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最終準備書面 (責任編)

平成一〇年第七六四,一〇〇〇,一二八二号「らい予防法」違憲国家賠償請求事件
原告 原告番号一ないし一二七番  被告 国

二〇〇〇(平成一二)年一二月八日  右原告ら訴訟代理人  弁護士 徳田靖之・八尋光秀・板井 優  外一三八名
熊本地方裁判所第三民事部御中

第一章 はじめに

第一 何の責任が問われているのか

本件は、国家賠償法が施行された一九四七年一〇月二七日以降、らい予防法が廃止された一九九六年三月二八日まで、被告国によって遂行されたハンセン病政策を一連一体のものとして、その政策の策定、継続及び遂行について国家賠償責任を問うものである。

既に詳述したとおり、このハンセン病政策は、「ハンセン病患者の根絶」を目的とする「絶対隔離絶滅政策」であり、歴史的には一九〇七年「癩予防ニ関スル件」に端を発し、一九一六年の懲戒検束権付与、一九二五年内務省衛生局長通達による収容対象者の拡大によって形を整え、一九三一年の「癩予防法」制定によって法的根拠を得た後、一九三五年二月の「癩根絶二〇年計画の策定」と一九三六年からの第一次無らい県運動によって全面展開されるに至ったものである。

こうした政策は、日本国憲法施行後もそのまま承継され、一九四九年からは第二次無らい県運動及び増床計画も展開されるに至り、一九五三年の「らい予防法」の制定を経て、一九九六年三月同法が廃止されるまで継続されたものである。

したがって、右政策の立案遂行過程全体が違法とされるべきものであるが、国家賠償法附則六項の制約があるため、同法施行後に限って国家賠償責任を追及するものにすぎない。

第二 厚生大臣の責任と国の責任との関係

こうした政策の策定・遂行は、内務省によって開始された後厚生省に引き継がれたものであり、本件訴訟において厚生省(その責任者としての厚生大臣)の責任が問責されるべきは当然であるが、一方、国会は、日本国憲法施行後において、これらの政策の法的根拠とされた「癩予防法」を廃止せず、一九五三年には「らい予防法」を制定するに至って、これらの政策を法的に追認するに至ったものであり、国のハンセン病政策によって原告らが蒙った損害について、国賠法上その「立法責任」(不作為を含む)を免れえないものである。

そこで、原告らは、被告国の責任として、厚生省(厚生大臣)の政策策定・遂行責任及び国会の立法責任を問うものである。

なお、両者の責任は、絶対隔離絶滅政策の策定・遂行における共同不法行為の関係に立つものである。

第二章 厚生省(厚生大臣)の責任

第一 総論

一 責任の主体について

本件で原告らが国家賠償法上の責任を問うのは、組織体としての厚生省の責任である。したがって、同法一条一項にいう「公権力の行使に当る公務員」としては、業務の統括者としての厚生大臣ということになる。

この点については、予防接種事故集団訴訟に関する大阪高判平六・三・一六(判時一五〇〇・一五)が、「省令を定め、それを施行する直接の責任者は、その省の業務を統括する大臣であって、伝染病の伝播及び発生の防止その他公衆衛生の向上及び増進の業務全般を所管している行政官庁は厚生省であるから、厚生省の業務を統括する厚生大臣は、予防接種による事故の発生を回避するために必要な措置をとるべき法的義務を負っている」と述べて、組織体としての厚生省の責任を厚生大臣の過失責任として認めている。

そこで、以下の論述にあたっては、厚生省の責任として表示することとする。

二 絶対隔離絶滅政策の本質とその特殊性について
1 絶対隔離絶滅政策の一体性

わが国の隔離の本質は患者の絶滅(根絶)であり(犀川証言第一回二〇一項)、そのための収容(隔離)施設の建設とそこへの完全・終生収容である。
つまり、患者の人権・人格を無視して、その存在そのものを根絶することを目的とし

  1. 家庭内、地域内における分離を超えて、強制的に離島・僻地の療養所に収容して外部との交流を厳しく遮断し(強制収容、完全隔離)
  2. 症状、家庭内療養手段の有無、病型、感染性の有無を問わず全員を(絶対隔離)
  3. 退所を厳しく制限して、終生の隔離を行い(終生隔離)
  4. 患者作業が強制され、子孫を絶つための優生手術が強制された(絶滅政策)。

という点に特徴がある。

これらの相互の関連は、以下のとおりである。即ち、政策の目的が「ハンセン病患者の根絶」であるが故に隔離施設への収容が必要となり、且つ根絶のためには、全員を対象とする絶対隔離が要請され、一旦収容したハンセン病患者は必然的に終生隔離されることになる。また、目的がハンセン病患者の根絶であるために、患者自らが療養所への入所を希望することは期待できないため、無らい県運動に象徴される強制収容という手段を用いざるをえないこととなる。
したがって、わが国のハンセン病政策は、「ハンセン病患者の根絶」という目的のもとに、右の(1)ないし(4)の特徴を持つ政策が一体のものとして遂行されたものである。

2 「日本型」隔離政策の本質とその特異性

わが国における絶対隔離絶滅政策の他に例をみない本質的な特徴は、次の二点にある。 第一は、患者の絶滅(根絶)が政策の目的とされたということである。断種等の優生手術の強制、患者作業の強制といった、世界に例を見ない政策遂行は、すべてこの患者の絶滅という目的に発している。
第二は、その政策の遂行のために、無らい県運動という患者の社会的排除(あぶり出し)を官民一体の運動として組織し、徹底的な恐怖宣伝と患者狩りを行ったという点である。現在もなお根強く残るハンセン病患者に対する社会的差別・偏見は、隔離政策がこのような特殊な手段によって遂行されたことによるところが大きい。
このため、日本における隔離政策は、ノルウェーにおける隔離(いわゆる相対隔離)とは勿論、歴史上絶対隔離の典型とされるハワイのモロカイ島における隔離(いわゆる絶対隔離)とさえも全く異質な絶滅政策となったのであり、本件で、問われるべき厚生省の責任は、この言わば「日本型隔離政策」の策定、維持、遂行責任である。

3 絶対隔離絶滅政策の策定・遂行過程の特異性

わが国における絶対隔離絶滅政策の策定・遂行過程の特異性は、その歴史的展開が示すとおり、内務省及び厚生省の政策の策定・遂行が先行し、国会による立法はそれに追随する形をとったという点にある。
こうした典型例として、以下の点を指摘することができる。

第一は、一九二五年の内務省衛生局長通牒と「癩予防法」との関係である。
既に詳述したとおり、一九〇七年に制定された法律第一一号「癩予防ニ関スル件」では、その収容の対象を「療養の途を有せずかつ救護者なき患者」と限定していた。

ところが、内務省は、一九二〇年に療養所の増床計画を策定したうえで、一九二五年に至って、全国地方長官に対し、療養所に入所できる患者を「伝染のおそれのあるすべての患者」に適用するよう衛生局長通牒を発したのである。

この通牒により、絶対隔離政策が遂行されることになったものであるが、この通牒は、当時の「癩予防ニ関スル件」に違背(被告の準備書面によれば拡大解釈)するものであり、その六年後の一九三一年に制定された「癩予防法」によってはじめてその法的根拠を得たものである。
こうした経過には、ハンセン病患者に対する絶対隔離政策を法の規定の有無にかかわらず、策定推進した後に、それを法的に裏付けるために、国会を利用して法律を定めるという内務省の基本姿勢が端的に現れている。

第二は、入所者に対する優生手術の強制と優生保護法との関係である。

入所患者に対するワゼクトミー(断種)等の優生手術は、既に一九三〇年代において、すべての療養所において強制されていたものであるが、その根拠となる法律が制定されたのは、一九四八年の優生保護法の「らい条項」によってである。

これもまた絶滅政策が法を無視して先行し、法律がこれに追随したという典型例である。

第三は、懲戒検束規定の法制化の過程である。

「癩予防法」下においては、療養所からの外出禁止及びその処罰は内務省令である懲戒検束規定に定められていたものであり、これが法律に規定されるに至ったのは、戦後一九五三年の「らい予防法」の制定によってである。

第四は、戦後における「増床計画」の策定及び第二次無らい県運動の展開と、一九五三年の「らい予防法」制定との関係である。

最終準備書面・事実篇で述べたとおり、厚生省は、日本国憲法下において、戦前からの絶対隔離絶滅政策を継承するかどうかの判断を国会における立法その他の意思決定を待つことなく、一九四九年に至って一万床への増床計画を策定して実行に移し、合わせて第二次無らい県運動を展開することを決定している(甲二一〇号証)。国会における一九五三年の「らい予防法」の制定に先立つこと四年である。

つまり、わが国のハンセン病政策は古典的な三権分立の形に従って、行政が法の執行として政策を遂行したのではなく、むしろ、行政が法律をその手段として政策を遂行してきたということである。このことは、厚生省による同政策の策定遂行の違法性の判断において、極めて重要な意味を持つことになる。

4 絶対隔離絶滅政策の集合処分的性格について

わが国のハンセン病政策のもう一つの特徴は、その政策が、一般抽象的な国民を対象とするのではなく、ハンセン病患者として把握された個々の国民に療養所の入所を義務付けるところにある。例えば戦後であれば一九五〇年に行われた全国患者実態調査によって、各県単位でその所在まで把握された一一、〇九四人という個人、あるいは、その個別具体的な集団に対して加えられた収容、隔離、絶滅政策であるという意味で、個別具体的な処分の集合的な実質を有するということである。
この点は、厚生省がその政策の実施にあたって、一般的抽象的な政治的行政的義務を負うにとどまらず、当該個別の国民(原告ら)に対して、人権侵害のないよう努める法的義務を負うに至るという意味で重要である(後掲東京高判平四・一二・一八)。

三 国家賠償法の対象としての政策責任について

被告は、厚生省の政策責任に関する原告らの主張に対して、「具体的行為を離れて政策それ自体が個々の原告らの具体的権利、利益を侵害することはあり得ない」と主張している。 総論の終わりにこの被告の主張について反論しておく。
「具体的行為を離れて政策それ自体が国家賠償責任の対象となりえない」とする被告国の論拠は必ずしも明らかではないが、国家賠償法の解釈を誤った謬論であることは明らかである。

1 「公権力の行使」

被告の主張は、国家賠償法一条の「公権力の行使」の解釈を誤っている。 同法にいう「公権力の行使」については、いわゆる広義説が通説判例であり、「国又は公共団体の作用のうち純粋な私経済作用と国家賠償法二条の対象である営造物の設置管理作用を除くすべての作用が含まれる」 と解釈されている。

したがって、弁護士法に基づく照会への区長の回答のような事実行為(最判昭五六・四・一四民集三五・三・六二〇)や厚生大臣による予防接種の勧奨のような行政指導(東地判昭五九・五・一八判時一一一八・二八)も含まれることになる。

ただ例外がある。裁判所法三条一項にいう「法律上の争訟」とはいえないものあるいはいわゆる「統治行為」に該当するものは除外されるということである。

例えば、内閣の経済政策ないし経済見通しの過誤は、政治的見地から検討されるべきもので、司法的審査や救済に親しまないとされ(郵貯目減り訴訟に関する最判昭五七・七・一五判時一〇五三・九三)、国の農業政策の当否の判断は、裁判所の判断事項ではないとされる(東地判昭四六・一二・一三訴月一八・一・一)。

しかしながら、本件は、経済政策や農業政策のような事の性質上専ら政府の裁量的な政策判断に委ねられている事柄ではない。すべてのハンセン病患者を終生隔離して絶滅を図るという国民の基本的人権の制約にかかわる政策の違法性が問われているのであって、法律上の争訟であることは明白で、統治行為にも該当しない。

したがって、ハンセン病政策それ自体が公権力の行使に該当することは争う余地がないと言うべきである。

2 政策と具体的権利の侵害との関係

原告らは、単に厚生省によるハンセン病政策の策定責任だけを問うているのではなく、政策を策定、維持したうえで、これを実施しあるいは実施せしめた遂行責任を問うている。すなわち「具体的行為を離れて」政策それ自体の責任だけを問うているのではない。

この絶対隔離絶滅政策が、ハンセン病患者に対する集合処分的性格を有していること(本項二-4参照)は既に述べたとおりである。すなわち、絶対隔離絶滅政策は、ハンセン病患者全員を対象とするものであり、この政策遂行の必然的な因果の流れとして、原告らは療養所に隔離収容され、優生政策の対象となり、患者作業を強いられた。これは個々の原告らに対する絶対隔離絶滅政策の適用であり、実現である。

なお、この個人に対する政策の適用、実現として、原告らが療養所に隔離収容され、かつ隔離され続けた事実行為を、原告らのこれまでの書面においては「隔離措置」と呼んできた。しかし個人に対する政策の適用、実現は、いわゆる「隔離措置」だけにとどまるものではなく、例えば優生手術を施行されたことなど多種多様なものが含まれる。

よって本準備書面では、隔離収容、隔離の継続、優生手術の施行なども含め、絶対隔離絶滅政策に基づいて、原告個々人に向けられた個別の公権力の行使を、端的に「政策の適用」と呼ぶこととする。 勿論、右のように定義される「政策の適用」も公権力の行使であり、本来は国家賠償法の対象となるものである。また本章第三-五で後述するように、本件原告らの被害は、政策そのものによる被害と、「政策の適用」による被害の複合である。

しかし本件においては、前述のごとく個々人に対する「政策の適用」は、絶対隔離絶滅政策遂行の必然的な結果である。本件における厚生省の責任原因は、絶対隔離絶滅政策の策定・遂行と考えれば十分であり、原告個人に対する「政策の適用」を独立の責任原因と考える必要はない。政策の立案・遂行の因果の流れとして「政策の適用」が存在し、それを介して、原告ら個人の具体的権利が侵害されたのである。

3 政策責任が認められた判例

以上のような考え方は、判例によっても認められている。
例えば、予防接種禍九州訴訟において福岡高判平五・八・一〇(判時一四七一・三一)は、開業医によって予防接種を受けた被害者に対する国家賠償法の適用について、「予防接種を実施するという制度的枠組みを作り上げ、その中に国民を置き、しかも法により予防接種を受けることを義務付けたということ自体が国の公権力の行使であり、予防接種の実施自体はその実現ないし結果に過ぎないものと把握されるべきである」として、政策それ自体が、同法の「公権力の行使」に該当することを肯定し、個別の予防接種を、政策の結果と理解することにより、予防接種被害に対する政策責任を認めている。
また、東京高判平四・一二・一八(判時一四四五・一〇五)は、厚生省が予防接種法に基づく施策としての予防接種の実施にあたり、「予防接種事故が生じないように努める義務は、国民全体に対する関係においては、あるいは一般的、抽象的な政治的行政的義務であるということができようが、予防接種を受ける個々の国民は、国が施策として行う予防接種の直接の対象者なのであるから、このような地位にある予防接種を受ける個々の国民に対する関係においては、予防接種事故が生じないよう努める義務は、単なる一般的抽象的な政治的行政的義務ではなく、まさに法的義務そのものであるといわなければならない」と論じている。
まさに本件にそのまま妥当する論旨と言わざるをえない。

4 小括

以上からすれば、「政策自体は責任原因となり得ない」という被告国の反論が失当であることは明らかである。
なお本項二において、「原告らの被害は、政策そのものによる被害と政策の適用による被害の複合体である」と述べた。被告の「具体的行為を離れて政策それ自体が個々の原告らの具体的権利、利益を侵害することはあり得ない」という主張について、もう一点反論しておくと、「政策の適用」という「具体的行為」を離れた「政策そのもの」による被害は厳然と存在する。この点については本章第三-五によって詳論するが、その意味においても原告の主張は失当なのである。

第二 絶対隔離絶滅政策の構造と、その一連・一体性

一 概観

日本のハンセン病政策の歴史について、大谷藤郎証人は、次のように述べる。
「らい予防法の形成には一○○年間の歴史を見ませんと理解できないところがあると思います。(略)明治四○年にできました当初は救済的な色彩を持っていたんですけど、(略)懲戒検束権をして犯人のように取り締まるとかいうふうにだんだんエスカレートしていきまして、(略)結局これは伝染病予防のために本当に必要な法律なんだというふうな思い込みが、昭和六年にすべてのハンセン病患者さんで伝染のおそれのある人は全部狩り込んで収容するのが正しいんだというふうに、だんだんエスカレートしているわけです。(略)医学的に深まっていったというのではなしに、社会的に日本民族というものが当時の国家主義、軍国主義というふうなものが高揚していっているなかで、そういうものが是認されていきまして、不用な人、国家の当面の役に立たない人たちというものを切り捨てていくという考え方が医学者に非常に影響して、それがらい予防法の強化につながっていっている、その経過をよく知らなければ、医学だけで議論がされては、私は、らい予防法というものは理解しにくいのではないかなというふうに思います」(第六回口頭弁論調書大谷証言一五八項)。

最終準備書面・事実篇で既に詳述したように、日本型の隔離政策すなわち絶対隔離絶滅政策は戦前に確立された。そこでは、公衆衛生という見地よりも、国辱論・民族浄化論がファシズムと結びつき、その思想的背景に基づいて徹底した患者の収容・取締が行われた。すなわち、強制隔離を定めた癩予防法を作り、恐ろしい伝染病であると宣伝しつつ無らい県運動を推進し、予算措置を受けて隔離施設の拡張と増床を続け、その上定員を超える患者を収容して、しかも厳格に患者と社会との交通を絶ちつつ、最低限の職員の増員を図るに止めた。
この政策遂行過程において、一般人には、ハンセン病は恐ろしい伝染病との誤った認識を与え、歴史的には従前存在していなかった感染への恐怖というハンセン病に対する新しい差別・偏見を植えつけ、あるいは増強して行った。
戦後になって、日本国憲法が制定されて基本的人権が保障されるようになり、ハンセン病に対する特効薬であるプロミンが開発されて治癒する疾病となったにもかかわらず、厚生省は、戦前の政策をそのまま維持し続けたのみならず、さらに展開して行った。

すなわち、プロミン治療を療養所に独占させながら、第二次無らい県運動を推進して厚生省の把握する全ての患者を隔離施設に追い込みつつ、全患協の猛烈な反対運動にもかかわらず、強制隔離を定めたらい予防法を制定させ、しかもその前には優生保護法を制定させることによって、ハンセン病は遺伝病でもあるかのように一般人に誤解を与え、それまでの差別・偏見をさらに増強させた。

これによって、自分自身や家族に対する社会の差別・偏見の目を避けるため、あるいは治療を受けるために、隔離施設への入所を余儀なくされるという構造が確立する。ある時期から実力行使による強制隔離がなくなっていったことは、この構造が完成したことを示すものであっても、決して絶対隔離絶滅政策が変更されたことを示すものではない。医療面・社会面・心理面での強制によって、患者に入所を余儀なくさせ、一旦入所してしまうと時間の経過につれて社会との溝が深まり、また社会復帰施策がないことによって退所できなくなるという絶対隔離絶滅システムは、強制力の発動を待つまでもなく、自動的に機能し続ける域に達したのである。

一九九六年にらい予防法が廃止された当時、いわゆる「ハンセン病患者」の九〇%が隔離施設としての療養所に在園していたこと、そしてそのほとんどは法廃止後も社会復帰を遂げることなく、療養所の中でその一生を終えようとしていることは、約九〇年間にわたって発展し、継続され、完成した絶対隔離絶滅政策が、いまや最終段階に入ったことを示しているのである。

二 絶対隔離絶滅政策の展開

一九〇七年の「癩予防ニ関スル件」以来のハンセン病政策については、最終準備書面・事実篇において既に詳述したところであるが、以下、絶対隔離絶滅政策の展開という視点から簡略にまとめる。

1 一九〇七年「癩予防ニ関スル件」と施設の特徴

この法律は、ハンセン病患者のうち「療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキ者」を療養所に収容することを内容としている。その点ではノルウエー方式の相対隔離ではあるが、ハンセン病患者に対する強制収容が制度化されたという意味で、後年完成に至る絶対隔離絶滅政策の萌芽であったことは確かである。またこの法律制定の時点で、いったん療養所に入所した患者は終生にわたって療養所に隔離されることが前提となっており、終生隔離という特徴を既に備えていた。
また「癩予防ニ関スル件」によって設立された府県連立のらい療養所は、ハンセン病対策が内務省管轄であることと結びついて、収容にあたるのも警察官なら施設長も元警察官という取締的色彩の強いものになった。
犀川一夫証人は、その施設の状況を「外の法律とか人権とかが全く通用しない治外法権的な施設」と表現する(甲第六六号証)。そしてその証言において、「私はハンセン病患者さんに対する人間疎外、人権侵害というのは強制収容だけではないと思います。入る器が治外法権的な特殊な地域で、あそこに入ったら、療養所に入ったら生涯刻印を押されるような、取締的な療養所であったというところに大きな人間性を疎外した問題があり、このことが現在問われているんじゃないかと思っております」(第8回口頭弁論調書犀川証言一九四項)と述べ、かかる性格は、「国は運用でもって、これを適当に変えておりますから、現在においては、かつてほどひどい治外法権的な存在はゆるまりましたけれども(略)一九九六年まで残っていたと私は解釈しております」(第九回口頭弁論調書犀川証言五六項)と述べる。まさにこの施設の性格自体に、被告の戦前から今日までの一貫した政策の特質が現れているのである。

2 患者作業

最終準備書面・事実篇で述べたとおり、「癩予防ニ関スル件」によって療養所が機能し始めてすぐ患者作業は始まっている。これはわずかな職員しか配置されない療養所において、生き延びるために不可欠であったからである。
一九三一年、当時全生病院(現在の多磨全生園)の林文雄は「官立療養所の為に弁ず」(甲五五号証)と題して、「如何にして病院はかくも天国のごとくなったか」「それは伝染の危険なき程度のものも解放しなかったからである」「療養所には作業がある」「彼らの作業は必要欠くべからざるもの二四種を超えておる」「一〇五〇人の収容者中半数は相当重症者でも何らかの作業をし、人のために為す処あらんとして居る」「陰性者を全て退所せしめたならば療養所は実に陰惨このうえなき地獄となるであろう」と述べた。

また和泉証人は「日本のハンセン病患者ほど後遺症の重いのは世界に類がない、患者作業のためである」と証言する(第四回口頭弁論における和泉証言第三七項)。犀川証人も、「患者作業のために、日本及び日本の占領下にあった台湾、韓国の患者の後遺症は、外の国の患者の後遺症に比べて非常に重い」と述べる(甲六六号証「犀川意見書」一一頁)。最終準備書面・損害論で詳論するとおり、原告らの中にも、社会復帰が困難である理由として患者作業による後遺症の問題を挙げるものは多い。

療養所運営のための不可欠な労働力として、伝染の虞のないハンセン病患者、症状の軽い患者を強制収容し、退所を認めず、患者作業を行わせることにより、元来軽症だった患者に後遺症を負わせ、終生にわたって療養所に止まらざるを得ない状況に追い込んでいくという構造がここに見られるのである。

患者作業が絶対隔離政策の一環であり、それを含む絶対隔離絶滅政策が一体のものであったという所以がここにある。

3 懲戒検束権付与

療養所が取締目的の施設であることが明確になるのが、一九一六(大正五)年の懲戒検束権付与である。これは、所内秩序維持のためとして、逃亡した者や無断外出した者等に対し、所長が減食や監禁という懲罰を司法手続を経ることなく与えることを認めたものである。このことは、療養所が強制収容所であることを明確に物語っている。しかもその所長の判断基準が不明確で、「隔離政策に批判的な入所者を恣意的に処罰することも可能」にするものであった(甲七九号証九頁)。

この懲戒検束権付与によって、一旦収容された者は、療養所職員に反抗することが許されず、一切の権利が剥奪されるという「治外法権的施設」が制度として完成した。

懲戒検束制度の行き着いた先が、一九三八(昭和一三)年、栗生楽泉園に設置された「特別病室」であった(甲第七九号証八、二二ないし二四頁)。これは、全国の国立療養所の所長らの要求によって建設されたものであり、所内秩序を乱すとか反抗的だという入所者を恣意的に送り込んだ監禁施設であった。そこでは、一九四七(昭和二二)年に廃止されるまで、名前が確認された者だけでも九二名が監禁された上、二二名が死亡している。まさに療養所が強制収容所であったことの証左である。

勿論この懲戒検束制度及び特別病室の被害を受けたのは、実際に特別病室に監禁された在園者に限られない。監禁された九二名、殺された二二名はいわば見せしめであり、その威嚇効果は全ての在園者に及んだ。その威嚇効果は、一九四七年にこの特別病室事件が国会で問題にされた際の、一松厚生大臣の答弁(同号証二二四頁三~四段目)からも明らかである。

また洗濯作業のための長靴を要求しただけで栗生楽泉園の特別病室に送られ獄死した山井道太に象徴的に見られるように、患者作業は懲戒検束制度によって文字通りの強制労働と化した。

4 断種・堕胎による優生政策

この優生政策こそ世界に類をみない日本型隔離政策すなわち絶対隔離絶滅政策を象徴するものである。
一九一六年二月一九日、「癩予防ニ関スル件」を改正し、所長に懲戒検束権を付与しようという法案が審議されていた貴族院で、次のような質疑が行われている(甲六号証-五六-九四四~九九五頁)。
「(委員男爵高木兼寛)癩療養所の設立目的は癩病の伝播を防ぎこれが絶滅を期するに在るべし。しからば彼らの患者の子孫を蕃殖せしめざることは最も必要なりと謂わざるべからず。しかるに聞くところによれば、却て療養所においては夫婦にあらざる男女間に夫婦の如き関係を生じ子孫を挙ぐる者ありという。当局者はこれに対し如何の見解を有するか。」

「(中川政府委員)療養所においてははじめ男女の居所を別にしその間に堅固なる障壁を設しも患者中にはこれを飛び越えて女子の居室に侵入する者あり。これが制止につき何れの療養所にても困難を感ぜし故に当局においては假伶男女の関係成立するも妊娠せざる方法なきかにつき研究しつつあり。」

同年、「療養所内出生を防ぐため全生病院で光田健輔がワズクトミーを実施。以後、入所者の避妊は主にこの方法を実施」(甲第九号証「国立療養所史らい編」一五頁)。それ以降、全国の療養所で男性に対する断種、あるいは妊娠した女性に対する堕胎手術が行われていく。

この断種手術について、一九三一年、大島療養所の野島泰治は次のように述べる。

「癩患者の男性全部に施しうるならば金を要せないで癩予防の目的を達することもできる」(甲五二号証)
また断種手術の創始者である光田健輔は、いわゆる「三園長証言」で次のように述べる。

「私どもは先ずその幼児の感染を防ぐために癩家族のステルザチヨンというようなこともよく勧めてやらせるほうがよろしいと思います」(甲六号証の二二の三頁三段目)

すなわち、優生政策は、文字通り「根絶」を目的とするものであった。その意味において、優生政策は絶対隔離絶滅政策のまさに中核をしめるものと評価されねばならない。
しかも、これが、戦後の一九四八(昭和二八)年の「優生保護法により、らい患者の優生手術公認」、すなわち合法化へとつながるのである(甲九号証二六頁)。この合法化によって、被告が戦前の絶滅政策を戦後も継承したことを明確に理解できるのである。

なお、優生保護法で法的根拠を得たこと、優生手術を施す際に患者の同意を得たことなどで、この優生政策を正当化することはできない。優生手術に同意した在園者も、断種しないと配偶者と同居できない、また仮に子どもができても育てることができない場所に閉じこめられていたからこそ、同意せざるを得ない立場に追い込まれたのである(甲六六号証「犀川意見書一一頁)。

これもまた絶対隔離絶滅政策が一体のものであったと評価せねばならない所以である。

5 一九二五年内務省衛生局長通牒と増床計画

一九二五(大正一四)年、全国の警察署長会議において、「癩予防ニ関スル件」三条の「療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノ」という要件を廃し、各都道府県警察署長に対し、家庭にいる患者をも収容することを促進するよう指示がなされ、翌年、地方長官通牒にも同様の指示がなされた(第八回口頭弁論調書犀川証言一九八項)。

これまで述べてきたように、これ以前の段階において、強制収容、終生隔離、優生政策等は既に具体化されていた。すなわちこの内務省衛生局長通牒は、その強制収容、終生隔離、優生政策を全てのハンセン病患者に無差別に適用するという方針に他ならない。この内務省衛生局長通牒によって、絶対隔離絶滅政策が確立したのである。

これに先立つ一九二〇年、内務省の諮問機関である保健衛生調査会は、「根本的癩予防策要綱」で、患者一万人収容を目標とし、公立療養所の増設と拡張、国立療養所の新設、自由療養区の設定を掲げた(甲第九号証一六頁、甲第一八九号証)。

