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最終準備書面 (事実編)

第一章 絶対隔離絶滅政策(らいの根絶策)とは

第一 絶対隔離絶滅政策とはー「らいの根絶策」

一九三〇(昭和五)年、全員隔離・終生隔離による患者の絶滅をめざす「らいの根絶策」を内務省は策定した。

この根絶策に基づき内務省は、翌年、旧らい予防法を制定させ(この逆ではない)、一九三六(昭和一一)年以降、すべての国民を総動員するかたちで無らい県運動を組織化・体制化して、その政策を強力に推進した。

その結果、一九四〇(昭和一五)年には全患者のうち七八%にもあたる人々が隔離された。のみならず、恐怖宣伝により、らいは恐ろしい伝染病であるとの偏見を国民の誰もが持ち、患者と家族を差別・迫害するようになった。患者は、地域社会から排除され・療養所という名の収容所以外に行き場を奪われ、あからさまな暴力・有形力という方法によらずとも、社会的・心理的な圧力により収容に応じるようになった。

「らいの根絶策」については、東龍太郎厚生省医務局長による本質をついた明快な定義がある。すなわち、「全部死に絶えるのを待つ五〇年対策」であり、「らいというものは普通の社会から締め出して、いわゆる隔離をして、結局その隔離をしたままで、らい療養所内に一生を送らせるのだというふうな考え」である(甲二四〇号証「昭和二三年衆議院厚生委員会議録第五号」、甲二号証「日本らい史」二六五頁)。つまり、絶対隔離絶滅政策にほかならない。それが重大な人権侵害行為であることは明らかである。

注意すべきは、東医務局長の定義に明らかなように、「強制」という契機は、「らいの根絶策」の本質的要素ではないことである。それは、全員隔離・終生隔離・絶滅という目的を達成するための手段なのである。

東医務局長の意図に反し、厚生省は日本国憲法施行後も政策転換を行わず、一貫して、「らいの根絶策」を推進した。すなわち、療養所を拡張するとともに「未収容患者」全員の完全収容につとめたうえ(第二次無らい県運動)、一九五三(昭和二八)年、新らい予防法を制定させた。

「近き将来、本法の改正を期する」との付帯決議が付されたにもかかわらず、一九九六(平成八)年まで同法は存続した。

本件事実経過に関するおもな争点は二つある。

一つは、「らいの根絶策」をささえる合理的な(医学的・人権的・国際行政的な)根拠が、日本国憲法施行後にあったかどうかである。

二つは、一九七〇年代以降、法の弾力的運用により隔離条項が死文化していたかどうかである。

第二 「らい根絶策」をささえる合理的根拠の有無について

一 伝染性の弱さ

日本におけるハンセン病は、古来から、基本的には家庭内・幼少時における濃密な接触による伝染があるのみで、地域社会を脅かすような流行をきたしたことはない。

法律第一一号「らい予防に関する件」から新法にいたるまで、立法者も一貫してこの事実を認めている。

らいの根絶策・らい予防法のように重大な人権侵害をともなう政策・立法を合理化するには強い伝染性が前提となるべきところ、この前提を欠くのであるから、その違憲性は明らかである。

二 隔離制限に向かった医学的知見・国際行政的見解

第一回国際らい会議は、ハンセン病が感染症であることと、患者の「隔離」とをひとまず容認した。しかし、そこで容認された「隔離」は、微弱な伝染性を前提とし、おもに家庭内感染の予防を目的とする極めて限定されたものである。

いうまでもなく、同会議は日本型の絶対隔離を承認したわけではない。絶対隔離は、一八六五年から一九三二年までの間に、ハワイで実施されたのみで、少なくとも一九四七年以降、これを是認する国際的知見や見解は一切存在しない。

この会議の後、国際社会は一貫して、右「隔離」の意味・対象・方法・期間を制限していった。そして一九五〇年代はじめには、スルフォン剤と外来治療による治癒を前提に、隔離を一切否定するに至った。一九五六年以降、一般医療との統合を目指し、らいに関する差別法の存在そのものが差別・偏見を助長するとして廃止を勧告した。あわせて、入所患者の社会復帰を政策目標とした。患者の人権に配慮した当然の要請である。

少なくとも、「らいの根絶策」という非人道・反人権的政策を正当化する医学的知見は、かつて一度も承認されたことはない。

三 「らいの根絶策」の思想的・時代的背景とその消滅

一九三〇(昭和五)年に「らいの根絶策」が策定されたのは、国辱論や民族浄化論という国家主義思想と戦時における人権抑圧体制が背景にあったからである。らいの伝染性の弱さに関する知見が否定されたり、国際的医学知見や国際行政的見解と異なる合理的理由があったわけではない。

この思想的・戦時的背景は終戦後、消滅した。憲法施行後「患者もまた、地域社会の一員であるという当然の人権的配慮」が必要となったのであり、「らいの根絶策」は当然に破棄されるべきであった。

予防法をささえる根拠は、いわゆる三園長発言に代表される療養所関係者の見解しか存在しない。彼らは厚生省職員であり、かつ、長きにおよんだ根絶政策の結果として、他にこれを批判する声が当時国内に存在しなかったというにすぎない。したがって、これをもって合理的な根拠というべきでない。

第三 法の弾力的運用・死文化の有無について

一 予防法の弾力的運用の意味

らい予防法制定後、とくに一九七〇年代以降、法の弾力的運用により隔離条項が死文化していたと被告は主張している。しかしながら、それは根絶政策の変更とは到底呼べない。政策変更というからには、通知・通達などの最低限の政策根拠が必要であるところ、そのようなものは一切存在しない。

被告のいう法の弾力的運用とは、せいぜいが個別の処遇改善を「非合法ながら黙認」にしていたに過ぎないものである。そのような小手先の対応で予防法が死文化するわけはない。

二 らい予防法の死文化とは

らい予防法を形式とすれば、その実質は、患者の全員隔離・終生隔離による絶滅をめざす「らいの根絶策」である。先に指摘したとおり、「強制」という契機は、この目的を達成するための手段にすぎない。

厚生省は憲法施行後も、療養所を拡張したうえ、第二次無らい県運動を組織するなど収容を拡大し、「らいの根絶策」を推進した。また、基本的に旧法と異ならない新法を制定し、患者運動などによって動揺した「らいの根絶策」の法的根拠を定礎しなおした。

したがって、予防法が死文化したと評価できるためには、実質としての「らいの根絶策」が終焉しなければならない。全員隔離・終生隔離による患者絶滅政策を廃絶しないかぎり、人権侵害も終了しないのである。

三 全員隔離を目的とする「らいの根絶策」は廃絶されたのか

まず、「らいの根絶策」の前段である全員隔離政策が廃絶されたのかどうかを検討する。

一九五〇(昭和二五)年に七五%であった患者収容率は、予防法制定後、一九五五(昭和三〇)年九一%となって九割を越え、全員隔離政策はほぼその目的を達成した。

その後も、一九六〇(昭和三五)年九二%、一九六五(昭和四〇)年九三%、一九七〇(昭和四五)年九四%と収容率は一貫して増加した。これはもう全員隔離体制の完成以外の何ものでもない。

このように収容率が一貫して増加した主な原因は、社会的・心理的な強制に求めることができる。つまり、戦前戦後におよぶ恐怖宣伝と全国民をまきこんだ収容運動の結果、らいは恐ろしい伝染病であるとの偏見を国民の誰もがもち、患者と家族を差別・迫害するようになった。そのため、患者は地域社会から排除され・療養所という名の収容所以外に行き場を奪われ、あからさまな暴力・有形力という方法によらずとも、社会的・心理的な圧力により収容に応じるようになっていたのである。一九七七(昭和五二)年当時の認識として、熊代昭彦厚生大臣官房人事課秘書官事務取扱も、いやではあるけれども、社会的に納得せざるを得ないという状況でつれていくということだ。物理的な暴力というものを使う必要はほとんどなく、「社会的な心理強制」により、大体必要な者はみんな入っており、らい患者が野放しになっているのはまず見あたらない状態であると述べている(甲一一八号証「ジュリスト増刊」一三四、一三一頁)。全員隔離政策を廃棄したというからには、みずからが組織化・体制化したこの社会的・心理的な手段を完全に破棄・除去しなければならない。しかし、厚生省はこれをおこなわず、漫然と、療養現場における個別の運用改善を黙認していたのみであるから、全員隔離政策を破棄したとはいえない。

四 終生隔離・絶滅を目的とする「らいの根絶策」は廃絶されたのか

つぎに、「らいの根絶策」の後段である終生隔離・絶滅政策が廃絶されたのかどうかを検討してみる。

一九七二(昭和四七)年の沖縄復帰にともない、その在宅患者が統計に含まれるようになったため、一九七五(昭和五〇)年の患者収容率は九〇%となっているが、全員隔離の実態に変化はない。

その後も、一九八〇(昭和五五)年九〇%、一九八五(昭和六〇)年九〇%、一九九〇(平成二)年九〇%、一九九四(平成六)年九〇%となっており、法廃止まで、まったく変化はない。  一九七一(昭和四六)年と一九七八(昭和五三)年に、国立療養所における収容患者がいつ全部死に絶えるのかについて、厚生省は調査を行っている。この調査によれば、ハンセン病患者は、いったん療養所に入所するとほとんど退所にいたることがなく、園内における死亡が圧倒的に多い。同年以降、この傾向はますます強まっていった。

一九九六(平成八)年に予防法が廃止された際、いまだ六〇〇〇人近い入所者が長きにわたり療養生活を過ごしている実態があった。この数は、収容者が一一、〇五七人となりピークをむかえた一九五五(昭和三〇)年の約半数である。収容者半減の主な理由は、園内における死亡である。六〇〇〇人近い入所者も、すでにその平均年齢が七〇才に達し、全体でも六〇才以上が八割以上を占め、七割以上の患者の在所期間が三〇年を越えている状況であった。

患者の終生隔離・絶滅という政策目的が完璧なまでに実現されたと評さざるを得ない。

収容率が九割のまま減少しなかったのは、厚生省が患者を普通の社会から締め出す政策を変更せず、社会復帰を政策目的として揚げてこれを推進しなかったからである。法廃止まで、「社会的な心理強制」が厳然として残り、いわゆる「見えない壁」が社会復帰の妨げとして立ちはだかっていたのである。

こうして終生隔離・絶滅政策が廃絶されたといえないことも明らかである。

五 「強制」の契機は死文化したのか

以上みたとおり、予防法の実質であるところの「らいの根絶策」が廃絶された事実はない。

残る問題は、「強制」の契機である。右にみたとおり、確かに、あからさまな物理的暴力の使用は、少なくとも一九七〇年以降、ほぼなくなったようにみえる。

しかしながら、それは、「らいの根絶策」を推進・維持するうえで、あからさまな物理的暴力を使う「必要」がなくなったに過ぎない。厚生省の恐怖宣伝・全国民を動員した無らい県運動により、すべての国民の心に強固な「見えない壁」が築かれ、その「社会的な心理強制」で十分に目的を達するようになったのである。この点は、一九七七(昭和五二)年当時の認識として、熊代昭彦厚生大臣官房人事課秘書官事務取扱が、「いやではあるけれども、社会的に納得せざるを得ないという状況でつれていくということだ。物理的な暴力というものを使う必要はほとんどなく、『社会的な心理強制』により、大体必要な者はみんな入っており、らい患者が野放しになっているのはまず見あたらない状態である」旨述べていることからも(甲一一八号証一三四、一三一頁)、明らかである。

したがって、一九七〇年代以降も、「強制」の契機の重心が、物理的・有形的な手段から心理的・社会的な手段に移ったとはいえ、強制の契機がなくなったということもできないのである。

第四 まとめ

一九三〇(昭和五)年に内務省によって策定された「らいの根絶策」は、日本国憲法施行後も厚生省によって引き継がれ、国民全体を巻き込む組織的・体制的な収容運動として推進され、患者と家族とを普通の社会から締め出した。

少なくとも日本国憲法施行後、「らいの根絶策」をささえる合理的な根拠はみあたらない。

一九五三(昭和二八)年のらい予防法制定後、とくに一九七〇年代以降も、法の弾力的運用により隔離条項が死文化した事実はなく、全員隔離・終生隔離によって患者の絶滅を企図する「らいの根絶策」は、一九九六(平成八)まで完璧に遂行されたものである。

以下、詳述する。

第二章 絶対隔離絶滅政策(らいの根絶策)の展開

第一 絶対隔離絶滅政策(らいの根絶策)への歩み

一 はじめに

日本におけるハンセン病は古来、伝染力がいたって弱く、おもに濃密な接触を繰り返す家族内感染が問題になるだけである。法律第一一号から新らい予防法に至るまで、立法者においてこの認識に変化があったことはない。

わが国のらい対策には、第一回国際らい学会議が大きく影響しているとされる。この会議での結論は、らいの予防には隔離が最善ということであったが、無差別な強制をすすめてはいなかった(甲一六四号証「第六八回日本らい学会総会における『らい予防法』についての学会見解の口述全文」)。

法律第一一号「らい予防に関する件」を議会に提出した内務省は、予防よりは救済が先決であるなどといった答弁をしているが(同)、国辱的存在であるらい患者を風紀的観点から警察的・強制的に取り締まるという発想こそがより本質的であった。そのために、歴史的には、後者の発想による強制隔離が際限なく拡大・強化されていくのである。

