました。しかし両親とも「そうは言ってもなあ」という態度で、私の社会復帰に協力しようという姿勢は見せてくれませんでした。まだ実家には弟も妹もおり、私が実家に戻ってくることで受ける偏見や差別を思えば、私を喜んで迎えいれるわけにはいかなかったでしょう。私は三日ほど実家に滞在しましたが、結局あきらめて療養所に戻らざるを得ませんでした。
    その後、病気が再発し、結節がでたりしたのですが、それが落ち着いた後、福岡に新しくできる老人ホームが福祉指導員を募集しているというので応募したこともあります。当時、私は福祉に関する法律を勉強しており、福祉関係の仕事につきたいと思っていたのです。しかし、採用はしてもらえませんでした。
    こういった挫折を繰り返し、歳もとっていく間に、だんだんと社会復帰への情熱が衰えてきたような感じです。(一三番)

以上のような原因が単独でまたは複合的に作用して、入園者は退所して社会復帰することはできなかったものである。

三 退所しても幸せに生きることができない

1 退所時の苦労

入園後に一度でも社会内で暮らした経験を持つ者はみな一様に社会生活のすばらしさを語る。
四四番は、治療のミスから両眼を失明するにいたったものの、後に社会に出てこう言う。

  • 光を失った私が、一般社会で生活を営むには、血の涙を流すような苦悩の連続でした。しかし社会の大きな動きと、人が人として生活をするような様々な喧騒の中で、私は人に裏切られるという悔しさなど幾多の苦難に直面しながらも、人間としての充実感を味わうことができたのでした。(四四番)

社会における生活は後遺症を抱えながら自分で働いて生活費を稼がなければならず、決して安楽な道ではない。しかし、そういう苦労も社会内で暮らす喜びに比べれば、なんということもない。自分の住みたいところで、自分の好きなように時間を使う。人間として最低限の自由であり、しかし人間としての最大の喜びといえる。元患者達は社会に出ることで初めてその自由を享受できたのである。
しかし他方、元患者達は単に体に不自由を持つ者以上の苦労を強いられた。社会復帰できなかった在園者同様に、(一)社会内での差別・偏見に苦しみ、(二)生活基盤であるところの家族・故郷を喪失し、(三)就業制限規定の存在により就職口を見つけることは困難を極め、それによって生活は困窮し、(四)社会内に治療の場がないことにより適切な医療を受けることができず、(五)こういった絶対隔離絶滅政策の厳しさに直面することにより心理的・精神的に萎縮していく。何らかの条件に恵まれて療養所から退所した原告らではあるが、社会内においても、絶対隔離絶滅政策の被害を免れることはできなかったのである。むしろ、退所は絶対隔離絶滅政策に反するものであったが故に、この原告らが社会内で受けた被害の中に、この政策の本質が鋭くに示されているとも言える。

(一) 社会内における差別・偏見

社会内で生活することについて医者が許可を与えても、社会は元在園者を差別した。
一二番が受けた差別は、私達の想像を絶する凄まじいものがある。
結婚しようとした原告の弟が、原告のことを正直に婚約者に話したところ、婚約者のかかり付けの医者が、婚約者の家族にらいは遺伝だと伝えた。納得がいかないその弟は、療養所に尋ねてきて、遺伝ではないことを確認する。ところが、なおも婚約者の家族には反対され、二人は結婚したもののその家族とは絶縁状態になる。

  • そんなことがあったので、私の妻は社会復帰することには消極的でしたが、私としては、一番下の妹だけは何が何でもまともな結婚をしてもらいたいと思い、そのためにも無菌となって社会復帰しなければと考えていました。しかし、私達が社会復帰して、すぐに妹の縁談話があり結納まで交わしましたけれど結局は破談になりました。その後、何回もの縁談話も結局は私のせいで破談になりました。私のところへ、同業者を装った興信所の人間が来て徹底的に調べていったことが分かったこともありました。社会の偏見は私の想像を遥かに越えていました。(一二番)

そういった差別の原因は、法の存在によって元在園者も感染源と誤解されていたことにある。したがって、そこには一般の身体障害者とは異なる差別があるのである。

  • 広島市は原爆投下を経験した街で、原爆の後遺症で体が不自由になった人がたくさんいたため、一般的に不自由者に対する理解がありました。顔や手に多少の後遺症があっても、あまり偏見なく働くことができたのです。しかし、それもらいであることを知られていなければのことですから、私はいつも自分がらいであることを回りの人が気づいているのでないかとそればかりが不安で、人が多いところには出て行かないように、気づかれないようにと心が休まる間もありませんでした。(六六番)