これを受けて一万床を目標とする第一期増床計画が一九二一年に立てられた。現実に一万床を突破するのは一九四一年のことになるが、絶対隔離絶滅政策を実現するための物的条件の整備は着々と進んでいくのである。
なぜ一万床なのか。この点について、医学的根拠が示されたことはないのである。当時の患者の状況は、前年(一九一九年)の内務省らい一斉調査によれば、患者総数一万六二六一人、入所者一四九一人、病床一四三○床ということであった(甲第九号証一六頁)。

要するに、一万人収容計画というものは、内務省の把握した患者のほとんどを収容するという意味なのである。これは、伝染性の有無を問題としていないことは明らかであり、全ての患者を収容する絶対隔離政策を意味するのである。犀川一夫証人も、この一万人収容計画は、ハンセン病患者を一人残らず社会から排除するという根絶政策の現れであることを証言する(第八回口頭弁論調書二○一~二○三項)。

6 癩予防法の制定

こうした中で、一九三一(昭和六)年に癩予防法(旧法)が制定される。「癩予防法」は、一九二五年内務省衛生局長通牒が「癩予防ニ関スル件」三条の「療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノ」という資力要件を外したことを追認する法律であったところに大きな意味がある。
まさに被告の絶対隔離絶滅政策に法的な根拠を与えたのが「癩予防法」だったのである。

7 無らい県運動

一九三六(昭和一一)年、内務省衛生局は、その絶対隔離絶滅政策の具体的遂行方法として、癩根絶一万床三カ年計画を発表し(甲第九号証二二頁)、さらに未収容患者の施設収容に努めるよう指示を出した。この後、これが第一次無らい県運動へと発展して、社会内にいた未収容患者らが、次々と療養所に収容されていったのである。

一九四○(昭和一五)年には、厚生省から都道府県にあてて、次のような指示が出されている。

「らいの予防は、少なくとも隔離によりて達成し得るものなる以上、患者の収容こそ最大の急務にして、これがためには上述の如く収容、病床の拡充を図るととものに、患者の収容を励行せざるべからず。しかして患者収容の完全を期せんがためには、いわゆる無らい県運動の徹底を必要なりと認む。」(甲第二号証一二七頁)

こうして強力な国家権力を背景に、まさに草の根を分けての患者の強制収容が計られていった。内務省衛生局長通牒で確立し、「癩予防法」で法的根拠を得た絶対隔離絶滅政策が、全面的に展開されるに至ったのである。

例えば、その同じ年の一九四○(昭和一五)年には、熊本の本妙寺らい部落の一三七名を警察権力を用いた三日間にわたる強制収容によって全て療養所に収容した。その翌年の一九四一(昭和一六)年には、草津湯の沢部落の解散式が行われ、翌年までに、五七四名全員が楽泉園に移転せざるを得なかったのである。また一九四四(昭和一九)年には、「沖縄で軍部によるらい患者の強制収容開始。療養所定員の倍の収容となる」という事態が起きているのである(甲第九号証二五頁)。

この無らい県運動の意義は、単に膨大な数の患者を強制収容したというだけにとどまらない。徹底的な恐怖宣伝と、公務員や医師以外の一般市民をも政策遂行に動員したまさしく官民一体の患者狩りにより、全てのハンセン病患者に「療養所隔離されるべき者」「地域社会から排除されるべき者」という社会的烙印を押し、ついには患者自身が療養所に自ら逃げ込まざるを得ない状況を作り上げたのである。その過程において自ら命を絶った患者も稀ではなく、原告らの中にも自殺未遂経験者が数多く見られることは、この無らい県運動の激烈さ及びその影響の根深さを如実に物語る。

日本の絶対隔離政策の、内容面における一大特徴が世界に類を見ない優生政策であるとすれば、その遂行手段面における一大特徴が、この無らい県運動であった。

8 戦後の状況

戦前の絶対隔離絶滅政策は、戦後、日本国憲法が施行された後も継承される。またプロミンなどのスルフォン剤の治療効果も、絶対隔離絶滅政策を転換させる方向には働かず、むしろ強化する方向で利用された。
戦後の「第二次無癩県運動」は一九四九年六月に行われた全国療養所長会議で決定されたものである。この会議の議論及びそれに基づいて展開された「第二次無癩県運動」の過酷さについては、最終準備書面・事実篇に詳しく論じたとおりである。

一九五三年のらい予防法制定は、このような絶対隔離絶滅政策の継続を法的に確認するためのものであった。すなわち、当時その合憲性に疑問が呈されていた懲戒検束規定による処罰を、法律そのものによる処罰に格上げすることによって違憲批判をかわし、かつこのような処罰規定の威嚇効果によって、日本国憲法施行による在園者の人権意識の昂揚を押さえ込むところにあった。厚生省のその狙いは、「らい予防法」の隔離構造が「癩予防法」のそれをそっくりそのまま温存したものであったことからも明らかである。

らい予防法が国会に提出された際の山懸厚生大臣の「根治困難」という趣旨説明は、「治るようになった時代の対策の変化というものを全く無視した、やはり底流に流れている根絶という思想の表れ以外になにものでも」なかった(第八回口頭弁論調書犀川証言二四○項)。

また、らい予防法が旧癩予防法と全く変わりなかったことについては、犀川証人の「同じです。それは、また私、申し上げます。日本のらい予防法というのは、根絶と一万人患者を入れるということに終始しております。」(同二四四項)との証言からも明らかなところである。

らい予防法が制定された一九五三年、全ての患者収容が可能となる病床一三五○○床の整備が完了した。すなわち、絶対隔離絶滅政策を可能とする物的施設が完成したのである。そして同年、収容者数一○四二三名となり、当時の全てのハンセン病患者の約九割が療養所に収容される。さらには一九五五(昭和三○)年には全患者数の九一パーセントの患者が収容され(甲第一号証三四五頁、同第一二○号証)、一九二○(大正九)年に提唱された一万人収容計画、すなわちほとんどの患者を療養所に入所させる政策は、みごとに実現したのである。

このことは、被告によるハンセン病患者の絶対隔離絶滅政策が一つの到達点に至ったことを示すが、これで政策自体が終了したわけではなく、あくまで政策遂行過程の一段階にすぎない。最終的なハンセン病(ハンセン病患者)の絶滅(抹殺)のためには、その隔離した患者らが死に絶えるまで待つ(療養所の中で飼い殺す)施策を継続する必要があるのであって、以後は基本的には実施される政策の本質は変えないで、その手段ないし現れ方が外形的に変わってくることになっただけである。

一九七八(昭和五三)年の「国立らい療養所在所患者の統計学的にみた将来予測」(甲第三二号証)では、国立らい療養所入所者が、「全患者の九割弱を占める」もので、それが「二○年後(一九九五年)に約半数、四○年後(二○一五年)に約一○分の一に減少し、八○年経てば在所患者はほぼゼロになると推計された」としている。これはまさに療養所がその絶対隔離絶滅政策の実施現場としての役目を終える時期、すなわち政策の完了時点を統計的に推定・予測したものであって、被告の政策が絶対隔離絶滅政策であり、この時期においてもその遂行過程にあったことを如実に示すものである(第八回口頭弁論調書犀川証言三四三~三四七項)。

9 小括

以上の事実経過は、絶対隔離絶滅政策が、ハンセン病患者の「根絶」を目標として一体のものとして遂行されてきたこと、そして戦後の日本国憲法の施行、プロミンなどのスルフォン剤の登場による治療法の進歩にも関わらず、一体として維持されたことを示すものである。

三 被告のいう「開放政策」の本質
1 被告の「開放政策」論の構造と特徴

被告は「遅くとも昭和四七年には厚生省は実質的に隔離政策を開放政策に転換し、隔離の根拠となっていた条文が現実に適用されることはなく、ただ形式的に右の条文が残存していたことが明らかである」(被告準備書面)と主張する。
その具体的内容として挙げられているのは、

  1. 物理的強制力を用いた強制収容は行われていないこと
  2. 入所者の外出は自由であったこと
  3. 軽快退所が認められていたこと
  4. 断種手術等が行われなくなったこと
  5. 療養所内での処遇が改善されたこと
  6. 外来診療制度が整備されたこと

の六点であると思われる。

ただ、右の内(1)~(4)は被告がいう「らい予防法の弾力的運用」によるものであり、また(4)は(5)の一部として把握することができるから、その「開放政策」なる主張は、弾力的運用論、処遇改善論、外来診療制度論の三本柱からなるというべきであろう。

被告のこうした立論には、次の二点において著しい特徴がある。

第一は、「政策の転換」と主張しながら、その時期を特定できないということである。
「隔離政策」と「開放政策」とは政策としては両立しえないものであるから、「隔離政策」が「開放政策」へと転換したというためには、先行した政策の誤りが明確に認識された上で、それを是正するための新たな政策の策定が特定されなければならない。
ところが、被告の主張によっても、その「開放政策」が策定された時期は全く明らかではなく、その具体的内容となる前記(1)~(6)についてもその時期に関する主張はそれぞれ全く個々バラバラであり、その間に一〇年以上の開きすらある。

第二は、厚生省としての「政策」であるはずでありながら、当該「開放政策」なる文言が使用された文書はもとより、その主張にかかる「開放政策」全体の内容を説明し得るような厚生省の文書(通達、通知、指示、回答等)が全く存在していないということである。
これらのことは本件訴訟以前の段階で厚生省自身が自らの政策を「開放政策」と称したことが全くないだけでなく、「隔離政策」を転換したなどと主張・表明したことすらないことの反映である。
このことは一九七五年(昭和五〇年)に発行された厚生省のハンセン病政策に関する公式記録、言わば正史とも言うべき国立療養所らい編(甲第九号証)において、「わが国のらい対策は、治らい剤の効果が確認された一九五〇年代に至るまで絶対隔離がその基本になっていた。もっともこの基本については現在(一九七五年)もなお本質的に改められていない」と述べられているとおりである。
被告の主張する「開放政策」なるものは、本件訴訟において、国の免責を図るために作り出された机上の空論に過ぎない。

2 「弾力的運用論」批判

(一) 物理的強制力を用いた強制収容の有無とその意義について

被告は、「強制収容の消滅」と称して、

  1. 昭和二〇年代、三〇年代から物理的な強制力を用いた入所はほとんどない
  2. 「現実に一九五五年以降は強制的に収容された患者はいないはずである」(乙一一六号証)とか、「実際に昭和四〇年以降記録に残っている強制収容は行われていない」(乙第八〇号証)と言われている

と主張している。

しかしながら、右主張は一九五五年以降の絶対隔離絶滅政策における入所あるいは収容の構造を全く理解しない主張と言わざるを得ない。

そのことは、次の二つの事実から端的に裏付けられる。

第一は、一九七七年(昭和五二年)当時の厚生省大臣官房であった熊代昭彦氏のジュリストにおける次の発言である。

「昔であればライ患者なんか警官がいやがっても強制収容したということがあったわけですが、現在御存じのようにライ患者が野放しになっているのはまず見当たらないということですし、患者も自分自身病気のままでぶらぶらしているのはたいへんこわい、社会的にもみんなが入ってもらいたいと考えているというような社会的な心理強制があるわけですから、物理的な暴力というものを使う必要はほとんどなくて大体必要な者はみんな入っているというようなことになっています。」(甲第一一八号証)。

ここには正しく物理的強制力が不要となった理由が率直に語られている。

第二は、原告番号一一番の入所に至る経緯である。

同原告は、一九七三年(昭和四八年)八月に菊池恵楓園に入所しているが、開業医によりハンセン病ではないかと診断されると直ちに職場に連絡されて休職扱いとされ、治療を受けるにはハンセン病療養所しかないことを示されて入所を勧告されるに至っている。ハンセン病と診断されれば、働く場所を奪われ、治療を受ける場所も他にはないという状況が押しつけられる仕組みが出来上がっているということである。

厚生省としてはハンセン病の治療薬の入手すら療養所以外では極めて困難であるという状況を作り出し、これを維持することにより、療養所に入所する以外にはないという形で入所を強制することが可能だったということである。こうした社会的心理的強制や治療面での事実上の入所の強制は、「らい予防法」に規定された物理的強制(即時強制)を背景とし、絶対隔離絶滅政策の確立以来二〇年以上を経過して社会全体に深く定着した排除の構造と治療薬の独占という絶対隔離絶滅政策そのものに発するものであって、まさしく強制そのものと言う外はない。

この点を厚生省見直し検討会の吉永みちこ委員は、「やはり治療的にも、生活的にも、そういう社会的な圧迫という面からもそれしか選択の余地がなかったことを我々は強制というふうに普通理解します」と喝破してる(乙第一八三号証の五、一三頁)。

従って、物理的強制力を用いた強制収容が減少あるいは「消滅」したとしても、そのことは物理的強制力を用いる必要がなくなったということを意味するに過ぎず、隔離政策の変更を何ら意味するものではない。

(二) 入所者の外出制限の緩和について

被告は外出制限について、「遅くとも昭和五三年以前から新法一五条の許可事由は事実上外出許可の要件ではなくなっていた」と主張し、「外出の際に同条に定める許可を受けるとしても、その要件は緩和され、ないに等しくなっていたのみならず、右許可を受けなかったことを理由に刑罰その他の不利益処分が科せられることは一切なくなった」と説明する。

右にいう遅くとも昭和五三年以前というのが、いつ頃を指すのか、特定はされていないが、被告も昭和三三年の熊本簡易裁判所における無断外出に対する科料事件を認めているから、少なくとも一九六〇年(昭和三五年)以降ということになるものと思われる。

しかしながら、被告の右主張は事実を歪めるものであり、仮に外出制限の緩和が認められたとしても、そのことは隔離政策の変更をいささかも意味するものではない。

まず第一に指摘しなければならないことは、右に指摘した菊池恵楓園における「無断外出」処罰事件である。
前述のとおり、同事件は一九五八年三月に療養所当局と警察による「脱走者一斉検束」が行われ、農繁期のために一時帰省していた入所者一名に対して、科料に処したものである(甲第八二号証の二)。

昭和三〇年代に入ってなお、このような一斉検束によって無断外出を摘発し、これに刑罰を科すということ自体の意味は、まさしく戦前における特別重監房の存在と同様の「見せしめ」という外はなく、厚生省が絶対隔離絶滅政策をいささかも緩和する意思のないことを公にしたものと言うほかはない。

なお、被告はこの点に関連して、無断外出に対して刑罰を科したのはわずかに一件のみである等と主張するけれども、在園者に対しての「見せしめ」としてはまさしく一件のみで足りたのであって、その主張は事態の本質を全く知らない的はずれなものと批判されねばならない。

同様のことは、一九六〇(昭和三五)年一月に発生した全生園殺人事件に関する「野放しらい患者」との新聞報道における厚生省担当者の「事実であれば厳重に対処しなければならない」とのコメント(甲第一二二号証)にも率直に表明されている。

こうした事件を通じて入所者は、「無断外出」に対しては園当局がその気になればいつでも処罰しうるものであることを思い知らされたのであり、その結果として、らい予防法廃止にいたるまで、多くの在園者が、外出に際して外出許可証明書を携帯することを余儀なくされ続けたのである。

例えば一九九六年一月の九弁連アンケート調査において、星塚敬愛園の在園者は二八〇名の回答者中一三二名が今なお外出に際して外出許可証明書を携帯していることを明らかにしている(甲第一四二号証)。
こうした事実は、一九六〇年以降、在園者中の菌陰性者の数が八〇%、さらには九〇%を超えていたこと(これはどのような意味においても外出を制限すべき理由がなくなったことを意味する)を考えるならば、在園者らが「無断外出」をいかにおそれ続けていたかということを雄弁に物語るものである。

第二に指摘しなければならないことは、一九六〇年以降において、療養所在園者が置かれていた状況である。
既に一九六〇年において療養所在園者は患者総数の九二%に及び、平均年齢は四五歳、平均在園期間も二〇年を越えるに至っていた。

つまり、故郷とのつながりや就労等の可能性を奪われて久しい在園者にとって、帰るべき所は療養所以外に全く存在していないという状況に置かれていたということであり、時間の経過とともにその度合が深まるという状況だったものである。

これはまさしく隔離政策が完結していたことの何よりの証左であるが、同時に、外出の事実上の緩和等というものが隔離政策の変更を何ら意味しないことを雄弁に物語るものである。

蓋し、帰るべき場所を奪われた者にとって、療養所周辺への短時間の外出を事実上認められることが隔離からの開放を意味すること等ありえないからである。

以上からすれば、外出制限の「緩和」なるものが「開放政策」等と言えるものとは程遠く、ましてや隔離政策の変更を意味することもありえないことは明らかである。

(三) 軽快退所者の存在について

被告は、軽快退所者が累計で約三〇〇〇人に及ぶ等と主張し、その「開放政策」への転換の根拠とするもののようである(もっとも被告の準備書面では軽快退所を昭和二六年からと主張しており、必ずしも軽快退所者の存在を隔離政策からの転換のみの根拠とするものではないと解されるが、一九三一年に「退所決定準則」を作成したことを強調しているので、一応この点についても反論を加えておくこととする)。

被告の主張する軽快退所者の存在が、隔離政策からの転換を何ら意味しないことについては、既に詳述したとおりであるが、その要点を再述すれば以下のとおりである。

第一に軽快退所者の割合は、在園者数の一ないし二%にすぎないということである。 実際には二%を越したのは、一九六〇年のみであり、「開放政策」が進んだはずの一九六八年以降は再入所者の数を下回っており、特に一九七四年以降は再入所者の半数以下にとどまっているということである。
これらの厳然たる事実は、軽快退所がごく一部の例外的な事象であって、何らかの政策の変更の結果とは到底認め難いことを示している。
したがって、軽快退所者の存在を「開放政策」の根拠とすることは全くの的外れとしか言いようがない。

(四) 優生手術の不実施について

被告は、昭和四〇年代の終わり以降は、優生手術は行われていないと主張する。
しかしながら、右の事実が絶滅政策の変更を意味するものではないことは明らかである。
蓋し、一九六五(昭和四〇)年には、在園者の平均年齢は四九歳に達しており、しかも、療養所内において、子どもを産むことが許されないことについては在園者に周知徹底され、誰一人としてこれに背くことが許されない状況が確立していたからである。
したがって、この点に関しても、何ら政策の変更はなく、ただその政策を実施していく必要性がなくなったというにすぎない。

(五) 小括

以上から明らかなとおり、被告の主張するところの「弾力的運用」は、現実には存在しなかったと言わざるを得ない。被告の主張は事実に反するものであり、どのような意味においても絶対隔離政策の変更と評価し得るものはないのである。被告の主張は、全く失当である。

3 処遇改善論批判

被告は、一九七二(昭和四七)年以降、療養所内の処遇改善に努力してきたとし、そのことを理由に「らい予防法」は死文化したのであり、人権侵害はなかったと主張する。

しかしながら、原告らは、その被告の主張こそ隔離政策が今なお継続していることの証拠であると考える。
以下においては、その論拠を明らかにしていきたい。

(一) 処遇改善論の系譜

厚生省による、療養所内における処遇改善論は、一九五八(昭和三三)年の第七回国際らい学会における小沢龍医務局長の発言に端を発する。
同局長は、「まだ在宅の未収容患者が相当あり、これらが感染源になっているので早期に収容することが望まれ、これが収容促進のため、次の如き施策が行われている」として、入所患者の療養、生活の必要経費の全額国費負担、収容される患者の残される家族援護等を挙げている(甲第一号証一九八頁)。

つまり、同局長は、厚生省が、入所患者やその家族への福祉的諸政策を収容・隔離を促進するための手段として位置づけていることを率直に表明したのである。
被告が一九七二年に始まるとする処遇改善策も、基本的には右の枠組みの中に位置づけられるという外はない。

(二) 処遇改善論の背景

大谷藤郎証人が国立療養所課長に就任した一九七二年当時の療養所の状況は、既に詳述したとおり、劣悪な住環境、貧困な医療、なお継続する患者作業に代表されるような療養所とは名ばかりの状態下にあったものである。

そのうえで、既に在園者の平均年齢は五四歳を超え、「社会の受け入れが非常に厳しい状況になってきていた」(第五回口頭弁論調書大谷証言三四七項)だけでなく、深刻な後遺症と加齢による精神的身体的な衰えも加わって、その生存自体が脅かされるに至っていたといって過言でない。

このため、前述のとおり全患協は、その組織を挙げて患者作業返還闘争を展開するに至ったのであり、その後の運動の焦点を、療養所内の医療、生活条件の改善へと置かざるを得ない状況に置かれていた。

一方で厚生省内には、ハンセン病に対する差別や偏見が根強く残存し、絶対隔離絶滅政策を継続することを当然視する風潮が主流だったのであり、「らい予防法」の廃止を現実的な課題とすることは到底望みえない状況にあったのである(甲第一号証二五三頁)。

(三) 処遇改善論の法的根拠とその本質

(1) 大谷氏の自己批判

大谷証人は、自らが一九七二年以降推進した処遇改善策について「実体を改善していけばそれはそれで前進になるのではないかと考えて努力し、自らを慰めてきたのは、やはり姑息的で小役人的モノの考え方にとらわれていたとしか言いようがなかったと今も悔まれる」(甲第一号証二七一頁)と述べ、「自分がやってきたことは小手先のことであって、本質的に患者さんの人権、人間の尊厳あるいは人権の向上ということにやってきたのではなかった」(第五回口頭弁論調書一三六項、第六回口頭弁論調書一六六項)と証言し、更には、「肝心の人権侵害の大本であるらい予防法の存続に手を貸して歴史の批判に堪え得るものではなかった」(甲第一号証二五六頁)とまで自己批判している。

右は当事者としての清冽な自己批判であって、極めて信用性に富むものであり、被告の処遇改善論に対する厳しい批判となっている。
特に、「らい予防法の存続に手を貸した」との部分は同法の死文化を強調し、人権侵害を否定する被告の主張に対する痛烈な批判である。

(2) 処遇改善論の果たした役割と隔離主義

一方で、一九七三年以降展開された処遇改善策は、次の二点において決定的な過ちを犯していたものであり、その役割は、まさしく「らい予防法の存続に手を貸した」ものと言う外はない。
その第一は、療養所内の処遇改善を「らい予防法」の存在を根拠にして推進したということである。
その結果として、厚生省はもとより、少なからぬ在園者に対してまでも、「らい予防法」を廃止することが、現在の療養所における処遇の停止(退所や処遇の切り下げ)を意味するとの認識を植え付けるに至った。
中谷謹子教授はこの点を「現在のかなり改善された待遇をよしとし、法律改正によってこの医療、生活の補助が打ち切られれば帰るに帰る家もない状態になりかねないので、むしろ法廃止は希望しないという患者もおられると伺いました。私はそのように考えざるを得ないようにしたことこそ、これまで行政と社会の犯した最大の罪であると思い、胸が痛くなりました」(甲第一号証三三〇頁)と批判している。
まさに処遇改善策は「らい予防法」の存続を支える役割を果たしたと言わざるをえない。
その第二は、処遇改善策が、療養所内における生活条件の改善にとどまり、社会復帰の支援や退所者への生活援助、更には、差別偏見の除去のための諸政策への出捐が殆どなされなかったということである。
このため、困難な条件を克服して社会復帰をしようにも、療養所内にとどまれば、一定の生活が保障されるが、退所すれば一切保障がなくなるという状況が作り出されたのであり、しかも法の存続を通じて、社会内のハンセン病への差別と偏見は温存助長され続けたということになったのである。
こうして在園者は、処遇改善策の結果として一層療養所に「しがみつかざるをえない」状況に陥ったと言うことができる。

(三) 小括

以上から明らかなとおり、被告のいう処遇改善論は、隔離政策の転換を意味するどころか、多剤併用療法の確立した時点以降においても隔離政策を継続する役割を果たしたというべきものであって、被告の主張は全く失当である。

4 政策転換の評価基準

(一) 政策転換とは何か

一般に、政策が転換されたと評価できるためには、そこにそれまでの政策に対し、いかなる反省がなされ、先行した政策の結果として、現状がどのようなものであると認識されたのかが問題である。

絶対隔離絶滅政策を策定・推進し、この政策遂行によってほとんどのハンセン病患者が隔離され、そのままの状態で社会に戻れない人達が厚生省の隔離施設内に存在しているという状況下で、それまでの政策が誤りであったとして開放政策に転換したと言うのであれば、その過ちを率直に認め、被害者に謝罪したうえで、それまでの政策遂行によって生じたかかる事態を原状に回復せしめることが必要となる。すなわち、社会から居場所を奪われ、さらに社会における生活手段を持たないという隔離政策の被害者が、社会に復帰できるような積極的な政策を展開してこそ、政策が転換されたと評価できると言うべきである。

(二) 具体的な原状回復のための諸施策

(1) 絶対隔離絶滅政策を廃止するための施策

絶対隔離絶滅政策の中心は、ハンセン病に対する医療を療養所内で独占することにある。医療を独占することにより、全てのハンセン病患者を可能な限り療養所内に囲い込むことが可能となり、そこに特別権力関係というべき状況に追い込むことが可能となるのである。

このような政策の本質を支えるらい予防法に規定される国立療養所によるハンセン病医療の独占と、絶滅政策の象徴である優生政策の廃止が必要であったことは明らかである。すなわち、政策転換があったと評価できるためには、(1)らい予防法の廃止と(2)優生保護法のらい条項の削除が第一条件となるのである。しかも、単に法を廃止すれば足りるのではなく、(1)と表裏一体のものとして、(3)一般医療機関におけるハンセン病治療を可能とする制度、すなわち社会内治療体制の整備・確立が求められる。これがなければ、ハンセン病患者が満足な医療をどこに行っても受けられない事態を招くことになるからである。

(2) 人権回復のための積極的施策

次に、単にそれまでの絶対隔離絶滅政策を止めるだけでは、その先行行為の結果として現に存在する人権侵害状況は除去されない、すなわち原告らを含む元ハンセン病患者らの人権が回復されないということが本件の特質と言うことができる。

ハンセン病に対しては、確かに過去から天刑病・業病とする差別・偏見が存在していたことはその通りである。しかしながら、被告が一貫して行ってきた絶対隔離絶滅政策の遂行過程において、それが人里はなれた場所に隔離されなければならないほどの恐ろしい伝染病であるという恐怖、優生手術により子孫を残すことも許されない病気であるというような人格否定・人間否定の偏見というものが醸成され、この新たな差別・偏見が一般社会に浸透しきっている状況に対し、正しい医学知識に基づいてこれを改めるような施策が必要である。そうでなければ、療養所から社会に真の意味での復帰はあり得ない。大半の人は、「らい者」の烙印、すなわち元ハンセン病患者であった、元療養所にいたという事実をひた隠しにしなければ、本人だけでなく家族らも社会生活が送れないのである。犀川一夫証人は、「そういう特殊な施設を作って、ハンセン病であればすべてそこに入れるという、そういうことが大きなハンセン病の偏見と差別を助長したというふうに解釈した方がいいと思います」(第八回口頭弁論調書二三○項)、「隔離という政策が行われて以来、やはり特別なところに、特に日本においては治外法権的なところに規制されるということによって、患者さん自身もそうですが、世間の目は療養所に対して非常に恐怖と、それから特別なところであると、そしてそこに入る人は特別な病気の人なんだという、そういう偏見というのは療養所の強制隔離によって強化された」(第九回口頭弁論調書二八一項)と述べ、被告の政策遂行によって社会内に差別と偏見が強化・助長されたことを明確に証言しているところである。

したがって、彼らが社会から排除されないように、「らい者」の烙印を無効にするような施策が不可欠である。それは、(4)差別・偏見を除去するための、絶対隔離絶滅政策を進めた時以上の徹底的な宣伝・広報活動ということになる。

さらに、強制入所の際に家族と断絶させられ、しかも断種・堕胎によって子孫を持たない彼らにしてみれば、帰る家のないものが多く、その上、社会内に仕事を持てなかったし、昭和四○年代においても既に高齢化が進んでいたため、就職も困難であり、生計を立てる術を持っていなかったのである(第九回口頭弁論犀川証言二五三~二五五項)。したがって例外的場合を除き、彼らを社会復帰させるためには、(5)積極的な人的・物的・経済的社会復帰支援策が実施されなければならない。
以上のように、(1)ないし(5)の各施策が、部分的に実施されただけでは意味がないものであり、総合的・統一的に実施されて初めて、開放政策に転換されたと評し得るのである。

5 小括

以上からすれば、被告の言うところの「開放政策」なるものは実際には存在しないのであって、絶対隔離絶滅政策が転換されなかったことは明らかである。
らい予防法の廃止後においても、具体的な原状回復のための諸施策は実施されておらず、今なお隔離政策は変更されていないというほかはない。