二 ハンセン病の伝染力の弱さと政策以前の偏見・差別
1 ハンセン病の伝染力の微弱性

日本におけるハンセン病は、古来遺伝病と理解されてきた。基本的には家族内における幼少時の濃密な接触による感染・発病があるのみで、地域社会を脅かすような伝染・流行をみた事実はない。

ハンセン病の伝染力の微弱性については、政府もこれを一貫して認めるところである。

「癩予防に関する件」の立法責任者である窪田静太郎衛生局長は、「伝染病には相違ないが、思ふに体質によって感染する差異を生ずるので、伝染力は強烈なものではない。古来遺伝病と考えられていたのもその辺に存るのであらうと思うた」と述べ、この事実を認めている(甲二〇九号証「本邦予防法制度創設事情に就きて」一〇二頁)。明治四〇年二月二六日の貴族院質疑においても同旨である(甲一号証「らい予防法廃止の歴史」九八頁)。

旧法についての国会審議において、政府責任者である赤木朝治は、「此癩菌と申しますものは非常に伝染力から申しますれば弱い菌であるやうであります、従って癩菌に接触したからと言って、多くの場合必ずしも発病すると云う訳ではないのであります」と述べ、この事実を認めている(甲一号証「らい予防法廃止の歴史」九九頁)。

新法についての国会審議においても、山縣国務大臣は、「緩慢な癩の伝染力」を認めている(甲六号証の二六「昭和二八年衆議院厚生委員会議録第一一号」四頁二段一行目)。

厚生省見直し検討においても、この事実は確認されている。

大谷委員「平安時代以来、遺伝病であるという考えで日本はきた。それほどうつらなかった訳です。…だから、一〇〇〇年の間、全然うつらない病気ということできた訳です。…もともと、らい菌というのは近世二、三千年の、少なくとも「聖書」以来の歴史の中では、そんなに恐るべき伝染病というような例はあまりないというのが一般説なんです。」(乙一八三号証の三・一六頁)

和泉参考人「普通考えれば、誰が考えても、らいが非常に伝染性を持つなんていうことは、日本人も昔から信じていなかったのですけれども、明治以降、国策としてそういうものが普及されたために、みんなが非常に強力な伝染性を持つような誤解をしたというふうに解釈すべきだと思います。」(同号証一八頁)。

もちろん国外においても同様の知見である。

一九〇二(明治三五)年、ウルバノビッチは、「メーメル地方におけるこれまでのらい治療経験について」において、「らいは貧困な人たちの病気である。これは伝染が起こりにくいので、その実現には過密居住による密接な接触が必要だからである」と述べている。また、一九〇六(明治三九)年、キルヒナーは、「らいの蔓延と予防」の中で、「らい菌は人体外では比較的急速に死滅するので、かなり長期にわたる接触によってのみ感染する」と指摘している(甲二号証「日本らい史」四四頁以下)。

この点についても、見直し検討会において、中谷委員が「ハンセンの研究以来、感染性が非常に弱いということは医学的には分かっていたわけですよね」と指摘している(乙一八三号証の三・一五頁)。

2 ハンセン病政策政策以前の差別・偏見

対策がとられる以前のハンセン病は、右に見たとおり、家族内感染と外貌醜状を特徴とする病気であって、地域社会に対して危害を加える病気、地域社会から患者を排除すべき病気という疾病観は国民の間になかった。

むろん、療養所は存在さえしていないのであるから、「ハンセン病は隔離される危険な病気であり、現に療養所に居住している人たちも危険であるとの誤解」や「新患のハンセン病患者が療養所に入所しなければならないとの誤解」(乙一七二号証・岩尾陳述書三頁)は、生じる余地がなかった。

三 感染症説と相対隔離の知見及び見解
1 ハンセンによるらい菌の発見

一八七三(明治六)年、ノルウェーのアルマウエル・ハンセンがハンセン病患者の病巣部かららい菌を発見し、ハンセン病はらい菌による感染症であるとの考え方が示された。

2 第一回国際らい会議(ベルリン)

この感染症説が国際的に認められるのは、二四年後の一八九七(明治三〇)年、ベルリンで開かれた第一回国際らい会議においてである(甲一七二号証「国際らい会議録・長島愛生園」四頁以下、甲二号証「日本らい史」四〇頁)。

右会議は、一九世紀終わりころから二〇世紀始めにかけて、ドイツのメーメル地方でハンセン病の小流行事件が起こったことをきっかけとして、ハンセン病の予防対策を討議するため、内外のハンセン病にかかわる専門家、学者を集めて行われたものである。

右会議では、確かに「的確な治療法の存在しない現在、感染症ハンセン病の地域への蔓延を阻止、予防するには『患者隔離』しか方法はない」と決議された(甲二四号証「ハンセン病政策の変遷」六一頁)。

3 同会議で承認された「隔離」

しかしながら、そこで是認された「隔離」とは、のちの日本で実際に行われた日本型の絶対隔離ではない。相対隔離、あるいはノルウエー方式と呼ばれる「限定された隔離」である。

この会議においてハンセン病が感染症であることが認められたとしても、ハンセン病の伝染力が微弱であることに変わりはなく、微弱な伝染力を前提とした必要十分な「限定された隔離」が是認されたに過ぎないのである。

見直し検討会で配布された「ハンセン病に関する国際動向」には、「第一回国際らい会議(ベルリン)が開催され、『らいは伝染性の疾患であり、その予防には患者の隔離が最良である』ことが強調される」と記載されており(乙一八三号証の五資料一〇)、同会議において日本型の隔離までもが是認されたかのような誤解を招く表現になっているが、そうではない。厚生省は、本訴訟においてさえも、裁判所を誤解せしむる主張を意図的に展開しているが、厳しく批判されなければならない。

4 ノルウエー(相対隔離)方式

ノルウェー方式というのは、右会議にハンセンが提出した論文によって要約すれば、

  1. ハンセン病は一般清潔法の普及により予防できる
  2. ハンセン病の隔離は故郷において十分行われうる
  3. 貧民で自宅隔離が不完全なときは国立病院に救護隔離する必要がある
  4. 隔離は、浮浪患者等に対する強制隔離と、他の者に対する任意隔離の 二本立てが必要であるというものである(甲二一号証・和泉作成「意見書」七頁)。すなわち、

第一回国際らい会議でのハンセンの発言では、食器を別にする、患者の洗濯物は特別に洗うことなど、清潔に対する教育を主として行うべきことが指摘され、「清潔によってらいは北アメリカでは蔓延しない」とまで言われた(甲一七二号証「国際らい会議録」六五頁)。

「故郷において十分行われる」「隔離」とは、つまり家庭内隔離のことである。家庭内隔離とは、家族に対して衛生教育をすることにより家庭内で任意に実施される「任意隔離」のことである。家族に対する衛生教育は、例えば、ノルウェーのような寒いところでは家族が裸で一緒の毛布にくるまって寝るということが行われていたが、それでは感染の危険があるのでベッドを共にしないというような指導を行うことであった(和泉尋問調書第一回七一ないし七三項)。

家庭内隔離が不完全で施設に隔離する場合でも、その施設は患者の治療あるいはケアのために作られた国立病院であって、かつ、入所はあくまで患者の合意を得ることが原則で、強制隔離は例外であった(甲六六号証・犀川作成「意見書」四頁、犀川尋問調書第一回八二項)。

そして、強制隔離が行われたのは、浮浪患者を普通の農家に数か月預けてケアし、それを次々農家の中で回していくということが行われていたが、それでは伝染のおそれがあるので、公的なところで治療あるいは介護させるため、強制的な入所の制度をつくったものであった(和泉尋問調書第一回六七ないし六八項)。

以上のように、第一回国際らい会議で正しい隔離法として認められたノルウェー方式というのは、家庭内隔離が原則でそれで十分に予防可能であるとし、家庭内隔離が不完全な場合には、施設入所も認めるが、あくまで患者の合意に基づいて入所させるべきであり、強制入所は例外的な場合であるとするものであった。

このようにノルウェー方式では患者の人権に配慮していたのであるが、加えて、施設収容の際には司法官と医者の立会を要するとして、施設収容の手続面でも、患者の人権に配慮する規定をおいていたのである(甲二四号証「ハンセン病政策の変遷」六八頁、犀川尋問調書第一回一六項)。

5 ノルウエーにおける入院率

厚生省見直し検討会において、和泉参考人は、「ノルウエーのいろいろなデータを見ていますと、確かに入院中の患者さんというのは、死ぬ直前ぐらいの数ヶ月の入院を含めても、全患者数の一〇%に満たないんです」とその入院率の低さを述べている(乙一八三号証の三・一八頁)。

6 全員隔離政策としてのハワイ方式

右ノルウエー方式と異なるものとして、ハワイ方式と呼ばれる厳格な隔離方式がある。ハワイ方式とは、免疫がなかったために流行をみたハワイにおいて一八六五年に行われた。それは、全ての患者を隔絶の地に強制的に隔離するという隔離方法である(甲二一号証・和泉証人「意見書」同七頁)。

ハワイ方式は、ハワイにおいても、旧法制定の翌年である一九三二(昭和七)年には、すでに廃棄されている(甲六四号証・和泉証人「補充意見書」六頁)。

その後、ハワイ方式、すなわち絶対隔離政策を採用する国はほかになく、日本の政策は国際的な潮流に真っ向から反していた。

四 明治四〇年までの消極的な政府の対応

政府・内務省は、日清戦争が終わるまで、ハンセン病患者に対する救護などの医療政策に全く関心がなく、私立の病院における対応のみに依存していた。

一八七三(明治六)年、ハンセン病が感染症であることが分かった後も、内務省はコレラ・ペストなどの急性伝染病対策に追われ、ハンセン病に対する医療政策が議論されたことはなかった。一八八〇(明治一三)年には伝染病予防規則が成立するが、同規則にはハンセン病対策は含まれていない(甲二号証「日本らい史」三九頁、甲八六号証「日本ファシズムと医療」八頁)。

一八九九(明治三一)年になって、国会において初めてハンセン病対策が議論に上り、政府は、ハンセン病が伝染病であること、ハンセン病患者の「取締」が必要であることを認めた(甲二号証「日本らい史」四二頁)。

この後、医師出身の国会議員らによってハンセン病予防対策が国会で繰り返し問題とされ、ようやくハンセン病対策に関する関心は高まっていった(甲二四号証「ハンセン病政策の変遷」六八頁以下、甲八六号証「日本ファシズムと医療」九頁以下)。

一九〇五(明治三八)年には、国会に初めてハンセン病患者取締法案が議員立法で上程された。これは伝染病予防法にハンセン病患者も含むべきだとする伝染病予防法改正案であった。

しかし、内務省は急性伝染病とハンセン病のような慢性伝染病は違うとの理由で反対し、改正案は不成立に終わった(甲二号証「日本らい史」五九・六一頁、甲六号証の三「明治三八年衆議院議事速記録第一九号」)。つまり、この時点における内務省は、ハンセン病については隔離する必要がないことを十分に認識していたのである。

翌一九〇六(明治三九)年には、再び議員立法で癩予防法案が提出された。これは、ハンセン病患者を強制隔離の対象としたが、ただし「癩患者にして療養の途を有せず且救護者なきものあるときは行政官庁は其の扶養義務者をして之を引取らしむべし」「前項の癩患者にして其の扶養義務者なきとき又は扶養義務者其の義務を履行すること能わざる事由あるときは行政官庁は命令の定むる所に従い患者を病院若しくは療養者に入らしめ又は適当の場所に於いて救護すべし」と隔離の対象を自力や家族の力では療養できない患者に限定していた(甲八六号証「日本ファシズムと医療」一三頁)。

この法案は衆議院で可決されたものの、貴族院で審議未了、廃案となる。

五 法律第一一号制定とその立法意図
1 法律第一一号の制定

一九〇七(明治四〇)年、政府案として、右一九〇六年法案とほぼ同様の内容の法律第一一号「癩予防に関する件」が提出され、同年三月可決された。

同法は、第三条で、「らい患者にして療養の途を有せず、且つ救護者なき者は行政官庁において命令の定むる所に従い療養所に入らしめ之を救護すべし」とし、他方で、任意入所の規定をおかずハンセン病患者の強制隔離を認めた(犀川尋問調書第一回一八八項、甲六六号証・犀川「意見書」四頁)。

2 収容数・収容率の推移

明治三九年に二二六人であった在所患者は、同法制定後である大正八年には一、四九一人となった。収容率は、明治三九年の総数が二三、八一九人であるから一%で、大正八年の総数が一六、二六一人であるから九%に増えている(甲一二〇号証の三「わが国のハンセン病患者数の推移」)。

この数字は、厚生省見直し検討会において和泉参考人が「ノルウエーのいろいろなデータを見ていますと、確かに入院中の患者さんというのは、死ぬ直前ぐらいの数ヶ月の入院を含めても、全患者数の一〇%に満たないんです」(乙一八三号証の三・一八頁)と述べたのと、ほぼ見合うものである。

3 政府の立法意図ー国辱論による取締

内務省がハンセン病は隔離する必要がないことを認識していたにもかかわらず、強制隔離を認める法律が作られたのは、なぜか。

法の提案理由は、「(ハンセン病患者)が群衆の目に触れます所にはいかいいたしておりまするのは、外観上よほど厭うべきことであろうと思いますので、これらの取締りをなすことが必要なりと考えまする」とし、隔離の対象者についても「主として浮浪徘徊して居る者で病毒を散漫し、風俗上も甚だ宜しからぬと云うものを救護して此の目的を達することを第一にして居ります」と明言していた(甲六号証の六「明治四〇年衆議院議事速記録大八号)。