また、声をあげて差別の不当性を訴える者にも、何らの救済はなされなかった。

  • <私の父宛に匿名の葉書が届きました。その内容は、梨の栽培をしても出荷はできない。どうせお前の子供の代で途絶えてしまうだろう、というものでした。私の父は、○○の法務局の人権擁護委員会の方にこの葉書を持っていきました。しかし、それに対して何の反応もしてくれませんでした。(五六番)
(二) 家族・故郷の喪失

在園者達の願いは、療養所の外の自由な社会に出てそこで生涯暮らしたいということと並んで、両親をはじめとする家族が住む故郷に帰ることにあった。ところがこの要求は、様々な希望の中でも最もかなわない希望のひとつであった。
なぜなら、入所の際の消毒などにより、その在園者は「恐ろしいらいの患者である」との宣伝が、その地域において行き渡っているからである。

  • 軽快退所して、私は、山口に戻りました。しかし、次男が同じ病気になり発病しました。さらに県庁の担当者が、最初入所した時と同じように、あの家は伝染病だから、遊んだらいけないなどと、周囲の家にふれこみました。その結果、私達家族は、現地山口で住めなくなりました。今でも、その仕打ちに対しては、非常に憤りを感じています。(二七番)

また、九四番は、退所して故郷に戻ったものの、かつての友人達は次第に疎遠になっていく経験をした。そんな中、理解ある女性とめぐり合い結婚するにいたったが、

  • (妻は)ある日、近所の五〇歳過ぎの年配の女性から「あなたがかわいそうだから、見かねて言うのですが、あなたはご主人がらい病で大島の療養所に入っておられたことをご存知ないのではありませんか」と言われました。そういうことがあったので、私と妻は相談して、この村で暮らしていくことはもうできないと決心しました。(九四番)

と述べている。

死ぬまでに一度は故郷に帰りたいという夢を捨てさせられ、園外でも幸せに生きることができなかったのは、「里帰り事業」という形で園外に出た者についても同様であった。故郷に帰れない「里帰り事業」とはなんとも皮肉な呼称である。

  • 母がなくなる前、一度だけ里帰事業で山口に行きました。実家に行くわけにはいきませんので、母に手紙を出しておりました。ところが妹から「二人で出ると目立つから、行けない」との連絡が入りましたので、私が再度、「お母さんが来なかったらいかない。」との抗議の手紙を出していたら、妹が母を連れて、○○公園まで出てきてくれました。妹は、人目を避けるように「車でまっとるから。」と、そそくさとその場を後にしました。
    あんなに大きかった母も、腰が曲がり、小さくなっていました。
    母が作ってくれていた弁当を二人で食べました。会話はなく、二人で黙ってその弁当を食べました。
    母も同じ気持ちだったと思います。三〇分くらいで別れました。
    母と会ったのは、この時が最後です。(七七番)
  • 私は、まだ里帰りをしたことがありません。兄弟からは帰ってくるなと言われつづけているため、里帰り事業の時も、兄のすんでいる家の近くのホテルに泊まるだけでした。それでも兄弟はホテルに面会に来てくれませんでした。近くのホテルに泊まるだけでもびくびくしないと行けませんでした。私が、ハンセン病患者であることが分かると、それだけで親類に迷惑がかかる可能性があるからです。
    実は、兄から、私が死んでも一緒に納骨しないと言われました。お骨は引き取ってくれないと言うのです。(七四番)

たとえ死んでも故郷に帰れないという現実が今日も存在しつづけているのである。

(三) 求職の困難性

らい予防法には就業禁止規定があったため、実家での家業を継ぐ者などごく少数の者を除いては、らい患者であることを明らかにして就職することはできなかった。
そして運良く仕事につくことができた者も、ハンセン病の元患者であることは隠して就業している。しかも就職している間中、ハンセン病元患者であることが発覚し職を失うことを恐れびくびくしながら暮らしていたのである。