第三 厚生大臣の政策責任

一 責任の本質

本項では、厚生大臣の政策の違法性と、それに対する故意過失を明らかにするが、それらを検討する前提として、厚生大臣の責任の性質について論ずる。

本訴訟において原告らが主張している一九四七年以降の厚生大臣の責任は、戦前に確立した絶対隔離絶滅政策を、憲法施行後も継続、展開した作為責任である。

すなわち、憲法施行前に既に収容されている者に対しては、そのまま同じ政策に基づき、自己の本来的な生活場所において活動する自由を奪い続けており、憲法施行後に入所させられた者との関係では、新たに、自己の本来的な生活場所から切り離し、収容所内での生活を強制し続けている。

従って、これらの事実を素直に考察する限り、「らい者」という烙印を押された集団に対する絶対隔離絶滅政策は、積極的な行為であり、作為ととらえることができる。

従来、厚生大臣の国家賠償法上の責任は、スモン・HIVなどの薬害訴訟や、水俣病などの類型を典型として争われてきた。これらは、利潤追求を目的とする私企業が国民の生命、健康等に対して加えた加害行為を、国が適切に権限を行使し回避することを怠ったという権限行使の不作為が問われてきた。しかし、本件は、国が直接国民に対して加えた加害行為が問題となっており、かつ、国が作為により積極的な加害を続けていることから、その責任の有無については、、通常の不法行為同様、国の作為の違法性と故意過失を検討すれば足りるというべきである。

二 政策の違法性

厚生省による、絶対隔離絶滅政策は、日本国憲法施行以来、一貫して違憲であり、かつ違法であった。但しこの違憲性・違法性を評価する要素は、「らい予防法」が制定された一九五三年頃を境に若干異なる部分がある。以下、一九四七年~一九五三年までと、一九五三年以降とを分けて論じる。

1 一九五三年までの違憲・違法性

ハンセン病政策が、患者を隔離するという点において、憲法に保障される人権を制約するものであるところは明らかであるところ、そのような人権を制約する政策が憲法に違反しないというためには、少なくとも(1)人権制約の目的が合理的であること、(2)手段が目的達成のための必要最小限度のものであることが、必要である。

(一) 根絶目的自体の違憲・違法性

本章第二で述べたように、日本における絶対隔離絶滅政策は、いったんハンセン病と診断された者から、その本来的な生活場所で生活する自由を奪い、家族や社会と断絶することを余儀なくさせた。また、いったん療養所に収容されると、子供を産み育てるという人間の根元的欲求を否定され、また、肉体を酷使する強制労働を課され、深刻な後遺症を生じることを余儀なくされた。そのような過酷な生を強いられたあげく、一生自分たちの本来的な生活場所で生活することは不可能なまま、事実上収容所内においてその生を終える以外に選択肢は与えられなかった。

最終準備書面・事実篇、及び本章第二-一で既に述べたとおり、このような絶対隔離絶滅政策は優生主義を背景とした民族浄化論に基づくものであり、国家主義、軍国主義が昂揚する中でこそ認められてきたものである。

第二次世界大戦の敗戦により、絶対隔離絶滅政策を正当化していた思想的背景は崩れ去った。基本的人権の尊重を理念とする日本国憲法の下で、患者の絶滅、社会的抹殺を図る絶対隔離絶滅政策の目的に、一片の合理性もない。すなわちその他を検討するまでもなく違憲、違法である。

なお、国は、ハンセン病政策を、公衆衛生政策として展開してきた旨主張するが、伝染の虞を区別しない絶対隔離政策であったこと、世界に類をみない優生政策が行われたこと、療養所内で患者作業という名の労働が強いられたことなどから、本件政策の主要部分が、伝染予防という目的とほとんど無関係であることは明らかである。

このことについては、犀川証人が、「日本のハンセン病対策というのは日本のハンセン病を根絶するという意味で、それが医学的な根拠から行われたものではございませんで、患者さんを一万人、施設に収容するということが根底にあります」(第八回口頭弁論調書二二八項)と証言するとおりである。

このような公衆衛生的な意味のない「根絶」目的の政策が、日本国憲法のもとで許容されないことは明らかである。

(二) 手段の違法性

仮に、本件政策の目的を、国民に対するハンセン病の伝染予防という公衆衛生であるという建前を前提としても、絶対隔離絶滅政策の内容はハンセン病予防という公衆衛生目的の達成のための必要最小限を遙かに超えており、違憲・違法であることは変わりない。

一般に、公衆衛生政策を採用する場合は、患者自身も人間であることを前提とし、その患者自身の人権と、伝染予防の必要性を衡量しながら進められていくべきものである。

そして、伝染予防の必要性に関しては、伝染力の強さ及びその国あるいは地域での蔓延の状況と、致死率等の重篤さによって大きく左右される。

ハンセン病の伝染力が非常に弱いものであること、またそのことは「癩予防ニ関スル件」の立案者であった窪田静太郎内務省衛生局長も認識していたのであり、国会での議論も感染力が弱いことが前提となっていたことは最終準備書面・事実篇で詳しく述べたとおりである。

また日本での蔓延状況をみると、一九九五年日本らい学会見解が示すとおり、いわゆる壮丁らいの年次推移及び一九一九年から一九三五年までの四回にわたる全国調査の結果から、日本におけるハンセン病は隔離と無関係に終焉に向かっていたことが明らかである(甲一号証「らい予防法廃止の歴史三四五頁)。

他方、重篤性について検討すると、ハンセン病は、スルフォン剤登場以前から、死に至る病ではなかった。長島愛生園の昭和六年から昭和二三年の統計によれば、ハンセン病による衰弱死は全体の二.九%に過ぎず、最も多い死因は結核だったのである(乙一一〇号証七〇頁)。

以上より、ハンセン病は、伝染力も微弱であり、また実際に日本で蔓延していたという状況もなく、かつ致死率も低い疾患であった。いずれの点においても、ペストや腸チフス、赤痢のような急性伝染病や、慢性伝染病である結核よりその伝染予防の必要性は低かったものである。

したがって、仮に伝染予防対策をとるにしても、このような必要性に見合った人権制約の許容性が慎重に検討されなければならなかった。端的に言えば、例えば特に問題とされる乳幼児に対する家庭内感染を避けるために、保育環境の整備さえ行えば足りたのである。

以上述べたところから、絶対隔離絶滅政策は、ハンセン病予防という目的に照らして極めて過剰な人権侵害であったことは明らかである。

本来、絶対隔離絶滅政策の一体性から、全体として違憲と評価されるべきものであるが、以下、簡単に日本国憲法との関係を述べる。

(三) 強制・終生・絶対隔離

ハンセン病伝染予防目的を超えた隔離が憲法に違反することは、本準備書面第三章-第二-一-1-で詳しく述べるので、本項においては簡単に触れるにとどめる。

隔離が憲法二二条一項の保障する居住・移転の自由を侵害するものであることは明らかである。

またその隔離が無期限の終生隔離であることにより、一旦隔離政策の対象となったものは家族との絆を断ちきられ、職を奪われ、また少年時代に入所させられたものは教育を受ける機会、一般社会の中で人格形成する機会を奪われる。これらを総合して憲法一三条の幸福追求権の侵害であると解するべきである。
またハンセン病と診断されたことは、一時的にその疾病に罹患したというにとどまらず、絶対隔離絶滅政策の対象として位置づけられたという「社会的身分」に該当する。したがってハンセン病と診断されたことにより隔離政策の対象とすることは、憲法一四条にいうところの社会的身分による差別にあたる。

さらに強制収容されるにあたって事前の告知、弁解、防御の機会が全く与えられない点は憲法三一条の適正手続きに違反する。

これらはハンセン病の伝染予防という観点からみた場合、全て必要最小限度を超えた人権の侵害であり、これはすなわち日本のハンセン病政策が憲法一三条、一四条、二二条一項、三一条に違反していることを意味している。

(四) 優生政策

断種・堕胎による優生政策は、子どもを産み育てる権利を侵害するものである。

子どもを産み、育てることを望むのは、人間として自然な気持ちであり、これを望んでも果たせなかったハンセン病患者らの被害は極めて甚大というほかない。これは憲法一三条の幸福追求権の侵害と考えるべきである。 この権利の侵害に関しては、それがどのような目的によるものであれ正当化し得ないものであると考えられ、ハンセン病予防目的で正当化され得ないのは当然のことである。

また本章第二-二-4で述べたとおり、優生手術を受けた患者の形式的な同意を得たことによって違法性が阻却されるものではない。優生手術に同意した患者は、絶対隔離絶滅政策の中で、同意せざるを得ない立場に置かれていたのであり、療養所の中の断種手術、堕胎手術は実質的には全て強制されたものと理解されるべきである。

さらに個別の断種手術、堕胎手術が、それを受けた患者の幸福追求権を侵害しただけではない。これらの優生手術が絶対隔離絶滅政策の一環として行われることにより、全ての入所者は、優生手術を受けない者も含めて、子どもを産み育てることをあきらめざるを得ない立場におかれたのである。すなわち優生政策を含む絶対隔離絶滅政策それ自体が、子どもを産み育てる権利を侵害するものとして憲法一三条違反と評価されるべきである。

(五) 患者作業

本章第二-二-2で述べたとおり、患者作業は絶対隔離絶滅政策に組み込まれたものであった。すなわち全ての療養所入所者は、その身体的条件により不可能でない限り、患者作業をせざるを得ない立場におかれた。これは憲法一八条で禁止されるところの「意に反する苦役」であり、さらに懲戒検束制度による威嚇も併せ考えれば、「奴隷的拘束」と評価すべきものである。このような「意に反する苦役」ないし「奴隷的拘束」は、いかなる目的の下でも正当化される余地はない。

(六) 恐怖宣伝

本章第二-二-7で述べたとおり、一九三〇年代から展開された無らい県運動は、ハンセン病に対する徹底的な恐怖宣伝となった。また実際の収容にあたっても、「癩患者専用列車」による患者の輸送、伝染予防目的としては全く無意味な住居の消毒などによって、国民に対してハンセン病の伝染力を誇大に印象づけた。

この方法は、戦後の第二次無癩県運動でも採用されたことは、最終準備書面・損害篇に述べるとおりである。 このような特殊な輸送方法、大袈裟な消毒によってハンセン病及びハンセン病患者への嫌悪感を煽ることは、公衆衛生目的を大きく逸脱するものである。これは実際に消毒等の政策適用を受けた患者のみならず、原告ら全てのハンセン病患者あるいは元患者の幸福追求権を侵害する違憲・違法な行為と評価されねばならない。

(七) 小括

以上述べたところから、絶対隔離絶滅政策が、その手段の点においても違憲・違法と評価されるべきことはあまりにも明らかである。

2 一九五三年以降の違憲・違法性

前項で述べたとおり、日本のハンセン病政策の違憲性・違法性は一九五三年以前の段階で既に明らかである。しかし、以下に述べるとおり、日本でも一九五一年段階で確認されたスルフォン剤の治療効果、占領終了後、入手できるようになった国際的知見、一九五一年に制定された結核予防法などに照らせば、一九五三年以降はその違憲性・違法性はさらに顕著になったというべきである。

(一) プロミンなどスルフォン剤の治療効果

ハンセン病対策は医学の進歩とともに変化して行くべきものである。スルフォン剤の治療効果が明らかになった時期の前後において、ハンセン病政策は当然変化すべきであった(甲六六号証「犀川意見書」二頁)。
スルフォン剤の治療効果ついては、既に最終準備書面・事実篇で詳しく述べたところである。

日本においても一九四七年(昭和二二年)に初めてプロミンの治療効果がらい学会において発表されており、その効果を目の当たりにした国立療養所の在園者たちに大きな希望を与えていた。このプロミンの治療効果が正式に確認されたのが、一九五一年の第二四回の日本らい学会である(第八回口頭弁論における犀川証言一七~二五項)。

このようなスルフォン剤の治らい効果は、二つの意味において、隔離を不必要なものにする。まず第一に、治癒した患者は感染源になり得ないので隔離する必要がない。第二に、患者が感染源になりうるとしても、それによって感染し発症したものが治療可能であれば、社会としては患者の人権を侵害してまで隔離する必要がない(甲二一号証「和泉意見書」三七〇頁)。

スルフォン剤登場以前から、ハンセン病の予防のために絶対隔離絶滅政策をもって臨むことが過剰な人権侵害であったことは前項に述べたとおりであるが、以上のようにスルフォン剤の治療効果によって隔離が不必要になっていた段階においてこの政策を継続した違法性は極めて高い。

またそれだけではなく、被告はこのスルフォン剤を療養所に独占することによって、むしろ絶対隔離絶滅政策を強化することに利用した。この意味においても、一九五三年以降の政策の違法性は極めて高いといわざるを得ない。

(二) 国際的な知見について

ハンセン病は世界中にある病気であり、ハンセン病対策は世界各国で問題になってきた。だからこそ一八九七年以来、各国でハンセン病に取り組んでいる医師たちが集まって国際らい会議、国際らい学会を開催して医学的知見を確立してきたのであり、国際連盟保健機構やWHOが国際らい学会の議論を踏まえ、人権に対する配慮も加えてハンセン病対策を打ち出してきた。したがって医学的知見の水準は、国際らい学会を基準としてその当否が問われるべきであり、ハンセン病対策はWHOの考え方に照らしてその当否が問われるべきである。(甲六六号証「犀川意見書」三頁)

(三) 国際的な知見の位置づけ

被告は、その準備書面五三頁以下において「このような国際会議やWHOにおける決議、勧告などは、ハンセン病に関するある時点における医学的知見の到達点を前提とした、あるべき対策の一つの方向づけ、おおまかな指針であって、その決議や勧告が各国の行政や施策を法律上あるいは事実上拘束するものではない。なぜなら、各国のハンセン病を取り巻く環境は大きく異なっており、画一的な施策をこれらの機関が強制することはできないからである。」と主張している。

いやしくも日本が独立国である以上、国際会議やWHOの考え方が、日本の行政や施策を拘束し得ないものであることは当然であろう。しかしそのことは国際会議やWHOの考え方を無視した政策が正当化されることを意味しない。

ハンセン病対策が患者の人権を制約するものである以上、その人権の制約が、政策目的と合理的な関連性を有するのか、目的達成のために必要最小限度と言えるのかが問題になる。その点を判断するについて最も信頼のおける基準は、国際会議やWHOの見解である。とりわけWHO以上に、世界中で行われているハンセン病の治療や予防に関する情報を広く収集している機関は存在しないのであって、その報告は、ハンセン病予防政策の、まさにグローバル・スタンダードなのである。

また各国のハンセン病を取り巻く環境は、それぞれ大きく異なっており、画一的な施策を強制することができないのは、被告主張のとおりである。WHOに加盟している国には、まさにハンセン病が流行中の国もあり、また経済的に貧しい国、衛生的な環境が非常に劣悪な国も含まれている。さらには国内法における人権保障のありかたも国によって様々であろう。こういった事情の異なる様々な国々が存在することを前提として、「あるべき政策の方向付け、大まかな指針」を示しているのがWHO報告なのである。

こういったWHO報告の性格を考えるならば、ハンセン病対策を立案・遂行するにあたって、WHO報告に示された指針を踏まえることは最低限の要請であり、その上でさらに、日本国憲法における人権保障、日本におけるハンセン病流行の程度等を勘案せねばならなかったのである。

(四) 一九五三年までの国際的知見

この点についても最終準備書面・事実篇において詳しく述べたところであるが、国際的には、スルフォン剤登場以前の時代から、その患者自身の人権と、伝染予防の必要性を衡量して公衆衛生政策を進めるというのが、一貫して認められてきた考え方であった。またハンセン病に関しても、あくまでも公衆衛生的観点から政策が立案されるべきであり、公衆の恐怖や偏見に基づいて政策が行われてはならないとされてきた。

この考え方はスルフォン剤の登場によって、隔離中心の予防対策から治療中心の予防対策、治療こそが予防のもっとも強力な武器であるという考え方に到達する。

これを極めて象徴的に示しているのが、一九五二年のWHO第一回らい専門委員会報告(乙二二号証)である。この報告書は「らい管理に関して政策を決定するのは、あくまで公衆の保健衛生の立場からであって、決して公衆の恐怖とか偏見から行われるのであってはならない」という原則を確認し、「現代のらい治療は、患者の伝染性を効果的に減少せしめ、患者を非伝染性に変えてしまう。それ故にこのらい治療というものはらい管理に現在最も有力な適した武器として好んで利用されているのである。治療は初期の患者に行ったときに一層効果的である。このことはらい管理にあたって心に銘記しておくべきことである。」と述べる。

絶対隔離絶滅政策は「癩根絶には隔離こそが唯一の方策」という観念のうえに成立していた。一九五三年当時、この観念は「らいを予防するためには隔離しかない」という言葉に装いを変えて、らい予防法の提案理由として登場する(甲六号証の二六の四頁一段目「衆議院厚生委員会における山縣厚生大臣の提案理由説明」、甲六号証の二三の一頁三段目「参議院厚生委員会における中山政府委員の提案理由説明」)。しかしこの第一回WHOらい専門委員会報告は、「らい予防(根絶)には隔離こそが唯一の方策」という観念を真っ向から否定するものだったのである。

被告は準備書面一三一頁において、報告書を部分的に引用し、この報告が隔離政策を否定するものではない旨主張している。しかしこの報告には、日本のハンセン病政策を肯定するような部分は一切含まれていない。

例えば被告が引用する「然し適当な症例を選んで~なお重要な意味を残しているのである。」という文章は、「患者の強制隔離への恐怖は、患者をますますできるだけ長い間一般社会に隠れていようとさせるもので、それが皮肉にも病気の治癒が可能である期間中隠れているような結果になってしまう。従って施設に隔離することのみが期待するような効果をもたらすものではなく、厳しく隔離を適当な規模で行った時でさえ、管理方法として失敗することがあるのである。」という文章に続くものであって、この一連の文章の趣旨は、「強制的な隔離は、伝染予防の目的のためにはむしろ逆効果である」と理解するのが普通である。

同じく被告が引用する「然しこのような場合にも、必要な時、可能な時には何時でも適用するために強制隔離の法的の力を残しておくことは、保健当局にとって得策である」という文章は、「らいが高度に流行しているが、しかしその国の資源が少なくて、施設内の治療を行うに適していないような国においては~」という文章に続くものであって、「らいが高度に流行している国」が前提になっている。当時の日本では、ハンセン病は流行していたどころか、隔離とは無関係に終焉に向かっていたことは既に何度も述べたところであり、この文章が日本と無関係であることは論ずるまでもない。
また、ここで具体的にどのようなケースが想定されているかについては、犀川証人が甲七〇号証の写真を示して説明したとおりであり(第八回口頭弁論調書犀川証言一一〇~一一三項)、少なくとも一九五〇年代の日本で考えられるようなケースではない。さらにここで「強制隔離」と表現されているのは、日本のらい予防法におけるような無期限の施設入所ではなくて、あくまでも治療のための一時入所なのである(前同一一三項)。

(五) 小括

以上述べたところから、一九五三年までの国際的知見、特に第一回WHOらい専門委員会報告に照らして、日本のハンセン病政策が違憲・違法なものであったことは明らかである。

(六) 結核予防対策との比較

ハンセン病は患者との接触によって感染するものと考えられてきたため、その予防対策は基本的には人間相手の対策であった。したがって必然的に人権に対する配慮が必要になる(甲六六号証「犀川意見書」二頁)。そこでいかなる配慮が必要かは、本準備書面二-1-で述べたとおりであるが、日本におけるハンセン病対策が、あるべき感染症予防対策をいかに逸脱したものであったかは、一九五一年に制定された「結核予防法」による結核予防対策と比較することによって、極めて明瞭になる。

(七) 日本における結核予防対策の歴史

日本における結核予防対策は、一九〇一年(明治三四年)の「畜牛結核予防法」、一九〇四年(明治三七年)の「肺結核予防に関する内務省令」から始まるが、公的な対策として結核患者を療養所に収容するようになったのは、一九一四年(大正三年)の「肺結核療養所設置及び国庫補助に関する法律」による。この法律は!人口三〇万人以上の市に肺結核療養所を設置させ、肺結核患者で療養の途なきものを収容すること、"地方公共団体、公益法人の設置する肺結核療養所の経費に対して国庫が補助することを規定するものであった。この法律に従って翌一九一五年(大正四年)、東京、大阪、神戸の三市に対して結核療養所の設置が命じられている。

一九一九年(大正八年)、はじめて「結核予防法」が制定された。この法律は、!結核を伝染させる虞のある患者で療養の途なき者を療養所に入所させること、"人口五万人以上の市又は特に必要と認める地方公共団体に対し結核療養所の設置を命じ、#地方公共団体及び公益法人の結核療養所に対して国庫が補助することを内容としており、結核予防のために患者を療養所に隔離するという面が明確になってきている。その他、結核菌に汚染された物件の消毒、結核患者に対する従業禁止なども定められており、日本におけるはじめての総合的な結核対策立法と言えるものである。

一九三七年(昭和一二年)、「結核予防法」が改正され、!医師は環境上結核を伝染させる虞のある結核患者を届け出ること、"結核療養所の設置を市以外の都道府県にも命じうること、#公立療養所に入所させる患者を療養の途なき者に限定せず環境上結核を伝染させる虞のある結核患者で予防上特に必要と認めるものとすること、等の条文が付加された。(以上、甲二四三号証「医制八〇年史」三九九~四〇四頁)

(八) 結核予防法(一九五一年改正)の特徴

一九五一年(昭和二六年)、旧結核予防法が改正され、新たな結核予防法が制定された。
これは旧結核予防法が専ら隔離及び消毒による伝染防止に重点が置かれており、BCG接種、胸部エックス線撮影による早期発見、ストレプトマイシンをはじめとする化学療法といったことに関して何らの規定もなかったため、こういった現代医学の長所を十二分に活用するとともに、社会保障制度の一環として、患者の医療費負担を軽減して結核の予防と患者に対する適正な医療の普及を図るところにあった(前同号証四〇九、四一〇頁)。

一九五三年に成立したらい予防法との比較において特に注目すべきなのは、結核患者に対して保健婦が家庭訪問を行い必要な指導を行うこと(法二五条)、一般の結核患者(すなわち療養所に入所していない患者)が医療機関で結核の治療を受ける場合、その費用の半分を都道府県が負担することを定めている(法三四条)ことである。すなわち結核予防法は、新しく開発された化学療法を普及するために、在宅の患者への指導、外来治療の費用を援助を制度化したのである。この点において、療養所以外での治療について何ら規定しない「癩予防法」及び「らい予防法」と際だった違いを示している。

また「結核患者がその同居者に結核を感染させるおそれがある場合」の入所勧奨、入所命令の制度はあるが、入所命令に従わなくても、癩予防法三条一項やらい予防法六条三項のような直接強制の規定はない。後述のように、この直接強制の規定がらい予防法において極めて重要な役割を果たしたことを考えれば(本準備書面第三章参照)、結核予防法における直接強制の不存在は極めて特徴的である。

また入所命令の際には期間を定めることになっている(法二九条)。すなわち一定期間治療をしたら退所することが前提になっており、らい予防法のような終生隔離は予定されていない。

以上のような法律に基づいた日本の結核政策により、一旦療養所に入所した患者であっても、結核が治癒したら社会復帰していった。ハンセン病対策のように、疾病が治癒したにもかかわらず療養所でしか生きていけない元患者を大量生産することにはならなかったのである。

(九) 結核とハンセン病との比較

ハンセン病はらい菌を感染源とする感染症であり、結核は結核菌を感染源とする感染症である。以下、(1)伝染力の強さ及び日本における蔓延状況、(2)予後、(3)治療法及び予防法の進歩の三つの側面から、結核とハンセン病を比較することによって、日本のハンセン病対策による人権侵害の過剰さを明らかにする。

(1) 伝染力の強さ及び日本における蔓延状況

伝染力は、ハンセン病に比較して結核の方が遙かに強力である。結核は飛沫感染が主であり、結核患者の看護に当たる家族や看護人は感染しやすい(甲二四四号証「内科書中巻」三七二頁以下)。これに対してハンセン病の場合、患者の看護に当たる医療従者の感染は稀で(乙二四号証一六一頁)、夫婦間における感染率も極めて低い(乙二五号証一一頁、乙二六号証二四頁)。

この伝染力の差は、日本における結核及びハンセン病の蔓延状況からも裏付けられる。
ハンセン病の新患発生の統計は一九四七年(昭和二二年)から数字が残っているが、最も発生が多かったとされる一九四九年(昭和二四年)で一一三七人に過ぎない。一九五〇年(昭和二五年)の発生は七〇〇人である。なお日本におけるハンセン病の新患発生は、「癩予防ニ関スル件」の制定された一九〇七年以前からほぼ直線的に減少傾向にあったことは、日本らい学会の見解(甲一号証「らい予防法廃止の歴史」三四五頁)が示すとおりである。

一方、結核の新患発生の統計が残っているのは一九四〇年(昭和二五年)からであるが、この年は五二万八八二九人であり、同年のハンセン病新患発生数のなんと七五五倍である。新患発生数は一九四七年(昭和三二年)まで五〇万人を超え、一九四八年(昭和三三年)~一九五〇年(昭和三五年)も四九万~四八万人を推移し、明確な減少傾向が見られるのは一九五一年(昭和三六年)以降のことである(甲二四五号証「衛生行政大要」一一一頁)。

以上のような比較検討からすれば、一九五〇年代前半において、ハンセン病に対し、結核に対する以上の厳格な予防政策を採る必要は全くなかったことになる。

(2) 予後

伝染力が弱く、蔓延の程度が低くても、それが極めて予後不良な疾患であれば厳重な予防政策にも一定の合理性を認める余地があるかもしれない。しかし実際にはハンセン病に比較して結核の予後は遙かに深刻である。

ハンセン病はスルフォン剤登場以前から、死に至る病ではなかったことは既に述べた。これに対して結核は、日本において死亡統計が始まって以来、一九五〇年(昭和二五年)に至るまで、ほぼ一貫して死亡原因の第一位を占めていた代表的な致死的疾患だったのである。日本で最初に肺結核による死亡者数の全国調査が行われるのは一八九九年(明治三二年)であるが、この年の結核死亡者数は六万六七七九人である(甲二四三号証三三九頁)。この数字は第二次世界大戦中の一九四三年(昭和一八年)に一七万一四七三人まで達し、戦後は減少傾向に転じた。しかし減少したとはいえ、一九五一年(昭和二六年)段階では、なお年間九万三三〇七人が結核で死亡している(甲二四五号証一一〇頁)。ハンセン病による死亡者の全国統計など存在しないため比較のしようがないが、四~五桁違うことは間違いない。

このような予後を比較してみても、ハンセン病に対し、結核に対する以上の厳格な予防対策は採る必要はなかったのである。

(3) 治療法及び予防法の進歩

では一九五〇年代の日本における結核及びハンセン病それぞれの治療法や予防法はどうだったであろうか。
ハンセン病の治療法がスルフォン剤の登場によって激変したのと同じく、結核の治療法も、第二次世界大戦後、ストレプトマイシン・パス・ヒドラジッドなどによる化学療法が登場したことによって大きく進歩した。結核による死亡者が、戦後において減少したのはこれらの化学療法の進歩に拠るところが大きいし、昭和二六年の結核予防法もそれを背景としたものである。

しかし、このような結核における化学療法の進歩も、当然のことながら一定の限界を有するものであり、ハンセン病におけるそれを超えるものではない。

例えば、昭和三〇年出版の甲二四七号証「内科学」一五一頁は次のように述べる。
「化学的に結核菌を侵襲して結核を全治させる特効薬は未だ発見されないが、最近発見されたストレプトマイシンに最も大きな期待がかけられている。」

「現今までの成績では滲出性結核症には有効であるが、増殖性、硬化型の病変には効果がない。」
すなわち、抗結核剤の代表選手であるストレプトマイシンも、全治に導く特効薬と評価されたわけではなく、また実際に全ての結核に効いたわけではないのである。
また昭和四一年出版の甲二四四号証「内科書中巻」四三〇頁は、結核に対する化学療法の限界について以下のように述べる。

「現在の抗結核薬は、制菌的であって殺菌的とは言い難いのみならず、病巣によっては薬剤が結核菌と接触しがたい場合や、その効力が減ぜられる場合があり、抗結核薬には自ずからその効果に限界がある。」
被告はスルフォン剤がらい菌に対して制菌的効果しかなく殺菌効果を持っていなかったことを強調するが、実は結核に対する化学療法も同様だったのである。