つまり、医療・公衆衛生の観点から成立した予防法ではなく、ハンセン病患者を国辱とみなして取り締る治安立法であったのである(甲一号証五一頁窪田静太郎衛生局長、甲二四号証「ハンセン病政策の変遷」七四頁、甲八六号証「日本ファシズムと医療」一二頁、甲七九号証・藤野「意見書」六・七頁、)。

もっとも、浮浪患者のみをその対象としている点に関しては、偶然にも当時の国際的知見であるノルウェー方式に沿うものであったし、貧困なハンセン病患者を救護する救済法としての側面もあったことは事実である(甲二四「ハンセン病政策の変遷」七三・七四頁)。

しかし、ノルウェー方式が、ハンセン病は衛生観念の向上で十分予防できるというハンセン病の伝染力の微弱性の認識や患者の人権に対する配慮に立脚していたのに対し、法律第一一号は、「取締」の対象として浮浪患者を「救護」したに過ぎず、基本的な考え方は全く異なっていた。

こうして、日本のハンセン病政策は、はじめから、患者を強制的に施設に入所させて取り締まる治安政策としてスタートした。そのため、隔離対象こそ限定されているものの、強制隔離、終生隔離を容認するものとなっており、人権への配慮を欠いて各政策がエスカレートする恐れを多分にはらんでいた。

4 懲戒検束権の付与

一九一六(大正五)年、法律及び「癩予防に関する施行規則」の改正により、療養所長に対する懲戒検束権が付与された。懲戒検束権はおよそ医療機関としての性格と相容れないものである。のみならず、裁判を受ける権利を奪ったまま患者を処罰する点で、人権を無視したものである。法の目的・性格を決定的に「救済から懲罰へ」変えてしまうものであったと評されている(甲一号証五三頁以下)。

そして、のちの草津重監房による殺人事件への道が開かれてしまうことにもなった。

この懲戒検束権をもつ園長の権限は絶大であり、これに対する収容者側の恐れも著しいものがある。その心理・社会的影響は、懲戒検束権が廃止され、自治会が園の運営に一定の発言権を持つに至った後も、今日に至るまで変わっていない。それを象徴的に示すのが、裁判を受ける権利を含む在園者の人権をむやみに制限して憚らない園長の存在である。

六 隔離方法(場所)に関する政府の考え

それでも、法律第一一号の立法者が、人権を完全に無視した隔離方法に対する反対意見を持っていたことは明らかである。

1 隔離方法(場所)に関する立法者の認識

立法責任者である窪田静太郎衛生局長は、「伝染病には相違ないが、思ふに体質によって感染する差異を生ずるので、伝染力は強烈なものではない」との知見と「救済の目的」を前提とし、隔離場所について、「島嶼に患者を送るが如き、患者の精神に大打撃を与ふるが如きは全然目的に反するものと考えた。のみならず島嶼に送るが如き処置はこの病気の伝染力に対して患者当人にあまりに過大な犠牲を要求するものであって、公正でないと考えた」と述べ、島嶼に送るような隔離方法が、患者の精神に大打撃を与え、あまりに過大な犠牲を要求するので公正でないとし、政策を実施するにあたっての人権的な配慮を示した良識的な見識を述べている(甲二〇九号証「本邦予防法制度創設事情に就きて」一〇二頁、一〇三頁」)。

2 隔離方法(場所)に関する政府方針とその逸脱

こうして窪田衛生局長は、らい療養所の敷地は都市周辺地域を選ぶという基本的な考えを提示し、明治四〇年四月の地方長官会議で内務大臣原敬は、療養所設置についてはつぎのような具体的な最終方針を明らかにした。

一、市街地への距離が遠くない、交通便利な土地を選んで設置すること

二、全国に該当患者が約五万人ある。これらの人はみんな日本国民であるから、その醜悪な病気を嫌うのはよいが、国民は病人を嫌悪すべきではない。深い同情心をもってこの病人に対すべきである。

三、収容した病人が満足して一生を終えられるような、また安心して毎日を送れるような場所を選ぶこと。

四、設備がよく、散歩ができ、農業等の労働に従事できるような場所を選ぶこと。(以下略)

ところが、第四区の大島療養所(香川県)、のちの大島青松園は、一九〇九(明治四二)年、「患者の精神に大打撃を与え、あまりに過大な犠牲を要求する」ところである島嶼に設立された。

3 第二回国際らい会議

一九〇九(明治四二)年に第二回国際らい会議が行われたが、そこでもハンセン病の予防は患者隔離政策を基本とすることが承認されたものの、隔離は患者の自発的入所が可能な状態で行われること、患者の隔離とは施設隔離だけでなく家庭内隔離もあること、家庭内隔離の不可能な患者の場合には場合によっては法による強制力もやむを得ないことも、あわせて確認されている(甲一七二号証「国際らい会議録」七一頁、甲二四号証「ハンセン病政策の変遷」七三頁、犀川尋問調書第一回八六項)。隔離方法はノルウェー方式が唯一正しいとする第一回国際らい会議での決議内容を改めて確認し、明確にしたものである。

第二 隔離限定にむかう知見とこれに逆行する「らいの根絶策」策定

一 はじめに

法第一一号「らい予防に関する件」制定後、医学的・国際的な知見は、第一回国際らい学会議で最善とされたノルウエー方式の隔離をさらに限定する方向へ向かった。

ところが、被告国の政策は、らいを国辱と考える国粋主義や、戦時体制下の国土浄化論を背景に、右知見の流れに逆行し、患者の救護よりも、社会からの完全な排除を目的とする対策が、強力に推し進められることになった(甲一号証三四四頁)。

長年にわたる「らいを病んだ人とその家族」が受けてきた不当な差別による苦難の歴史(甲一号証三五六頁「ハンセン病予防事業対策調査検討会中間報告」)のはじまりである。

二 隔離限定にむかう知見・見解

日本におけるハンセン病の伝染力が微弱であり、古来一〇〇〇年間流行した事実がない事実、ハンセン病が感染症であり隔離が承認されたが、そこで承認された隔離は微弱な伝染力を踏まえ・人権に配慮した極めて限定したものであったこと、ならびに一九〇七年の法律第一一号立法者がこれを承知していたことは既に述べたとおりである。その後の知見・見解は、さらに隔離を限定し、人権を尊重する方向へ向かった。

1 日本における疫学的減少の事実

徴兵検査の際に発見されたらい患者、いわゆる壮丁らいの年次推移は、一八九七年から一九三七年にいたるまでに、急速な減少傾向に向けての明らかな漸近線を示している。一九三一年の癩予防法制定以前の時点でも同じである(和泉調書一回一二六ないし一三五項)。

また一九一九年から一九三五年までの間の四回の全国調査でも、患者の年齢構成は、青壮年者の減少に対して老年者が増加しており、疫学的にみたわが国のらいは、隔離とは関係なく終焉に向かっていた(甲一号証「らい予防法廃止の歴史」三四五頁)。

これらは、公衆衛生の向上により、癩予防法制定以前の時点で既にハンセン病が疫学的には早期に終焉に向かっていたことを示すものである。

以上の事実は、一九九五(平成七)年の日本らい学会の反省表明においても、承認されている(甲一六四号証「第六八回日本らい学会総会における『らい予防法』についての学会見解の口述全文」)。 右の徴兵検査に基づくデータ等は戦前から当然に知られていたものであり、疫学的な分析方法の進歩等の問題とは無関係に、このデータを見さえすれば誰の目から見てもハンセン病患者が直線的に減少していたことは明らかであり(和泉調書二回三項、甲一〇八号証・成田尋問調書四五頁ないし四七頁)、一九二六(大正一五)年、内務省衛生局の高野六郎も、患者が減少していることを認めているのである(甲一八号証「社会事業第一〇巻四号」六四頁)。

2 隔離限定にむかう国際会議の決議等

一九〇七(明治四〇)年の「癩予防に関する件」制定当時に国際的に認められていたハンセン病対策がノルウェー方式による隔離であることは前述のとおりであるが、その後、国際的な知見・見解はこの「隔離」をより限定し、人権を尊重する方向へ向かった。

(一) 第三回国際らい会議(ストラスブルグ)

一九二三年の第三回国際らい会議において、患者を「伝染性」と「非伝染性」とに分けて後者については隔離の対象としないという考え方が主張されるようになった(犀川調書第一回八七項、甲二三七「らい予防方策の国際的変遷」一〇頁)。
また、同会議は、「らいの蔓延が甚だしくない国においては、住居における隔離はなるべく承諾の上で実行する方法をとることを推薦する」としたうえ、「『らいの流行が著しい場所においては』(代理人強調)隔離が必要である」としつつも、「隔離は人道的にすること、且つ十分な治療を受けるのに支障のない限りは、らい患者をその家庭に近い場所におくこと」「貧困者、住居不定の者、浮浪者、その他習慣上住居において隔離することのできない者は、事情により病院、療養所又は農地療養地に隔離して十分な治療を施すこと」を要求している(甲一七二「国際らい会議録」七九頁)。

被告は、この会議について、「原則的には、らい予防上隔離政策が有効であることを認めた。」と紹介しているが、同会議は、あくまでも家庭内隔離を原則とし、「らいの流行が著しい場所」において、人道的な、且つ家庭に近い場所での隔離を認めているものにすぎず、また、施設隔離を貧困者や浮浪者等家庭内隔離ができない者に限っていることに留意されなければならない。

(二) 国際連盟らい委員会(バンコク)

国際連盟保健機構は、戦後の世界保健機構(WHO)に相当する国際行政機関である。

一九三〇年にバンコクで開催された国際連盟保健機構らい委員会では、前期のような学会の動きを受けて、隔離(家庭内隔離を含む)は伝染のおそれありと認められた患者にのみ適用されるべきであるとされた(犀川調書第一回八八項、甲一七二「国際らい会議録」一〇五頁)。

また、「治療なくして、信頼しうる予防体系は存在しない」としてまず治療による予防を前面に押し出している。その上で「伝染性疾患の隔離は、らいに対抗する広汎な戦線において、必要な方法であるが、らい予防の唯一無二の方法とみなすことはできない」としている(甲一七二「国際らい会議録」一〇五頁)。
この会議について被告は、「隔離は伝染のおそれありと認められた患者にのみ適用すべきであるとして隔離政策の必要性も否定していない。」と紹介しているが、この会議において注目されなければならないのは、むしろ、治療が最優先課題であることが確認され、隔離は極めて限定的に行われるべきとされたことに他ならない。

(三) 「らい予防の原則」

一九三一年、国際連盟らい委員会は前記本会議に基づき、「らい予防の原則」(「らい公衆衛生の原則」)をまとめ、ハンセン病が治療可能な病気であることを前提として、治療として良好な栄養状態の確保が重要であることを指摘した(甲一九四「らい予防の原則」訳文二頁)。

そして隔離については、隔離は極めて限定的になされるべきであり、感染性がある時期に限られるべきであるとしている。社会復帰が前提とし、外来治療を可能とする制度の確立を求めた(同・訳文三ないし七頁)。 被告は、らい予防の原則について、「治療対策を打ち出す一方で、重症の伝染性型患者に対する施設入所の必要は変わらず、『らい予防』対策の原則であることも強調した」と紹介している。 しかしながら、同原則は、治療対策を全面に打ち出した後、隔離について、「治療的にも衛生的にも、満足できる処遇が行われていないところでは、強制的な隔離が唯一の武器である、十分な処遇が可能なところでは、外来処遇が供給される条件に応じて、隔離は次第にゆるくなっている」(同・訳文二頁)、「分離の重大な欠点は、患者を隠匿することを促進する傾向があって、診断と治療を遅らせると、今日では一般的に認識されている」(同三頁)、「伝染性のハンセン病者を隔離することは(中略)ハンセン病の感染症の時期における価値は疑いがない」(同三頁)、「感染期にあって地域社会に危険であると考えられる患者と感染しない患者とが明確に実用的に区分されていなければならない。細菌検査が今日では、この区別をするには最も効果的な基盤となる。」(同三から四頁)「感染性がないと考えられる症例や、特に発病初期の患者は、可能な限り、外来の治療施設で治療されるべきである。(同五頁)、「可能である場合には、陽性症状がなくなった患者には、後治療が必要なので定期的な再検査がされ、監視が継続されることが望ましい、地域社会の中に生きる場所を見出だすことに身体的社会的理由からあまりにしばしば妨げられるとしても。」(同六頁)「隔離は、感染性であると見なされる症例のみ適用されるべきである。」(同七頁)としており、隔離は極めて限定的になされるべきであり、感染性がある時期に限られるべきであるとされている。社会復帰が前提とされており、外来治療を可能とする制度の確立を求めている。

本報告書は、被告が紹介するように「隔離が原則」などとしているのではなく、「治療が原則」であるとし、隔離は感染性の患者であってしかも感染期に限られるべきであるとしているのである。

(四) レオナルドウッド国際らい会議

一九三一年のレオナルドウッド国際らい会議においては、前述の国際連盟らい委員会(一九三〇年)のバンコク会議での報告が確認されている(甲一七二「国際らい会議録」一二三頁)。

被告は、この会議について、「らいの予防に関してはバンコク会議での報告を確認」と紹介しているが、この会議において、らい予防の問題についての議論がなされたわけではない(前同)。

(五) 第四回国際らい会議(カイロ)