  • (会社の)入所規定の中に、「らい」は就業できないという規則がありましたが、もちろん自分の病気のことは隠して、経歴も隠しての入所でした。
    横浜では、会社の寮に入って生活していましたが、共同生活は緊張の連続でした。人に知られたくない秘密を抱えたままの共同生活は苦痛そのものでしかなかったのです。寮にはお風呂がありましたが、私は、そのお風呂には一度も入ったことがありませんでした。お風呂に入って私の体を会社の同僚に見られてハンセン病患者であることがばれると会社にいられなくなるからです。そのため、私は、週に二回、少し離れた旅館まで行って休憩料を払い旅館のお風呂に入るという生活を続けていました。(一一四番)
(四) 社会内療養手段の不存在

ハンセン病を治療するための医療機関は、らい療養所以外には京都大学医学部附属病院等ごく限られたものしかなかった。そしてこのごく限られた社会内での治療機関の存在も、患者たちに周知されることはなかった。DDS以降、薬の投与だけですんだ治療も、基本的には療養所に入所する形でしか受けることはできなかったのである。
そのため、療養所をひとたび出た者は、病気が再発した場合再び療養所への道を選択するか、進行していく病気を放置しておくかのいずれかを選ぶしかなかった。

  • 早く治療する必要があったのですが、家族を置いて恵楓園に戻るわけにもいかず、再入所するまで、園に残っていた友人から送ってもらうDDSをこっそり飲むのが精一杯でした。外来治療ができていれば、症状を悪化させることなく後遺症も残らなかったのではないかと思います。(一〇番)
  • どうして私も含めて多くの患者を療養所の中に閉じ込めなければならなかったのか、大きな疑問が残ります。ハンセン病の治療ということであれば、園の外できちんとした外来治療を整えてくれれば、何も療養所の中でなければならないということはなかったはずです。
    私は療養所に再入所後、薬を飲まなかったために菌がプラスになりました。このことからも分かるように、療養所の外か中かが問題でなく、治療を受けて薬をちゃんと飲んだかどうかが問題だと思います。私の場合、ちゃんと薬を飲まなかったために再発したということだと思っています。(五一番)

そして、療養所外ではできなかったのは、ハンセン病治療そのものばかりでない。ほかの単純な病気も、ハンセン病患者である限り、一般病院では受け入れてもらえないのである。

  • 私達退所者は、再発症や手足の傷に、いつもおびえながら、その日暮らしをしなければならなかったのです。社会の中で治療を受けようと病院を訪ねても、「らい患者」だとわかると、らい予防法をたてに、診てはもらえないのです。私自身、岡山の前田病院というところで、二ないし三回目の受診の時に「らい」と分かり、来ないでくれと言われました。(七九番)
(五) 絶対隔離絶滅政策の心理・精神的影響

一旦療養所に入った者は自分自身にハンセン病患者とのレッテルをはり、自分の殻に閉じこもっていく。これは社会に出ても変わらない。
二八番は病気から回復し、人に病気を移すこともなければ、また薬すら飲む必要もないと医者から太鼓判を押されているほどであったにもかかわらず、療養所にずっと籍を置きつづけた。

  • 第三者から見れば、結婚する際に正式に退所すればよかったではないかといわれると思います。しかし、私は、らい予防法が廃止されるまで本気で退所を考えたことはありませんでした。決して療養所から完全に出てはならない。たとえ一時期社会に出て生活してみるにしてもいずれは療養所に戻らなければならない身で、その定めから逃れることはできない、そうでなければ家族に迷惑がかかると思い込んでいました。医師から前述のような説明を受けているので、頭ではそんなことはないと思うのですが、一方でやはり療養所に縛り付けられている感覚から抜け出すことはできないのです。(二八番)

原告番号四五番は昭和三一年に愛生園に入所した後、翌三二年には脱走によって社会復帰するが、昭和四一年の再入所に至るまでの心理状態を次のように語っている。

  • 沖縄の犀川先生が、裁判所で「療養所に一年でも二年でもいた人は一生療養所の暗い影を背負って生きている」という意味の証言をされたそうです。全くそのとおりです。
    「暗い影」とは一体何なのか、経験していない人に説明することは簡単ではありません。私の経験からすれば、京都大学に入院していた当時は、「らい」が人々から忌み嫌われる病気であることは漠然と理解していたものの、自分の人生を変えてしまうほどの重大な問題であるとは思っていませんでした。私の人生の転換点は最初の愛生園での半年間にあります。ここで私は「らい」がどんな病気なのか、社会からどんな扱いを受けている病気なのか、ということを身に浸みて理解しました。そして自分は社会に出ることを許されない「らい」の患者であるということを思い知らされました。脱走という形で社会に戻ったものの、「自分がこの社会内で生活しているのは仮の姿であって、いつか療養所に連れ戻されるべき人間なのだ」という意識は、私の中から消えることはなかったのです。(四五番)
2 再入所の理由