さらに同書四五五頁以下は、抗生剤治療登場後の肺結核の予後について以下のように述べる。
「かつて肺結核は喉頭結核あるいは腸結核などを併発して不良の転帰をとるのが常であったが、診断・治療・予防の進歩によって現今ではその予後はその様相を一変するに至った。すなわちその予後は良好となり、かつ治癒の状態にまでも達しうる。しかし病巣は石灰化してもその中の結核菌はなお生存しうるので、病理学的治癒を診定することは困難である。したがって治癒と称するのは臨床的治癒であって、しかも、これも不確実であって、再発がないことは期しがたい。また従来のごとく重篤な合併症で死に至ることが少なくなった反面、肺結核が治癒するに至らず、広範な陳旧性病巣ことに空洞を有し、結核菌ことに薬剤耐性菌を排出しつつ、さらに著しい肺機能障害を伴い、社会復帰を望み得ないことはもちろん、臥床したまま日常の起居も不自由な患者が少なくない。」

化学療法の登場で予後が良好になったとはいえ、完治と評価することは難しく、再発の可能性を否定できないという状況は、ハンセン病に限らず、結核も同様だったのである。

また結核の場合においては、BCG接種という予防方法が登場したことが、結核予防法制定の背景の一つになっていることは否定できない。しかしこのことをもって結核とハンセン病との決定的な違いと考えることはできない。
昭和三〇年出版の甲二四七号証「内科学」一四八頁は次のように述べる。

「(BCG)注射によって獲得される免疫力はさほど強力ではなく、また永続しない~BCG予防注射はかくのごとくまだ理想的予防剤とは称しがたいが、それ以上の有効確実な方法がない現在ではこれを広く利用することが我が国目下の状勢では最善の策である。」

現実に、日本においてはBCGの接種によって新発生患者が減少したという事実がない。BCGは一九四二年から実施されており、一九四八年には予防接種法で三〇歳未満の国民に年一回のBCG接種が義務付けられるのであるが(甲二四三号証四〇七、四〇八頁)、前述のとおり、日本における結核の新患発生数は昭和三五年までほとんど減少していない。すなわち、BCGの登場にもかかわらず、結核はハンセン病と比較して遙かに広く蔓延していたのである。

(十) 小括

以上、本準備書面で述べたとおり、あらゆる面から考察して、ハンセン病予防対策が結核予防対策よりも厳重な隔離を以て行われるべき理由はなかった。ところが本準備書面で述べたとおり、日本におけるハンセン病対策は、結核対策におけるよりも遙かに厳重な隔離政策として遂行されたのである。

これはすなわち、日本のハンセン病対策が、いかにハンセン病予防という目的達成のための必要最小限度を超えた過剰なものであったかということを示している。一九五三年段階における日本のハンセン病政策の違法性はこの点からみても明らかである。

3 一九九六年まで継続された違憲・違法な政策

前項で述べたとおり、日本のハンセン病政策は、一九五三年時点で極めて顕著な違憲性・違法性を帯びていた。最終準備書面・事実篇で示したとおり、一九五三年以降も、この絶対隔離絶滅政策に対して、見直しを迫る国際会議の決議やWHOの報告は枚挙に暇がない。しかもそのような決議や報告に従わない合理的な理由は一切見いだせない。
しかし本準備書面第二章第二の四で述べたとおり、絶対隔離絶滅政策は変更されることなく継続したのである。

三 厚生省の故意・過失

ここでは組織体としての厚生省が、自分の策定・遂行したハンセン病政策が違憲・違法なものであったことを認識することが可能であったことについて論ずる。結論からいえば、認識可能であったどころか、厚生省は充分認識しつつこの絶対隔離絶滅政策を遂行したのであり、過失というよりはむしろ故意によって原告らハンセン病患者及び元患者の人権を侵害したものである。

以下、まず戦前における内務省衛生局及びその事務を引き継いだ厚生省の認識を検討し、国賠責任追及の対象となる一九四七年以降については、違法性の検討と同じく一九五三年を境に分けて論ずる。

1 戦前における内務省・厚生省の認識

(一) 国際的な知見に関する認識

内務省は、戦前に絶対隔離絶滅政策を策定・遂行した時点において、既に、ハンセン病の伝染力が微弱であり、無差別に終生隔離をすることが望ましくないことを了解していた。
土肥慶蔵教授が出席した一八九七年の第一回国際らい会議では、Impeyが知覚麻痺らいの非伝染性を報告し、らい菌の伝染力は極めて微弱であることが報告されている(甲一七二号証「国際らい会議録」二三頁、二七頁)。帝国議会においても、第一回国際らい会議の決議が引用されて審議されている(甲六号証-二)。

この知見のみで、日本型の絶対隔離絶滅政策が間違ったものであることは明らかであるが、その後も、具体的にこのような政策が国際的には勧められていないこと、そのことを内務省が知っていたことは以下の通り明らかである。
光田健輔が出席した一九二三年の第三回国際らい会議では、既に述べたように、「らいの蔓延が甚だしくない国においては、住居における隔離はなるべく承諾の上で実行する方法を採ることを推薦する。」(甲一七二号証一〇三頁)として、日本のようにハンセン病の蔓延が甚だしくない国では、隔離の方法は、住所内分離をとればすむことを示唆するのみであり、施設を用いた強制隔離は一切推薦されていない。しかも、そのような住居内分離も、なるべく承諾の上で実行するように推薦しているのである。

日本では施設隔離が不要であったこと、ハンセン病の流行地の場合であっても、日本のような絶対隔離絶滅政策が全く不要であったことは明らかである。

一九三〇年の国際連盟らい委員会では、「治療なくして、信頼しうる予防体系は存在しない」として、治療による予防という考え方を示している。その上で、隔離については伝染性の患者に限られることを明言した上で、「伝染性疾患の隔離は、・・・らい予防の唯一無二の方法とみなすことはできない。」としている(甲一七二号証一〇五頁)。この会議では、伝染性のない患者については、家庭内隔離も含めて一切の隔離の必要性がないという国際的コンセンサスも確立した(第八回口頭弁論調書犀川証言八九項)。

本会議に基づいて作成された「らい予防の原則」では、隔離は極めて限定的になされるべきであり、感染性がある時期に限られるべきであるとされている。社会復帰が前提とされており、外来治療を可能とする制度の確立を求めている。さらに、社会からの追放という意味の隔離を示すセグリゲーションと言う言葉の使用をやめて、一時分離という意味のアイソレーションという言葉を使うよう進めている(甲一九四号証「ハンセン病予防の原則」訳文三~七頁)。

(二) 日本国内における知見

前項に見たような国際的な知見に対して、日本の医学的な知見が全くかけ離れていたわけではない。

一九二三年一一月に行われたらい学会懇談会において、太田正雄医師が、「健康な人、栄養のよい人にはなかなかうつらない。」と発言したのに対し、内務省衛生局の高野六郎が「隔離だけでは不可ぬという先ほどからの太田氏のご意見、あるいは将来のらい予防政策を変更しなければならないときが来るかもしれない」と述べている(甲一二九号証「癩治療問答其他」)のも、内務省が前項に述べたような国際水準のハンセン病政策を熟知していたことの証左である。

一九三一年、医学博士青木大勇は、「癩の予防撲滅法に関する改善意見」(甲五二号証)で「伝染の難易・病毒の多少を顧慮せず、科学的研究のうえに立脚しないで所謂一網打尽的に、苟も癩と診断せられたものは、全てこれを強制的に隔離し而もこれを監禁本位に取り締まると云うことは全く時代遅れの隔離法と云わなくてはならないのであって、悪く云えば非科学的とけなさねばならぬ」と論じる。

一九三二年、九州療養所(現菊池恵楓園)の河村正之は、第五回日本癩学会で「社会問題としての癩の治癒について」(甲五〇号証)と題して講演し、「櫻根博士の実験によれば二五年間も再発ざりし例もあり、療養所内においても一〇年位病勢の停止せるは珍しくないようである。斯く長年月に亘りて何ら伝染の危険のないものを療養所内に留め置くは極めて無意義にして、わが国の全患者の三分の一を収容しうるに過ぎざる現状としては不経済なることと云うべし」と論じる。

一九三四年、北部保養院(現松丘保養園)院長中條資俊は「癩伝染の径路について」(甲四九号証)において、「癩の伝染力が弱いことは医者のみならず世人も認めているところであると思われ、そのために未だに遺伝病と誤解しているものもある」「家と家とが隣り合う程度では伝染が起こらない」「癩の隔離は伝染力の微弱なるに鑑み厳格に失せざる様施設すべきである」と論じる。

一九三九年、東京大学伝染病研究所の日戸修一は、「癩と遺伝」(甲六二号証)と題する評論で「例えば成長した人間の大部分は、癩といかに密接に接近しようと大概は未感染に終わる。例えば癩療養所における医師・看護婦は未だかつて癩に罹患したことはなかったし、癩の家族或いは夫婦についても癩に結婚後感染したと思われる例は実に稀である。」と述べている。

これに対して、ハンセン病の伝染性について論じたものは、乳幼児に対する家庭内感染の危険性を論じたものが殆どである。

絶対隔離絶滅政策が遂行されていた日本においても、開業医、療養所医師、研究者といった医学の専門家の間では、ハンセン病の伝染性の微弱さ、絶対隔離政策が不要であることは、むしろ常識だったのである。すなわち日本の医学的知見が世界的な知見と乖離していたのではなく、日本のハンセン病政策が、世界的な知見とも日本の知見とも乖離していたのである。

(三) 小括

以上からすれば、戦前における内務省衛生局及び厚生省も、ハンセン病の伝染力が微弱であること、国際水準のハンセン病政策としては、住居内隔離をすれば十分であり、それが物理的理由等で行えないなど、施設への分離が避けられない場合も、人道的に、かつ家庭の近い場所におくことが勧められていたことは、十分に知っていた。
内務省衛生局及び厚生省は、絶対隔離絶滅政策に医学的根拠がないことは認識したうえで、これを遂行していたものである。

2 一九四七年~一九五三年における厚生大臣の故意過失

一九四七年には、基本的人権の尊重を大原則とする憲法が施行された。
その結果、従来は、社会防衛のため、国家から駆逐する対象としか扱われてこなかったハンセン病患者も、国民としてその人権が尊重されるべきことが明らかとなった。

この時点において、厚生省は、従来の政策が憲法に適合的なものであるか否かを検討する規範を与えられたというべきである。

前述のとおり、厚生省及びその前身としての内務省衛生局は、ハンセン病予防のために絶対隔離絶滅政策が不必要なものであることを知っていた。またそれを知っていながら、無癩県運動によって絶対隔離絶滅政策を全面展開した首謀者もまた内務省衛生局であり、厚生省だった。

最終準備書面・事実篇で指摘したとおり、一九四七年一月には衆議院厚生委員会で栗生楽泉園特別病室事件が問題になっており、厚生省の東医務局長が死亡者数や平均拘留日数を報告している(甲二三九号証二二五頁三段目~二二六頁一段目)。厚生省は自らが遂行した絶対隔離絶滅政策がどれほど激烈な人権侵害であったかを最もよく認識していたのである。

厚生省としては、本来、日本国憲法に照らして、自らが犯してきた罪を率直に反省し、政策変更を行うべきであったことは言うまでもない。

さらに、一九四八年一一月二七日の衆議院厚生委員会における東医務局長答弁(甲二四〇号証一〇頁四段目)によれば、この時点において既に厚生省がプロミン、プロミゾールといったスルフォン剤の治療効果を認識していたこと、及びその治療効果に基づいて政策変更の必要を認識していたことが明らかである。

ところが現実には、厚生省は一九四九年六月二四日及び二五日の全国らい療養所所長会議において、第二次無癩県運動の展開を方針決定し(甲二一〇号証)、この年から療養所の増床を行っていく。これは戦前の絶対隔離絶滅政策を戦後においても継続することを意思決定したものであり、この方針が一九五三年におけるらい予防法の国会上程につながっていくのである。

これはもはや過失とはいえない。厚生省はむしろ違憲・違法な政策であることを充分認識しつつ、この政策を立案・遂行し、原告らハンセン病患者あるいは元患者らの人権を侵害したものと評価されるべきである。

3 一九五三年時点における厚生省の故意・過失

一九五三年時点において、厚生省は、スルフォン剤の効果によって隔離の必要性がなくなったこと、ハンセン病予防のための最も有力な武器は隔離ではなくスルフォン剤による治療であるというのが国際的な知見であることを充分認識していた。

(一) スルフォン剤の効果について

厚生省が一九四八年一一月の時点において、プロミン及びプロミゾールの治療効果を認識していたことは前述のとおりである。
日本では一九五一年の日本らい学会においてプロミンの治療効果が正式に確認されたと言われるが(第八回口頭弁論における犀川証言二二項~二五項、甲六八号証)、このことが厚生省にとって認識可能であったことは言うまでもない。

さらに一九五一年一一月八日の参議院厚生委員会における悪名高き「三園長証言」だけからしても、実はスルフォン剤の著効は明らかなのである。

スルフォン剤の治療効果に関して、最も積極的な証言をしたのは多磨全生園園長林芳信であった。

「これは現在相当有効な薬ができまして・・・各療養所においても患者の状態が一変したと申してよろしいのでございます・・・もう一歩進めば全治させることができるのではないかと思うのであります。只今もごく初期の患者でありますれば殆ど全治にまで導くことができておるような状態でございます。」(甲六号証-二二-二頁一段目)
菊池恵楓園園長宮崎松記もこれを認めている。

「癩の治療医学は最近非常に進歩してまいりまして、林園長もお話になりましたように、私ども今までにない画期的な希望を持っております」(同号証六頁一段目)。
但し、宮崎は以下のように続けている。

「如何に特効的な治療薬ができましても、すでに欠損した体の一部分は再生してまいりませんし、奇形になった部分は元に復するということは困難であります・・・医学的にこれは治癒したと申しましても社会復帰ができない状態になります・・・社会復帰ができないということは、不治と同じであります。」(同号証六頁一段目~二段目)

あたかもスルフォン剤の治らい効果の限界を語っているように見えるが、欠損した体の一部がどんな薬剤を以てしても再生しないことは誰が考えても当然のことに過ぎない。宮崎はそれを以て不治の病という。しかしこのような患者にとって必要なのは隔離ではなく、社会復帰支援であることは明らかである。

スルフォン剤の治療効果について最も控えめな発言をしたのは、長島愛生園園長光田健輔であった。 「ひどく癩菌が増殖して潰瘍をつくる、その潰瘍を治癒せしめるということだけはできるのでありますけれど・・・神経の中に神経繊維の再生はできないのであります。・・・癩菌がすくなくなったから、これを出すことができるものならいいが、依然として、そういうような患者さんは外部において又いろいろの職業に従事いたしまするというと、又ひどい破壊が起こるのであります。現在の有力なる治療法でも再発を防ぐということはなかなか私は難しいと思うのであります。」(同号証三頁四段目)

しかし、光田の控えめな評価を前提としても、この段階で必要なのは隔離ではなく、ハンセン病患者が無理を押して働かなくて済むような福祉施策であることは明らかであろう。

その隔離の強化を求める三園長にして、右のような発言で、スルフォン剤の治療効果を認めざるを得なかったのである。「癩予防の方法は隔離以外にはない」という三園長の信念はともかく、この発言が明らかにしたスルフォン剤の治療効果は、隔離の必要性が既に失われていることを示すものであった。

(二) 国際的な知見について

本準備書面第二章で述べたとおり、一九五二年の第一回WHOらい専門委員会報告に照らした場合、日本のハンセン病の違憲性・違法性は極めて明らかになる。

この報告書を、厚生省は遅くとも一九五三年七月には入手している。それはらい予防法制定を議論していた一九五三年七月六日の参議院厚生委員会における、山口公衆衛生局長の以下の答弁から明らかである。

「これは先般医務局長(曽田)が出席されましたWHOの総会におきましてらいに関する特別委員会の報告がございますが、それによりましてもらい患者の収容ということについて強制力をどの程度使うかということについては、その国によって状況が異なるというふうになっているのでございますが・・・」(甲六号証-三二-三頁五段目)。

このあと山口公衆衛生局長は、アメリカ、南アフリカ等でハンセン病患者の収容に強制力が使用されている例を挙げるが、この報告書を入手している以上、「治療こそ予防のための最も有力な武器」というこの報告の眼目を知らなかったはずがない。そのことは充分認識しながら、厚生省が提出しているらい予防法案、これまでの絶対隔離絶滅政策の継続を正当化する法案に都合のいい部分のみを拾いあげて国会で報告しているのである。

絶対隔離絶滅政策を正当化する医学的知見はなかった被告は、日本の隔離政策にあたかも医学的根拠が在るかのように、いくつかの医学文献を乙号証として提出しているが、それらの文献のいずれにも日本型の絶対隔離絶滅政策を正当化するような医学的知見は語られていない。

被告の引用する証拠で唯一絶対隔離を正当化するかに見えるのは、前記三園長証言の中の光田健輔発言であろう。

「ところが癩と結核は全く別でありまして、皮膚の上皮層の〇・一ミリか〇・二ミリの下には黴菌の膿があるのですから、その黴菌の猛毒質の群集があるのです。鼻の粘膜からは出、口の粘膜からは癩菌が飛ぶということになっているのであります。・・・蚊にもくちばし、それから蝿にも血を吸うくちばしがあるし、それからダニ、疥癬ですね、これによって血と共に癩菌が運搬せられる。」(甲六号証-二二-一一頁一段目)

これがいわゆる「強烈伝染病説」と言われるものである。

ハンセン病があたかも結核よりも伝染性が強いかのような光田の見解が、あまりにも非常識なものであることは言うまでもない。このことは医学的常識に照らしても明らかなことであり、日本における結核とハンセン病との疫学的状況を比較しても一目瞭然であった(本準備書面第二章)。

また蚊、蝿といった昆虫がハンセン病を媒介するかどうかについては、例えば乙二六号証として提出されている日本皮膚科全書も「要するに以上の虫類は癩菌を伝播する危険と刺掻によって皮膚を傷つけ、痒さのために掻破するから菌の侵入を招く危険があり、ダニーやスーザ・アラウジョもいうように流行地では一応注意すべしというに留まる。一般に体内に入る菌は極めて少なく、且つ虫体内で繁殖しないから少なくとも中間宿主としての意義はほとんどない。癩院の近辺に流行を来した事実がないこともこれを裏書する。」と述べているように、全く光田独自の見解である。

実際には、光田自身も、このような知見を医学論文として発表したことはないのである。これは被告が提出している乙号証に、そのような論文が全く含まれていないことからも明らかであろう。光田のいわゆる「強烈伝染病説」は、実は素人向けの政治的プロパガンタではあっても、医学的知見ではなかったのである。このことは被告側の証人として出廷した長尾証人も「強烈な伝染病という概念はなかったと思います、医学的にはですね」(第一三回口頭弁論調書長尾証言二五九項)と認めている。

また被告は一九〇一年(明治三三年)の全国調査で、全国の患者総数三万三三五九人、らい関係家族九九万五三〇〇人とされ、近い将来一〇〇万人近い患者が出ることが予想されたと主張するが、このような予想を行ったのも光田健輔である(甲一三号証六〇頁)。この予測自体、「らい関係家族」の全員が感染し発症することを前提とした極めて杜撰なものであることは明らかである。またその予測から五二年間、光田の予測に反して、日本のハンセン病は減少し続け、明らかに終焉に向かっていた。日本におけるハンセン病患者数が減少傾向にあったことは、あまりにも明白な事実であるが、光田自身も一九四九年の論文「決定されたる壮丁癩曲線と全国推定癩患者数」(甲二〇三号証)でこれを認めている。光田の予測は大外れであり、そのことは一九五三年段階では誰が見ても明らかであった。現実問題として一九五三年当時、日本においてハンセン病が流行する可能性を指摘した医学論文は存在しない。

要するに、一九五三年当時、絶対隔離絶滅政策の継続を正当化する医学的知見は、存在しなかったのである。

(三) 小括

以上のように、厚生省は一九五三年時点において、スルフォン剤の治療効果及びそれを背景とした国際的なハンセン病政策について十分な認識を持っていた。この時点においても、厚生省は故意によって絶対隔離絶滅政策を継続し、原告らハンセン病患者あるいは元患者らの人権を侵害したと言わざるを得ない。

4 一九五三年以降における厚生省の故意・過失

最終準備書面・事実篇で示したとおり、一九五三年以降も、この絶対隔離絶滅政策に対して、見直しを迫る国際会議の決議やWHOの報告は枚挙に暇がない。厚生省はこれらの決議や報告を検討してハンセン病政策の再検討を行うべきであったにもかかわらず、絶対隔離絶滅政策を継続したのである。

本項ではローマ会議(癩患者の保護及び社会復帰に関する国際会議)、第七回国際らい学会、第二回WHOらい専門委員会報告について論ずる。勿論、日本のハンセン病政策及びらい予防法の見直しを迫る国際的な決議・勧告・報告はこの三つに尽きるものではないが、これら三つについて論ずれば、絶対隔離絶滅政策を変更しなかった厚生省の過失は十分明白と言えるからである。

(一) ローマ会議

一九五六年(昭和三一年)にマルタ騎士修道会によるローマ会議すなわち「癩患者の保護及び社会復帰に関する国際会議」が開催された。日本からは当時の藤楓協会濱野規矩雄常務理事、林芳信多磨全生園園長、野島泰治大島青松園園長が出席している。

この会議においては、「らいの伝染性が低いこと及び医療により左右されうる疾病であること」を踏まえた上で、ハンセン病に対する全ての差別待遇的な諸法律が撤廃されるべきことが決議されている。ハンセン病に対する特別法が、ハンセン病患者に対する差別・偏見を助長し、ハンセン病患者の社会復帰を困難ならしめているというのが、このローマ決議の根底にある考え方である。

(以上、甲一号証「らい予防法廃止の歴史」一八七~一九四頁)

なお被告はその準備書面において、ローマ会議の決議に「患者は、その病気の状況が、家族などに危険を及ぼさない場合には、その家に留めておくべきこと」「経済的及び医学的資源が不十分で然も多数の患者を擁する国々においては、集団治療の運動を実施すること」「児童はあらゆる生物学上の正しい手段により感染から保護されるべきこと」とあるから、「予防、治療のための入院まで否定しているものではない」と主張している。

ナンセンスな主張としかいいようがない。予防のために入院が有効であることを認めることと、予防目的の隔離政策を認めることは全く別なレベルの問題なのである。被告の主張はこの点を一貫して混同している。

(二) 第七回国際らい学会(乙三三号証)

一九五八年(昭和三三年)の第七回国際らい学会は、東京で開催された。
この国際会議の社会問題専門委員会は七項目の決議を行っているが、特に注目すべきは一項と四項である。

すなわち「一 正しい社会的態度:癩はいくつもある疾病の一つに過ぎず、特別なものではなく、むしろ伝染しにくいものだという見地から、癩は常に特別なサービスを必要とする観念は打破されねばならない」「四 施設:政府が強制的収容政策をしいているのならば、それは廃棄されねばならない」この決議を真摯に受け止めるならば、日本のらい予防法は廃止する以外になかったはずである。
被告は準備書面で「五 立法:他の疾病に適用される公衆衛生法規の正常な方法を用いるべきであるが、患者を差別偏見から保護する法律も必要かも知れない」という項目を指摘しているが、この決議もまたローマ会議の決議と同じく、ハンセン病に関する特別法が患者に対する差別・偏見を助長するという観点に立っている。勿論この決議項目から考えても、らい予防法は廃止すべきことは言うまでもない。

被告が敢えてこの項目を引用しているのは、らい予防法が、ハンセン病患者を差別偏見から保護する法律であると主張する趣旨であろうか。仮にそのような趣旨であるとすれば、国はこれらの国際会議の決議について全く理解する能力を持たないことを自白しているようなものである。

また被告は準備書面で、管理の委員会が「幼児と小児とを菌陽性者から隔離することを勧告している」ことを挙げている。しかしこれは「これらの子どもを親戚あるいは友人の許に移すように務め、もしこれができないならば一般保育所に移すべきであろう」という文章に続くのであって、ハンセン病患者を療養所へ強制的に隔離することを認める趣旨でないことは言うまでもない。

さらに被告は準備書面で、管理の委員会が「強制収容は廃止すべきであるが、菌を排泄し、隔離に対して満足な条件が他人に対して保てないような患者では、これを収容所に隔離する要求を行いうる権力を衛生官はもっているべきである」と述べていることを指摘している。この文章は、日本のらい予防法六条三項のような強制収容の規定は廃止されるべきだという意味に理解すべきことは当然である。「収容所に隔離する要求する権利」が強制収容の権限を認めるものでないことは文脈上確実であり、らい予防法で言えば法六条一項の勧奨の権限を認めたものと考えるのが合理的である。

(三) 第二回WHOらい専門委員会

この委員会が開催されたのは一九五九年(昭和三四年)のことであるが、報告書は翌一九六〇年(昭和三五年)に発行されている。
この委員会は、前項で述べた第七回国際らい学会の決議を踏まえ、WHOの新しい理念に基づいたハンセン病対策を世界各国に示したものである(乙八〇号証「ハンセン病政策の変遷」一四八頁)。

この報告においては、患者隔離政策に偏って、療養所の運営、経営に終始していたハンセン病対策を廃し、一般保健医療活動の中でハンセン病対策を実施すること(Integration)を提唱し、ハンセン病に関する特別法の廃止を強調している。また療養所は、外来治療患者で反応期にある者や、足穿孔症などの合併症で専門的治療を要する者、理学療法や矯正手術の必要な後遺症患者の治療のため、患者が一時入所する場と位置づけられ、入所は短期間で可及的速やかに退所し、外来治療の場に移すこととされている。

(四) 小括

以上のような国際会議の決議あるいはWHOの報告を踏まえれば、被告としては当然これまでの隔離政策を反省し、真の政策変更に踏み切るべきであった。ところがこれらの決議、報告は日本のハンセン病政策に全くと言っていいほど影響を与えなかったのである。

その最も象徴的な場面が、本章第二でも引用した、一九五八年に東京において開催された第七回国際らい学会における小沢医務局長発言であった。

「まだ在宅の未収容患者が相当あり、これらが感染源となっているので、これが収容促進のために次の如き施策が行われている・・・」(甲一号証一九八頁)

前記のような、ハンセン病に対する特別法の廃止や、強制収容政策の廃止が議論されている最中に、この日本の隔離政策を誇るかのような小沢発言がなされているのである。

小沢発言に示された厚生省の考え方と、国際的なハンセン病対策の距離は果てしなく大きい。あまりの距離の大きさに、もはや分からないふりをしているのか(故意)、あるいは本当に分かっていないのか(過失)が判然としないが、いずれにしても故意あるいは過失を重ねに重ねて、絶対隔離絶滅政策が継続されたのは間違いない。

四 法律は違法性阻却事由あるいは責任阻却事由になりうるか

被告は「ある分野につき基本となる法律が存在する場合に、行政庁職員が、法に従って政策を施すことが、国賠法上違法と評価されることはなく、少なくとも同公務員には故意・過失は存しない。」と主張している。

1 違法性阻却事由となりうるか

(一) 法律に従った行政が違法と判断された判例

判例上「法律に従った」政策の違法性は認められており、法律に従ったことが必ずしも違法性阻却事由になるわけではない。

即ち、予防接種禍東海地方訴訟において、名古屋地判昭六〇・一〇・三一(判時一一七五・一一二)は、次のとおり判示している。

「一般に厚生大臣等は、行政庁の長として法の定めに拘束され、抽象的規範たる法を現実に実施・運用する責任を負うものであるが、予防接種法の運用は、あくまでも罹患、流行から集団または個人を防衛するために有効・安全なワクチンを接種するとするものであるから、当該疾病の流行状況、罹患の可能性と摂取による副反応事故発生の危険とを総合的に判断し、予防的手段であるワクチンの接種が無効でありまたはこれによる危険が流行による危険を著しく上回るなど当時の医学上、防疫上の知見に照らし、予防接種の実施が是認されないことが明白な場合には、右実施がまれにではあるが直接被接種者の生命・身体に危険を将来することに鑑み、あるいは事実上法の効力を停止し、あるいは速やかにその改廃を図るなどの措置を講ずべき義務があるものというべきである」
これは、一般論として、厚生大臣が予防接種法に基づき施行されていた定期種痘を廃止する義務を負う場合があり得ることを示したものである。

同様に、前掲の東京高判平四・一二・一八は、予防接種法の運用にあたるべき厚生大臣が、その執行によって重篤な副反応による事故を防止するため、禁忌者を的確に除外するための「具体的な施策を立案し、それに沿って予防接種法一五条に基づく省令等を制定し、かつ市町村長を指揮監督し、あるいは地方自治体に助言し勧告する。更には医師、国民に副反応や禁忌について周知を図る等の施策をとる義務」を負うことを認めており、法の運用にあたって、法律に従った施策をとったにすぎないということが、その違法性を阻却する事由にならないことを明らかにしている。

