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最終準備書面 (損害編・抜粋)

プライバシーの問題がありますので、実際の準備書面より抽象化しています。またプライバシーを確保するため、内容を若干、変えています。

損害の項目ごとに抜粋したエッセンスとして理解してください。

原告や在園者の方々は、現在、力強く人生を生きています。ただ国の政策によって受けたこのような被害を片時も忘れたことはありません。

一、殺された子どもたち

理由なき堕胎により、かけがえのない小さな命がことごとく奪われた。

ある原告の義姉(ハンセン療養所の収容者)は、妊娠10ヶ月近いにもかかわらず堕胎させられた。「生まれたときに「ぐっ」という声がした、そしてその声を出した胎児を看護婦が取り上げて、それをお盆に載せる、そして姉のほうに見てごらんということで見せた、姉は「かわいかったよ」と言っていました。男でしたということです。」

母となろうとする者は、つわりに襲われ、おなかが大きくなり、体内で動くその胎児の手や足の力を感じながら数ヶ月を過ごす。そういう形で自らの体に宿る胎児の生命を感じたその後に、「ぐっ」と声を上げて世に出てきたその子を、「かわいかったよ」と愛おしむ。

しかし、続けて語る。「動いている胎児に大きなガーゼをかけて、『はい、終わりました。』と言って看護婦はどこかへ持って行った」。

ごく日常的なこととして、その命はいとも簡単に息耐えた。

母の痛みは計り知れない。

二、虐げられた愛と性

ある園では、未婚既婚を問わず女性が生活する大部屋に、結婚相手である男性が枕を持って通う結婚生活が強いられた。

「もう惨めな結婚生活でありました。一四畳の部屋に一二人ぐらいの女の人が生活をしておりまして、そこに通い婚で男性が泊まりに行くという状況で、夜になると布団の上がり下がりとか、息遣いまで隣の者に分かってしまうというような結婚生活でもありました。」

夫婦舎ができた時代も、当初は雑居であった。

「私たちが結婚した昭和30年当時は夫婦舎がありましたが、夫婦四組が何の仕切りもない二一畳の大部屋に押し込められていましたので、それぞれの夫婦が四隅に顔を向けてまわりを気遣う形で抑制的に夜の営みをしておりました。今にして思えば私達は人間扱いされていなかったのです。」

この若い夫婦が、何の仕切りもなく布団の端が重なるような雑居の夫婦舎での新婚生活を強いられたのである。

入所者であることのみをもって、何故にこのような制約を甘受せねばならないのだろうか。

三、帰る故郷を失って

母親は幼くして発病した彼を、小学校にも行かせず、家の外に出さず、掌中の玉を愛でるように大切に大切に育てた。時代は、患者のすべてが根こそぎ収容されることになり、彼にもその旨が告げられたとき、母親は、「人の邪魔はなさずに、監禁のような家を作って入れて、命のあるうちはどこにもやらん」と泣いて訴えたが許されなかった。収容の日、彼は「私行かんというて柱に抱きついて泣いたら、お母さんも畳の上にうつぶいて泣いて、私も大きい声で泣いて」親戚から引き剥がされるようにして、収容船に乗せられ、療養所に入れられた。
それから60年後の今、80代の彼は重い後遺症を抱え、職員から介護され不自由者センターで過ごす毎日を、貧しくも母の愛情に包まれた故郷での日々と比較して、「やっぱり親、兄弟の懐の中がいいです。安心してよろしいから。親、兄弟の懐のようではありません。」と語る。
たとえ不自由でも貧しくても、家の外に出ることが叶わなくとも、家族という何よりも強い絆、その懐の中にある生活、それが彼の人生であり、幸せであった。

四、家族を襲った攻撃

家族も社会の差別偏見の目にさらされた。そしてそのことが、原告ら自身をさらに傷つけ追い込んだ。原告らは、家族や親類縁者への厳しい迫害を自分がもたらしたものとして、自らを責め、苦しみ抜く。