このように退所経験を持つ者は、復帰した社会で様々な苦労を重ねた。それでも、園外での生活にはその苦労にはとても代替できない生きる喜びがあるゆえに、皆耐えて社会生活を送る努力を惜しまなかったのである。それにもかかわらず、多くの者が再入所を余儀なくされている。

その理由は、前項で述べた(一)社会内の差別・偏見、(二)家族・故郷の喪失、(三)求職の困難性、(四)社会内療養手段の不存在、(五)絶対隔離絶滅政策の心理的・精神的影響といったハンデキャップに耐えられなくなったために他ならない。これらのいずれかの理由で、あるいはいくつかの理由が複合することによって、社会内での生活を断念せざるを得なかったのである。

例えば原告番号一六番は「(一)社会内の差別・偏見」が再入所の主な理由になっている。

  • 平成元年に私たちの養女が大学を卒業して就職していたのですが、先にお話したとおり、私たちは、私たちのことが養女の縁談の差し障りになるのではないかということがとても心配で、むしろ私たちが一般社会にいないほうがよいのではないかとも考えていました。(一六番)

一旦社会復帰した自分が元患者であることで受ける社会的差別から家族などを守ろうと、いわば避難所として園へと戻ったのである。社会がハンセン病に対する正しい知識と理解を持ち、誤った理解に基づく差別や偏見がなければ決して再入所の必要はないのであり、再入所者が本人の自由意思で戻ってきたと評価することはできない。

先に挙げた原告番号四五番の再入所の大きな理由は、「(四)社会内療養手段の不存在」である。

  • 今考えてみれば、昭和三一年春に療養所を脱走した後、京大病院に定期的に通院してDDSをきちんと服用していれば、昭和四一年に再発して愛生園に戻る必要はなかったのではないかと思います。これは本当に悔やまれます。しかしよく考えてみれば、本来、私の症状が落ち着いた時点で、療養所が薬を渡して、定期的に呑むよう指導して送り出してくれていればよかったはずです。正規の手続きで退所できるのであれば何も急いで脱走する必要はありませんし、薬を呑んでいれば療養所に戻る必要がないのであれば勿論呑みます。私の人生は全く違っていたものになったはずです。
    それだけではありません。普通の病院でハンセン病の治療が受けられるということであれば、私の右足の裏傷も切断が必要になるまで悪化することはなかったのではないでしょうか。療養所でしかハンセン病の治療が受けられないということ、そしてその療養所が一度入ったら出られない場所であることが、私の人生に決定的な影響を与えたのです。(四五番)

また原告番号一二三番も手先が動かず細かい仕事ができなくなったために昭和六一年に再入所した。陳述書の最後に

  • そして何より言いたいのは、外で治療ができなかったことです。(一二三番)

と述べている。
いったん園に入れば、その後に退所する機会があったとしても結局園に戻らざるを得ず、社会で平穏に生き続けることができないのは、終生隔離による被害・損害が今日まで引き続いていることを如実に物語っている。

第五 絶滅政策・措置による被害・損害

強制入所の先にあったハンセン病療養所は、「療養所」とは名ばかりの場所であった。そこには十分な病気の治療・療養はなく、生活の保障もなかった。そして、そこでは子どもを持つことは許されず、断種・堕胎が行われ、入所者の未来への希望を奪った。療養所は、社会に帰っていくことが予定されていない、患者が死に絶えるのを待つ収容所であった。重病者は不十分な医療の中で亡くなり、軽症者は、医療・介護の不備を補なう労働力、生活を支える労働力として病気をおして働いた。そして、その労働と不十分な医療体制の中で、軽症者が重症者となっていき、死に至ったり、重い後遺症を残し、入所者に重大な損害をもたらした。
これらは絶滅政策・措置による被害・損害にほかならない。
そして、現在でも、重い障害、目立つ後遺症、帰るべき場所がない等の、社会復帰できない大きな要因として、入所者に被害を与え続けているのである(甲第七八号証・青木意見書七頁、甲第五号証九弁連調査)。