(二) 憲法違反の法律の執行は違法性阻却事由にはならない

癩予防法、及びらい予防法が日本国憲法に違反していることは、本準備書面第三章-第二及び同第三で後述するとおりである。「違憲な法律」の執行は、違法性阻却事由にはならない。

厚生大臣は、公務員として憲法尊重義務を負うのであるから、公衆衛生政策を立案、実行するに際しては、当然のことながら、当該政策が憲法に違反することがないよう配慮すべき義務を負っているのであり、当該政策の遂行によって、個別の国民に人権侵害を生じる等の違憲状態と判断される事態が生じた場合には、その政策を直ちに改廃する義務を負うものである。

したがって、当該違憲状態が政策の根拠となっている法律自体の違憲性に由来していると判断される場合には、違憲状態を解消するために、「事実上法の効力を停止し、あるいは速やかにその改廃を図る等の措置を講ずべき義務」を負うとともに一方で当該政策を直ちに改廃すべき義務を負うことになる。
以上からすれば、法の執行としての政策であることを理由に国賠法上の違法とはなりえないとする被告国の主張は全く失当である。

(三) 法律を主導する政策の違法性

本件において法律の存在が絶対隔離絶滅政策の違法性阻却事由となり得ない最も根本的な理由は、本準備書面第二章-第一-二-3で述べたとおり、絶対隔離絶滅政策は「法に従った」政策ではなく、常に「法を主導する」政策であったというところにある。

被告の主張は、(1)そもそも日本のハンセン病政策が「癩予防法」ないしは「らい予防法」に従って、その執行として立案・遂行されたものである、(2)行政庁には、違憲立法審査権はなく、たとえ違憲な法律であったとしても、その法律に従って政策を立案遂行することが違法となりあるいは故意・過失を問われることはない、という二点から成り立っていると考えられる。しかし歴史的経過から明らかなとおり、日本のハンセン病対策は常に政策が先行しており、法律はそれを正当化する手段として使われてきた。

すなわち被告主張の(1)は事実と異なる。そうである以上、自らが立案した政策に従って制定された法律の違憲性を判断できないという(2)の主張が成り立たないこともまた明らかである。

2 責任阻却事由となりうるか

違法性阻却事由について述べたところと同じ理由によって責任阻却事由となり得ないこともまた明らかである。
特に本件においては、原告ら個々人に対する個別の「政策の適用」を責任原因として主張しているのではない。すなわち認識可能性が問われているのは、例えば強制収容といった「政策の適用」に関わった末端の厚生省職員ではなく、組織としての厚生省である。

右のような観点に立った場合、絶対隔離絶滅政策が違憲・違法であることを最もよく認識し得たのが厚生省であることは明らかであろう。本件においては国会にも過失があることは、本準備書面第三章-第二-二、同第三-二、同第四-二で後述するところであるが、ハンセン病予防のために隔離は必要ない、むしろ隔離すべきではないことを基礎づける情報は、国会よりもむしろ厚生省に集中している。ハンセン病に関する国際会議やWHOの資料を最も早く入手してきたのも厚生省であるし、例えば本章第三-二-2における結核とハンセン病との比較に使用した統計資料も、全て厚生省のものである。

そのような立場にある厚生省が、法律の存在を責任阻却事由として主張するのは、厚顔無恥も甚だしいというべきである。

五 政策と損害との因果関係
1 政策そのものによる被害と政策の適用による被害との関係

本件原告らの被った被害は、政策そのものによって生じた被害と、政策の結果としての隔離収容に代表される政策適用によって生じた被害の複合体として理解されるべきものであるが、政策の適用が政策遂行の因果の流れである以上、その被害の総体が、絶対隔離絶滅政策によって生じたものと評価されるべきである。
その詳細は、最終準備書面・損害篇において詳述するが、政策そのものによる被害と、政策の適用による被害との関係において、ここで簡単に論じる。

(一) 政策そのものによる被害

ハンセン病は一九〇七年の「癩予防ニ関スル件」の制定以前から、天刑病あるいは業病として差別偏見を受け、ハンセン病患者も同様に差別偏見を受けてきた。

しかしながら、「癩予防ニ関スル件」を制定し隔離政策が開始されるまでは、地域社会から排除されることになるような恐るべき伝染病という偏見はなかったのである。このことは第三回見直し検討会において大谷座長も認め(乙第一八六号証の三、一六頁)、同検討会で和泉氏も「普通考えれば、誰が考えても、らいが非常に伝染性を持つなんてことは日本人も昔から信じていなかった」と発言したことからも明らかである。そして何よりも「癩予防ニ関スル件」の成立当時の責任者であった窪田静太郎の認識も「伝染力は強烈なものではない」との認識だったのである(藤風協会三〇年史・乙第一四号証五一頁)。

恐るべき伝染病(強烈伝染病)と言う誤った認識が国民の間に生まれたのは、まさしく、隔離政策と政策の手段として制定された法の存在自体によって作られたものである。隔離政策と法は、ハンセン病及びハンセン病患者に対する隔離政策以前から存在した差別偏見をさらに助長し、また政策以前とは質的にも異なる差別偏見を作出したのである。
ハンセン病政策や法の存在自体が差別偏見を助長したことは、らい予防法の廃止に関する法律案提案理由の中で「旧来の疾病像を反映したらい予防法が現に存在し続けたことが、結果としてハンセン病患者、その家族の方々の尊厳を傷付け・・・」と述べていることからして(乙第一四号証三九八頁)、被告自身も同様の認識をしていると言えるし、「ハンセン病に関する特別な法律を作ることは、差別を助長する」ことも見直し検討会報告書で認めている(乙第一四号証三七七頁)。

このように政策と法によって助長された差別偏見は、ハンセン病患者をして地域社会から排除する機能を持たせ、ハンセン病患者の地域の中で幸せに平穏に暮らす権利を侵害した。「具体的行為を離れて政策それ自体が個々の原告らの具体的権利、利益を侵害することはあり得ない」という被告の主張は明らかに誤っている。
またこういった地域の中で幸せに平穏に暮らす権利の侵害が、政策による被害と理解されるべきことは当然であるが、この権利侵害は、ハンセン病患者が地域内で生活することを不可能もしくは著しく困難なものにし、その結果、原告らを含む多くのハンセン病患者を療養所に囲い込む機能を果たした。療養所に収容されたことによる被害は、次項に述べるところの「政策の適用による被害」と理解されるべきものであるが、多くの場合は、「政策の適用による被害」の前に「政策そのものによる被害」が存在するのである。

さらに本章第三で述べたとおり、被告はスルフォン剤登場以降、政策的に治療薬を療養所に独占して、治療を受けるための入所あるいは入所継続を余儀なくさせた。社会内で治療を受けられないという「政策そのものによる被害」は、原告らを含む多くのハンセン病患者を療養所に囲い込む機能を果たし、原告らを「政策の適用による被害」を受けざるを得ない立場に追い込んでいったのである。

(二) 政策の適用による被害

個人に対する政策の適用の中核は、隔離収容及び隔離の継続である。この隔離による被害は、概ね、(1)監禁類似的被害、(2)社会的関係性断絶的被害、(3)烙印付的被害三つに類型化することができる。

(1)監禁類似被害とは、患者を療養所に収容し、厳しい外出制限を設けることで、患者の移動・居住場所選択の自由をはじめとした各種の自由権を剥奪し、患者作業を強制するなど、患者を療養所の完全な奴隷的支配下におくことによる被害である。

(2)社会的関係性断絶的被害とは、患者と家族、親族、地域社会との関係性を完全に断絶させ否定することによる被害である。すなわち、隔離措置は患者の病型、感染性の有無、社会内療養手段の有無を問わず、患者全員を離島、僻地の療養所に収容し、外出を厳しく制限することで、患者の従前の社会内における生の痕跡を消し、患者の社会的な生存の基盤を完全に失わせる。患者は隔離措置により社会的には死を迎えることになる。

(3)烙印付的被害とは、診断による社会的人格否定の烙印付をさらに収容によりだめ押しをすることによる被害である。すなわち、絶滅政策によるらい予防法の枠組みでは、診断により患者本人に家族や地域社会と共に子孫を残しながら人間として生きていける存在ではない(社会的関係性断絶的被害との関係では社会的な死)との烙印が押される。
この(3)の被害は、まずは「政策そのものによる被害」として原告個人に現れるが、現実に絶対隔離絶滅政策が自分に適用され、療養所への隔離されるに至って、自らが社会的には死んだこと、あるいは死ななければならないことを、確実に認識させられるのである。療養所でしか生きていけないことにより断種、堕胎を受けうる地位におかれることはその最たるものである。

このような被害のうち、特に(3)の被害は、退所という形で一旦措置から解放された原告らにも心的外傷として残存する。また(2)の被害によって断絶した社会的関係は、もともと容易に回復するものではないし、退所者の内面に(3)の心的外傷があり、外側には政策的そのものに形成された差別・偏見があるという二つの理由によって、その回復はより一層困難なものになる。一旦退所した原告の多くが再入所を余儀なくされたこと、あるいは退所したままで再入所しない原告も、社会内で幸福に生活していけない原因はここにある。

2 絶対隔離絶滅政策と損害全体との因果関係

前項に述べたように、原告らの受けた被害は、政策そのものによる被害と、政策適用による被害の複合体である。
例えば、いきなり強制収容(政策適用による被害)を受けた原告もいれば、ハンセン病との診断により社会的烙印を押されて社会内での生活が不可能になり(政策そのものによる被害)、入所を余儀なくされた(政策適用による被害)原告もいる。

また退所したものの、隔離措置の心的外傷(政策適用による被害)と、社会内での差別・偏見(政策そのものによる被害)に苦しむ原告もいる。そういった社会的生活に耐えられず、療養所に戻らざるを得ない(政策適用による被害)というコースを辿った原告もいる。さらには心の底から退所を希望しつつ、実際に退所した場合の苦しさが確実に予測されるために、退所をあきらめざるを得ない原告もいる。
「開放政策」への転換を主張する被告の欺瞞性は本章第二-三で既に述べたところであるが、こういった被害の循環は、本当の政策変更が行われない限り、絶対に断ち切ることができないものである。
すなわち、一九九六年まで一連・一体のものとして継続された絶対隔離絶滅政策の全体と、原告らの損害の全体との間に因果関係が存在するのである。

第三章 国会の責任

原告らは、国会の、(1)「癩予防法」を一九四七年以降廃止しなかった行為、(2)「らい予防法」を一九五三年に制定した行為、(3)「らい予防法」を一九五三年以降一九九六年まで廃止しなかった行為に関する国家賠償責任を問うものである。
まず第一項において国会の責任要件について検討する。次に第二項以下において、第一項で検討した要件論に従い、前記(1)~(3)の国会の行為について、それぞれ違法性、過失及び損害との因果関係を論じる。

第一 国会の責任要件

一 公権力の行使

国賠法一条一項「公権力の行使」に、国会の立法行為が含まれることは通説・判例の一致して認めるところである。
最高裁昭和六〇年一一月二一日第一小法廷判決も、「公職選挙法の一部を改正する法律」によって在宅投票制度を廃止した行為、及びその後在宅投票制度を復活させるための立法を行わなかった不作為を、併せて「本件立法行為」と総称し、「公権力の行使」に該当することは当然の前提として、後に述べるような違法性の要件を検討しているのである。
右最高裁判決では、!国会がある法律を廃止する作為(厳密には法律を改正することによってある法制度を廃止する作為)、"国会が法律を制定しない不作為の二つの類型が「立法行為」として論じられているが、「立法行為」にはこのほか、#国会が法律を制定する作為、$国会が法律を廃止しない不作為、という二つの類型が含まれることは論理上当然といえる。本件訴訟で問われているのは、#及び$の類型に該当する立法行為である。

二 違法性

前記最高裁判決以前において、立法行為の国家賠償責任が問われたケースでは、立法の作為・不作為の違憲性が、即、国家賠償法上の違法に繋がるという、いわゆる「公権力発動要件欠如説」が前提とされていた。しかし右最高裁判決は「国会議員の立法行為(立法不作為を含む。以下同じ。)が同項(国賠法一条一項)の適用上違法となるかどうかは国会議員の立法過程における行動が個別の国民に対して負う職務上の法的義務に違背したかどうかの問題であって、当該立法の内容の違憲性の問題とは区別されるべきであり、仮に当該立法の内容が憲法の規定に違反する廉があるとしても、その故に国会議員の立法行為が直ちに違法の評価を受けるべきではない」と論じ、立法内容の違憲性と、国賠法上の違法のとを区別する立場を採用した。したがって右最高裁判決を前提とすれば、「違法性」を論じるにあたっては、(1)立法内容の違憲性と、(2)「国賠法上の違法性」の二つを検討する必要があることになる。

1 立法内容の違憲性

本章で検討したとおり、「立法行為」には、a国会がある法律を廃止する作為、b国会が法律を制定しない不作為、c国会が法律を制定する作為、d国会が法律を廃止しない不作為、の四つの類型が含まれる。これらa~dの「立法行為」の内容が違憲であるということは、それぞれ次のようなことを意味することになる。

すなわち、a国会がある法律を廃止することによって違憲状態を作出する作為、b国会が法律を制定しないことによって違憲状態を放置する不作為、c国会が積極的に違憲な法律を制定する作為、d国会が消極的に違憲な法律を廃止せずに放置する不作為、である。
a、bは法律が存在しないことが憲法に違反する場合であり、c、dは法律が存在することが憲法に違反する場合である。ところで憲法に保障された基本的人権が自由権である場合には、その憲法規範は立法府に対して基本的人権の侵害を禁ずる規範(禁止規範)であり、立法は自由権を制限し、規制する作用を営む。これに対して基本的人権が生存権等の社会権、国務請求権・選挙権等の参政権である場合には、憲法規範は立法府に対して基本的人権の実現を要請する規範(要請規範)であり、立法は人権を実現し保障する作用を営む。すなわち立法行為による人権侵害の違憲性が問題になる場合、その人権が自由権的なものであればであればc、dの問題となり、その人権が社会権・参政権的なものであればa、bの問題となる。

本件で問題になっている「癩予防法」「らい予防法」が、幸福追求権(憲法一三条)、法の下の平等(同一四条)、人身の自由(同一八条)、居住・移転の自由(二二条)、適正手続の保障(同三一条)といった自由権的な基本的人権を侵害するものとして違憲であること、即ち本件がc及びdに該当していることは、後に詳論する。

2 国家賠償法上の違法性

前記最高裁判決は、立法行為が国家賠償法上の違法と評価される要件として、「国会議員は、立法に関しては、原則として、国民全体に対する関係で政治的責任を負うにとどまり、個別の国民の権利に対応した関係での法的義務を負うものではないというべきであって、国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法行為を行うというごとき容易に想定しがたいような例外的な場合でない限り、国家賠償法一条一項の規定の適用上、違法の評価を受けないものといわねばならない」と論じている。
右最高裁判決に対しては、国家賠償訴訟における立法行為の「違法性」の判断基準を「憲法の一義的文言に反する」という形で加重することによって、立法行為に対する司法審査の可能性を原則的に否定するものであり、違憲立法審査権を認めた憲法八一条の趣旨に反するとの学説的な批判が存在する(長尾一紘・民商法雑誌九五・二・一一二)。
しかし右最高裁判決は、全ての立法行為に関する国家賠償訴訟において司法審査の可能性を狭めるものとは考えられない。以下に述べるとおり、右最高裁判決の射程は限定的に解釈されるべきものである。

(一) 侵害される人権の性質からみた限界

まず、右最高裁判決は在宅投票制度に関するものであり、問題とされているのは参政権であることに注目する必要がある。検討した四類型からすれば、a及びbが問題になっている。このように立法が人権を実現し、保障する作用を営む場合において、!その人権を保障する法律を廃止する作為、あるいは"その人権を保障する法律を制定しない不作為が「憲法の一義的文言に違反」するような場合は、右最高裁判例の述べるとおり「容易に想定しがたい例外的な場合」というほかない。何故ならばここで違反が問題になる憲法規範は、立法府に人権の実現を要請する規範(要請規範)であって、その基本的人権をいかに具体化すべきかという問題については常に憲法の解釈問題がつきまとうからである。

現実問題として、在宅投票を認めるべきか否かは「投票の方法」の問題であり、憲法四七条によって「法律でこれを定める」とする範疇に含まれる。したがって在宅投票制度を廃止した国会の作為及びその後在宅投票制度を復活させなかった国会の不作為が、いかに憲法一五条一項・三項及び同四四条後段の趣旨を没却するものであろうとも、形式的に「憲法の一義的文言に違反」するものではないことは確かである。

以上のことからすれば、右最高裁判決は、a及びbが問題になる局面においては、立法行為に対する司法審査の可能性を原則的に否定した、あるいは著しく制限したものと評価せざるを得ない。その面では前記の長尾紘一による批判が妥当する。

一方、本件では本章で検討した四類型のうちのc及びdが問題になっており、a及びbが問題になる局面とは様相を異にする。すなわち侵害されている基本的人権は、幸福追求権(憲法一三条)、平等権(一四条)、人身の自由(一八条)、居住・移転の自由(二二条)、適正手続の保障(三一条)といったいずれも自由権的なものであり、cそれらの人権を侵害する法律を制定した作為、及びdそれらの人権を侵害する法律を廃止しなかった不作為、が問題になっているのである。そしてこれら自由権を保障する規範は、立法府に基本的人権の侵害を禁ずる規範(禁止規範)であり、いずれも「一義的文言」によって人権を保障している。憲法解釈上問題になるのは、それを例外的に制限できるのはいかなる場合であるかという点に過ぎない。具体的に言えば、例えばある法律が「犯罪による処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」という憲法一八条後段に違反していると評価される場合においては、その法律は常に右憲法の「一義的文言」に反しているのである。

結局のところ、c及びdの場面において、「立法の内容が憲法の一義的文言に違反する」という要件は、「立法内容が違憲であること」という要件とほぼ同じなのである。これは右最高裁判例以前の通説・判例であった、いわゆる「公権力発動要件欠如説」と何ら変わることはない。つまり右最高裁判決の、「違法性」の要件を「立法内容の違憲性」と「国家賠償法上の違法性」に区分する考え方は、a及びbのようにある立法の不存在が憲法の要請規範に違反している場合にこそ意味があるのであって、c及びdのようにある立法の存在が憲法の禁止規範に違反する場合には、この区分の実益は全くない。

右最高裁判決の在宅投票制度の問題をはじめとして、これまで裁判上問題になった立法行為に対する国家賠償訴訟は全て社会権あるいは参政権的な人権に関するものであった。即ちa及びbの場面のみが問題とされており、本件のようにc及びdの場面が問題になった国賠訴訟は未だかつて存在しなかったのである(いわゆる再婚禁止期間違憲訴訟については後述する)。このことからすれば右最高裁判決の示した「憲法の一義的文言に反すること」という違法性の判断基準が、a及びbの場面にのみ意味を持ちうるものであって、c及びdの場面において意味を持ち得ないものになっていることは当然とも言える。

すなわち、右最高裁判決は、社会権あるいは参政権に関する国家賠償訴訟についてのリーディングケースと考えるべきであり、本件のように自由権に関する国家賠償訴訟は、右最高裁判決の射程の外にあると考えるのが自然である。本件においては、その立法内容の違憲性、つまり「癩予防法」「らい予防法」の違憲性が、即、国家賠償法上の違法性に繋がると考えれば足りる。

なお右最高裁判決後に、社会権あるいは参政権以外の人権を制約する法律に関する立法行為の国家賠償責任が問題になった事案として、いわゆる再婚禁止期間違憲訴訟上告審(最判平成七年一二月五日)が挙げられる。この事件は民法七三三条が憲法一四条一項及び二四項に違反しており、これを廃止しない国会に国家賠償責任があると主張されたものである。

この事案は、一見すると婚姻の自由という自由権の制約が問題になっているように思えるが、実際には、人身の自由、居住・移転の自由に代表される純粋な自由権が問題となっている本件とは本質的に異なる。蓋し、民法七三三条は、事実婚を禁じるものではなく、あくまでも法律婚として婚姻関係の保護がはかられるかどうかという、いわば社会権類似の権利の制約の問題なのである。すなわち本件のリーディングケースたり得る判例ではない。

また、この最高裁判決は文言上は「憲法の一義的文言に反するとは言えない」との表現で、国家賠償責任を否定しているが、そこで論じられているのは民法七三三条の内容についてのみである。即ちこの判決は「立法内容の違憲性」のレベルで国家賠償責任を否定したものであり、「国家賠償法上の違法性」の判断基準について独自の意義を持つものではない。

(二) 国会議員の責任の性質からみた限界

右最高裁判決は「国会議員の立法行為(立法不作為を含む。以下同じ。)が同項(国賠法一条一項)の適用上違法となるかどうかは国会議員の立法過程における行動が個別の国民に対して負う職務上の法的義務に違背したかどうか」であると論じている。

ところで右最高裁判決の理論的支柱は、行政法学者の雄川一郎説であると言われている。右雄川教授は、立法行為の国家賠償責任に関して次のように述べている。

「国会ないしは国会議員が違憲の立法をしたり、違憲状態を放置してはならない義務を負っていることは当然であるが、それは一般論としては、個別の国民に対して負っているのではなく、いわば国民全体に対して負っているものと考えられるのであって、その義務違背だけでは、故意・過失を論じるまでもなく、個別の国民に対する賠償責任を基礎づけることにはならないのではないかと考えられる。したがって国家責任が生ずるためには、当該の義務ないし職責が個別の国民に対して負っていると見るべき特別の理由がある場合とか、あるいは当該国民の蒙った損害が、通常の違憲立法や不作為による損害とは区別され得べき特殊のものであるとか、特別の要件の存在を必要とするのではないかと考えている。」(現代行政法体系六巻三頁)

最高裁判決の右判示部分と雄川説とを併せ読めば、右最高裁判決が「憲法の文言に一義的に反する」という要件を加重しているのは、国会議員が国民全体に対して義務を負っている場合であって、それを超えて国会議員が個別の国民に対して義務を負っていると考えられる場合においてはこの要件は妥当しないと解するべきである。

国会が憲法の要請規範に従い、法律によって人権を実現し保障する義務を負っているにも関わらずその義務を果たさない場合、国民全体がその人権を享受し得ない状況が生ずる。この場合の国会議員の義務は、確かに国民全体に対して負っている義務と考えることもできるだろう。しかし、国会が憲法の禁止規範に違反し、法律によって個別の国民の人権を侵害する場合においては、それはもはや個別の国民に対する憲法尊重擁護義務の違反と考えざるを得ない。

特に立法過程において、その立法行為によって個別具体的な人権を侵害される個別の国民の存在が明らかになっているにもかかわらず、敢えてその立法を行うような場合は、その国会の行為はまさに「個別の国民に対する職務上の義務違背」と評価されねばならない。かかる場合は、前記最高裁判決の射程外であり、「憲法の一義的文言に違反」といった特別の加重要件は不要であると考えるべきである。

(三) 結論

本件は、立法の存在による自由権的人権の制約が問題になっているものであり、基本的には立法内容そのものの違憲性が、立法行為の国家賠償法上の違法性を基礎づけるものと考えるべきである。

仮に、立法行為の国家賠償法上の違法性の判断基準として、立法内容そのものの違憲性以外のなんらかの要件が必要であるとの立場をとったとしても、本件においては「憲法の一義的文言に違反する」との要件ではなく、「個別の国民に対する職務上の義務違反」という要件を以て国家賠償法上の違法性の判断基準とすべきである。

本件がこの要件を充たしていることは、本章第二-一-2、同第三-一-2、同第四-一-2において詳論する。

三 故意又は過失

国賠法一条一項の条文上、当然必要な要件である。

右最高裁判決の原審である札幌高等裁判所昭和五三年五月二四日判決は、国会の立法行為の場合の「故意・過失」の判断について「国会の立法行為についての機関意思は国家賠償法一条にいう公務員の意思と見ることが可能であるから、国会の立法行為又は立法不作為における国会議員の『故意又は過失』は、各個の国会議員の個別的・主観的な意思を前提とする必要はなく、国会の意思即ち各国会議員の意思と前提として判断すれば足りる」と判示した。

すなわち本件においては、「癩予防法」「らい予防法」が憲法に違反していることを、国会という合議機関が認識可能であったかどうかが問われることになる。
これが十分認識可能であったことは本章第二-二、同第三-二、同第四-二において詳論する。

四 因果関係

国家賠償責任が成立するためには、通常の不法行為同様、公務員の違法な行為と、損害発生との間の因果関係が必要である。

本準備書面第二章-第二-二で述べたとおり、「癩予防法」及び「らい予防法」は、厚生省の絶対隔離絶滅政策の遂行手段として制定され、そして放置され、原告らハンセン病患者個々人に対する政策・法律適用の根拠となったものであった。因果の流れからすれば政策↓法律↓個人に対する政策・法律の適用ということになる。しかし、法律の存在と被害との間に因果関係が存在する限り、厚生省の政策に基づいて法律が制定されたことも、あるいは、政策・法律の適用としての個別的な公権力の行使が存在することも、法律を制定した国会を免責する理由にはならない。

蓋し、一般的な不法行為の場合も、複数の行為者の不法行為が競合することはあり得るのであって、その場合、因果関係が切断される特殊な場合を除いて、共同不法行為が成立することになる。同じように、国家賠償においても複数の公権力の行使が競合して損害を発生させる場合は当然あり得る。その場合、一方の公権力の行使がより直接的な因果関係にあるからといって、他方の公権力行使の責任を不問に付す理由はない。

要は、間接的であろうと直接的であろうと、因果関係がある限り責任を認めるという考え方に立てば足りるのである。

本準備書面第二章-第三-五においては、原告らの被害が、絶対隔離絶滅政策そのものによる被害と、その政策の適用による被害との複合体であることについて述べた。この絶対隔離絶滅政策が法律によって裏打ちされる時、その絶対隔離絶滅政策そのものによる被害は、法律の存在そのものによる被害と理解することができる。また政策適用による被害は、原告ら個人に対する法律適用の結果として生じた被害と理解することができる。

国会の立法行為と前者の損害との間に因果関係が認められることは当然である。また後者の損害も、法律の適用を介した損害とはいえ、法律が存在しなければ発生しなかったものであり、同じく因果関係が肯定されるべきものである。
本件において国会の立法行為と原告らの損害との間に因果関係が存在することは、本章第二-三、同第三-三、同第四-三において詳論する。

第二 「癩予防法」を一九四七年以降廃止しなかった立法行為

一 違法性
1 「癩予防法」(昭和五年改正法律第五八号)の違憲性

ここでは「癩予防法」を一九四七年以降廃止しなかった立法行為の内容が日本国憲法に違反していること、即ち「癩予防法」が憲法違反であることについて論じる。

(一) 「癩予防法」の基本的な構造

本書面第二章-第二-二で述べたとおり、「癩予防法」は一九二五年の内務省衛生局長通牒によって確立した絶対隔離絶滅政策を遂行するための法的根拠として制定された法律であった。以下、その基本的な構造について述べる。

(二) 強制収容・絶対隔離・終生隔離

「行政官庁ハ癩予防上必要ト認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ従イ癩患者ニシテ病毒伝播ノ虞アルモノヲ国立療養所又ハ第四条ノ規定ニヨリ設置スル療養所ニ入所セシムベシ」(癩予防法第三条一 患者の意向を全く無視して強制的に療養所へ収容する制度を定めた条文である。条文の体裁は、行政官庁に対して義務を課するものになっているが、その論理的な帰結は、ハンセン病と診断された 者に対して強制収容を甘受する義務を課するものにほかならない。
なおかつこの強制入所には期限の定めが付されておらず、退所の規定も存在しない。すなわちこの法律は、一旦ハンセン病患者と診断され、療養所に収容された者は、ハンセン病が軽快あるいは治癒するか否かを問わず、終生にわたって療養所に閉じこめられることを予定している(終生隔離)。 この強制収容・終生隔離は「癩予防ニ関スル件」時代から引き継がれたものである。

さらに条文上は「癩予防上必要ト認ムルトキ」及び「病毒伝播ノ虞アルモノ」という限定がなされているように見えるが、どのような場合に癩予防上必要と認められるのか、どのような患者であれば病毒伝播の虞があるのかは法律上明らかにされていない。実際には全てのハンセン病患者が強制収容の対象とされたことでも明らかなように、これらの文言が強制収容を限定する機能を果たすことはなかった。すなわち無差別・無限定の強制収容を、この法律自体が認めているのである(絶対隔離)。

(三) 入所者のおかれた立場・懲戒検束制度

療養所に収容された患者がいかなる立場におかれるかについては、癩予防法自体は次の一条が存在するのみである。

「前条ノ療養所ノ長ハ命令ノ定ムル所ニ依リ入所患者ニ対シ必要ナル懲戒又ハ検束ヲ加フルコトヲ得」(癩予防法第四条ノ二)