ある原告は、家族とともに暮らし、「家の前を子ども達が口に手を当てて通る」「親しくしていた近所のおばさんも来なくなる」という村八分の状態にも耐えていた。しかし幼い兄弟たちにも及んだ迫害には耐えられなかった。小さい妹は、「まりを持ってみんなの仲間に入ろうと走って喜んでいたのを裏の木戸からのぞいてみると、子どもたちが、妹が近づくと逃げるんですね。まりを見せながら追いかけていくと、また逃げるんですね。妹だけがしょんぼりとうつむきながら帰ってきた様子、本当に寂しそうでした」、小学校に通っていた弟は、「学校から帰ると、裏の畑で草取りをしているおふくろの背中を『僕は病気でないよね』と言いながら叩いていた光景を見たことがあります。私が病気のために学校でいじめに遭っていたんじゃないかと思われます」、婚約者がいた姉は破談になり、たった一言『このうちにはいたくない』と残したまま家を飛び出した。少年は、こういった家族の状況に直面し、家族への迫害を断ち切るために、家族との生活から一人離れて療養所に入るしかなかった。

その後、家族たちは転居を繰り返し、弟や妹は遠方に就職し、結婚報告も「ずうっと後だった」。30年以上音信不通だった姉とは後年連絡を取り合うようになったが、その姉は独身のまま、「初七日に連絡してくれ」、暗に葬式に呼ばないでくれ、と遺書に残して自殺した。

彼は言う、「らい予防法は鬼だ」と。

五、自殺の日常性と自殺の誘惑

入所者の自殺は日常的な出来事であった。
「朝、何気なしに外を見ますと、目よりちょっと高い位置にあるんですが、そこの格好のいい松の木に白い装束のお遍路さんがぶら下がっている。」
「園内放送で誰それさんが戻ってきませんのでお捜しくださいという放送があると、ああ、もう自殺したんだなというのはすぐ分かりました。しょっちゅうそういう放送がありましたから。」

「私も首吊りで下がっているのを、松山に下がっているのを見に行ったら、手をこんなにして下がっているのを警察が来て下ろされるまで一日中下がっていました。」
高らかに鳴らされるサイレンにより、入所者はまた自殺者が出たことを知る。少年少女舎の子供たちまでが駆り出されて、屍体を捜しにでかける。
また、隔絶された死へと向かわされる生活の中で、原告らの誰もが、一度は死の誘惑に駆られている。

その原告も何度となく死を考えた。社会に残した息子に偏見が及ぶことを恐れる気持ちや、何の希望もない療養所生活から逃れたいとの切実な思いからである。しかし、「もし私が下手な死に方すると子供に迷惑がかかりはせんか、という気持ちが、今は毎日、それだけしか持ってないです。子供がかわいそうだから、まあ、首吊って亡くなった人の家族の人の話を聞いてね、あんな死に方せられんかいなあという、まあ、それの我慢が一点張り」で、療養所での生活を耐えている。生き続けるときも、死を選ぶときも、原告らの頭にあるのはまず「家族に申し訳ない」という思いである。

何故に、ただかつてハンセン病を発症した、それだけで、このような生を強いられなければならないのか。療養所にあって、あるいは社会の中で、原告らが生き続ける困難や苦しみは、私たちの共感できる範囲を超えている。

六、被害は社会に戻った者も襲う

「ハンセン病患者」とされた者は、たとえ社会に戻っても、なおその呪縛から逃れられない。
ある原告は、昭和30年代、中学生の頃療養所に収容されたが脱走し、その後も多くを療養所の外で過ごし、結婚もし、二度目の婚姻では子どもも持った。彼がハンセン病の治療を受けたのは当初の一年のみで、その後は、医師から治療の必要はないと説明されている。それにも関わらず、彼はらい予防法が廃止されるまで、ずっと療養所に籍を置いた。何度出ていっても何故かまた療養所に戻ってこなければならない、そう思いこまされている。治癒し、子どもにうつす可能性もないのに、感染を恐れて子どもが幼いときには抱き寄せることができなかった。