一九三八年の第四回国際らい会議(カイロ)でも、隔離を「開放性患者」(伝染性患者)に限る一方、たとえ強制隔離が実施されている所であっても、患者の生活条件は任意隔離の場合とできるだけ同様でなければならず、合理的退所時期も保証されなければならないとされた(甲一七二「国際らい会議録」一九三頁)。

さらに本会議では、「らい者と共に働く者でも、感染に対し合理的注意を払えば殆ど感染しないという事実を歴史は示している。」(同一九五頁)として、感染力が極めて微弱であることも改めて確認している。

そして、やはり本会議でも治療が主要なテーマの一つとなり、その中で「食物を万遍にし、平均化しビタミンを豊富にとらせることが大切」とされ(同一九五頁)、食事等の重要性が強調された。

これに対し、被告は、この会議について、「診療所に於ける大風子治療制度が、現在の段階で、患者隔離制度に代わるものではないことを確認。」「らい予防対策の基本は伝染性患者の分離にあることを確認。」と紹介している。

しかしながら、本会議においては、隔離が必要な開放性患者についても、「施設隔離」「患者家庭隔離」「村落隔離」があるとされ、その「施設隔離」についても、まず「強制隔離から徐々に自発的隔離へ推移している国もある。」として自発的隔離が原則であることが確認されている。そして施設への強制隔離についても、「患者生活の一般的条件は自発的隔離の場合とできる限り同様でなければならず、合理的退所期も保証されねばならない。」(同一九三頁)として、できるだけ自発的隔離と同様の条件にすることや、退所の保証が必要であるとされている。本会議が認めている隔離がこのように限定され、また、人権にも配慮されたものである点が看過されてはならない。

(六) まとめ

このように、戦前における国際らい学会や国際連盟の考え方は、ハンセン病の感染力・発病力が微弱であることを前提に、隔離を伝染性のケースに限定し、かつ隔離は治療のためのものであって、それによって患者に生じる不利益は最小限にとどめられなければならないというものであった。

3 国際的知見の日本における普及

被告は、もちろん、これら国際的知見を十分認識していた。

一九二三年の第三回国際らい会議には、被告が権威と主張する光田健輔が出席している(甲二四号証「ハンセン病政策の変遷」六四頁)。

一九三〇(昭和五)年に大阪で行われた第八回大日本医学総会において、当時の国際連盟保健委員であったビュルネが講演し、絶対隔離を否定して相対隔離を推奨しているが、この講演を日本語に翻訳して紹介しているのは、当時の内務相防疫官である(甲一五号証「第八回大日本医学会総会会誌」、和泉調書第一回一八五ないし一八九項)。

同年、医学博士青木大勇は、「癩の予防撲滅法に関する改善意見」と題する論文において、「世界癩会議においても、その第一回には隔離を以て癩対策の最上なるものと認めて居ったが、其の第三回に於いては隔離は人道上の罪と認むべきものであると論ぜられ、近く開かれたゼネバの国際連盟の癩会議に於いても、癩の隔離を『余り酷くしないやうに』と論議されて居る。(中略)伝染の難易病毒の多少を顧慮せず、科学的研究の上に立脚しないで所謂一網打尽的に、苟も癩と診断されたものは、総てこれを強制的に隔離し而も之を監禁本位に取締まると云うことは全く時代遅れの隔離法と云はなくてはならぬのであって、悪く云えば非科学的とけなさなければならぬ。」と述べ、「伝染の危険なき程度のものは解放せよ。」「早期診断及早期治療所を開設せよ」と主張している(甲五二ないし五四号証「癩の予防撲滅法に関する改善意見」)。

北部保養院長の中條資俊は、「癩伝染の経路に就て」において、欧米視察の体験から、「国際的にも知られた療養所の所在地は、外にも都市の内に或都会去るとも余り遠くない地位に置かれている」ことを紹介した上で、「癩の隔離は伝染力の微弱なるに鑑み厳格に失せざる様施設すべきである」と主張している。なお、同論説は、第三回国際らい会議で「癩患者の離島乃至僻地取扱い措置は妥当ならず」との一項が決議されていることにも触れ、この会議から帰った光田健輔が「国立癩療養所設置地として折角是迄離島を選んだのだが是は国際意見と一致せないものであった」と話していたと述べている(甲四九号証「癩伝染の経路について」)。

一九三四(昭和九)年の第六回日本癩学会において、千葉医科大学の篠崎正孝が、ハワイでは一九〇九年から隔離中の癩患者は病気が全治したと認定される時には、これを社会に解放するという制度が定められていること、従来から行われてきたモロカイ島への強制隔離が一九三二年から廃止され、一切患者の自由意志に任せられるようになったこと、一九三一年から三二年にはカウラパパ避癩地内で二一組の結婚があり、男児四名、女児六名の出生があったこと等を紹介している(甲五七号証「布哇に於ける癩予防施設近況」一五三、一三〇頁)。

4 日本における知見

「癩予防法」国会審議の質疑において、政府責任者である赤木朝治自身が、「此癩菌と申しますものは非常に伝染力から申しますれば弱い菌であるやうであります、従って癩菌に接触したからと言って、多くの場合必ずそも発病すると云う訳ではないのであります」と述べているのである(甲一号証「らい予防法廃止の歴史」九九頁)。
癩予防法が制定された一九三一(昭和六)年には、京都大学皮膚科特別研究室主任の小笠原登が、「癩に関する三つの迷信」において、癩は不治である、癩は遺伝病である、癩は強烈な伝染病であるという三つのことがいずれも迷信であることを明言している(甲四八号証「癩に関する三つの迷信」)。同人は、一九三四(昭和九)年にも、「らいの極悪性の本質に就いて」において、「癩の伝染性が甚だ微弱であることは、我が国の専門家の多くが認めるに至った所である。結核に比すれば比較し得られぬ程に弱いと考へなければならぬ。」と述べている(甲一号証「らい予防法廃止の歴史」一一一頁)。
一九三二(昭和七)年の第五回日本癩学会において、九州療養所の河村正之が、伝染の危険のない患者を療養所にとどめ置くことは極めて無意義であると論じた(甲五一号証「社会問題としての癩の治療に就いて」)。
これに対し、隔離強化を訴える療養所の医師やその他の論者は、新たな医学的知見に基いて科学的な議論をしているわけではない。彼らは、もっぱら、民族浄化論などの時代思潮に流されて政治的な発言をしているに過ぎないのである。
たとえば、光田健輔は一九三六(昭和一一)年、「皇紀二六〇〇年を期して一万人収容」において、らいの『根絶』を訴え、全員終生隔離を進めるよう提言しているが、「富豪の国家の浄化に向かって一層の力」を惜しまぬようになって来たことを称えていることから(甲一九〇「皇紀二六〇〇年を期して一万人収容」愛生六ー六」)、それが医学的な根拠に基づく議論ではなく、政治的なプロパガンダに過ぎないことが明白である。

三 知見の進展に逆行する隔離政策の強化

法律第一一号によって開始された隔離政策は、民族浄化論を背景に拡大・強化されていく。それは、右にみた隔離を限定する国際的な知見にまったく逆行するものであった。

1 「根本的癩予防策要綱」による一万人隔離策

一九二〇(大正九)年、内務省保健衛生調査会は、「根本的癩予防策要綱」を決定し、隔離の目標を一万人と設定した(甲二四号証「ハンセン病政策の変遷」七六頁ないし七八頁)。これは最早、浮浪する患者のみの隔離ではない。全患者の隔離を目指した計画であった(甲七九号証・藤野「意見書」九頁)。

2 第一期(五〇〇〇床)増床計画

一九二一(大正一〇)年、内務省はこれを受けて、まず第一期増床計画として、「大正一〇年から一〇ケ年かけて五〇〇〇床確保」を立案した(甲二四号証「ハンセン病政策の変遷」七九頁)。

3 大きな方針転換ー収容促進・収容拡大指示

一九二五(大正一四)年五月、内務省は全国警察部長会議で、未収容患者の収容を促進するため、各県の患者救護弁償規定を緩和してでも、患者収容を促進するよう指示した。大きな方針転換である(甲二号証「日本らい史」八〇頁)。

同年八月、山田準次郎衛生局長は全国地方長官に通牒を出し、法律第一一号の「入所患者規定」を拡大解釈して、療養の途なき患者云々を全ての患者に適用することを指示し、伝染のおそれのある全ての患者に適用することを通達している(同)。

これは、法律第一一号の性格が社会防衛的な衛生立法に傾斜していったことを示すものに他ならない(甲二四号証「ハンセン病政策の変遷」八四頁)。

4 方針転換の理由ー民族浄化論

一九二六(大正一五)年、内務省衛生局の高野六郎は、「民族浄化のために」という表題の文章において、未収容患者約一万五〇〇〇人が「全部療養所へ収容するようにすれば一番結構」であるとして、民族の血液を浄化するために、全員隔離を提唱している(甲一八号証「社会事業第一〇巻四号」)。

5 「国立」療養所設立と第二期増床(一万床)計画へ

一九二七(昭和二)年、国立らい療養所設置に関する建議案が国会で可決され、一九三〇(昭和五)年、「瀬戸の小島」に初の国立療養所・長島愛生園が設立された(甲二号証一五九頁以下)。この初の国立療養所もまた「患者の精神に大打撃を与え、あまりに過大な犠牲を要求する」ところの島嶼に設立されたのである。

一九三〇(昭和五)年段階においては、前記五〇〇〇床確保の計画が二六一〇床の確保にとどまっていた一方で、当時の全国の患者数は約一万四二六一名であった。

そこで内務省は、「らい絶滅」のため第二期増床計画を立て、昭和六年以降一〇年間で病床一万床とすることを期した(甲二四号証「ハンセン病政策の変遷」一二、一三及び九一頁)。

6 患者収容の強化

国立らい療養所設立計画が議会で承認されると、政府はらい患者収容対策を強化する方針を打ち出し、一九二七(昭和二)年の警察部長会議、一九二八(昭和三)年の警察部長・衛生課長会議、一九二九(昭和四)年の警察部長会議の各会議において、患者隔離強化の対策を指示した(甲二号証)。

7 収容者数・収容率の増加

大正一四年に、総数一五、三五一人のうち収容患者数二、一七六人、収容率一四%であったものが、昭和五年には、総数一四、二六一人のうち収容患者数三、二六一人、収容率二三%に増加した。

四 「らいの根絶策」策定と旧法制定
1 「らいの根絶策」策定

一九三〇(昭和五)年、内務省衛生局は、「癩の根絶策」を発表した(甲一八九号証)。これにより、患者全員を終生隔離するという絶対隔離へ向けた対策が具体化された。注意すべきは、旧らい予防法は「らいの根絶策」という内務省の政策に基づき、これを円滑に実施するために制定されたのであって、その逆ではない。

らいの根絶策によれば、「文明国に癩は無い」「癩を根絶する方策は唯一つである。癩患者を悉く隔離して療養を加えればそれでよい。」「欧州において、古来の癩国が病毒から清められたのは、いずれも病毒に対する恐怖から、患者の絶対的隔離を励行したからである。」「若し十分なる収容施設があって、世上の癩患者を全部その中に収容し、後から発生する患者をも、発生するに従って収容隔離することが出来るならば、十年にして癩患者は大部分なくなり、二十年を出ずして癩の絶滅を見るであろう。極めて見易き事実である。」「患者の多くはここに終生安住の地を得て喜んで居るのである。」などとされており、内務省が「全部」の患者の「終生」隔離を目指していたことは明らかである。

それは、一〇年間で全患者を収容・隔離し、さらに一〇年間で根絶に至らしめるという「らい根絶二〇年計画案」でもある。

そして、この「らいの根絶策」は、後に、「全部死に絶えるのを待つ」という非人道性ゆえに、東医務局長により厳しく批判されることになるのである(甲二号証二六五頁)。

2 旧法制定と立法趣旨

一九三一(昭和六)年、被告は「らいの根絶策」に基づき、癩予防法(旧法)を制定した。

この法改正の目的は、従来「癩患者にして療養の途を有せずかつ救護者なき者」とされていた入所対象者を拡大し、「癩患者にして病毒伝播の虞あるもの」として、資力の有無を不問とし、これまで自宅で療養していた患者の隔離を法的に認めることであった。

国会審議において、斉藤隆夫政府委員は「『国家体面上』本病予防の徹底を期すべき必要がいよいよ緊切であると存じまするので、この機会におきまして本法を改正して、らい予防上遺憾なきを期したい趣旨をもって、癩予防法中改正案を提出致した次第であります」と説明した(甲六号証の一三「昭和六年二月一〇日貴族院議事速記録」、同一五「昭和六年二月二二日衆議院議事速記録」)。

安達謙蔵国務大臣も、「只今国辱病とも御話のありました通り、癩のこと先ず一番に力を致さねければならぬことを考え起こしました。」「癩は根絶せしむる、決して予防ではなく根本的に日本に癩患者なからしむるという決心の下に着手しなければならぬと考えております。」「癩患者を全部収容いたしましたならば、必ず根絶することができるものと確信いたしております」などと述べている(甲六号証の一四「昭和六年二月二〇日貴族院議事速記録」)。

3 収容患者数・収容率の激増

昭和五年に、総数一四、二六一人のうち収容患者三、二六一人、収容率二三%であったものが、旧法制定後の昭和一〇年には、総数一四、一九三人のうち収容患者九、七三五人、収容率六九%に激増した。収容率でみれば、三倍もの著しい増加となっている。