この条文と、ほぼ同じ条文は「癩予防ニ関スル件」(明治四四年法律第一一号)が、一九一六年(大正五年)に改正された際に付加されている(法律二一号)。この癩予防法四条ノ二は、その法律二一号の「被救護者」という文言が「入所患者」に改められたものである。

これは療養所長に入所者に対する懲戒権、検束権を付与する条文であり、いかなる場合にどのような懲戒が、あるいは検束が行われるかといった内容は全て命令に委任されている。すなわち癩予防法は、ハンセン病患者を療養所に強制収容して療養所長に投げ渡してしまうだけの「癩予防ニ関スル件」をそのまま引き継いだものであって、被収容者の人権は全く保障していないのである。

このことが何を意味しているのか、懲戒検束権の下におかれた患者の立場が具体的にいかなるものであるかをを理解するためには、「癩予防ニ関スル件」の時代に成立した懲戒検束制度を見る必要がある。

具体的な懲戒・検束の内容は癩予防法制定に伴って定められた癩予防法施行規則(内務省令第一六号)に規定されている。
「療養所ノ長ハ入所患者ニ対シ左ノ懲戒又ハ検束ヲ加フルコトヲ得

一 譴責

二 三十日以内ノ謹慎

三 七日以内ノ常食量二分ノ一マデノ減食

四 三十日以内ノ監禁

前項第三号ノ処分ハ第二号又ハ第四号ノ処分ト併課スルコトヲ得。第一項第四号ノ監禁ニ付イテハ情状ニ依リ国立癩療養所ニ在リテハ内務大臣、道府県ニ在リテハ管理者タル地方長官ノ認可ヲ経テ其ノ期間ヲ二個月マデ延長スルコトヲ得」(癩予防法施行規則五条ノ二)

これもほぼ同じ条文が「癩予防ニ関スル件」の施行規則が一九一六年(大正五年)の前記法律二一号に伴って改正された際に付加されている(内務省令六号)この癩予防法施行規則五条ノ二は、その内務省令六号の「被救護者」という文言が「入所患者」に改められたものである。

さらにどのような場合にこの懲戒検束権が発動されるかについては、一九一七年(大正六年)一二月に定められた「患者懲戒・検束ニ関スル施行細則」、いわゆる懲戒検束規定を見なければならない。この懲戒検束規定は癩予防法以前に定められたものであるが、癩予防法制定によって変更はなかった。
右懲戒検束規定によれば、「猥ニ構外ニ出、又ハ所定ノ無毒地ニ立入リタル者」、「職員ノ指揮命令ニ服セザル者」については「三十日以内ノ謹慎又ハ七日以内ノ減食ニ処シ、又ハ之ヲ併科ス」(懲戒検束規定第九条一号・三号)、「逃走シ又ハ逃走セントシタル者」については「七日以内ノ減食又ハ三十日以内ノ監禁ニ処シ、又ハ之ヲ併科ス」(同十条一号)とされている。

なお癩予防法・癩予防法施行細則・懲戒検束規定のどこを探しても、懲戒検束の対象者に、弁解の機会や不服申立の機会を与える規定は存在しない。

(四) 小括

懲戒検束規定から明らかなように、療養所に収容されたハンセン病患者は、逃走はもちろんのこと外出も禁じられ、療養所職員の命令への服従が義務付けられる立場におかれていた。しかもその義務に違反した場合には懲戒・検束という実質的な刑罰が用意されており、かつ、その刑罰を科せられるにあたっては、弁解の機会もなければ不服申立の機会もなかった。「癩予防ニ関スル件」及びその施行規則が改正され、懲戒検束規定が定められた一九一六~七年(大正五~六年)の段階で、このような特殊な場所としての療養所が成立したのである。

一九二五年の内務省衛生局長通牒は、そのような特殊な療養所の存在を前提として、全てのハンセン病患者を、その療養所に、無期限に強制収容することを指示したものであり、癩予防法はそれに法的根拠を与える法律であった。
これがこの法律の基本的な構造である。

(五) 日本国憲法との関係

日本国憲法は一九四六年(昭和二一年)一一月三日に公布され、一九四七年(昭和二二年)五月三日に施行された。癩予防法は大日本帝国憲法下で制定された法律であるが、日本国憲法施行後は、当然のことながら日本国憲法に照らして合憲性が判断されねばならない。

「癩予防法」時代の絶対隔離絶滅政策が、日本国憲法に違反するものであったことは、本準備書面第二章-第三-二-1で簡単に述べたところであるが、以下、癩予防法が法令違憲であることについて詳論する。
なお、癩予防法及び関連する規則の中で、癩予防法施行規則五条ノ二に定められた懲戒処分のうち、減食の規定のみは、憲法施行に先立つ一九四七年(昭和二二年)五月二日、厚生省令一四号により削除された。しかしこれは癩予防法の基本的構造に影響を与えるものではない。

(六) 総論

人権を制約する法律の合憲性を判断する場合、制約される人権の性質によって判断基準は異なる。例えば憲法一八条の「奴隷的拘束からの自由」であれば、一切の制約は許されないと考えられている。憲法二一条の「表現の自由」を代表とする精神的な自由権については、立法目的が合理的なものであり、かつ手段が目的達成のために必要最小限のものであるか否かという厳格な合憲性判断基準が妥当すると考えられる。さらに、経済的な自由のように合理的な根拠があれば制限が許されると考えられているものもある。

これらを総合すれば、最低限の合憲性判断基準は、まず立法目的が合理的なもの否かということになる。 ところで癩予防法の立法目的が「ハンセン病の伝染予防」といった公衆衛生目的レベルのものではなく、それを遙かに超えた「ハンセン病患者の根絶」という民族浄化論に基づくものであったことは、最終準備書面・事実篇で詳細に述べたところであるし、本準備書面第二章でも触れた。

条文の体裁だけから言えば、「行政官庁ハ癩予防上必要ト認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ従イ癩患者ニシテ病毒伝播ノ虞アルモノヲ国立療養所又ハ第四条ノ規定ニヨリ設置スル療養所ニ入所セシムベシ」(癩予防法第三条一項)となっていたとしても、この法律の適用段階で「病毒伝播の虞」を医学的に判断することは全く予定されていない。そもそも法律以前に、伝染の虞を問わない絶対隔離絶滅政策が確立していたのであり(本準備書面第二章-第二-三)、その政策に法的根拠を与え、正当化するために制定されたのがこの法律なのである。

基本的人権の尊重を基本理念とする日本国憲法の下で、「ハンセン病患者の根絶」などという立法目的に合理性が認められないことは論ずるまでもない。すなわち癩予防法は、立法目的自体からして、日本国憲法、就中基本的人権の総則規定とされる一三条に違反していることは明白である。
仮に、癩予防法が日本国憲法に違反していないという考え方があり得るとすれば、その立法目的を「ハンセン病の伝染予防」という公衆衛生的なものに解釈し直す必要がある。以下の各論は、癩予防法の目的が「ハンセン病の伝染予防」にあると仮定した議論である。

(七) 憲法一八条違反

憲法一八条は「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪による処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」として人身の自由を保障する。この人身の自由に関しては、他の基本的人権のような「公共の福祉」あるいは「内在的制約」といった制約根拠は一切存在しない。
「奴隷的拘束」とは、自由な人格者であることと両立し得ない程度の身体の拘束と理解される。療養所入所者の立場は、療養所という一定の場所からの外出を禁じられ、療養所職員の命令に服従を強いられるというものであり、しかも外出禁止違反あるいは命令違背には問答無用で懲戒・検束という刑罰が用意されている。このような立場が自由な人格者であることと両立し得ないことは明白であり、まさしく「奴隷的拘束」以外のなにものでもない。癩予防法はその四条ノ二で、療養所長に懲戒検束権を付与し、その具体的内容の一切を命令に委ねることにより、この「奴隷的拘束」を制度化したのである。

これがいかなる立法目的であれ、憲法一八条に違反することは言うまでもない。

(八) 憲法二二条一項違反

憲法二二条一項は「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住・移転及び職業選択の自由を有する。」と規定する。癩予防法は、ハンセン病患者を強制的に療養所に収容する点及び外出を禁ずる点において、この居住・移転の自由を侵害している。

居住移転の自由は、資本主義経済を成り立たしめる不可欠の要素として経済的自由の一環をなすとともに、自己の移動したいところに移動できるという点で人身の自由・精神的自由としての側面を有する。癩予防法による居住・移転の自由の制約は明らかに人身の自由・精神的自由の側面に向けられたものであり、その制約が憲法に違反するか否かは、人身の自由・精神的自由の合憲性判断基準、即ち、立法目的が合理的なものであり、かつ手段が目的達成のために必要最小限のものであるかという厳格な基準に従うべきである。

ハンセン病の感染力・発病力は極めて微弱なものであり、最も濃厚な接触を行うと考えられる夫婦間においてさえ感染は稀である。ハンセン病患者が感染源となりうるのは、ほとんど同居の乳幼児に対してのみといっても過言ではない。従って乳幼児の保育環境整備さえ行えばハンセン病の感染予防という目的は達成できたのであり、患者を療養所に隔離することよって居住・移転の自由を奪う必要はなかった。

また一九九五年の日本らい学会の見解が示すとおり、いわゆる壮丁らいの年次推移及び一九一九年から一九三五年までの四回にわたる全国調査の結果から、日本におけるハンセン病は隔離と無関係に終焉に向かっていたことが明らかである(甲一号証「らい予防法廃止の歴史」三四五頁)。このことからすれば、ハンセン病予防という目的に照らして、「癩予防ニ関スル件」及び「癩予防法」は当初から不必要な法律だったのであり、一九四七年の時点で「癩予防法」による居住移転の自由の制限が不要であったことは言うまでもない。

すなわち癩予防法による居住・移転の制限は、感染予防という目的達成のために必要最低限のものとは到底言えないのであって、憲法二二条一項に違反することは明らかである。

(九) 憲法三一条違反

憲法三一条は「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若くは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない。」として適正手続を保障する。

平成四年七月一日最高裁大法廷判決は、この条文について、「本条の定める法定手続の保障は、直接的には刑事手続きに関するものであるが、行政手続については、それが刑事手続きではないとの理由のみで、その全てが同条による保障の枠外にあると判断することは相当ではない。」として行政手続に対して適用があることを肯定しつつ、「しかしながら、同条による保障が及ぶと解すべき場合であっても、一般に、行政手続は、刑事手続とその性格において自ずから差異があり、また、行政目的に応じて多種多様であるから、行政処分の相手方に事前の告知・弁解・防御の機会を与えるかどうかは、行政処分により制限を受ける権利利益の内容、性質、制限の程度、行政処分により達成しようとする公益の内容、程度、緊急性を総合較量して決定すべきものであって、常に必ずそのような機会を与えることを必要とするものではない」という限定的な解釈を示している。

この事件は、新東京国際空港の安全確保に関する緊急措置法(いわゆる「成田新法」)に基づく工作物使用禁止命令の合憲性が争われた事件である。この行政処分で制限されるのは財産権の一部である使用権であり、しかも禁止される使用態様は、「多数の暴力主義的破壊活動者の集合場所として」、あるいは「爆発物・火炎びん等の物の製造又は保管の場所として」、といった限定的なものであり、かつ使用禁止期間も一年という限定がついていた。またその行政処分によって達成しようとする公益も、新東京国際空港の安全即ちその空港を利用する人々の生命・身体といった重要な法益であって、緊急性も肯定できる場合であった。

この事案に比較した場合、癩予防法三条による強制収容はハンセン病患者の居住・移転の自由という極めて重要な人権を完全に奪い去るものであり、しかも期限の定めもない。その反面、本項で述べたハンセン病の感染力・発症力の微弱さ及び日本におけるハンセン病の疫学状況からすれば、ハンセン病予防のために患者を強制的に隔離する必要性自体極めて疑わしく、緊急性に至っては全く認められない。

すなわち強制収容という不利益処分を科せられるハンセン病患者に、事前の告知・弁解・防御の機会を与えない理由は一切ないのである。この点において癩予防法が憲法三一条に違反することはあまりにも明らかである。 さらに癩予防法は四条ノ二において療養所長に、懲戒・検束という不利益処分を科する権限を認めながら、その不利益処分を科せられる入所者に告知・弁解・防御の機会を全く保障していない。これは法律の定める手続によらずに実質的な刑罰を科することを認めたものであり、この点においても憲法三一条に違反するというしかない。

(十) 憲法一三条違反

憲法一三条は「すべて国民は個人として尊重される。生命・自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大限尊重される。」と定める。

癩予防法による強制収容及び外出禁止が居住・移転の自由を侵害するものであり憲法二二条に違反することは前述のとおりであるが、癩予防法に退所規定がなく、無期限に隔離されることによって、侵害される人権は居住・移転の自由にとどまらず極めて広範なものになっていく。

即ち、強制収容によって家族から切り離されるだけでなく、無期限の隔離を強いられることによって家族との絆は完全に絶ちきられてしまう。一時的に職場を離れるだけでなく、無期限の隔離を強いられることによって職は完全に奪われる。少年時代に入所させられたものは教育を受ける機会を奪われ、かつ一般社会の中で人格を形成する機会も奪われてしまう。このように無期限の隔離によって侵害される人権は極めて多岐にわたり、これらを総合して憲法一三条の保障する幸福追求権の侵害と考えるべきである。

なお右に述べたような幸福追求権は、個人の人格価値そのものに関わるものであり、その制限の合憲性判断基準は、立法目的が合理的なものであり、かつ手段が目的達成のために必要最小限のものであるかという厳格な基準に従うべきである。癩予防法による隔離が、感染予防という目的達成のために必要最低限のものと言えないことは既に本項で述べたところであり、ましてやこれを無期限に継続することは全く不必要であったとしか言いようがない。癩予防法が憲法一三条に違反することは明らかである。

また憲法三一条を刑事手続のみ適用されるものであり、行政手続に関する適正手続保障は憲法一三条によると考える有力説があるが、その説に従えば本項で検討した適正手続違反という面でも憲法一三条に違反することになる。

(十一) 憲法一四条一項違反

憲法一四条一項は「すべて国民は法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない」として法の下の平等を保障し、ここにいう「社会的身分」とは「人が社会において占める継続的な地位」と解されている(最判昭和三九年五月二七日)。

一般に、ある疾患に罹患していることが「人が社会において継続的に占める地位」と言えるかは疑問である。ある疾患に罹患していることによって特定の立場に置かれても、その疾患が治癒したと認められればその立場は変わるのが普通であり、その場合は「継続的な地位」とは解しにくい。

しかし癩予防法においては、一旦ハンセン病患者と診断され、療養所に収容された者は、ハンセン病が軽快あるいは治癒するか否かを問わず、終生にわたって療養所に留まることが予定されている。すなわちこの法律による隔離は、現にハンセン病に罹患している患者だけではなく、一度ハンセン病と診断され療養所に入所したもの全員(すなわち元患者を含む)に及ぶ。この「一度ハンセン病と診断され療養所に入所したもの」という立場は、終生変わらない。これは「人が社会的に占める継続的な地位」であり「社会的身分」と考えるほかない。

合理的根拠があれば差別的取扱も許されるというのが最高裁の基本的立場ではあるが、それでも立法目的達成のため必要な限度を超える程度の差別であれば、それは不合理な差別として憲法一四条一項違反となることが認められている(最判昭和四八年四月四日)。癩予防法の立法目的を「ハンセン病の伝染予防」と考えた場合においても、一度ハンセン病と診断されたものを、軽快あるいは治癒するか否かにかかわらず終生にわたって療養所に隔離し続けるという取扱が、その立法目的達成に必要な限度を遙かに超え、不合理な差別的取扱であることは明白である。 したがって癩予防法は憲法一四条一項にも違反している。

(十二) 小括

以上検討したとおり、癩予防法は「ハンセン病患者の根絶」という本来の立法目的自体からして日本国憲法に違反しており、その立法目的において「ハンセン病の伝染予防」という合憲的な解釈を行ったとしても、憲法一八条、二二条一項、三一条、一三条、一四条一項に違反していると考えざるを得ない。結局のところ「ハンセン病患者の根絶」という目的で制定されたものである以上、「ハンセン病の伝染予防」という目的に照らして過剰な人権の制約となることは不可避なのであり、どう考えても違憲の結論は動かないのである。

念のために付言すれば、以上の検討は、一九四七年五月三日、すなわち日本国憲法施行時においてのものである。奇しくもこの年の第二一回日本癩学会総会において日本で初めてプロミンの著効が報告されている。これ以降、化学治療の効果が明らかになり、普及することによってハンセン病に対する治療は激変していく。この化学療法の普及は、ハンセン病患者の隔離をますます不必要なものにし、それだけ癩予防法の違憲性は顕著になっていったが、その点については本項2及び本章第三において詳しく述べることとする。

2 「癩予防法」の放置は国家賠償法上違法である

本章第一-二-2で述べたとおり、自由権的な基本的人権を侵害する法律を放置する立法行為の場合においては、基本的にはその法律の内容の違憲性そのものが、その立法行為の国家賠償法上の違法性を基礎づけると考えるべきである。「癩予防法」が憲法一八条、二二条一項、三一条、一三条、一四条一項といった自由権的な人権を保障する条項に違反することは前項において検討したとおりであり、それを一九四七年以降廃止しなかった国会の行為は、それだけでも国家賠償法上違法と評価されねばならない。

しかも本件においては、以下のとおり、「癩予防法」を廃止しなかった国会の行為が「国会議員の個別の国民に対する職務上の義務違反」と評価せざるを得ない事情が存在する。

(一) 栗生楽泉園特別病室事件

衆議院厚生委員会で栗生楽泉園特別病室事件が問題になったのは、一九四七年(昭和二二年)一一月のことである(甲二三九号証)。
東政府委員の答弁によればこの特別監房に監禁された者九二名の平均拘留日数は四〇日間であり、最も長いものは一年半に及んでいる。しかも処分に関する書類があったものは四九件のみである。そして監禁中に死亡したもの一四名、出室当日死亡したもの四名、出室後一ヶ月以内に死亡したもの二名である(同号証二二五頁三段目~二二六頁一段目)。

このような甚だしい人権蹂躙は、「癩予防法」はもちろん懲戒検束規定も認めるところではない。しかしこのような人権蹂躙が許されてきた根本は「癩予防法」の基本的構造にあることもまた明らかである。すなわち、療養所に収容されたハンセン病患者は終生にわたって隔離され、逃走はもちろんのこと外出も禁じられ、療養所職員の命令への服従が義務付けられ、その義務違反に対する制裁を受けるにあたって弁解することもできなければ不服申立をすることもできない立場におかれていた。これが「癩予防法」の基本的な構造であり、そうであればこそ一件書類もないままに処断され、死亡するに至るまで監禁されるといった人権蹂躙の状況が放置されたのである。

一松厚生大臣の「ところが特別病室ができたために、ずいぶん人権蹂躙というそしりもありますけれども、非常に功績をあげておることがある。何かというと、社会秩序がこれによって大分保護された。今までは、らい病患者が何をしても切り捨て御免であるからというので天下に横行したものだ。ところがそんなことをするとお前は草津に送るぞというと草津に送られては困るという。草津という声を聴いてふるえあがって悪いことをせぬということになる。」(同号証二二四頁三~四段目)という答弁は、ハンセン病対策におけるこの特別病室の位置づけを明らかにしている。結局のところ、この特別病室は癩予防法の隔離構造の中から必然的に生まれてきたものなのである。

すなわちこの時点において、「癩予防法」が、全国のらい療養所に隔離されている「個別の国民」の人権を侵害する法律であること、かつこの後療養所に収容されるハンセン病患者の人権を侵害する法律であることは、国会において明白になっているのである。国会としては、この特別病室を生み出した「癩予防法」そのものの問題に踏み込み、施行されたばかりの日本国憲法との関係を検討すべきであった。

(二) 癩予防法廃止に関する請願

栗生楽泉園特別病室事件で国立癩療養所における激甚な人権侵害の実態が明らかにされたことを背景にして、昭和二三年一一月二七日、衆議院に対して「国立療養所の施設並びにその生活改善に関する請願」が、武藤運十郎議員を介して提出された(甲二四〇号証九頁一段目~一〇頁二段目)。
この請願は、栗生楽泉園・東北新生園・駿河療養所・菊池恵楓園・星塚敬愛園の在園者三二七六名の共同による請願であり、その表題どおり全体一二項目にわたって施設拡充と生活改善を求めたものであるが、その第一一項は「癩患者保護法の制定」を求めるものであり、以下のような希望事項が付されていた。

  1. 癩患者の社会的取扱に対してはあくまでも科学的精神と人道手技の精神に基づいて患者の基本的人権を尊重すべきことを規定すること
  2. 癩に対する正しい教育並びに啓蒙方針を科学的に確立することを規定すること
  3. 療養所に入所して一定期間治療を受けた者で医師の診断の結果、病毒伝播のおそれなしと認定されたものに対しては、本人の申請により軽快退所を許可することを規定すること
  4. 患者の身上に関する秘密保持を厳守すること
  5. 癩患者が療養所に入所することによって、その家族が生活の保護を要する状態にある場合には、保護を行わなければならないことを規定すること
  6. 職業を禁止、または廃止された場合には必要と認められる生業資金の交付を行うことを規定すること
  7. 必要以上の恐怖観念を一般国民に与えないように配慮せられること

この請願は、「癩予防法」の改正要求という形をとっているが、その眼目は「癩予防法」の「ハンセン病患者撲滅」という基本理念を「ハンセン病患者の保護」に変更するところにあり、その意味ではむしろ「癩予防法」の廃止及び「癩患者保護法」の新たな制定を求めるものと考えるべきであろう。

前記栗生楽泉園特別病室事件によって「癩予防法」がハンセン病患者に対する人権侵害の根元であることが明らかにされ、さらにこの請願によって、人権侵害を受けているハンセン病患者がその法律の改廃を求めているという状況が国会において明らかになった。すなわち、国会は、「癩予防法」によるハンセン病患者に対する人権侵害を、この法律を改廃することによって除去するかどうかを迫られているのである。

(三) 右請願に対する東政府委員答弁

右請願に対し、東政府委員は次のような答弁を行った(同号証一〇頁四段目)。
「・・・幸いに、この患者が一日千秋の思いでおりますプロミンの製剤は、国内において生産されるように相なりましたし、またプロミンよりも一歩進みましたプロミゾールも最近その生産ができて、そのサンプルを数日前私どももいただいております。・・・私どもがもし充分な予算を獲得することができましたならば、らい患者の全部に対してこの進んだ治療薬による治療を与えることができる、その日の遠からざることを私は信じておるのでありまして、らいというものは普通の社会から締め出して、いわゆる隔離をして、結局隔離をしたままでらい療養所に一生を送らせるのだというふうな考えではなく、らい療養所は治療をするところである、らい療養所に入って治療を受けて、再び世の中に活動しうる人がその中に何人か、あるいは何百人かあり得るというようなことを目標とした、らいに対する根本対策-らいのいわゆる根絶策といいますか、全部死に絶えるのを待つ五〇年対策というのではなく、これを治療することを目標としておるらい対策というようなものを立てるべきじゃないかと、私ども考えております。」

犀川一夫証人は、この東局長答弁を、プロミン及びプロミゾールの治療効果が日本のハンセン病政策に及ぼすべき影響を正確に理解したものとして高く評価している(第九回口頭弁論犀川尋問調書二三六及び三〇九項)。しかしこの東答弁が、前記請願に対する答弁であることからすれば、それ以上に重要な意義を有するものと考えられる。
すなわちこの東答弁は、当時の厚生省の認識として、以下のことを明らかにしているのである。

! 現在(一九四八年一一月当時)のらい対策、すなわち「癩予防法」によるハンセン病対策が、患者を社会から締め出してらい療養所に隔離したまま死に絶えるのを待つものであるということ、さらに栗生楽泉園特別病室事件を代表とするハンセン病患者に対する人権侵害は、このハンセン病対策そのものに根ざすものであること

" プロミン及びプロミゾールの国内生産が始まり、予算さえ獲得できれば前記!のような政策を変更する条件が整っていること

右!の認識は、「癩予防法」が、ハンセン病患者という「個別の国民」の人権を制約する法律であることの認識にほかならない。しかも"において、その人権制約がいまや必要最小限のものではなくなったことが、ほかならぬ厚生省から示されている。

すなわち国会はこの時点で、「癩予防法」を廃止すべき必要性、及びその可能性について認識することができたのである。
このような認識を得た国会がなすべきことは、「癩予防法」を廃止して不必要な人権侵害をなくすこと以外にはあり得ない。

(四) 小括

以上、(1)~(3)のような議論が国会で行われ、「癩予防法」を廃止せずに放置することが、ハンセン病患者に対する人権侵害を放置する結果になることを十分認識できたにもかかわらず、国会は敢えてこの法律を廃止しなかった。この立法行為は、ハンセン病患者という「個別の国民」に対する職務上の義務違反と評価せざるを得ない。
この点から見ても、一九四七年以降、「癩予防法」を廃止しなかった国会の行為が国家賠償法上の違法と評価されるべきことは明らかである。

二 国会の故意・過失

「癩予防法」の各条項が、日本国憲法に違反していることは本章第二-一-1で論じたとおりであり、このことが国会という合議機関にとって認識可能であったことは論ずるまでもない。

最終準備書面・事実篇で詳しく述べたとおり、そもそもハンセン病の伝染力が極めて微弱であることは「癩予防法」以前の「癩予防ニ関スル件」の時代から分かっていたことであり、ハンセン病患者に対して「癩予防法」による撲滅政策をもって臨むのは、伝染予防目的を遙かに超えた「民族浄化論」に基づくものであった。このような人権侵害が基本的人権の尊重を謳う日本国憲法下において許される余地はない。端的に言えば、日本国憲法を理解する能力さえあれば、「癩予防法」が違憲であることは認識可能なのである。

また日本におけるハンセン病が隔離と無関係に終焉に向かっていたことは、データさえ見れば誰にでも明らかなことだったのであり、ハンセン病予防のために「癩予防法」が不必要なことも容易に認識することができた(第七回口頭弁論調書和泉証言一~三項)

さらに、本章第二-一-2で挙げたとおり、国会内の議論だけとりあげてみても、(1)栗生楽泉園特別病室事件、(2)癩予防法廃止の請願、(3)右請願に対する東政府委員答弁などがある。このような議論を経て、なお国会が「癩予防法」の違憲性を認識しなかったとすれば、それは極めて重大な過失と評価されるべきである。

三 損害との因果関係

本準備書面第二章-第三-五で政策責任による被害について述べたところと同様に、原告らの被害は、法律の存在そのものによる被害と、法適用を介した被害の複合体でもある。

1 法適用を介した損害

一九四七年から一九五三年までの間、療養所に在園していた原告らについては、全て癩予防法の適用を受けたものである。癩予防法が廃止されていれば、その適用を受けることがなかったものであり、国会が癩予防法を廃止しなかった不作為と右原告らの損害の因果関係が存在することは当然である。

2 法律の存在そのものによる直接の損害

一九四七年から一九五三年までの間、癩予防法が廃止されることなく存在し続けたこと、特に一九四九年から始まる第二次無癩県運動及び増床計画の法的根拠としての役割を果たしたことにより、政策の存在と相まって、「ハンセン病患者は療養所に終生にわたって隔離されるべきもの」、「ハンセン病患者は社会に存在することが許されないもの」という社会通念が維持、強化された。

勿論このような社会通念は、「癩予防ニ関スル件」制定以来の日本のハンセン病政策によって強化され続けてきたものであるが、第二次世界大戦での敗戦を契機として天皇主権の軍国主義から国民主権の民主主義という価値観の大転換が行われたこの時期においてハンセン病についての社会通念が維持され続けた意味は極めて大きいといわざるを得ない。一九五三年以降に療養所に入所した原告らも多かれ少なかれ、このような社会通念に基づき差別・偏見による被害を受けてきたのである。すなわち癩予防法という法律は、個々の原告に対する適用を介して損害を与えただけではなく、その法律が存在すること自体によって、原告らに直接的な被害を及ぼしたと考えるべきである。その意味においても、癩予防法を廃止しなかった国会の不作為と原告らの損害との間には因果関係が存在するのである。

第三 「らい予防法」を一九五三年に制定した立法行為

一 違法性
1 「らい予防法」(昭和二八・八・一五法二一四)の違憲性

ここでは「らい予防法」を一九五三年に制定した立法行為の内容が日本国憲法に違反していること、即ち「らい予防法」が憲法違反であることについて論じる。

(一) 「らい予防法」の基本的構造・「癩予防法」による隔離構造の温存

らい予防法は「らいを予防するとともに、らい患者の医療を行い、あわせてその福祉を図り、もって公共の福祉の増進を図ることを目的とする」(第一条)としており、一見「ハンセン病患者の根絶」を目的とした癩予防法とは異なるように思える。