一 断種・堕胎などの優生政策

1 断種・堕胎の強制

療養所では、結婚しても子どもをもうけることが許されなかった。各療養所では、結婚の条件としての断種手術、子どもができれば堕胎手術が当然とされていた。そして、そこには被告が主張するような、正当な患者の「同意」はなかった。絶対隔離・終生隔離の下にある療養所という生活の場において、それを受け入れないという選択肢はなかったのであり、事実上強制されたものである。それは優生手術を受けた人の割合、人工妊娠中絶を受けた人の割合が異常に高率であることが端的に物語っている(甲第七五号証・青木報告書六頁、甲第五号証九弁連調査)。

原告の各陳述書でも、園内で結婚したほとんどの者がこの悩み苦しみを述べている。園によって、男性の優生手術の割合が多い園、女性の中絶手術の割合が多い園などの違いはあっても、すべての園で事実上強制された断種・堕胎が行われたのである。

昭和二一年三月に結婚しましたが、当時は結婚するには夫である私が断種することが結婚の条件でしたから、結婚届出書を提出するときに、断種の承諾書も一緒に提出しました。そして断種の手術を受けたのです。もし、私がこの手術をしないで結婚し、妻に子供ができると妻は堕胎させられますので、妻がかわいそうだと思い、私の方が妻に内緒でワゼクトミーの手術を受けたのです。(五番)

  • 昭和四五年に結婚・・・三回ほど中絶した。(七二番)
  • 昭和二四年、妊娠しましたが、堕胎しました。当時は婦人科の先生もいません。ですから外科の先生から手術を受けました。(七六番)。

園で子どもをもうけた人がいる和光園においても、基本的には子どもをつくることは否定的な園の生活の中で、入所者は辛苦を強いられた。

  • 私は、昭和四四年園内で結婚し、妻は妊娠しました。すると職員が何度も何度も堕胎をするように言ってきました。・・・妻はこの時七~八回、私は三回呼び出されて堕胎の話をされました。その時、私は看護婦から「貴方もくくってもらわなければ困ります」とまで言われました。「私は豚ではありません」と反駁しました。(二二番)
  • 福祉の職員が何度も何度も堕胎するように言ってきました。「病気が病気だから子どもをもつのは無理だ」「子どもを産めばあんたは死ぬよ」などしつこく言われました。(二三番)。
2 優生手術を免れた者に対する影響

断種や堕胎手術を免れた者にとっても、療養所では子どもを持ってはいけないという事実は、大きな圧迫、抑制をもたらした。手術を免れても、事実上子どもをもうけなかった者がほとんどなのである。まさに政策として優生政策がとられたことによる被害をこの者たちも受けているのである。

  • 夫は幸い断種は免れています。しかし、子どもをもってはならないという園長の言葉は、私たちには重い枷となり、ついに子どもをもつことは出来ませんでした。(五九番)
  • 昭和二九年に結婚しましたが、子どもは作らないように注意しました。子どもができるとおろすことを強制されるからです。(八〇番)。
3 優生政策による被害・損害・隔離絶滅政策・措置の完結

一般に、優生手術を強制されること自体、極めて大きな人権侵害であることは言うまでもない。
しかしハンセン病患者、あるいは元患者に対する優生政策の被害はそれに止まらない。優生政策は、原告らと外の社会とのつながりの寄る辺をさらに奪い、原告らの未来を奪ったのである。らい予防法見直し検討会報告も「結婚に際し優生手術を受けた入所者の場合など頼るべき子供がいない等帰るべき家族が存在しないこと・・・の理由により社会復帰が極めて困難な状況にある」(乙第一四号証三七三頁)と指摘している。

子どもをもてなかったことは、現在でも様々な側面から入所者の社会復帰を阻害する要因として現れている。社会復帰の環境を奪い、社会復帰の動機づけを奪っている。優生政策は、まさに療養所の中で隔離絶滅政策・措置を完結させるものであり、原告らは今でもぬぐい去れない被害を受け続けているのである。

二 貧困な医療

絶対隔離絶滅政策における療養所は患者を収容することに意味があり、患者を療養させて疾病の増悪を防ぎ、あるいは治療によって治癒または軽快させて社会に復帰させるということは予定されていなかった。そのため、らい療養所は、他の療養所・病院のような医療機関ではなく、収容所の様相を呈しており、長い間その環境は低劣なままであった。

1 医師・看護婦などの不足

療養所は、絶対的な医師不足、看護婦不足であり、入所しても十分な治療は受けられなかった。そもそも治療機関としての根幹に欠陥があったのである。それを補うために、素人である患者による医療行為が当然のように行われていた。