「これは、一言言いたいんやけどね、この厚生省のお役人がその当時、この池の上に石をぽつんと一個置くでしょう。ほなら、そこ、輪が広がるわね、ぽーっと、その輪の恐ろしさいうのを知っとってか。うちの家族、お姉ちゃん、お兄ちゃんの子ども、孫の代まで、ほなら、今度は嫁はん、嫁はんの兄弟、ね、それをみな今わしがその○○県○○いうのを住民票取ったら、すぐにそこ何やいうことはすぐ分かるわけですわ。だから、あんたらは、らい病やで言っていたのを、今度、ぽろっと、変えて、ハンセン病やと言い直したところで、わしらの輪が消えることはない。」

七、今も続く、終わりのない被害

ある原告は、何とか退所し工場を始めた。妻にも従業員にも過去は隠し通して生きていた。園で知りあった退所者の客が来ると、同じ苦労を知る彼は暖かく迎えた。しかし、何も知らない妻は、「お父さん、これ大丈夫か」と、客が飲んだ湯飲みをつまみ上げ、聞く。彼は「そんなこと言うな」と、たしなめる。「胸に釘打たれるみたいだったですよ」。
また彼は、たった一年前の出来事として、手指にハンセン病特有の後遺症がある友人とパチンコ屋に行ったとき、見知らぬ男に「機械を消毒しないと使えない、○○(療養所そのものを差す隠語)に行け」と大声で毒づかれた友から、助けてくれと言わんばかりの目で見られたにもかかわらず、「私も同じようなことをいわれはしないかと、恐れて、友人を置いてそのパチンコ屋から黙って逃げてしまいました」と告白している。

また、ある原告は、無菌証明をもらい外出したときの体験を語る。園からの同伴者が、買い物で一万円札を出したところ「そこのおばさんが鋏でこうな、取ったのを見て、身が震えるぐらい恐ろしかった・・。それから私はもう全然買い物には一人では絶対よう行かんかったです」。それからは外出も恐ろしくなってしまったという。

毎日をどういう気持ちで暮らしているかとの問いに、彼女は、「そうやなぁ、今はもう年も行たし、もう、早く、ずうっともう眠りにつきたい、それだけがいっしょ、もう、なんにも考えること、嫌・・。」と答える。 「らい予防法が廃止されたから、外へ出たい人の希望者を募るいう放送がありました。けど、だれもそんなこと、もう七〇過ぎて出て仕事はないしいうことで、出るいうた人はだれもおらなかったんです。で、それからあとどんななるんかなぁという気持ちはあったけど、とにかく早うにあれやなぁいうて・・。どっかで身を隠して、わからんとこで死にたいねぇいうて私はだんなと話したことがあったんやけど・・。」
何が彼をこれほどまでに追い詰めるのか。

八、この訴訟の意義

原告は、視力を失ない、両耳とも補聴器によって辛うじて会話可能な70歳代である。50年以上の隔離を経て、暗闇と無音の世界に生き続ける彼を支えたものは、50年前の屈辱である。

自らの療養所への入所の故に、理不尽にも新婚間もなく離婚され行方を絶った妹への謝罪すらかなわず、狂おしい程に泣き叫びながら自らを呪う以外に術のなかった彼は、いつかこの屈辱を公にする日の来ることを信じて、生きぬくことを誓ったのである。

50年を経て遠く九州の地に国賠訴訟の狼煙が上ったことを知ったとき、ついにその日が来たと彼は絶叫した。

「この日のために自分は地獄のような日々を耐えてきた」と全身を震わせて号泣するその姿こそ、原告らすべてがこの訴訟にかける思いの発露である。

50年余のあまりにも長すぎる沈黙を超えて、原告らは、その身の奥深く刻み込み塗り込めてきた被害の一端を明かしつつ「人間を返せ」の叫びを結んで、裁判所に問いかけている。

日本国の裁判所は憲法の番人たるかと。

今ほど、司法の責任が問われているときはない。今こそ、真の救済のための扉が開かれなければならない。

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