しかし、本準備書面第二章-第二-二-8で述べたように、厚生省は一九四九年段階で、戦前の絶対隔離絶滅政策を戦後も継続する方針を確認し、一九五三年当時はまさにその政策が全面的に展開されつつあった。らい予防法は、基本的にはその方針を確認するための法律であり、当時その合憲性に疑問が呈されていた懲戒検束規定による処罰を、法律そのものによる処罰に格上げすることによって批判をかわそうとしたものに過ぎない。
その結果、当然のことながら、癩予防法の隔離構造をほぼそのまま温存する法律になっている。
具体的には、癩予防法三条の強制収容は、らい予防法第六条三項として残った。前記のとおり、懲戒検束規定による外出禁止は、らい予防法一五条の外出制限、二八条の外出制限違反に対する罰則として法律そのものの条文となった。さらに療養所長の懲戒検束権の一部は、らい予防法一六条の秩序維持の規定として残った。その一方、退所規定は設けられないままであった。すなわちハンセン病患者を無差別かつ強制的に療養所に収容し、終生にわたって療養所に閉じこめるという構造には全く変化がなかったのである。

それは厚生省においてハンセン病対策に関わった大谷藤郎証人をして、「客観的にこの改正内容を見れば、旧法(癩予防法)の文語体をやさしい口語体に代えたというばかりで、旧法の人権無視の隔離思想や体系をそのままうけつぎ、みるべき進歩のかけらさえなく、戦後の基本的人権の確立、ハンセン病化学療法の革命的進歩、就中欧米諸国の開放外来治療の推進の実状に対してなんら答えることがなかったのは、残念であったというより怒りを禁じ得ない」(甲一号証「らい予防法廃止の歴史」一五二頁)と嘆かしめる程度のものであった。

以下、特に本質的な部分について「らい予防法」が「癩予防法」による絶対隔離絶滅政策を引き継いでいることを明らかにする。

(二) 強制収容(直接強制)

被告は、らい予防法は勧奨による任意入所を原則としており、強制収容はあくまでも例外であることを強調している。確かに法六条一~三項の条文によれば、都道府県知事はまず入所を勧奨し(一項)、勧奨に応じない時には入所を命じ(二項)、入所命令に従わない場合に直接強制(三項)という形になっている。しかしこれを原則と例外という形で考えるのは意味がない。ハンセン病患者は、最終的には直接強制という手段が確保されている勧奨であればこそ応じざるを得ないのであって、直接強制を定める六条三項こそがこの法律の本質なのである。

被告は準備書面の一六三頁以下において、直接強制が例外であることを強調するために、昭和二八年七月二四日参議院厚生委員会における山縣厚生大臣の答弁等を引用している。しかしこの厚生委員会議事録(乙五四号証)の全体を読めば、発言者は全員、この法律の本質が強制収容にあることを理解していることが分かる。

すなわちまず藤原道子議員の「問題は収容所的な考え方から発足しているといわざるを得ない・・・結局強制収容というところに持っていかれるのではないかということを思いまするとき、この強制収容の規定があることが私には非常に不安でございます。」という質問があって、被告の引用する「・・・我々は強制収容が目的にあらずして・・・」という山縣答弁が引き出される。

これに対してはさらに高野一夫議員の「納得ずくで収容しなければ収容の実は上がらないけれども、強制収容という命令権の裏付けがなければその納得づくはできないのだ・・・そういうような意味で収容の問題は規定されていると私は理解していますし了解しているのですが、どんなものでしょうか」という質問があり、山縣大臣は「・・・法としてはいわゆる抜かざる宝刀として・・・そういうことによって今仰せのようなふうに納得づくで入るようなことにいたしたい」と答弁する。

さらに山下義信議員の「・・・伝家の宝刀というものが、納得にも、勧奨にも、裏についておる。ついておるのだったら納得でも、勧奨でもないじゃありませんか。いつでも伝家の宝刀をひらめかし、聞かなければ強制収容するぞ、強制収容するぞと、これは納得、勧奨ということの表面を湖塗するだけのことであるなら、その実態は強制じゃないですか・・・」との質問があり、これに対して山口政府委員の「・・・決して勧奨いたす場合、そのあとに強制があるぞということをひらめかすということは実際の場合いたさぬつもりでおります・・・」という答弁になるのである。

要するに、直接強制の裏付けのある勧奨と、その裏付けのない勧奨が、全く性質の異なるものであることは誰が考えてもはっきりしているのである。それは、勧奨の際に直接強制をほのめかすかどうかといった問題ではなく、法律の構造そのものの問題なのである。

(三) 絶対隔離(「伝染のおそれ」の解釈)

「らい予防法」六条一項は、「らいを伝染させるおそれがある患者」に対する入所勧奨を定め、この限定は同条二項の入所命令及び三項の強制入所の対象者にも及んでいる。被告は準備書面において、昭和二八年七月八日の参議院厚生委員会における「感染力あるらいの患者ということが十分確実でなければこれを強いない」という曽田医務局長の答弁を引用し、「伝染のおそれ」の解釈を厳格に行うことになっていたと主張する。

しかし問題はいかなるハンセン病患者をして「感染力あるらいの患者ということが十分確実」と判断するのか、という点である。当然のことながらこの七月八日の厚生委員会ではその質問が出され、翌九日の委員会で山口政府委員の答弁が行われている。

「らいを伝染させる虞ある患者と申しますのは、らい菌を証明いたしますか、或いはらい菌を証明いたしませんでも、臨床的にらい菌を保有すると認められる患者でございました。例えば皮膚及び粘膜にらい症状を呈するもの、神経らいで神経の肥厚を伴うもの、神経らいで肥厚を認めないけれども、萎縮麻痺を認める、それが限局していないというようなものを考えているわけでございます。」(甲六号証の三四)。
この山口答弁による判断基準を分析してみよう。

まず「!らい菌を証明する患者」、及び「"らい菌を証明しなくても臨床的にらい菌を保有すると認められる患者」が「らいを伝染させる虞ある患者」であるという。言うまでもないことであるが、ハンセン病はらい菌による感染症である。したがって全てのハンセン病患者はらい菌を保有している。感染と発病とは異なるから、らい菌を保有しているものが全てハンセン病患者とは限らないが、少なくともハンセン病患者がらい菌を保有していることは確実である。即ち「臨床的に」ハンセン病という診断が可能であれば、その患者はらい菌を保有していることになり、"の範疇に含まれる。結論的には「全てのハンセン病患者は、伝染させる虞ある患者である」というのが、この山口答弁の意味するところである(甲二一号証「和泉意見書」一一頁参照)。

さらに言えば、山口答弁では"の例として、A皮膚及び粘膜にらい症状を呈するもの、B神経らいで神経の肥厚を伴うもの、C神経らいで肥厚を認めないけれども、限局しない萎縮麻痺を認めるものを挙げている。A及びBはハンセン病の症状であり、「ハンセン病患者」=「伝染させる虞ある患者」という基準を具体化したものである。ところがCの「限局しない萎縮麻痺」は、ハンセン病の症状でもあるが、むしろハンセン病の後遺症と理解すべきものである。蓋し、ハンセン病が治癒しても、神経の麻痺も筋肉の萎縮も回復しないのが普通だからである。このCについては、犀川証人も「どういう意味で書かれているのかちょっと判断に苦しみます」(第八回口頭弁論における犀川証言二五二項)、「神経が萎縮してしまいますとらい菌はほとんど見られません」「神経が萎縮しているのが何でそこで問題になっているのかと云うこと自体が、ちょっと理解に苦しみます」(同二五三項)と証言するとおりである。

このような基準で「感染力あるらいの患者ということが十分確実」と判断できるわけがない。らい予防法六条は、一見すると入所勧奨・入所命令・強制収容の対象者を限定する条文のように読めるが、その実態は、全てのハンセン病患者のみならず後遺症を残した元患者まで含めて強制収容の対象にした条文なのであり、それこそが立法者の意思であったと考えるべきである。

(四) 終生隔離(退所規定の不存在)

被告は準備書面において、「新法(らい予防法)には退所に関する規定はないが、これは退所を許さないということではなく、伝染のおそれのない患者は当然に退所できる趣旨である」と主張する。
確かに、山口政府委員は「症状が軽快して、もう隔離療養の必要がないと所長が認めた者は当然退所できるのでございます」と答弁しているし(甲六号証の二九)、同趣旨の曽田政府委員答弁もある。しかし以下のとおり、「癩予防法」の終生隔離は「らい予防法」に引き継がれている。

(1) 「らい予防法」の拠って立つ疾病観

被告の引用する山口答弁や曽田答弁が行われた議論の全体を検討すると、スルフォン剤登場という治療法の進歩にもかかわらず、「らい予防法」が「癩予防法」の疾病観を引き継いだ法律であることが一目瞭然である。
そもそも山縣厚生大臣による「らい予防法」提案理由説明からして「癩は慢性の伝染性疾患であり、一度これにかかりますと、根治することがきわめて困難な疾病でありまして、患者はもちろん、その家族がこうむります社会的不幸ははかり知れないものがあるのでございます」(甲六号証の二六)というものであった。山口政府委員も、プロミンがハンセン病の病状を軽快させることを認めつつ「・・・果たしてこれが全治いたしますかどうかということにつきましてはなかなか疑問がございますので・・・学問的にもまだ疑問がある点だと思うのでございます」、曽田政府委員も「例えば菌が一回、二回或いは一ヶ月というような程度証明されませんでも、まだその二ヶ月後、三ヶ月後に出るおそれがあるというふうに考えられます限り、病院としては感染の虞が全くなくなったというふうには断定いたさない状況であります」といった答弁を行っている(甲六号証の三三)。
つまり表面上は「伝染の虞がなくなった場合は当然に退所可能」といいつつ、実際には、「伝染の虞がなくなることはない」、すなわち「退所可能な者はいない」というのが、この「らい予防法」の疾病観であり、この法律の趣旨なのである。

(2) 「癩予防法」との関係

その法律の基本となる疾病観が変更されない以上、当然のこととも言えるが、被告の引用する山口及び曽田答弁は、実は癩予防法時代の政府答弁を引き継いだものに過ぎない。
この「らい予防法」改正の議論に先立つ一九五二年(昭和二七年)一一月、長谷川保議員は衆議院で「癩予防と治療に関する質問主意書」を提出し、癩予防法に対する政府見解を問うた。その質問主意書の一〇項は「癩予防法には、行政官庁が患者を療養所に入所せしめる義務についての規定があって、自然治癒及び医療によって治癒した患者の退所についての規定がないが、いかなる理由に基づくものであるか」というものである。これに対する吉田茂首相の答弁書は「患者が治癒した場合において、退所の措置がとられるのは、当然のこととして規定せられていない」というものであった(甲六号証の二三)。
この吉田答弁書は、癩予防法に基づいてハンセン病患者に対する絶対隔離絶滅政策がとられてきたこと、「癩予防法」が、無差別・無期限の隔離の根拠として機能してきたことを全く無視するものであるが、らい予防法制定の際の山口及び曽田答弁も、この吉田答弁書から一歩も出るものではない。即ち、癩予防法の無期限隔離・終生隔離の立場は、「らい予防法」にも引き継がれたと考えるべきなのである。

(3) 退所規定が存在しないことの意味

「伝染のおそれのない者は当然に退所できる」というのが本当にこの法律の趣旨であるならば、そのような内容の一項目を設けることはなんら困難なことではない。
WHO「近代癩法規の展望」四五頁(甲一六号証)においても法令に癩患者の解放の規定がないと、「法的保護のないために癩患者は当局の為すがままになりまた無期限に隔離されるかもしれない」と警告されている。また日本においても、法律に退所規定が存在しなければ無期限の終生隔離になってしまうことは、一九〇七年「癩予防ニ関スル件」以来の経験で既に明らかであった。それ故にこそ、本章第二で述べた一九四八年の「国立療養所の施設並びに、その生活改善に関する請願」においても「療養所に入所して一定期間治療した者で医師の診断の結果、病毒伝播のおそれなしと認定された者に対しては、本人の申請により軽快退所を許可することを規定すること」という希望が盛り込まれていたし、一九五二年の全患協の癩予防法改正要求にも「全快者又は治療効果があり病毒伝播のおそれのないものの退園を法定する」(甲一号証「らい予防法廃止の歴史一四九頁)という項目が含まれていたのである。
このような歴史的経過や在園者の声を無視して、「らい予防法」は、敢えて退所規定が設けられていないのである。このことからしても、この「らい予防法」は終生隔離を建前とするものと評価されねばならない。

なお被告は「らい予防法」一三条の厚生指導の規定は、退所可能であることを前提としたものと反論するが、条文上それは明らかではない。仮にそうであったとしても本項(1)~(3)までの検討からすれば、全く後遺症なく完治し、しかも受け入れる家庭があるといった社会的条件がある極めて特殊で例外的な患者を予定したものに過ぎず、「らい予防法」全体の終生隔離主義には基本的に影響しないと考えるべきである。

(五) 日本国憲法との関係

以上述べたとおり、「らい予防法」は改正前の「癩予防法」による隔離構造をそっくり引き継ぐ法律であった。当然のことながら「癩予防法」による人権侵害も、「らい予防法」に引き継がれることになった。
「癩予防法」が、憲法一八条、二二条一項、三一条、一三条、一四条一項に違反するものであったことは、本章第二-一-1で既に述べたとおりである。これを引き継いだ「らい予防法」による人権制約が、ハンセン病予防という目的達成のためにあまりに過剰なものであること、したがって「らい予防法」もまたこれらの憲法の条項に違反していることは言うまでもない。

しかし「らい予防法」の違憲性は、単に過剰な人権制約というだけにとどまらない。 そもそも「目的達成のために必要最小限度の人権制約と言えるか否か」といういわゆる「厳格な基準」は、少なくとも目的達成とその人権制約との間に合理的な関連性があることを前提にしている。つまりハンセン病予防という政策に、隔離政策がなにがしか有効であることを前提とした上で、「必要最小限度の人権制約と言えるか否か」が問題になってくる。

ところが、「らい予防法」が制定された一九五三年当時、国際的には既にハンセン病予防の最も有力な武器はスルフォン剤による治療であり、隔離政策はむしろ治療の機会を失わせるという弊害が指摘されていたのである(乙二二号証「第一回WHOらい専門委員会報告」)。

日本においても一九五三年段階では既にスルフォン剤の効果が確認されており、伝染予防目的での隔離の必要性が極めて低下していたことは、本準備書面第二章-第三で述べたとおりである。

このような隔離の必要性の低下と、ハンセン病患者が隔離を怖れて初期治療を遅らせてしまうという弊害を比較衡量した場合、一九五三年段階においては既にハンセン病予防政策としての隔離政策は有効ではなかったと考えるべきである。

なお、予防政策に対する隔離政策の有効性が否定されることは、必ずしも伝染予防のための隔離の有効性が完全に否定されることを意味しない。一人のハンセン病患者から他人への感染を予防するという目的に、隔離がある程度有効であるとしても、それが隔離政策の有効性の評価につながるわけではないのである(第七回口頭弁論調書和泉証言二五四~二五六項)。

もともと伝染力が弱く、しかも疫学的終焉に向かっていたハンセン病に対し、「癩予防法」による絶対隔離絶滅政策を以て臨むのは過剰な人権侵害であり憲法に違反するものであることは本章第二で既に述べたとおりであるが、「らい予防法」制定当時には、隔離政策の有効性自体が否定されていた。すなわち人権の制約と、ハンセン病予防目的との間の合理的な関連性が喪われていたのであり、違憲性がそれだけ顕著になったものと評価されるべきである。

2 「らい予防法」の制定は国家賠償法上違法である

本章-第一-一-2で述べたとおり、自由権的な基本的人権を制約する法律を制定する立法行為の場合においては、基本的にはその法律の内容の違憲性そのものが、その立法行為の国家賠償法上の違法性を基礎づけると考えるべきである。「らい予防法」が憲法一八条、二二条一項、三一条、一三条、一四条一項といった自由権的な人権を保障する条項に違反することは前項において検討したとおりであり、それを一九五三年に制定した国会の行為は、それだけでも国家賠償法上違法と評価されねばならない。

しかもこの法律は、以下に述べるとおり、国立らい療養所の在園者で構成される全患協の激烈な反対に抗して制定されたものである。国会は、この法律が、国会前に現に座り込んでいる在園者らの人権を制約する法律であることを明確に意識しながら敢えて立法行為を行ったと言わざるを得ない。この行為が「国会議員の個別の国民に対する職務上の義務違反」と評価されるべきことは明らかである。

一九五二年(昭和二七年)から一九五三年(昭和二八年)にかけての、全患協の「癩予防法改正運動」及び「らい予防法制定反対運動」については、最終準備書面・事実篇において詳しく述べたとおりである。本件訴訟の原告らを含む一〇〇名以上の陳情団は、衆議院で「らい予防法」の審議が始まった翌日の七月四日から国会周辺に座り込み、八月一日に参議院を通過してもなお移動しなかった。

こういった在園者たちの必死の反対に対して、国会の態度は極めて冷たかった。 例えば、有馬英二議員は七月六日の参議院厚生委員会で「らい患者が最近国会の周囲に多数押し寄せているきておるので予防法上誠に不安極まりない状態であると思います・・・」、「療養所から所長が止めても聞かないで勝手にどこへでも出かけるというようなことをいつまでも放漫な処置をとっておるように見えるような、非常に危険な状態に放置しておるということは、これは許されないことであると私は思うのです・・・もっと積極的にこのらい患者が出てこないような方法を、余りにも温情主義で以て公衆一般に非常に迷惑をかけるようなことを放置しておくように見えるような措置は私はどうも認むべきではないと考えておるのですが・・・」などと発言している(甲六号証の三二)。また榊原亨議員は七月八日には「・・・あそこの議会裏でいろいろと陳情居座りをしておられる方々、どれを見ましても、私ども一見いたしまして症状がはっきりいたしておるのでございますが、あれは伝染の虞がないということで表にお出しになったのでございますか」(甲六号証の三三)、七月一三日には「この間参議院の裏で陳情しておられるかたを見ますれば、私どもが見ても一見先程おっしゃいました『病毒伝播ノ虞アルモノ』の患者が多数でございました」(甲六号証の三五)と、皮肉とも侮蔑ともつかない発言を繰り返している。

これらの発言者は、自分たちが制定しようとする法律が、いかにハンセン病患者の人権を侵害するものであるか、現に目の前にいる在園者たちをどれほど苦しめることになるのかということを全く理解しようとしていない。ハンセン病の伝染力がどれほどのものであるか、患者の人権を侵害してまで療養所に閉じこめねばならないほど強力な伝染力があるのか、真剣に考えた形跡は全くない。

これは国会議員としての明らかな職務怠慢であり、これを「国会議員の個別の国民に対する職務上の義務違反」と評価せずして、職務上の義務違反という概念が成立する余地はない。

二 国会の故意・過失

「らい予防法」が憲法に違反することを認識するためには、以下の二つを認識すれば十分である。すなわち
! 「らい予防法」がハンセン病患者の人権を制約する法律であること
" その人権制約が、伝染予防という目的を達成するために必要最低限度のものとは言えないこと
このうち!について言えば、これが認識可能でであることは論ずるまでもない。

しかも、この法律は全く新しく制定されるものではない。既に日本国憲法施行以前に制定された「癩予防法」が存在し、それを法的根拠として行われた絶対隔離絶滅政策がハンセン病患者に対する激烈な人権侵害をもたらしたことも国会で明らかにされていた(栗生楽泉園特別病室事件、甲二三九号証)。その前提に立てば、日本国憲法下の国会として、二度と戦前の人権侵害を繰り返してはならない、そのためにこそ新しいらい予防法が必要なのだという確固たる認識をもって、この審議に臨まねばならなかったのである。

したがって国会としては、"について、このうえなく慎重な態度で判断せねばならなかった。
しかし実際には、"についても、これが認識可能であったことを示す事実は枚挙に暇がないのである。それほど慎重にならなくても、ごく普通の常識をもって判断しさえすれば、"を認識することは容易だった。

基本的には本準備書面第二章-第二で論じたことと重なるが、以下、(1)一九五一年のいわゆる「三園長証言」を検討することによって隔離を必要とする医学的根拠がなかったことを示す。さらに(2)結核予防法(一九五一年制定)との比較において隔離の必要性がないことを容易に知り得たこと、(3)WHO第一回らい専門委員会報告によって、らい予防法が違憲であることを認識し得たことを示す。

1 いわゆる「三園長証言」

一九五一年(昭和二六年)一一月八日、参議院厚生委員会において、当時の長島愛生園園長光田健輔、菊池恵楓園園長宮崎松記、多磨全生園園長林芳信の三名が証言を行った。いわゆる「三園長証言」である。

この三園長は交々隔離の強化を訴えており、一見、二年後の「らい予防法」制定を正当化する内容に思える。しかしその証言内容をよく検討すれば、「らい予防法」を制定できるような医学的知見は一切含まれておらず、むしろスルフォン剤による治療効果が国会において明らかになったと評価しうるものである。

(一) 三園長の基本的な立場

光田健輔、宮崎松記、林芳信の三園長は交々隔離の必要性を強調するが、予防のために隔離が必要であるという医学的根拠は一切示さない。ハンセン病の伝染力がどの程度のものか、患者の人権を制約してまで強制的に隔離しなければならない程度のものかという視点は一切存在しない。スルフォン剤の治療効果が、予防にどのような影響を及ぼすかという視点も一切存在しない。つまり、ここで語られているのは単に「ハンセン病予防には絶対隔離、強制隔離以外にない」という三園長の信念に過ぎない。

「癩予防は現在のところ伝染源であるところの患者を療養所に収容することがまず先決問題」(林、甲六号証の二二の二頁一段目)

「即ち癩は家族伝染でありますから、そういうような家族に対し、又その地方に対してもう少しこれを強制的に入れるような方法を講じなければ、いつまでたっても同じこと」(光田、同号証三頁二段目)
「私は癩は努力すればするほどそれに比例して効果が挙がるものだと思っております・・・この際おやりになるのであれば徹底的にいわゆる完全収容、根本的に解決していただくということにしていただきたい」(宮崎、同号証六頁三段目)

こういった三園長の医学的根拠を欠く「信念」は、一九三〇年の内務省衛生局「癩の根絶策」に示された「癩を根絶する方策は唯一である。癩患者を悉く隔離して療養を加えればそれでよい。」という考えをそっくりそのまま踏襲するものであった。

そもそも、光田健輔は、一九〇七年「癩予防ニ関スル件」以来、常に日本のハンセン病対策の中核を担い続けた人物である。光田が絶対隔離絶滅政策の進展に果たした役割は、甲一号証「らい予防法廃止の歴史」八一~九一頁に詳しい。またハンセン病患者に対する断種手術の創始者でもあり、まさに絶対隔離絶滅政策の権化であった。本来ならば戦前のハンセン病患者に対する激烈な人権侵害の責任を追及されるべき立場にあったはずである。

宮崎、林にしても、戦前における絶対隔離絶滅政策の中で、療養所の施設管理者として、あるいは医官としてその政策を推進してきた人物である。

すなわちこれら三園長から、日本国憲法下におけるハンセン病対策の在り方についての意見を求めることは、例えて言えば無謀な太平洋戦争に突入していった戦前の日本の陸軍首脳に対して、新憲法下の平和外交のありかたについての意見を求めるようなものなのである。
このような三園長を、日本国憲法下の国会が、今後のハンセン病対策のありかたに関する参考人として招致すること自体が、大きな誤りであったと言わざるを得ない。

(二) 三園長の人権意識

三園長、とりわけ光田及び宮崎の人権意識の低さ及びハンセン病患者に対する蔑視は、この証言の至るところに見られる。

「癩の数を出しますことは古畳を叩くようなものでありまして・・・従来どうして古畳を叩かなかったかと申しますと、叩いて塵を叩き出すと塵のやりどころがない」(宮崎、同号証の四頁三段目~四段目)
「私どもは先ずその幼児の感染を防ぐために癩家族のステルザチヨンというようなこともよく勧めてやらせるほうがよろしいと思います」(光田、同号証の三頁三段目)

このような発言は、「ハンセン病予防には絶対隔離、強制隔離以外にない」という信念が、医学的知見に支えられているものではなく、むしろハンセン病患者に対する蔑視や人権意識の低さに支えられていることを端的に示している。

「療養所の中にいろいろ民主主義というものを誤解して患者が相互に自分の党を殖やすというようなことで争いをしているところがございますし・・・法を改正して闘争の防止というようなことにしなければ・・・」(光田、同号証四頁二段目~三段目)

「・・・いわゆる患者のいわゆる自由主義のはきちがえで、癩患者といえども拘束を受けるいわれはない・・・如何にしたらこの療養所がこれを断行しうるかどうか、これを十分にお考えいただきたい」(宮崎、同号証五頁四段目)

このような発言は、ハンセン病医学の専門家としての意見ではなく、強制収容所たるらい療養所の施設管理者としての意見である。しかも日本国憲法施行によって在園者の人権意識が高まったことに対する嫌悪感が露骨に示されている。三園長が、日本国憲法の基本的人権の保障の意味を理解していないことが一目瞭然である。

日本国憲法下におけるハンセン病対策がどうあるべきかについて、民族浄化論時代の絶対隔離絶滅政策を推進してきた三園長に意見を尋ねることの無意味さがここに露呈しているのである。

(三) 「強烈伝染病説」の実体

唯一、隔離の根拠としての医学的知見が装われているのは、本準備書面第二章-第三でも引用した光田健輔発言であろう。
「ところが癩と結核は全く別でありまして、皮膚の上皮層の〇・一ミリか〇・二ミリの下には黴菌の膿があるのですから、その黴菌の猛毒質の群集があるのです。鼻の粘膜からは出、口の粘膜からは癩菌が飛ぶということになっているのであります。・・・蚊にもくちばし、それから蝿にも血を吸うくちばしがあるし、それからダニ、疥癬ですね、これによって血と共に癩菌が運搬せられる。」(同号証一一頁一段目)

このような光田発言が、医学的知見ではなく素人向けのプロパガンタに過ぎなかったことは、既に本準備書面第二章-第三で述べたとおりである。
国会議員は医学の専門家ではないにせよ、このような光田の見解に医学的根拠があるかどうか程度のことは、きちんと確認すべきであった。本項で述べたとおり、光田が戦前の絶対隔離絶滅政策を推進した中心的人物であったことを考慮に入れればなおさらのことである。

(四) スルフォン剤の治療効果についての認識

一方、三園長の証言内容が、スルフォン剤の治療効果を認めるものであり、隔離の必要性が失われていることを示すものであったことは、本準備書面第二章-第三で引用したところから明らかである。

すなわち、国会が、ハンセン病予防対策としての隔離が本当に必要なものかを自ら判断するために、三園長の証言から医学的情報を得ようという姿勢さえあれば、既に隔離の根拠がないことを知ることは容易だったのである。

(五) 小括

戦前の「癩の根絶策」そのままの「ハンセン病予防には絶対隔離、強制隔離以外にない」という三園長の信念は、さらに二年後の国会に「らい予防法」が上程された際の、「今日、癩を予防しますためには、患者の隔離以外にその方法はないのでありまして」という山縣厚生大臣の提案理由説明(甲六号証の二六の四頁一段目)に踏襲される。
そもそも国会がこのような三園長を参考人として招致すること自体が誤りであったことは既に述べたとおりである。仮に意見を求めるとしても、政策のあり方について意見を求めるのではなく、現時点での正確な医学的情報を求めるべきだった。国会がそのような姿勢に立てば、三園長証言からも、隔離に医学的根拠が失われていることを認識することは可能だった。

「らい予防法」の議論に当たり、この三園長証言の内容が正確に検討されていれば、その人権制約が、伝染予防という目的を達成するために必要最低限度のものとは言えないことは容易に認識できたのである。
このことを象徴的に示しているのは、以下の宮崎証言であろう。

「何故に癩患者は隔離しなければならないか、隔離を以て臨まなければならないかという、結核患者はなぜ隔離しなくていいかということの根本問題を一つはっきりして、私どもは隔離の根本理念を確立して頂きまして、患者がいかように申して参りましても、こういう方針だと私ども確信を以て患者の隔離を断行できるような理論的な裏付けをして頂きたいと思います。」(甲六号証-二二-六頁一段目)

即ち、「ハンセン病予防には絶対隔離、強制隔離以外にない」という三園長の信念に、理論的裏付けが存在しないことは宮崎自身認めていたのである。

2 結核予防法との対比

「結核患者は隔離しなくていいのに、ハンセン病患者はなぜ隔離しなければならないか」
宮崎松記が提起したこの問題を掘り下げれば、「らい予防法」によるハンセン病患者に対する人権制約が、極めて過剰なものであることが明確になる。