  • 園内では両手の使える者が注射をしていましたが、それは注射の仕方を教えられることなく、見よう見まねでやっていたものです。ここではそれが当たり前だと思っていました。私も他の人に比べたら手が動く方だったので注射をしてあげていました。このようなことを好きこのんでやる人は誰もいません。(八二番)
  • 外科では看護士に教わり、化膿部を切開したこともありました。(二四番)
2 医療水準の低さ

医療水準もきわめて低かった。

患者は、神経麻痺から傷を作りやすく化膿させやすいが、化膿した部位は簡単に切断されてしまっていた。

  • 丁寧な治療があれば外科の傷は治るのに、多くの傷が放置され、簡単に手足を切断されていたのが療養所の実態でした。・・・右手中指を火傷してしまいました。外科治療を受けましたが、包帯の指巻きが強かったために、翌日は鬱血して腫れてしまい、それを診た看護士は腐っていると言ってその場で切断されてしまいました。今でもそのことは憎しみをもって思い出す出来事です。(二二番)
  • 退院後も付添作業を続けていましたから、やがて屈曲した手指のあちこちに・・・つぎつぎと傷をした指は切断されていきました。・・・その切断を行ったのは医師ではなく介護長などの職員でした。まともな医師がいなかったのです。麻酔もかけてもらえませんでした。結局私は、親指を除く両手のすべての指先を失ってしまったのです。(四六番)

断種手術の失敗は、二重に苦しみを与えた。

  • 昭和二三年に結婚する際、夫(原告番号一一八番)が断種手術を受けました。ところが断種手術が失敗していたため、昭和二四年に私が妊娠してしまったのです。失敗した先生が「あんた、つわりじゃないかね」という始末で、謝罪一つありませんでした。婦長からは「おろすように」と言われ、堕胎を強制されました。夫も手術の失敗のため、二度も屈辱的なこの手術を受けざるを得なかったのです。(一一九番)

その他にも医療行為の不備や過誤はしばしばあった。昭和四一年の鼻の整形手術失敗による炎症とそれによる失明(原告番号六四番)、昭和三四年・平成三年の二度の腎臓結石の誤診(同三五番)、膵臓癌の見落とし(同七六番)などである。
承諾のない医療行為、実験的医療など、加害行為と言わざるをえない場合すらあった。

  • (昭和四〇年に)盲腸の手術を受けました・・・断種されていることに気づいたのは、退院し、しばらくしてからです。(無断断種・六七番)
  • その医師は看護婦に「眼注の用意」と命じ、点眼麻酔をかけさせ、いきなり眼球に注射を突き立てたのです。その瞬間に光は消え失せ、目の視力を失ったのでした。・・・その注射薬は医者が勝手にプロミンと大風子油を合成した大風ミンという何ともこじつけた薬でした。(四四番)
3 不十分な看護、介護

病者看護、不自由者介護は、職員不足で患者がせざるをえず、必然的に不十分なものであった。原告の陳述書のほとんどで「患者作業」としての看護・介護の大変さが語られているが、逆に看護される側にとっても、専門の職員による介護、医療が保障されるべきところ、素人の、それも自らも不自由を抱える入所者の看護・介護が十分なものといえるはずはなかった。

  • 昭和三三年、私は再入所しました。不自由者棟に入ることになりましたが、まだ患者さんが患者さんをみていました。やはり大部屋でした。昭和一九年と全然変わっていなかったのです。・・・逆の立場になると、面倒を見てもらっている方も窮屈でした。元気といっても大なり小なり手が悪いのです。洗い方が悪くて、ご飯粒が残っていることもあるのですが、「患者にみてもらっている」という意識から文句を言えません。(一〇七番)
4 貧困な医療がもたらした被害・損害

貧困な医療により、十分な医療を受けられずに療養所の中で亡くなっていった者は多数である。和泉証人は「日本の療養所の場合には、二次感染を起こしている、菌がたくさんいて膿を出しているような患者のケアを、まひを持った患者がさらに介護をするというふうなことが行われていましたので、そういう人が更に感染を受けて亡くなるというケースもありました。」(第七回口頭弁論和泉証言二四三項)と証言している。

また、二二番、四六番、四四番等の陳述書でも明らかなとおり、生きている者にも、貧困な医療は重篤な後遺症をもたらした大きな一因となっているのである。これもまた、療養所の中で死に絶えるのを待つという意味での絶対隔離絶滅政策の完結であった。