4 無らい県運動へ

一九三一(昭和六)年癩予防法の制定により全国すべてのらい患者を収容しようとする国策路線が確定したが、翌年の五・一五事件にみるいわゆる非常時から日中戦争、大東亜戦争の戦時体制にはいるとますますエスカレートし、無癩運動、あるいは無癩県運動の旗じるしを高く掲げて農山村に患者狩りを強行するにいたった(甲一号証「らい予防法廃止の歴史」七〇頁)。

旧法は、らい予防の目標を全面的に掲げることによって、すべてのらい患者を根こそぎ地域社会から排除する道筋をつけてしまったものであった。ただでさえ、黒い血統として一般国民から忌避され嫌悪されていたらい患者と家族は、この事により決定的に「無用の存在であり、しかも社会に害をなす危険人間」として地域社会に住むことを許されなくなった。一般人が、患者らしき者を見つければ警察に密告するまでになって、患者さんは療養所という名の隔離収容所以外に行き場を無くされてしまったのだ(同六七頁)。

一九三一(昭和六)年制定の旧癩予防法は、大戦争が遂行されるなかで患者さんをまるで犯罪人のように狩りたて、農民として労働者として家族とともに地域社会で幸せに働き住む願いを全く許さなかった。そこに生きる権利を剥奪してしまった(同四一八頁)。

五 無らい県運動
1 無らい県運動とは

無らい県運動とは、「一つの県からハンセン病の患者を一人も無くすということで進められたもので、ここでは全く伝染性があるかないかという配慮をしていない」「数人の患者ですら県に、社会に残さないという対策」である(和泉調書第二回二五項)。

大谷元医務局長によれば、「らい患者を根こそぎ地域社会から排除する」運動、あるいは、「地域社会に住むことを許さず、療養所以外に行き場を無くし、患者さんをまるで犯罪人のように狩りたてる」運動ということになろう(甲一号証六七頁)。

この無癩県運動を中心とした徹底した患者撲滅政策により、患者が隔離を恐れて隠れてしまうどころか、徹底した患者のあぶり出しが行われたのである(甲一〇八号証・成田調書第一回三四頁ないし三六頁)。

2 はじまりと戦時体制化

無らい県運動は、一九二九(昭和四)年、愛知県の方面委員数十名が愛生園で患者の生活を視察し、帰県してから愛知県よりらいを無くそうという民間運動を始めたことが発端となり、その後岡山県、山口県などでも無らい県運動が始まった。

しかしながら、一九三七(昭和一二)年の日中戦争の開始とともに、この運動の様相が変化した。この頃から、浮浪らい患者の取締り、らい部落の解消、自宅療養をしている患者の療養所への隔離収容などが強力に推進されるようになり、明治末から当局がその方針としてきた絶対隔離が、強力な国家権力を背景に着々実施され始めたのである(甲二号証「日本らい史」一二七頁)。

3 内務省による「病床一万床計画」と収容督励

一九三六(昭和一一)年、内務省は、昭和二〇年までに各療養所の病床を増床して「病床一万床計画」を完成することを発表、在野の未収容患者の施設収容に努めるように指示した(甲二三八号証「癩予防方策の変遷」四頁、「愛生」一九六〇年九号から一二号、六一年二号から七号」)。このころから、無らい県運動は、被告国により組織的・体制的に推進されることになる。

4 厚生省による運動徹底の指示

一九四〇(昭和一五)年、厚生省は都道府県あてにつぎの指示を出した(甲二号証「日本らい史」一二七頁)。

「らいの予防は、少なくとも隔離によりて達成しうるものなる以上、患者の収容こそ最大の急務にして、これがためには上述の如く収容、病床の拡充を図るとともに、患者の収容を励行せざるべからず。しかして患者収容の完全を期せんがためには、いわゆる無らい県運動の徹底を必要なりと認む。

本運動は既に先年来数件において実施せられ、既にいわゆる無らい県を実現せるものもあり、殊に光輝ある(皇紀)二千六百年を迎え、一万床の完成、公立らい療養所の国立移管などを機として、各地に無らい県運動の機運勃興しつつあるをもって、本運動を全国に徹底せしむるは誠に時宜に適したる企てというべし。これが実施にあたりては、ただに政府より各都道府県に対し一層の督励を加うるを必要とするのみならず、あまねく国民に対し、あらゆる機会に種々の手段を通じてらい予防思想の普及を行ない、本事業の意義を理解せしむるとともに、患者に対しても一層その趣旨の徹底を期せざるべからず。」

なお、一九四一(昭和一六)年七月、五カ所の府県連合立の療養所は、すべて厚生省に移管され、国立らい療養所となった(甲一号証七〇頁)。

5 本妙寺部落の手入れ、草津湯の沢集落の解散

一九四〇(昭和一五)年七月、山田駿介熊本県警察本部長は本妙寺らい患者部落住民の一斉検挙を断行した。警務課長、情報課長、衛生課長がこれにしたがい、熊本市南北両警察署長の率いる一七二名の警察隊を本体とし、衛生課員一五名がこれに参加し、九州療養所の職員が応援に加わり、総数二二〇名で寝込みの本妙寺部落を一斉に強襲して検挙を断行し、つぎつぎにトラックで九州療養所内の留置監禁室に収容し、引き続いて同月一〇日、一一日の両日にも検挙を続行し、合計一五七名(うち未感染児童二八名を含む)もの人々を検挙した(甲二号証「日本らい史」一二八頁)。

一九四一(昭和一六)年、草津湯の沢集落が解散させられて、全国的に国立らい療養所への完全隔離収容が進んだ(甲一号証「らい予防法廃止の歴史」七一頁)。

6 運動の暴走

こうして各県の衛生当局は「無らい県運動」のかけ声のもとに、山間へき地のらい患者も、しらみつぶしに探索しては療養所に送り込んだが、実施にあたっては、衛生当局は警察の協力のもとに、住民の投書や村人の噂などを根拠に、犯人探索でもするような態度でこれにあたるものもあり、さらに病気の診断に慎重さを欠いたため肢体不自由を伴う疾患や皮膚病などで、らいでない他の病人までも強制的に療養所に入れるなどの無謀も、ときにはみうけられた(甲二号証「日本らい史」一二八頁)。

7 収容者数・収容率の増加

昭和一〇年に、総数一四、一九三人のうち収容患者数九、七三五人、収容率六九%であったものが、昭和一五年には、総数一一、三二六人のうち収容患者数八、八五五人、収容率七八%に増加した。

8 「らいは極悪の伝染病である」との偏見の作出・助長

無らい県運動が展開されるなかで、「らいは極悪の伝染病である」との宣伝がなされた(甲一号証「らい予防法廃止の歴史」七一頁)。

その結果、「普通に考えれば、誰が考えても、らいが非常に伝染性を持つなんていうことは、日本人も昔から信じていなかったのですけれども、明治以降、国策としてそういうものが普及されたために、みんなが非常に強力な伝染性を持つような誤解をした」(乙一八三号証の三・見直し検討会における和泉発言一八頁)。

こうして、「らいを病む人とその家族」に対して社会から加えられた仮借なき差別の存在こそがハンセン病の特色となり、らいという言葉そのものが「怖いもの」「卑しむべきもの」「汚いもの」などと連想され、本人だけでなく家族、親戚までが結婚、就学、就職、交際等社会生活のあらゆる分野において陰に陽に不当な差別を受けるようになった。病気を秘密にしようとして数多くの悲劇がみられ、遂には自殺、一家心中にまで至った例もある(甲一号証三五四頁「ハンセン病予防事業対策調査検討会中間報告」)。

このような人権侵害と思われる間違った偏見・固定観念・社会的烙印(ステイグマ)を生じた原因のひとつとして、厚生省委託事業による「ハンセン病予防事業対策調査検討会中間報告」は、「近代医学の名によって不治の伝染病というこれも過剰な恐怖感があおられたこと」がある事実を認めている(甲一号証三五五頁)。

一九九五(平成七)年の日本らい学会の見解も、隔離の強制を容認する世論の高まりを意図して、らいの恐怖心をあおるのを先行させてしまったのは、まさに取り返しのつかない重大な誤りであったと認め、反省している(甲一号証三四六頁)。

六 隔離による患者ら、原告らに対する被害
1 普通の社会からの締出し

患者ら、原告らは、個別の強制収容を受ける前に、普通の社会から締め出された。「らいは極悪の伝染病である」との宣伝が効いて、らい患者と家族は、「無用の存在であり、しかも社会に害をなす危険人間」として地域社会に住むことを許されなくなった。一般人が、患者らしき者を見つければ警察に密告するまでになって、患者は療養所という名の隔離収容所以外に行き場をなくされてしまった(甲一号証六七頁)。

2 強制収容

(一) 内務省による過酷な収容

各療養所における強制収容は、当初の行政所管が内務省であることから容易に推察できるとおり、その収容は過酷を極めた。

つまり、「内務省の末端の機関といいますと警察署、警察駐在所、あるいは末端で働く人は警察官というようなことがありますので」(犀川調書第一回一八八項)、勧奨は警察権力をもって行われた。そして、「サーベルを下げた巡査が家庭を訪問して、あなた療養所に入ったら。というようなことを言っても、やはり周りから見れば警察官が尋ねるということは、患者さんに非常に大きな影響を及ぼしますし、強制的なことになる」(同項)ものであって、結局、患者や家族の訴えなど耳を貸さずに、まるで罪人同様に強制的に収容するものに他ならなかった。

例えば、一九〇九年一一月一日、北部保養院での最初の収容は、油川村にあった僻病院から二〇名ほどの浮浪患者を馬車に乗せ、シートをかぶせて囚人のように護送したものであった(甲三号証「全患協運動史」)。

また、全国各地でいわゆる「お召し列車」にての収容が行われ、必要以上に差別・偏見があおられた(甲二二一号証「風雪の紋」二〇九頁)。

(二) 無らい県運動による過酷な収容

さらに、無らい県運動の展開により、すさまじい強制収容が実施された。以下は、その一部の抜粋である。

一九三五(昭和一〇)年、沖縄県の患者一二九名、奄美諸島の患者一一六名が星塚敬愛園に強制的に大収容された(甲九七「沖縄愛楽園写真撮影報告書」写真九、甲一〇六「奄美和光園写真撮影報告書」写真三〇、甲一九一)。まさに、これは日本の隅々まで癩患者を「刈り込む」という強制隔離政策が徹底していたことの現れであった。

一九四〇(昭和一五)年七月九日から同月一一日までの三日間、熊本県本妙寺部落での強制収容が行われた。患者以外の者も含む一五七名の部落民が強制収容され、菊池恵楓園の留置場や監禁室へ収監された結果、部落は消滅した(甲四七及び一〇二号証・写真撮影報告書、甲三号証「全患協運動史」一八頁)。

この本妙寺部落に対する強制収容のすさまじさ及び当時の行政の歓喜の様子は、九州療養所長の厚生省予防局に対する報告の中の、「七月九日午前五時ヲ期シ熊本県警察部長総指揮ノ下ニ県関係官、熊本南北両警察署及九州療養所職員総数二二〇名ヲ以テ、本妙寺らい部落ヲ一斉ニ強襲シテ寝込ヲ襲ヒ、水モ漏サヌ検挙ヲ行ヒ身柄ハ一応「トラック」ニテ順次九州療養所ニ運ビ、構内ニ在ル警察留置所及当所監禁室ニ収容シ、斯クテ翌々一一日続行、残存患者ヲ掃蕩シ、合計一五七名ヲ一網打尽ニ検挙シテ・・・近来ノ快事トシテ慶幸ノ至リニ堪ヘズ」との表現に如実に表れている(甲三号証「全患協運動史」一九頁)

また、一九四一(昭和一六)年九月一六日、一九日の両日は、青森県を津軽地方と南部地方に分け、大々的な患者収容が行われ、松丘保養園には二〇〇名近くが収容された。国立に移管された翌年にも一斉収容は実施され、「もれた者をまるで底引き網でさらうように追い打ちをかけ」(甲三号証「全患協運動史」二六頁)、さらに秋田県まで範囲を広げて、三か月で一〇〇名以上が収容された。

さらに、一九四一(昭和一六)年には、鳥取、岡山、福岡、山口、宮城、富山、埼玉と次々と無らい県が出てきたが(甲二四号証「ハンセン病政策の変遷」九四頁)、その過程では様々な悲劇が引き起こされた。

例えば、「輸送用トラックには何の設備もなく、当日は小雨が降っていたので、私たちは頭からびしょぬれになり、十里もの長距離を自動車輸送された。しかも途中、用便のために停車をお願いしたのに、それさえ許されず、非道極まる取扱は終生忘れることはできない。」(福岡県 男性)、「わたしは兄一人、姉一人の三人が病気で特に警察につらくあたられた。わたしたちが収容されたあと、役場の人がきて瓦だけ残し、わたしたちの家を焼き払ったという知らせを受けた」(鹿児島県 女性 敬愛園)、「私は両目を失い、身体も不自由なので床に臥していた。係官は有無を言わせず、汚物のように包んで車の中にほおりこまれた」(青森県 男性)という非人道極まりないものであった(甲一六七号証・全患協編・らい予防法による被害事例集)。