既に、本準備書面第二章-第三において、一九五三年に制定されたらい予防法が、一九五一年に制定された結核予防法と比べて遙かに厳重な隔離政策を採用していること、結核とハンセン病との、(1)伝染力・日本における蔓延状況、(2)予後、(3)治療方法及び予防方法の進歩を比較した場合、ハンセン病対策が、結核予防対策に比較して厳重な隔離政策であらねばならない根拠は一切存在しなかったことを詳細に検討した。

ここで検討したことは、「らい予防法」を議論した国会において、容易に認識可能なことであった。わずか二年前に制定された結核予防法を参照し、隔離の必要性を比較検討すればよかっただけのことである。そうすれば、らい予防法がハンセン病予防目的に照らして明らかに過剰な人権侵害であり、憲法に違反することは容易に認識し得たのである。

ところが国会におけるらい予防法の議論の中で、この結核との比較が論じられた形跡は一切ない。

宮崎の問題提起に対する正しい解答は、「結核患者と同じく、ハンセン病患者も隔離しなくてよい」というものであった。「人権制約は目的達成のために必要最小限度であらねばならない」という憲法の原理に思いを致せば、正解に辿り着くのは極めて容易だったはずである。

3 第一回WHOらい専門委員会報告

この第一回WHOらい専門委員会報告が、日本のハンセン病対策に与えるべき影響については、本準備書面第二章-第三で述べたとおりである。

一九五三年におけるらい予防法の違憲性は、第一回WHOらい専門委員会報告に照らした場合、極めて顕著なものになることも、既に本章第三でに述べた。
一九五三年当時の国会は、このことを認識すべきであったし、容易に認識し得たはずである。
厚生省が遅くとも一九五三年七月六日の段階ではこの報告書を入手しており、その内容を知っていたことは、同日の衆議院厚生委員会における山口公衆衛生局長答弁から明らかである(甲六号証-三二-三頁-五段目)。そしてこのことは、国会もまたその報告書の存在を知り得たことを意味している。

確かに、国会は厚生省と異なり、この報告書の内容までは認識はしていない。国会が実際に認識したのは、山口公衆衛生局長が説明した部分、すなわち「らい患者の収容ということについて強制力をどの程度使うかということについては、その国によって状況が異なるというふうになっているのでございますが・・・」というレベルにとどまっていたものと考えられる。

この山口の説明に対して広瀬久忠議員が
「今のお話は、大体強制収容の問題に触れてのお話ですが、内部の秩序維持或いは外出などについての細かいことは分かりませんか。」
と質問しており、これに山口政府委員は「次回答える」旨答弁している。しかし実際には次回の厚生委員会でもこの点について質疑はなされず(甲六号証の三三)、ついに再びWHO報告が話題になることはなかった。

国会としては、山口の説明で、WHOのハンセン病に関する報告が存在することを認識した以上、この報告をらい予防法審議の最も重要な資料の一つとして、より詳細に検討すべきであった。
蓋し、前述のように、日本国憲法制定前に制定された「癩予防法」を法的根拠とする絶対隔離絶滅政策がハンセン病患者の人権を侵害してきた実態は、栗生楽泉園特別病室事件などで国会で明らかにされてきたところであった。その前提に立てば、日本国憲法下の国会として参考にすべきは、絶対隔離絶滅政策の推進者であった光田などの意見ではなく、グローバル・スタンダードとしてのWHO報告だったのである。

なおこのらい予防法の審議過程を追えば、その議論の全体が「ハンセン病を予防するには患者の隔離以外に方法はない」という前提に立っていたことは明らかである。この言葉は、衆議院厚生委員会における山縣厚生大臣の提案理由説明(甲六号証の二六の四頁一段目)、参議院厚生委員会における中山政府委員の提案理由説明(甲六号証の二三の一頁三段目)のいずれも冒頭に現れる。質疑においては、これまで述べてきたとおり強制入所の規定について疑問も出され、プロミンの治療効果についての質疑もなされ、最終的には入所者に対する福祉施策が貧弱だという理由で反対した政党もある。しかし「ハンセン病を予防するには患者の隔離以外に方法はない」という前提には一貫して疑問が呈されなかった。この考え方こそがこそがまさにらい予防法を成立せしめた根幹であったと言える。

一方、第一回WHOらい専門委員会報告の特徴は、前述のとおり「ハンセン病予防の最も有力な武器は治療である」というところにある。つまりこのらい予防法の根幹を真っ向から否定するのが、このWHO報告なのである。
仮に、このWHO報告が、この国会審議の最も重要な資料として検討されていれば、審議の流れは全く異なっていたはずである。それがなされないままになってしまったことで、「ハンセン病を予防するには患者の隔離以外に方法はない」という誤った考え方を是正することができず、結果的にはらい予防法を成立させてしまったのである。

WHO報告の存在を知りながら、それを検討しなかったことこそ、この一九五三年における国会の致命的な誤りであった。

4 小括

以上のとおり、いわゆる「三園長発言」、結核予防法との対比、第一回WHOらい専門委員会報告など、国会がらい予防法の違憲性を認識する材料はいくらでもあったのである。一九五三年における国会が、らい予防法を制定した過失は明らかである。

三 損害との因果関係
1 法適用を介した損害

らい予防法が制定された一九五三年以降、療養所に在園していた原告らについては、全てらい予防法の適用を受けたものである。一九五三年以降に入所した原告がらい予防法の適用を受けて入所したものであることは当然であるが、それ以前に入所した原告であっても、一九五三年以降入所の継続を余儀なくされたのはらい予防法が制定されたからである。国会がらい予防法を制定した作為と、右原告らの損害との間に因果関係が存在することは当然である。

2 法律の存在そのものによる直接の被害

プロミン等スルフォン剤の治療効果が既に明らかになった一九五〇年代は、「癩予防ニ関スル件」及び「癩予防法」によって維持、強化された「ハンセン病患者は療養所に終生にわたって隔離されるべきもの」、「ハンセン病患者は社会に存在することが許されないもの」という社会通念を変化させる絶好の機会だった。ところがこの一九五三年に「ハンセン病を予防するには患者の隔離以外に方法はない」という誤った考え方に基づいたらい予防法が成立してしまったのである。当然のことながらハンセン病患者に対する社会通念は全く変わらなかった。原告らハンセン病患者、あるいは元患者はこのような社会通念に基づき差別・偏見の被害を受け続けた。すなわちらい予防法は、個々の原告に対する適用を介して損害を与えただけではなく、その法律の存在自体が、原告らに直接的な被害を及ぼし続けたのである。この意味でも、らい予防法を制定した国会の作為と原告らの損害との間には因果関係があると言える。

第四 「らい予防法」を一九五三年以降廃止しなかった立法行為

一 違法性
1 らい予防法の違憲性

らい予防法が日本国憲法に違反していることは、本章第三-一-1で述べたとおりである。この違憲性は、日本国憲法が改悪されない限り決して治癒することはない。

なお被告はその準備書面二一二頁~二一八頁にかけて「強制収容の消滅」、「外出制限の事実上の撤廃」と題して、らい予防法六条三項による強制収容が一九六五年以降記録に残っていないこと、法一五条の外出制限が事実上緩和され、同条違反として法二八条により処罰されたのが一九五八年(昭和三三年)の一例のみであることを強調している。
この点についての反論は本準備書面第二章-第三-三で詳細に論じているが、法令違憲の関係で必要な限度で再論 被告の主張は、法律自体は憲法違反であっても、合憲的に運用されていたとの主張に理解できるが、らい予防法の違憲性は、このような「合憲的運用」で治癒可能なものではない。
すなわち法六条三項は、もともと直接的にこの規定を適用して強制収容することを主目的としたものではなく、この規定が存在することによって、それ以前の勧奨の段階で入所を余儀なくすることを意図したものなのである(本章第三参照)。この規定の直接適用たる強制収容の事例がなくなったことをもって「合憲的運用」と理解することは到底できない。
また法二八条による外出制限違反の罰則も、いわゆる三園長発言の中に「そういうものはですね、逃走罪という一つの体刑を科するかですね、そういうようなことができれば他の患者の警戒にもなるのであるし・・・これは一人を防いで多数の逃走者を改心させるというようなことにもなるのですから、それができぬものでしょうか」(光田、甲六号証の二二の九頁五段目)という発言が見られるとおり、処罰による威嚇で入所者の外出を自粛させるところにその意味がある。実際に適用されたのが一例だけであることをもって「合憲的運用」と理解することができないことは言うまでもない。

さらに、本章第三-三-2で既に述べ、また同第四-三-2でも後述するとおり、らい予防法は個々の原告らに対する適用を介して人権を侵害しただけでなく、その法律の存在そのものが社会の差別・偏見を維持・強化することによって原告らの人権を侵害し続けてきた。すなわち、運用がどうあれ、この法律の存在自体が憲法に違反すると言わざるを得ないのである。

2 らい予防法」の放置は国家賠償法上違法である

これまで何度か述べたとおり、自由権的な基本的人権を侵害する法律を放置する立法行為の場合においては、基本的にはその法律の内容の違憲性そのものが、その立法行為の国家賠償法上の違憲性を基礎づけると考えるべきである。したがって一九五三年以降、一九九六年までらい予防法を廃止しなかった国会の行為はそれだけでも国家賠償法上違法と評価されねばならない。

しかも本件においては、以下のとおり「らい予防法」を廃止しなかった国会の不作為が「国会議員の個別の国民に対する職務上の義務違反」と評価せざるを得ない事情が存在する。

らい予防法は一九五三年八月六日、参議院で可決されたことにより成立したものであるが、この時、参議院では九項目にわたる附帯決議を行っている(甲六号証-四四-七七九頁)。その中には

「四 外出の制限、秩序の維持に関する規定については、適正慎重を期すること」

「五 強制診断、強制入所の措置については人権尊重の建前に基づき、その運用に万全の留意をなすこと」

「七 退所者に対する更生福祉制度を確立し、更生資金支給の途を講ずること」

といったものが含まれている。

これらは一見、らい予防法の運用に関する行政への注文のように見えるが、附帯決議末尾には「以上の事項につき、近い将来、本法の改正を期する」との文言がある。

当然のことながら、法律を改正する権限があるのは、立法府たる国会であって、行政ではない。すなわち、この附帯決議は、国会がらい予防法改正の必要性を認識し、近い将来において改正することを自ら宣言したという性質を持っている。国会は、このらい予防法によって人権を侵害される個別の国民に対して、近い将来においてこの法律を改正する義務を自らに課したのである。

ところが、実際には一九五四年(昭和二九年)に、患者家族援護制度の創設という改正がなされたのみであった。この改正は、附帯決議の第一項「家族の生活援護」に沿ったものであるが、それ以外の附帯決議、すなわち外出制限、秩序維持、強制診断、強制入所及び退所者に関する法改正は、ついにらい予防法自体が廃止されるまで実現することはなかった。

一九五三年以降、らい予防法の見直しを迫る国際会議の決議やWHOの報告は枚挙に暇がない。そのことは本準備書面第二章-第三-三-3で述べ、ローマ会議、第七回国際らい会議、第二回WHOらい専門委員会報告について論じた。国会はその全てに目をつぶり、最後の最後までこの法律の改正あるいは廃止に動くことはなかった。これは明らかに国会が自らに課した義務に違反している。これこそ「国会議員の個別の国民に対する職務上の義務違反」と評価されるべき不作為である。

なお念のため付言すれば、「附帯決議は改正を期しているのであって、廃止を期してはいないのだから、これをもって廃止しなかった立法行為の違法性を基礎づけることはできない」という反論があり得るところかも知れない。しかし強制収容、外出制限といった隔離規定こそらい予防法の本質的な部分であって、これを変更することはもはや改正の域を超え、廃止の結論に行き着かざるを得ない。そのことは一九九六年に行われたらい予防法の廃止に至る過程が如実に示すとおりである。

二 国会の故意・過失

前項でも述べたとおり、一九五三年のらい予防法成立以降、その見直しを促す国際的な決議、勧告、報告は目白押しである。これらの決議や報告に照らせば、らい予防法が違憲であることは明らかであり、国会としても、この法律を廃止すべきことを認識できた。

残念ながらこれらの国際会議等の決議等が日本の国会において議論された形跡はない。しかしこれらの国際会議の議論は様々な形で公にされており、国会がこれを認識することは容易であった。
すなわちこれらの決議等が国会の議論に上らなかったこと自体、国会の過失と評価するべきである。
一九五三年においてらい予防法を制定したことが国会の過失と評価されるべきことは、本準備書面第三章-第三-二で論じたとおりであるが、国会はその後も過失に過失を重ねて、この法律を一九九六年まで存続させてしまったのである。

三 損害との因果関係
1 法適用を介した損害

本章第三-三-1で述べたとおり、らい予防法が制定された一九五三年以降、療養所に在園していた原告らについては、入所の時期を問わず、全てらい予防法の適用を受けたものである。らい予防法が一九五三年以降速やかに廃止されていれば、原告らに法律が適用されることはなかったのであり、国会がらい予防法を廃止しなかった作為と、右原告らの損害との間に因果関係が存在することは当然である。

仮に、百歩譲って原告らが入所を継続せざるを得なかった、あるいは退所後再入所せざるを得なかったのが、らい予防法が原告ら個々人に適用された結果ではないと考えたとしても、その結果は、らい予防法の存在なくしてはあり得なかったことである。すなわち、それらの原告の損害は次項で論ずる「法律の存在そのものによる直接の被害」と理解されるべきこととなる。

2 法律の存在そのものによる直接の被害

らい予防法が、ハンセン病患者に対する社会の差別・偏見を維持・強化する機能を果たしてきたことはこれまで再三にわたって述べてきたとおりである。原告らが退所できなかった理由、あるいは一旦退所しても社会内での生活ができずに再入所の途を選ばざるを得なかった理由の一つはここにある。また退所したまま療養所に戻らなかった原告らにしても、社会の中で、自分の入所歴を隠し、嘘を重ねて生きていかねばならなかった大きな理由はここにある。
しかしそれだけではない。らい予防法は、ハンセン病治療の場を療養所に限定することによって、ハンセン病患者あるいは元患者が社会内で生活することを著しく困難にした。本準備書面第二章-第三で述べたとおり、これが、らい予防法と結核予防法との極めて大きな相違点なのである。

被告は準備書面二三四頁以下において、外来治療が行われていたことを強調するが、ここで主張されているような限られた大学病院での外来治療、あるいは療養所における外来治療が、WHOの考えるIntegrationとは全く異質なものであることは論ずるまでもない。しかも、乙一四四号証(昭和四〇年三月二七日開催の所長会議における予防課長メモ)には、「・・・昭和四〇年度予算要求において、在宅患者指導費として約五五〇万円の要求を出し、予算措置として在宅治療が実現できるよう努力したものでありますが、法律上明文化されていない現状において予算化が困難となり実現をみなかったものですが、昭和四〇年度においても前年通り国立療養所の援助によりましてこれらに対処していきたいと思います」という文章がある。すなわち、らい予防法に、在宅治療が規定されていないが為に、たかが五五〇万円程度の在宅患者指導費も認められなかったのである。

このような法律の下で、Integrationの理念など実現できるはずがない。その結果、療養所以外の場所では、ほとんどハンセン病の治療は不可能となり、ほとんどの原告は療養所に縛り付けられる結果となった。これは法律の存在そのものによる直接的な被害と考えられる。

第五 結論

以上のとおり、(1)「癩予防法」を一九四七年以降廃止しなかった立法行為、(2)「らい予防法」を一九五三年に制定した立法行為、(3)「らい予防法」を一九五三年以降一九九六年まで廃止しなかった立法行為は、国家賠償法上違法であり、かつ過失が認められることも明らかである。

かかる立法府の不法行為を裁き、それによって侵害された人権の救済を図ることこそ、日本国憲法八九条が司法府に付託した、重大且つ崇高な任務である。

第四章 沖縄・奄美における国の責任

第一 はじめに

第二次大戦後、北緯三〇度以南の南西諸島(以下「沖縄・奄美地方」という。)は、米国統治により本土復帰が遅れた。また、沖縄では一九六一年、退所及び在宅治療を認めたハンセン氏病予防法が公布施行された。
しかし、ハンセン病政策における被告国の責任には変わりがない。

一 戦後沖縄の米国統治の概略

まず、沖縄・奄美地方は、終戦前までは日本であり、当然、本土と同様の法が適用されていた。

しかし、一九四五年、沖縄本島は、米軍によって上陸・侵攻され、米国海軍軍政府布告第一号(ニミッツ布告)が発布され(同年一一月二六日、宮古、八重山、奄美の各諸島についても、ニミッツ布告とほぼ同様の米海軍布告第一のA号が発布され)、沖縄・奄美地方は米軍が施政権を行使するに至った。

一九五〇年一二月五日、米国極東軍総司令部「琉球列島米国民政府に関する指示」(FEC書簡)に基づき、占領の主体が米国軍政府から「琉球列島米国民政府」(USCAR)に変わった。

一九五二年四月二八日、サンフランシスコ講和条約発効により、日本は連合国軍の占領から独立したが、沖縄は同条約三条により、米国が「行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有する」こととなり、引き続き米国による統治が続けられた。

この間、沖縄住民の政府機構として、一九五一年四月一日、琉球臨時中央政府が設立され、一九五二年四月一日、右講和条約発効を待たずして、琉球政府に発展し、米国民政府は、琉球政府に対して拒否権等を留保したものの、琉球における政治は琉球政府が行うという制度(間接統治制)が採用された(米国民政府布告第一三号二条、七条)。

一九五三年一二月二五日、奄美が本土復帰した。

一九七二年五月一五日、沖縄が本土復帰した。

二 沖縄・奄美地方における被害

沖縄・奄美地方のハンセン病患者は悲惨な歴史を耐えてきた。

最終準備書面・事実篇に述べたとおり、沖縄戦による空襲、食糧不足等の戦争被害、戦後の住環境の悪さ、本土より貧困な療養所の医療など人的物的体制の不備、隔離政策を維持したままの退所制度の導入による退所者の精神的・経済的被害の甚大さ等、沖縄・奄美地方のハンセン病患者は強制隔離による被害はもちろん、それにもまして右のような二重、三重の被害・差別に苦しんできたのである。

入所者は、政府の援助の貧困や社会の偏見の強さを思うと退所に踏み切れず、一方、退所者は、入園者全体から見れば少数であり、隔離政策の枠外にいるため、経済的援助を受けられないうえ、本来の能力以下の学歴職歴を頼みに世間の偏見と闘うことを余儀なくされ、家族の元へも戻れず、済的困窮に陥り、治っているのに「病者」という自己意識を払拭できない。

隔離政策によって沖縄のハンセン病患者は、人格が破壊されたのである。ハンセン氏病予防法でも隔離政策の根本が変わらず、沖縄での差別・被害は何ら解消されなかったのであるからこそ、沖縄の原告も、本土の原告と同様、本件訴訟において「人間回復」と「国に対する責任追及」を求めているのであって、被告国の沖縄・奄美に対する責任は何ら変わらない。

第二 沖縄・奄美地方におけるハンセン病政策

一 戦前

終戦前は、本土と同様、癩予防法が適用され、同様の苛烈なハンセン病政策が採られていた。沖縄・奄美地方はハンセン病の濃厚発生地として、国家主義的色彩を帯びた無らい県運動が強く推進されたことは、例えば、一九三五年、沖縄の患者一二九名、奄美の患者一一六名が星塚恵楓園に強制収容されたことからも明らかである。

二 戦後のハンセン病政策
1 米軍によるハンセン病政策

米軍は、一九四六年二月八日、米国海軍軍政府本部指令第一一五号を、一九四七年二月一〇日、米国軍政府特別布告一三号を発布し、ハンセン病患者の完全施設隔離政策をとった。

奄美でも、一九四七年二月一四日、北部南西諸島軍政府命令第五号を発布し、右同様の政策がとられた。

「こうした軍政府のハンセン病政策は、占領政策に基づいた『患者隔離』政策で、旧日本の政策を継承したもので、占領政策から考えても当然のことであった(甲二四号証「ハンセン病政策の変遷」二〇五頁)。

2 癩予防法の適用

日本の隔離政策の承継は、ニミッツ布告四条で「現行法規の施行を持続す」と規定していること、右米軍指令等は、日本の癩予防法における隔離政策の存続を当然の前提にしていることから、癩予防法は米国統治下であっても当然に効力が存続し、同法が適用されていたのである。このことは、一九六一年公布の「ハンセン氏病予防法」附則二条において「癩予防法(明治四〇年法律第一一号)は、廃止する。」という規定に端的に現れている。

なお奄美は一九五三年一二月二五日に本土復帰し、この時点で既に施行されていたらい予防法体制下に入った。

3 沖縄のハンセン氏病予防法による退所及び在宅治療

(一) ハンセン氏病予防法の性格

琉球政府は、一九六一年八月二六日、ハンセン氏病予防法を公布施行し、新たに退所及び在宅治療制度が認められた。

しかし、ハンセン氏病予防法は、らい予防法と消毒、外出制限、罰則規定も含めた条文の順序及び内容がほぼ同一であり(甲一号証「らい予防法廃止の歴史」二〇四頁)、これに退所規定(同法七条)、「在宅予防措置」(同法八条)を設けたというものに過ぎない。犀川証人も「中身については、日本の法律のうえに二つのことを組み入れたというような法律で、私から申しますと大変不徹底な法律であるという印象を持っております。」(第八回口頭弁論調書二七九項)と証言している。

さらに、ハンセン氏病予防法には、らい予防法にもない「公衆と接触の機会の多い場所への出入りの禁止」(同法一〇条)が挿入されており、より人権制限的色彩が強い。

退所については「退所を命ずることができる」と規定し、入園者の意思に基づかない強制退所の危険を残しているうえ、沖縄愛楽園及び宮古南静園の自治会が要求した「医療・福祉の充実や退所者対策の充実は認められなかった」(甲二四九号証「予防法改正運動」宮古南静園開園五〇周年記念誌三五頁)。

(二) 医学的知見との乖離

「ハンセン病予防法」は退所及び在宅治療の対象を非伝染性患者に限っており、当時の知見からかけ離れている。

施設隔離を伝染性患者に限るという知見は、一九二三年第三回ストラスブルグ国際らい会議や一九三〇年バンコク国際連盟らい委員会で既に提唱されていたのものであり、何ら目新しい政策ではない。

第一回WHOらい専門委員会(一九五二年)の指針をもとに、一九五三年、ダウルが外来治療の実施を勧告し(ダウル勧告、甲二四号証「ハンセン病政策の変遷」二一五頁)、一九五八年一一月の第七回東京国際らい学会を踏まえ、同年一二月、マーシャル大佐(琉球列島米国民政府公衆衛生部長)が「らい予防法」が不要である旨述べて社会的反響を呼び(甲二五二号証「患者らを在宅治療に マ公衆衛生部長の意見(一九五八年一二月二日、沖縄タイムス夕刊より)」)、一九六〇年、第二回WHOらい専門委員会報告で特別法の廃止が提唱されている(乙八〇号証)。

かかる経緯があるにもかかわらず、一九六一年、特別法たるハンセン氏病予防法を制定して隔離政策を継続したことの過ちは決定的であり、限定的に非伝染性患者の退所及び在宅治療を認める条項を設けたとしても、明らかに当時の医学的知見及び世界のハンセン病政策からほど遠い内容と言わざるを得ず、何らその違法が免責されることはない。

犀川証人も、一九六〇年代には、既に国際的には伝染のおそれの有無にかかわらず、外来治療をしていたのであり、極めて不完全な外来治療制度であった旨証言している(第八回口頭弁論調書二八一項)。

(三) 一般保健医療との乖離

さらに、事実経過編でも述べたように、在宅治療といっても、ハンセン氏病予防協会という特別な診療所において、専門医もほとんどいないなか、投薬治療が行われていたに過ぎず、入院が必要な患者は療養所にしか治療の場所がなかった。

つまり、沖縄の在宅治療制度は、貧困な人的物的体制での一般保健医療から切り離された特別法に基づく例外的措置に過ぎなかった。

(四) 小括

以上、ハンセン氏病予防法に基づく退所及び在宅治療も、基本的に強制隔離政策に立脚し、かつ、世界のハンセン病政策とは乖離したものであって、ハンセン氏病予防法をもって沖縄では外来治療制度が実現したと強調するのは、法律の規定だけを見ても過大評価であるのは明らかである。

4 本土復帰後のハンセン病政策

(一) 療養所中心主義の継続

ハンセン氏病予防法は、本土復帰とともに廃止され、らい予防法が適用されることとなったが、沖縄振興開発特別措置法五条二項、同施行令二条二項(別表第三の一三号)により、従来の退所及び在宅治療制度が、沖縄の振興開発の一つとして例外的に継続されることとなった。

しかし、犀川証人が、本土復帰直前の一九七一年当時、本土復帰後も在宅治療制度を残そうとして厚生省に相談に行ったところ、国立療養所課長が犀川証人に対し「病床を大きくするかもしれない」「愛楽園を倍に大きくするからそのつもりで」などと告げていたのであり(第八回口頭弁論調書二八四項、第九回口頭弁論調書三〇〇項)、厚生省関係者には、インテグレーションの思想が全くなく、従前の療養所中心主義に固執していたことが明らかであって、療養所の運営をつかさどる医務局療養所課でもって、ハンセン病対策を済ませてしまおうとしていたのである(第八回口頭弁論調書二八五項)。これは、厚生省がまさに世界のハンセン病対策とはかけ離れた隔離政策を遂行する意思を有していたことの証拠に他ならない。

(二) 隔離政策の継続

結局、本土復帰後も、従前と変わらず、例外的な在宅治療が認められていたに過ぎず、らい予防法廃止(一九九六年四月一日)まで一般病院での外来治療や退所者の経済的支援等がないに等しかったのであるから、政策の評価としては、沖縄においても本土同様の強制絶対隔離政策が続いていたと評価すべきである。

第三 被告国の責任

一 はじめに

被告国は、米国統治下の沖縄・奄美について責任がない旨主張はしていないが、念のため、以下、簡単に付言する。

二 日本の主権

沖縄・奄美地方は米国によって統治されてきたが、米軍占領、米国民政府占領、サンフランシスコ平和条約三条に基づく米国統治のいずれの時期においても、沖縄・奄美地方に対する主権が日本国に残されていたことは明らかであって、最終的な責任の主体は被告国である。

三 琉球政府の責任と本土政府の義務承継
1 政府賠償法

沖縄では、琉球政府が、一九五六年七月二〇日、本土の国家賠償法と同じ内容の「政府賠償法」を公布施行し、琉球政府が違法行為による政府賠償責任を負うこととなった。

戦後の世界的知見及びハンセン病政策に照らしても、隔離政策による組織的人権侵害が、全人格的利益の侵害として違法であることは明らかである。また、米国民政府布告六八号「琉球政府章典」五条二項により「総て住民は個人として尊重され、法の下に平等である。生命、自由及び幸福追求に対する住民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の政務の上で最大の尊重を必要とする。」とされ、日本国憲法と同様の基本的人権の保障が宣言されたのであり、隔離政策が右章典に違反することも明らかである。

2 沖縄復帰特別措置法

また、本土復帰に際しては「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」が施行され、同法三一条により「琉球政府が有している権利及び義務は」「琉球政府の事務または事業を承継する国または沖縄県が、その承継する事務または事業の目的または性格その他の事情に応じて承継する。」と規定された。

沖縄における隔離政策と日本の隔離政策は、その政策の目的及び性格は基本的に同じであるから、琉球政府の隔離政策に基づく政府賠償責任が本土政府に承継されるのは当然である。

すると、沖縄において、少なくとも政府賠償法及び沖縄復帰特別措置法に基づき、被告国に国家賠償責任を問えることは明らかである。

四 奄美の責任

奄美は、一九五三年一二月一五日、本土復帰しており、少なくとも本土復帰から被告国に責任を問えることは明らかである。

第四 結論

以上より、沖縄の米国統治の歴史、ハンセン病予防法による在宅治療の実施という沖縄特有の問題があるとしても、沖縄の原告らが被告国へ国家賠償責任を追及することについては何ら問題はない。

米国統治下の沖縄・奄美地方も、癩予防法、ハンセン氏病予防法及びらい予防法に基づく違法な隔離政策によって、ハンセン病患者は本土と変わらない人権侵害を被ったのであるから、被告国は、沖縄・奄美地方でも本土と同じ責任をとるべきである。

仮に、沖縄・奄美地方の歴史を根拠に被告国の隔離政策の責任が否定ないし限定されるというのであれば、貧困な医療や厳しい偏見の中で生き続けてきた沖縄の原告のみ差別的待遇をなすことになり、決して許されないといわざるを得ない。

以 上

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