三 住環境などの劣悪な生活環境

本来病院は療養するために身体を休める所のはずである。しかし、その住環境・食生活は極めて劣悪であった。このことも、「療養所」とは名ばかりの収容所であったことを端的に示すものである。

1 住環境

治療に希望をつないで入所してきた者も、病院とは違う療養所の様相にとまどいを隠せず、大きなショックを受ける。しかし人間性を無視された環境であっても、それを受け入れていかなければ生きていけなかった。

  • 一二畳半に九人が寝起きしていました。(三番)
  • 二一畳の広さに七人詰め込まれました。その七人の中の二人が夜中に奥さんの住んでいる女性寮に通ってゆくという「通い婚」をさせられているのにも驚かされました。(昭和二三年入所・七五番)
  • 私が入所したのは昭和二二年三月でした。畳のない板の間の部屋でした。毛布が一枚敷いてあり、被るために一枚の毛布がありました。そこに一〇人の患者が入りました。寒くて、しかも寝返りも十分にうてませんでした。(二四番)
  • 結婚すると夫婦部屋に移ることになりました。夫婦部屋というといかにも個室と思われるかもしれませんが、一二畳部屋を四組の夫婦で共有するというものでした。仕切も衝立もない部屋の四隅がそれぞれの夫婦の居場所でした。(五番)
2 食生活

食事などの生活状況も貧困であった。戦時中はもとより、それ以後も不十分な状態が続いた。

  • (私が入所した)昭和二九年頃の愛生園では食べるものが少なくて、おかずが漬け物くらいで、ご飯も、お茶碗一杯で、お腹が減ってたまりませんでした。(二七番)
3 劣悪な生活環境がもたらした被害

強制的に療養所に追い込まれ、そこでこのような劣悪な生活環境を押しつけられること自体、原告らにとっては重大な人権侵害である。しかし被害はそれに止まらない。和泉証人は、「非常に詰め込んだ居住状態のなかで結核患者がいて、それが周りに結核を広げていくことによって、社会にいたらそんなことにならなかったのにというふうな、死亡しなかったであろうというケースも非常にたくさんあると思われます。」(第七回口頭弁論和泉証言二五一項)と証言している。劣悪な生活環境は、在園者の命に関わる問題だったのである。

生活環境は、戦前戦中戦後「地獄のような状態」がみられた後、大谷藤郎氏が国立療養所課長に就任した昭和四七年当時も、医療も食・住も、劣悪な状況ないしまだまだ低い水準にあった(乙第一四号証らい予防法廃止の歴史二七七頁・二五二頁)。

四 患者作業

1 強制労働としての患者作業

療養所の運営は、絶対的な職員の不足により、患者作業がなければ成り立たなかった。それも「偶々人手が足りなかった」のではない。むしろ患者の労働力は療養所運営の前提であり、患者作業は絶対隔離絶滅政策そのものに組み込まれていたのである。
在園者としては、自らの療養所生活を支えるために作業をせざるをえない。また、在園者への年金等の生活保障はきわめて貧弱であり、わずかでも労賃を得るためにも作業しなければならなかった。このように患者作業は、事実上強制された、当然従事しなればならない強制労働であった。「同病相隣・相互扶助の楽園」の実態は、病者に労働を強いる収容所だったのである。

青木美憲医師の瀬戸内三園の在園者からの聴き取り調査は、このことを裏付けるものである。
「患者作業は回答者の九〇%以上(これは重症者を除くほぼ全員です)が経験しており、しかも療養所内の医療や生活の大部分を占める部分について行われており、まさに強制労働であったことが裏付けられました。特に病室・不自由者棟の付添い作業は、本人の意思を無視した強制であったことが明らかです。」(甲第七八号証青木意見書五頁)

また原告らの陳述書にもその強制労働の実態は明らかである。中でも病棟看護、不自由者棟介護は、「相隣互助の精神」で作業できる全員に割り当てられた(甲第七五号証九頁)。そして、特につらかった作業としてこれをあげる者は多い。

  • 敬愛園でも私を待っていたのは患者作業でした。軽症だった私は、主として不自由者の付添看護の仕事を担当させられました。今思い返しても、私は、患者作業をするためにのみ療養所に入ったものだとつくづく思います。(三〇番)
  • 病室看護、不自由者棟介護では、患者の看護人が二人一組で一病棟一二~一四人くらいの身体の不自由な患者の世話をしていました。患者のし尿処理、食事の介助、薬の受渡、皮下注射までしました。これらの作業は、夜中に眠ることが出来なかったのでつらい作業でした。(一一三番)
2 患者作業の身体への負担