(三) 小括

以上のような強制収容、隔離施設に代表される戦前の絶対隔離政策は、「社会では通用しない特別の地域を作って、そこにハンセン病患者であるがゆえにと言って、特別な地域にゆだねてしまうということが常識のように行われていたというところに、・・・大きな患者さんの人間性をスポイルし、あるいは患者さんの人権を疎外した大きな原因であり、・・・・そういった伝統的な考え方が、治るようになった時代にもちょこちょこと影を見せているところに、・・大きな問題が潜んでいる」(犀川第一回調書一九三項)との指摘のとおり、後述するように治る時代にも一体不可分のものとして引き継がれていったのである。

そして既に述べたとおり、これが差別・偏見を作出し、「らいの恐怖心」を植え付けていくことになるのである。

3 療養所の収容所化

(一) 内務省による警察的・監獄的運用

療養所は、医療機関としてではなく、内務省により、警察的・監獄的に運用された。

全生病院では、初代院長池内才次郎が患者に対して、「どの程度に扱って良いかさっぱり未だ分からぬ。兎に角、監獄より一等を減じるという位にやっていく」と語ったが(甲二二〇号証・多磨全生園患者自治会編「倶会一処」三三頁)、現実は「監獄より一等を減じる」どころか監獄そのものになっていった。

開所当初の療養所職員には警察官出身者が多いことから、彼らは患者を強制的に犯罪者のように収容したうえ、園内でも犯罪者のように扱った。

一九四〇(昭和一五)年、関西救ライ協会が開いた「らい療養所懐古座談会」の速記録によると、夜、点検と称して就寝している患者の部屋へ職員が土足で上がり込み、布団をまくりあげるなどの横暴な振る舞いをしたことが語られている(甲八五「歴史の中のらい者」一六一頁)。

一九二三年に刊行した内務省衛生局発刊の「らい患者の告白」の中では、多数の患者が療養所に対する不満を述べていた。その中で四〇歳の男性患者は「自分は入院前に於いては、この療養所の全ての設備は、理想的に完全したるものと思料せり。然るに入院後初めて療養所といわんよりも、寧ろ収容所の感あるを覚えたり」と述べている。

(二) 懲戒検束権による取締 懲戒検束権の付与

強制隔離政策は患者を徹底的に収容することのみを目的としたため、園内では自暴自棄になる患者も多かった。かかる患者らを強権的に押さえ続けるために、一九一五(大正四)年に光田健輔が所内の秩序維持のための意見書を提出した。

これを契機に一九一六(大正五)年、法律の一部が「療養所長に入所患者に対する懲戒検束権を与えるとともに、各療養所に悪質患者を収容するための監房を設置する。」と改悪され、悪名高き「懲戒検束権」が付与されたのであった。

(三) 草津特別病室

群馬の栗生楽泉園では、一九三八年(昭和一三年)以来「特別病室」が設置されていた。特別病室とは名ばかりの重監獄であり、大きな錠前のかかった厚さ五寸の扉の厳重なくぐり戸で四重に守られ、半暗室で冬期積雪の候には昼夜の区別もつかなかった。保温の設備はなく、食事は握り飯一つ、梅干し一つ、夜具は薄い敷き布団一枚、掛け布団一枚であった。

一九四七年(昭和二二年)の時点で、判明しただけでも投獄者数九二名、死亡者二四名であったが、全て裁判抜きの恣意的な拘留であり、九二件中三〇日以上の拘留が八五パーセントを占め、一〇〇日以下三五件、二〇〇日以下二八件、二〇〇日以上一四件であった。また二二件の死亡のうち、冬期が一八件であり、冬の特別病室がいかに過酷であったかを示している(甲二三九号証「衆議院厚生委員会議録第二八号、同年一〇月二日付け「栗生楽泉園之真相」)。

山井道太の件のほか、子供が馬鈴薯を畑から窃盗したことで父親が教育不足として投獄され死に至った例や、夫が盗品の自転車を不注意で買ったとして拘留五三三日に処せられた際にその妻であるとの理由のみで三九〇日も拘留された例、園内改革の必要を友人への手紙に書いたのを開封発見されて七六日間拘留された例などが挙げられている。

(四) 離島・僻地隔離化

一九〇七年に公布された法律第一一号に基づき、浮浪らい患者の収容を開始した。

当初、内務省衛生局窪田静太郎は、らい療養所の敷地は都市周辺地域を選ぶという基本的な考えを示し、内務大臣原敬も、療養所設置については「市街地への距離が遠くない、交通便利な土地を選んで設置すること」と具体的な最終方針を明らかにした(甲二号証「日本らい史」七三頁)。

一九〇九(明治四二)年、五地区毎に府県連合の公立らい療養所を設立した。右方針にしたがい、第四区の大島療養所を除いて、つぎのとおり都市周辺地域に設置された。

第一区 全生病院 (関東甲信越・現在の多磨全生園)

第二区 北部保養院(北海道東北・現在の松岡保養園)

第三区 外島保養院(近畿・中部・現在の邑久光明園)

第四区 大島療養所(四国   ・現在の大島青松園)

第五区 九州療養所(九州   ・現在の菊池恵楓園)

その後、らいの根絶策と旧らい予防法制定により、「らい予防は名目で実態は浮浪らい患者の救護収容」という救済的な趣旨から思想史的に一大転換し、らい伝染予防の目標を全面的に掲げることによってすべてのらい患者を根こそぎ地域社会から排除する道筋がつけられると、療養所は隔離収容所としての性格を強めていく。

らいの根絶策のもとで設置された国立療養所は、公立療養所と異なり、離島や山奥など極めて交通の便が悪いところに設置されたのであった。逃亡・外出防止に役立つだけでなく、安上がりだからである。

昭和五年  三月 長島愛生園

昭和七年 一一月 栗生楽泉園

昭和八年 一〇月 宮古療養所(後の宮古南静園)

昭和一〇年一〇月 星塚敬愛園

昭和一三年 四月 外島保養院が邑久光明園へ移転

昭和一三年一一月 国頭愛楽園(後の沖縄愛楽園)

昭和一四年一〇月 東北新生園

昭和一六年 七月 五療養所の国立移管

昭和二〇年一二月 駿河療養所

昭和二八年一二月 奄美和光園

このような島嶼や僻地への隔離が「患者の精神に大打撃を与え、あまりに過大な犠牲を要求する」ものであり、そのことを窪田静太郎内務省衛生局長が認めていたことは既に述べたとおりである(甲一号証五一頁)。

(五) 壁などの隔離構造と巡視等による取締り

離島に隔離するだけでなく、施設自体にも厳重な隔離設備を備えるようになる。

例えば、菊池恵楓園では、明治四二年の創立当時から、逃走予防のために濠が掘られるとともに、一九二九(昭和四)年には、園の西側と北側は、高さ約二メートルのコンクリート塀及び素堀の濠で患者の居住地区を囲み、患者の外出・逃走を阻んでいた。

壁以外の場所は、幅一・五メートル、深さ二メートルの素濠を掘った。その外側には土手とひのきを設置して、外界から遮断した。さらに、掘りの内側は、えぐり取られ、土は全て外部側に盛られ、掘の中に足を踏み入れると、上に上がるための足かかりがなく容易に上れないような構造になっていた(甲二三四号証「菊池恵楓園五〇年史」一三二頁、一三七頁)。

また、旧正門横及び患者居住区内の二か所に、巡査詰所が設置され、二四時間勤務・五名前後の巡視が常時巡回していた。そして、園からの逃走を図り捕まれば、数日間の監禁室入りとされ、カルテには、赤文字で逃走と記載されるとともに、「逃走者」として園内の記録にも残されたのであった。

星塚敬愛園においては、菊池恵楓園のような隔離の壁は設置されていなかったが、檜垣で囲まれ、また鉄条網で囲まれていた。さらに、分館職員は各寮舎を回り、人員の点呼をして無断外出者の有無を確かめるなどして、逃走防止に意を払っていた(甲九五「敬愛園年表」、甲二二五号証「名もなき星達よ」(自治会五〇年史)二九頁)。このように、「陸の孤島」とでも言うべき状況であった。

(六) 園内通貨

療養所側は、園内のみで通用する通貨、いわゆる園内通用券を各施設で発行して、患者に入所の際に所持金を通用券と交換させて支給し、また、作業賃等の給付も全て通用券で給付された(甲三号証「全患協運動史」一〇七頁)。

この制度は、病菌の伝播を防ぐということを表向きの理由としていたが、実際は患者の逃走等を防止し、「患者を施設に縛り付けておくための手段」(同一〇七頁)であったのである。事実患者は、この園内通貨の制度により、療養所外において生活することが事実上不可能となった。

しかも、このような園内通用券は、何らの法的根拠があるわけではなく、施設長の判断と権限だけで実施された。そのため、名称も、「園券」(多磨全生園)、「通知銭」(松丘保養園)、「園金」(長島愛生園、大島青松園、星塚敬愛園)、「コマ」(邑久光明園)、「園券」(沖縄愛楽園、多摩全生園)、「札銭」(宮古南静園)とまちまちであり、他の施設で使用することさえできなかった。

一九一六(大正五)年、菊池恵楓園で導入されたこの制度は、全国に広がり、戦後も園によっては残っていた。

例えば、多磨全生園では患者側の再三の要求にも関わらず長年廃止されず、一九五二(昭和二七)年三月、全入園者の総意による決定によってようやく廃止された(同一〇七頁)。その後の調査で、施設の保管していた裏付けの現金はきわめてずさんに管理、流用がなされてきており、七四万円ほども不足していたことさえ判明した。

さらに、邑久光明園にいたっては、驚くべきことに一九五五(昭和三〇)年六月まで園券が発行されていたのである。

このように、三六年間に渡って使用されたこの園券制度は、患者隔離の象徴であるとともに、患者らに対して隔離されるべき対象としての意識を植え付けていったのである。

4 「収容所」での被害

絶対隔離絶滅政策は、療養所に全患者を収容することのみに主眼が置かれたため、収容後の治療体制は貧困であり、住環境はとても「療養所」と評価するには値しないものであるほか、療養者に対しては強制作業が課せられるなど、まさに「収容所」というべきものであった。

特に、一九三一年(昭和六)年、法改正が行われ、収容対象が全患者とされてからは、厚生省自らが認めるがごとく、「定員を超えて患者の入所をすすめたため、ただでさえ低かった入所患者の処遇はさらに低下」した状態に陥っていった(甲九号証「国立療養所史(らい編)」九一頁)。

(一) 貧困な医療

(1) 医師・看護婦数

まず、何よりも医師・看護婦の数が、患者数に比して圧倒的に少なく、満足な治療ができる体制にはほど遠かった。  例えば、戦前の大島青松園では、医師・看護婦数は以下のように推移した(甲八七号証「大島青松園時系列表など」、甲二二二号証自治会史「閉ざされた島の昭和史」及び園発行の記念誌からの集計)。

明治四二年 医師二名 看護婦六名 在園者一二〇名
大正一〇年 五名 一〇名 二五四名
大正一五年 三名 一四名 二八三名
昭和 五年 四名 一四名 四一一名
昭和一〇年 六名 一四名 六一三名
昭和一五年 五名 一一名 六三八名

他の一二の園でも全く同様の状況であり、むしろ医師・看護婦数よりも、逃亡を防止する監視員の数が多いなど(菊池恵楓園・検証指示説明書)、明らかに治療を目的とする施設ではなかった。

かかる医療従事者の数の少なさの弊害は、当然のように患者らに跳ね返り、「各科に医師が何人ずつかいるのではない、一つの科に一人がせいぜいで、いない場合は兼務である。だから診療は週二回か三回、受診者は待ちかねて行列する。整理に困って順番をくじ引きで決める施設もあった。待ち時間も長くなり二時間も待たされたりして、体力のない者はそれだけでさらに病状を悪くしてしまう」(甲三号証「全患協運動史」六九頁)という様であった。

(2) 医療水準の低さ

このような医師・看護婦数の少なさと比例して、医療水準もお粗末なものであった。

例えば、「眼科の如きは、時に看護婦の点眼を施すのみにして、千篇一律的に同一の点眼薬を用ひ、敢えて病態の軽重を省みざる様見らるる場合あり。亦内科にありては、患者が夜間急病の場合には、度々医師の来診を求むるも応ぜず、終には患者を背負い来れと命ぜらる。苦しむ患者を連行するは本人の苦痛は勿論、連行者も非常に迷惑する次第なれば、努めて来診あらんことを望む」(らい患者の告白・一九三四年、甲三号証「全患協運動史」二三頁)という状態だった。

(3) 患者看護及び治療補助

そして、医療従事者の少なさは、結局患者自身の手によって埋めざるをえず、患者看護として患者が病棟の患者の面倒を見るという異常なことが強制された。

園によって微妙な差違があるとはいえ、一五日交代、二四時間勤務で、軽症者が住み込みで病棟の患者の面倒に当たるというものであった(甲三号証「全患協運動史」八七頁)。

例えば、長島愛生園での業務は、次のようなものであった(看護補助団規定。甲一一〇号証「隔絶の里程」一一一頁)。

一 当直  当直当番は終始病室内にあり(□二四時間勤務)朝昼夕の清掃と病人の洗顔、眼薬、食事及び大小便等病人の世話一切を行い、就寝後も夜二回以上病人の病状に注意し、事故あるときは直ちに応急の処置をとる。

二 助   助当番は医局、売店、通信、食器洗い、滋養品の受け渡し等その他当直に協力する。

三 休み  休み当番は、休みといえど食事には当直、助に協力する。

四 飯取り 飯取り当番は三回の配食(□中央炊事場まで行き天秤棒で担いでくる)、配給品の受け取り等配食関係の業務一切。但し女子付添病室では朝昼夕の清掃も行う。尚、病人の退室、転室及び大量配給品のある場合は当直を除く全員が協力する。

しかも、かかる重労働に対する日給は、微々たるものであり、二四時間勤務で一日働いて、たばこ一〇本さえ購入できない金額であった(甲二二二号証「閉ざされた島の昭和史」一八八頁)。

明治四二年    三・三銭

昭和 八年    六銭

郵便葉書     一・五銭

封書       三銭

たばこ(一〇本) 七銭

さらに、患者看護以外にも、外科におけるガーゼ交換、包帯巻き、内科における筋肉注射、皮膚科における軟膏の塗布までもが、治療補助として作業によって行われたし(甲二二五号証「名もなき星たちよ」二五三頁)、ガーゼ集め、ガーゼ再生等までが作業であった(甲一一〇号証「隔絶の里程」一一〇頁)。しかも、かかる作業は、軽症者のみならず重症者にも課せられていたのである。

(二) 住環境

(1) 強いられた雑居生活

強制収容絶対隔離政策に基づき無らい県を達成するためだけに、定員を無視した強制収容が実施されたため、療養所内の住環境は当然のことながら悲惨極まりないものであった。そして、全国一三の療養所において、患者らは当然のように雑居生活を余儀なくされた。

例えば、青森県の松丘保養園の場合、前述のように、一九四一(昭和二六)年からの二年間で三〇〇名を強制収容したため、五〇〇名程度だった在園者が八〇〇名にいっきに膨れ上がった。その結果、一室二四畳の部屋に一四ないし一五名の患者が同居する状態となった(甲三号証「全患協運動史」二六頁)。

大島青松園でも、二四畳の大部屋に九名ないし八名の雑居生活を余儀なくされた(甲八七号証「大島青松園時系列表など」)。星塚敬愛園では、一二畳半に七、八人を詰め込み、少女寮では一二人という記録もあった(甲二二五号証「名もなき星たちよ」二三五頁)。その他、菊池恵楓園(検証指示説明書)など、他の全ての園も等しく同様の状況であった。

長島愛生園にいたっては、定員四〇〇名をわずか四か月で超過したところ、光田健輔園長は、一〇坪住宅運動、すなわち建築資金を民間の寄付に求め、患者作業で住宅を建築させて、建築後は国に寄付して経常費の支出を受けるというものである。「これによると国は整備費の支出を全額免れるが、定員の増加を既成事実として押しつけられることになる。官吏の発想としては実に強引なものであった」(甲一一〇号証「隔絶の里程」一二八頁)。この運動によって建てられた患者住宅は一四九棟にのぼり、入所患者数が二〇〇〇人を越えて最高を記録した昭和一八年には、国庫の病舎に入っていたのは七〇〇人で三分の一にしかすぎなかったほどであった。

(2) 夫婦雑居

このような雑居生活の必然として、夫婦生活は、「万葉時代さながらの通婚であった」(甲二二五号証「閉ざされた島の昭和史」一三六頁)。つまり、女性の寮舎へ男性が通い、朝になれば自室に戻るのであった。

また、独身女性が、他の患者夫婦と雑魚寝するという極めて非人道的なことが強いられた。

(三) 断種・堕胎

(1) 断種・堕胎の実態

ハンセン病患者への優生手術(断種)は、一九一五年(大正四年)東京の全生病院(現在の多磨全生園)で開始され、院長の光田健輔の判断で男性患者に対して行われた。

同病院においては、一九一五(大正四)年から一九三八(昭和一三)年までに同病院で断種手術を受けたのは三四六名に及んだ。そして、厚生省技師青木延春の調査によれば、一九一五年(大正四)年から一九三九(昭和一四)年までに、全国のハンセン病療養所で断種手術を受けた患者は、一〇〇三人にも及んだ(甲八五号証「歴史の中のらい者」)。

これらの非合法な断種は、独身の男性も対象にされ、手術を医師ではなく看護長や看護士に実施させることもあり、かかる手術の結果、性交不能になったり腰痛などの後遺症に苦しむ者も多数出た(甲二二〇号証・多磨全生園患者自治会編「倶会一処」)。

(2) 断種・堕胎の目的

かかる法律に基づかない違法な断種・堕胎の目的としては、三つを指摘することができる。

第一に、ハンセン病患者の子どもを生ませないことにより、患者らの「生」を根絶すること、すなわち、絶滅政策の一貫である。

第二に、収容患者に対する「終生」にわたる収容を維持するためには、所内結婚を一定限度で許さざるを得なくなったという背景がある。つまり、園内で結婚を許すことにより、園に夫婦をしばりつけ終生隔離政策を維持するために、優生手術を利用したのである。

例えば、断種を開始した光田健輔によれば、「男性、女性を療養所の中に入れて、それを安定せしめる上に於いてはやはり結婚というようなこともよろしいと思います。結婚させて安定させて、そうしてそれにはやはりステルザチョン即ち優生手術といようなものを奨励するというようなことが非常に必要が在ると思います。」と露骨に園内管理の手段であることを述べている。

さらに、光田は、「男女の関係において乱暴狼藉を許さざるがゆえに如何なる自暴自棄の患者といえども女性の歓心をえんとするに当たりては、その暴威を逞うする能はず、虎変じて反て猫の如き者となる。また如何なる莫連名淫なる婦人にしても其の適当なる配偶をえるに当ては処女の稚態に変ず。」(甲二二九号証藤楓協会編「光田健輔と日本のらい予防事業」五七頁)とさえ述べていた。

第三に、以上の終生隔離・絶滅政策の一貫であることはもとより、所内秩序の維持・患者の処罰という園内を管理する手段としても使用されていたことも忘れてはならない。

例えば、第四区大島療養所の医師野島泰治は、絶滅政策としての意義を認め、「金を要せないでらい予防の目的を達することもできるわけで、国家経済の貧弱な我が国の政策に関しては最も合理的な方法ではあるまいか」(甲六〇号証・「らい患者に行える輸精管手術に就いて」・七六六頁)と述べるだけでなく、さらに「余は大阪の第三区療養所在職当時、即ち大正一二年から大正一五年にかけて一五名のらい患者に輸精管手術を行ったことがある。其の当時は療養所内で子どもを設けた男性患者に、一種の交換条件乃至罰則の意味に於いて輸精管切除術を行ったものである」(甲二二八号証「癩患者に行える輸精管切除手術例に就いて」(レプラ第二巻第三号九頁から二七頁)と、罰則の意味において輸精管切除術を行ったとさえ述べている。

以上のように、断種・堕胎は、「隔離と一体化した患者の撲滅策」(甲八五号証「歴史の中のらい者(藤野豊編)」一八一頁)であるとともに、園長や医師による極めて恣意的な園内統治の手段としても用いられ、様々な人権侵害を引き起こしていったのであった。

(四) 強制作業

(1) 強制作業の開始

一九〇九(明治四二)年、連合府県立病院として松丘、外島、大島、菊池、全生の五療養所が設立されると、ただちに各療養所にて患者作業が開始した。

全生病院では、汚物処理の穴を掘るには四〇円もかかるため、かかる出費を抑える目的にて患者による農耕を開始し、九州療養所では、職員が嫌がる蠅・蚤取り作業を患者に押しつける形で、蠅・蚤取り作業が開始した(甲三号証「全患協運動史」一四八頁)。大島に至っては、設立当初から「患者使役」として患者の労働力が頼りにされ、「作業賃金表」が明記されていた(甲二二二号証「閉ざされた島の昭和史」一八三頁)。

(2) 強制作業の拡大

大正時代に入ると、園側は、少ない予算で療養所を運営するために必要不可欠の労働力として位置づけ、作業種類を増やしていった。

これに比して、入所者中の作業就業率も当然上昇し、例えば、松丘保養園においては、明治四三年一九パーセントだった就業率が、大正三年には二五パーセント、大正一〇年には五〇パーセントにまで達していた(甲三・同頁)。

(3) 強制作業の種類

強制作業は、園内における日常生活全般に及んだ(甲三号証「全患協運動史」一五一頁、甲二二二号証「閉ざされた島の昭和史」一七三頁、甲一一〇号証「隔絶の里程」二二二頁、甲二二五号証「名もなき星たちよ」二五〇頁。その他、患者自治会史及び各園発行の記念誌)。

  1. 看護関係
    前述のように、少ない医療従事者数を補う労働力として患者らがかり出され、前述の病棟看護はもとより様々な医療に付随する患者作業を行わされた。 病棟看護、付添看護、臨時付添、治療補助、不自由者風呂入れ、包帯洗濯、ガーゼ洗濯、薬配達、下綿洗い、担架係、盲人世話係、弱視会世話係、高齢者世話係
  2. 生活関係
    そして、療養所自体を維持する作業まで、患者らの手によって実施され、かかる患者作業がなければ、療養所自体の運営は継続できない状態であった。 畳表替え、綿工、木工、金工、左官、桶工、義足工、道路修理工、水道、理髪、ミシン係、防空壕堀り、残菜処理係、衣類洗濯、布団洗濯、包布付け、大洗濯、爪切
  3. 食事関係
    また、関連して、患者らの「食」を維持する作業も課せられた。 畜産、農芸、食事運搬、食事受け取り、食缶洗い、野菜洗い、漬物配達
  4. 教育関係
    また、未成年の患者は、社会において学ぶことも許されず、そのため患者ら自身の手により、未成年者の教育を行うことも課せられた。 少年舎少女舎長、学園教師
  5. 雑務
    さらに、当然園側において人員配置されるべき、忌み嫌われる雑務ないし重労働は、当然のように患者らの手で行わざるを得なかった。 肥料くみ取り、火葬、薪割り、薪炭配達、風呂炊き、風呂掃除、井戸掃除、下水掃除、山道掃除、郵便配達、粉塵消却、DDT頒布、礼拝堂係、公会堂係
  6. その他
    その他にも、多種多様な作業が患者らによって実施された。 室長、自治会役員、手紙代書、放送など。

(4) 強制作業の結果

かかる強制作業の結果、神経障害のある患者が指に傷ができても気が付かない、感染症を起こす、合併症を起こすなどの後遺症が頻発した。「大変な、食べるために労働をいたしましたので、傷が絶えません。非常にひどかったです。」(犀川調書第一回三二七項)という状況であった。

しかも、作業は、各施設が個々に運営しており、正規の予算もなく施設で勝手に規定を作り、作業賃金は各種予算のやりくりによって賄っていた。したがって、患者作業者が増えると作業賃の支出を捻出せざるを得ず、それだけ食費や医療費や営繕費が食い込まれ、患者の日常生活に対して別の意味でしわ寄せがくるようになってさえいた(甲三号証「全患協運動史」一四九頁)。

「入園者がせっせと働き、作業慰労金の支出が増えると、関連部門の経費が減るという、タコが足を食うのと同じことであった。・・・すべて保証されているはずの療養所で、少しでも人間らしい生活を営むために働いた」のであった(甲二二五号証「名もなき星たちよ」二四〇頁)。

(五) 小括(収容所での被害~「長島事件」)

以上、(一)から(四)で述べた戦前の患者らの被害を如実に表した象徴的な事件として、いわゆる「長島事件」が存する。

一九三五(昭和一〇)年、長島愛生園においては、収容定員八九〇名に対して、実に一一六三名が収容されており、二七三名も超過していた。

前述のように患者作業は予算計上しておらず、他の費目から捻出していたが、同年時点の作業従事者は月平均七八七名、作業賃一万八九七〇円九七銭、一人当たり平均六銭六厘であった。

さらに、定員超過のため雑居過密状態になり、定員四、五名の部屋に八名から一〇名を住まわせ、夫婦舎も六畳に二組が同居という状況に陥っていた(甲一一〇号証「隔絶の里程」一六頁)。

このように、強制隔離政策により定員を超えて収容され、収容所の中では異常な雑居生活を強いられ、夫婦舎に居住するためには断種・堕胎を強要されるなど、非人道的な取扱を強いられ、患者らの不満は極限に達していった。

一方、園側は、超過収容により作業費の支出が三倍以上の増となり、患者の生活費関係からの捻出が困難となった。そこで、作業費を最小限に切りつめるために、一九三六(昭和一一)年八月一〇日、園職員が総動員により作業現場の点検を行い、出勤者や時間外労働を総検査した(同一七頁)。

かかる園側の不意打ちともいえる厳重監査に対して、患者らは、日頃の不満と相まって、作業拒否などの行動に出た。たまたま逃走を計画していた患者ら四名が監禁室に収容されるという事件も起き、園側との対立が深まった。

そして、患者側の会合を職員が、天井裏から盗聴しているところを発見したため(同一九頁)、患者は激高し、警官二七名が到着するなか入園者大会を開いて、自治制度の確立を決定した。

八月一八日から一九日にかけては、患者側がハンガーストライキに突入するなどエスカレートしていったが、園側が、自治会を「自助会」として認め、患者側も作業ストライキを中止し、一応の解決を見た。

以上の事件の背景は、言うまでもなく、被告国の定員を無視した強制隔離政策、その結果当然に発生した園内での過酷な雑居生活、強制的な断種堕胎、微々たる作業賃によって強制した強制作業、逃走を防止するための監禁室等の懲罰への不満が高じて引き起こされたものであった。

このように、戦前の患者らは、被告国の絶対隔離絶滅政策及び措置による過酷な「生」を強要されたが、それは以下述べるように、戦後も変わりなく引き継がれていったのである。