犀川証人は、その意見書(甲六六号証)において「当時の療養所は軽症患者の労働力なしでは運営できないような人員しか配置されていませんでした。患者作業は療養所運営に不可欠だったのです。この患者作業のために、日本及び日本の占領下にあった台湾、韓国の患者の後遺症は、他の国の患者の後遺症に比べて非常に重いのです。」と述べる。
また和泉証人も「私自身は、世界のいろんなところでハンセン病の患者を見ていますけれども、日本の療養所ほど障害の強い患者というのはありません。で、これは、患者さんに聞いてみると、大部分の所で作業によって病気を悪くしたというふうなことを言われておりますので、所内作業というのが、相当日本の患者さんの症状を悪くしたと思っています。」(第四回口頭弁論和泉証言三七項)と証言している。 このような患者作業による被害は原告の陳述書からも明らかである。

  • 身体が不自由になると不自由舎に入り作業も免除されます。しかし、人手が足りないためにみんな不自由になるぎりぎりまで働いていました。手足の感覚麻痺があっても動かせる以上は不自由とはみなされませんでした。そのため作業で知らないうちに火傷をしたり傷をつくったりして、悪化させてしまいます。(六九番)

また前述したような安易な切断医療による弊害も重なって指を落とした人も多い。

  • 私に割り当てられた作業は、下綿作業(つまりおむつの洗濯)、包帯洗い、包帯まき(洗った包帯の再生作業)でした。私は、らい症状がだんだん進行してきたからでしょうか、手先の知覚がだんだん麻痺していったり指が曲がったりしていたのですが、患者が使用して汚れた包帯やおむつを洗う際に手指に傷が入ったりするのもわからないまま無理して作業を続けているうちに傷口から細菌感染したりして高熱を出し、体じゅうに熱コブが出来たりして入院したことも何度かありました。また曲がった指先が傷により化膿して途中から切断されてしまったこともありました。・・・社会に戻ろうという気持ちの支えがなくなりました。(七二番)

四肢の障害だけではなく、心臓疾患をきたすこともある。

  • ハンセン病の患者の多くは神経麻痺と共に無汗症を抱えています。それにも関わらず炎天下での作業を続けたため、心臓に負担をかけてしまったのです。それ以来現在に至るまで私は心臓に異常を抱えています。(一二七番)
3 患者作業による被害・損害

強制的に療養所に追い込まれた上、労働まで強制されること自体、原告らに対する重大な人権侵害であることは言うまでもない。それに加えて、入所当時は軽症であった者たちも、この患者作業で身体を痛め、後遺症を重くしてしまった。このことも極めて重大な被害・損害である。さらにこのような障害を抱えたことにより、ただでさえ困難な社会復帰への道が、一層遠くなっていったのである。

  • 入所当時、私は顔面に斑紋があり、眉毛が抜けて、知覚マヒもありましたが、軽症で、日常生活には全く支障がありませんでした。そんな私を待っていたのは、所内作業でした。毎日毎日作業作業の明け暮れでした。中でも不自由者棟の付添を長年にわたってやらされました。職員の数が不足しているために、元気な入所者が看護する以外に障害の重い不自由な僚友を看とる者がいなかったのです。・・・そしてそうした無理な作業の過程で今度は私の身体がやられていきました。・・・こうして昭和三六年つまり私が入所して一二年目に、今後は私が不自由者棟に入ることになってしまったのです。私は、療養所とは名ばかりで、この中で行われていることは、軽症の者を収容して働かせ、重度の後遺症を負わせて社会復帰できない身体にしていくことの繰り返しであり、軽症者を収容しない限り維持できない仕組みだったのだということを身をもって思い知らされました。(一二七番)

働ける患者は療養所維持のための労働力としてそこに縛りつけられ、そして作業を通じて重度の障害を負わせられ、そして療養所にとどまらざるをえなくなり、そこで亡くなっていくという、まさに絶対隔離絶滅政策・措置の完結の図式がそこにはある。

そして現在、社会復帰できない事情としての重い後遺症、目立つ後遺症をあげるものの大多数が、この図式の中での犠牲者であり、その被害は継続しているのである。

以上

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