第三 憲法施行後から予防法制定までの知見と政策展開

一 憲法施行後の人権的配慮の必要性
1 終戦、憲法施行とプロミン開発

一九四五(昭和二〇)年、国を挙げて戦われた第二次世界大戦は終わり、焼土と化して荒廃した国土にアメリカ軍を主とする連合軍が進駐してきた。連合軍司法部が発する指示によって、戦前の市民弾圧の治安維持法や思想取締の特高警察は次々と廃止され、いわゆる戦後の労働運動、民主化運動の波が全国各地にみなぎった。労働者はスト権を確立し、大地主に占有されていた小作田畑は働く農民に開放された。

一九四六(昭和二一)年には、新憲法が公布されて、第一一条「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことの出来ない永久の権利として現在及び将来の国民に与えられる」として基本的人権の確立がうたわれた。旧帝国憲法下に戦争に駆り立てられてひたすら犠牲を強いられてきた労働者、農民、すべての国民は、今等しく自分個人の幸せを求める権利を与えられたことを知ったのである。 戦前、戦中における国家の強烈な戦争目的の前には「価値なき人間」として、また、「大和民族の血を汚している者」として、療養所という檻に閉じ込められて「癩予防法」の下にて囚人のごとく扱われ、しかも断種手術などの囚人以下の扱いさえ受け、一般社会の情報から遮断され、選挙権も与えられなかったハンセン病の患者らにとって、新しい時代、言うまでもなく人間の権利を認め、人間尊重を目指す新しい時代がやって来たことは当然のこととして伝わった。

すでに戦争中の一九四三(昭和一八)年には、アメリカで画期的な治らい薬としてプロミンが開発されており、らいは不治でも極悪でもないということが戦後になって次第に伝わってきていた。

闇の中にいた患者にとって、新しい時代の幕が奇跡のように切って落とされたのである(甲一号証「らい予防法廃止の歴史」一三九、一四〇頁)。

2 公衆衛生と人権

かかる憲法施行により、公衆衛生政策・疾病対策を推進するにあたって、何よりも重要なのは、患者もまた、地域社会の一員であるという人権的配慮であるということが確認されたのである(岩尾調書二一六項)。

一九四七(昭和二二)年九月には、特別病室事件に対し、国会調査団が派遣され、その様子が朝日新聞やNHKニュースで報道されるなど社会問題化し、その非人道性・反人権性が白日のもとにさらされ、特別病室は廃止されることになった(甲二二一号証「風雪の紋(栗生楽泉園患者五〇年史)」)。

二 優生保護法の立法
1 優生保護法の立法

一九三四(昭和九)年二月、議員立法として議会に初めて遺伝性とみなされた疾病の患者への断種をうたった「民族優生保護法案」が提出された際、法案にはハンセン病の重症患者への断種が明記されていた。しかし、この法案は不成立に終わり、一九四〇(昭和一五)年三月、厚生省が作成して成立した「国民優生法」は、断種の対象を遺伝病とみなされた疾病の患者に限定し、ハンセン病患者は除外されることになった。これによって、以後、ハンセン病患者への断種は明確な違法行為となるはずであるが、「国民優生法」の拡大解釈というかたちで続行されることになったのは既に述べたとおりである。

ところが、戦後の「優生保護法」は、断種と人工中絶の対象にハンセン病患者を明記した。そして、国会の審議段階では特にこれが問題となることはなかったのであり、全く討議されることなく明記されることになった(甲二号証「日本らい史」一二一頁)。

このような優生保護法における「らい条項」の定めは、ハンセン病患者に対して、戦前から強制隔離下で違法に行われてきた徹底した優生政策を追認し、合法化するものとして制定されたのであり、一九九六(平成八)年四月一日、「らい予防法」が廃止されるまで存続した。

患者の人間性を著しく冒涜し、未来への希望を失わせるこの断種と妊娠中絶こそ、強制隔離政策に伴う被害の最たるものと言っても過言ではない。

このように、らい療養所においては、一貫して優生政策がとられてきたのであり、既に述べたとおり戦前には法に反する優生政策が慣行として行われていたが、優生保護法により、形式的な「合法性」を付与し、人道に反して憲法に反する優生政策を追認した。

2 優生保護法制定の意味するところ

戦前に行われてきた断種・堕胎の目的が、ハンセン病患者の子孫を根絶やしにする、まさに「患者撲滅政策」そのものであったことは、すでに述べたとおりである(本書面九九頁)。そして、違法に行われていた断種・堕胎が、形式的に法律の根拠を得ることにより、「患者撲滅政策」はより徹底して展開されることになった。事実、ハンセン病(元)患者のほとんどには子孫がおらず、療養所には子供がいない。このことは、優生保護法の制定によって、患者撲滅政策が完結したことを如実に示している。

そして、断種・堕胎がもたらしたものは、患者の人間性を毀損し心身に大きな傷を与えたことと、人間的な家族生活の喜びを奪い、社会復帰や老後の支えとなる家族や子孫を持つことを不可能としたことも忘れてはならない。このことが、断種や堕胎を受けた当の患者はもちろん、断種・堕胎を行っていない患者らに対しても、「自分たちは、普通の家族生活を営み、子孫をつくることを許されない存在である」という観念を強烈に植え付け、ひいては、「療養所のほかに生きる場所がない」という諦観をもたらしたことは想像に難くない。

さらに、ハンセン病患者が、遺伝病と並んで優生手術の対象とされたことは、「ハンセン病が遺伝病である」という古来からの偏見を助長・固定する機能を果たした。このことは、すでに戦前の国民優生法の論議の際に、「民族優生制度に関する専門委員会」が「らいが遺伝病と誤解せらるるを避けるため」、断種は国民優生法ではなく、らい予防法の中に規定すべきであると勧告していたことを見ても明らかである(甲二号証「日本らい史」一一七頁)。実際、同法にハンセン病患者の断種規定を入れる試みは、遺伝病でないことを理由に失敗に終わったのであり、戦後の優生保護法にハンセン病患者の優生手術が規定されたことは、こうした経緯から見ても不当というほかない。

3 被害の多さ

この問題を語るときに忘れてはならないのは、その被害の多さである。

戦後の統計があるだけでも、一九四九(昭和二四年)から一九九六(平成八)年までの間に、合計一四〇〇件以上の男女の断種及び三〇〇〇件以上の妊娠中絶が全国の療養所で行われている。以下は、その一部の抜粋である(甲二三〇号証)。

断種数 人工妊娠中絶
(男) (女) (計)
一九四九年 二七名 六八名 九五名
一九五〇年 三七名 六六名 一〇三名
一九五一年 四八名 五九名 一〇七名
一九五二年 四五名 一九二名 二三七名
一九五四年 一二二名
一九五五年 一四名 一一五名 一二九名 三〇三名
一九五六年 一七名 八八名 一〇五名 二六九名
一九五七年 (三名) (一三名) 八九名 二一六名
一九五八年 九名 六三名 七二名 三一五名
一九五九年 八名 四七名 五五名 一九六名
一九六〇年 七名 五八名 六五名 一九一名
一九六一年 一三名 三三名 四六名 二二五名
一九六二年 一名 五名 六名 八五名
一九六三年 〇名 七二名 七二名 九三名
一九六四年 一名 一〇名 一一名 九九名
一九六五年 〇名 九名 九名 一三一名
一九六六年 二名 一五名 一七名 一三五名
一九六七年 二名 二一名 二三名 九六名
一九六八年 二名 一五名 一七名 九五名
一九六九年 一名 二四名 二五名 九三名
一九七〇年 二名 四名 六名 一四六名
一九七三年 〇名 七名 七名 三五名
一九七四年 〇名 五名 五名 四八名
一九七五年 一名 〇名 一名 三七名
一九七七年 〇名 〇名 〇名 三〇名
一九七八年 〇名 〇名 〇名 一二名
一九七九年 〇名 〇名 〇名 三名
一九八〇年 〇名 〇名 〇名 二名
一九八五年 〇名 二名 二名 〇名
一九八九年 〇名 二名 二名 六名
一九九〇年 〇名 〇名 〇名 一七名
一九九二年 〇名 一名 一名 四名
一九九五年 〇名 一名 一名 二名
一九九六年 〇名 〇名 〇名 五名

一九四九年以前については、一九一五(大正四)年から一九三九(昭和一四)年までの間に断種手術が一〇〇三名に対し行われたという報告があるだけだが、その間も妊娠中絶は行われていたし、一九四〇年から一九四九年までの空白期間も断種、妊娠中絶は行われていたのであるから、優生保護法による被害及びそれ以前の法的根拠なき断種及び妊娠中絶の被害は膨大な数に上る。

この点に関し全患協は、一九六三(昭和三八)年の厚生大臣に対するらい予防法改正要請書の一九項で、「『優生法』によればハンセン病は遺伝病であり、おそろしい病気であるかのように錯誤されます」として、優生保護法のハンセン病患者に関する規定の削除を求めていた(甲一号証「らい予防法廃止の歴史」二四四頁)。

厚生省らい予防法見直し検討会報告書は、優生保護法上の「らい(癩)患者(疾患)」の取扱いは医学的根拠を欠いているとあらためて明言した(甲一号証三七八頁)。

三 隔離不要の知見・見解
1 伝染力の微弱さ

ハンセン病の伝染力が微弱であること、流行の兆しがなかったことは、戦後も変わらない。療養所職員にも感染したものはない。この点は、法制定時、聖成結核予防課長も認めている(甲一号証一六六頁)。

厚生省見直し検討会においても、この点は繰り返し確認されている(乙一八三号証の三・一三頁以下)。とくに、結核との比較において、この点は明らかである。昭和二〇年代、日本の結核患者が年間五〇数万の発生があったときに、統計上は六五〇人の新患しかいない。ほぼ一〇〇〇分の一である。このように、らいというのは発病の少ない病気である(乙一八三号証の三・牧野委員発言一四頁、和泉参考人発言一七頁)。

2 プロミンの治癒性についての学会報告

(一) 一九四七年日本癩学会総会

わが国では、一九四六(昭和二一)年に東京大学の石館教授によってプロミンが合成された。

同年より治験が開始され、一九四七(昭和二二)年の第二〇回日本癩学会総会では、プロミンの治験効果の研究が三例報告された。

一九四八(昭和二三)年にはプロミンを初めとする各種スルフォン剤の治験効果が六例、一九四九(昭和二四)年には二三例が報告された。

東京訴訟において、成田証人は、我が国においてプロミンの効果が確認されたのは、一九四七(昭和二二)年と証言している(甲一〇八号証第一回五八頁)。

(二) 一九五一年日本らい学会

一九五一(昭和二六)年の日本らい学会では、プロミンの治験に参加した三つの施設が、病理、薬理、臨床の三方面から、その治験効果を同学会の特別講演の形で共同発表した。

犀川証人は、この学会において、プロミンの有効性が正式に確認され、この学会以降、プロミンで治る時代になったと評価されるようになったと証言している(犀川第一回調書二三項から二五項)。

3 医務局長の国会答弁ープロミンによる治癒に基づく政策変更

(一) 一九四七年一〇月答弁

一九四七年一〇月の衆議院厚生委員会で草津特別病室事件の国会審議の関連答弁に立った東龍太郎医務局長は、「最近におきましては、らい治療ということに対しまして非常に大きな光明を見出しつつありますから、治療を目的とするところの全らい患者の収容ということを一つの国策として取り上げていくようにしたいというふうに私ども当局としては考えている」と答えている(甲二三九号証「昭和二二年衆議院厚生委員会議録第二八号」)。

(二) 一九四八年一一月請願

一九四八(昭和二三)年一一月、衆議院厚生委員会において、武藤運十郎議員は国立療養所の施設並びにその生活改善に関する請願を行い、その中でプロミンに関してつぎのように述べた。

「新薬プロミンによる治療を、すみやかに全国入所入院患者に実施していただきたいと存じます。新薬プロミンの出現によりまして、長い間暗黒の地獄にもがき苦しんできましたらい患者にも希望の曙光がもたらされたようでございます。プロミンはすでにアメリカではらいの特効薬として確認せられ、わが国におきましても実験の結果は好成績を上げておると報告されております。政府においても、この新薬対策については万全の策を講ぜられておるということを伺っておりますけれども、なお全国の入院患者に対して一日も早くこの新薬による治療が実施できますように、特別の措置をお願いする次第でございます。」(甲二号証「日本らい史」二六四頁)

(三) 同日答弁

右請願に対し、東医務局長は、つぎのように答弁した。

「幸いに、この患者が一日千秋の思いでおりますプロミンの製剤は、国内において生産されるように相なりましたし、またプロミンよりも一歩進みましたプロミゾールも最近その生産ができて、そのサンプルを数月前いただいております。・・・私どもがもし十分な予算を獲得できればすべての患者に対して、この進んだ治療薬を与えることができる、その日の遠からざることを私は信じておるのでありまして、らいというものは普通の社会から締め出して、いわゆる隔離をして、結局その隔離をしたままで、らい療養所に一生を送らせるのだというふうな考えではなく、らい療養所は治療をするところである、らい療養所に入って治療を受けて、再び世の中に活動しうる人がその中に何人か、あるいは何百人かあり得るというようなことを目標としたような、らいに対する根本対策ーらいのいわゆる根絶策といいますか、全部死に絶えるのを待つ五〇年対策というのではなく、これを治療するということを目標としておるらい対策を立てるべきじゃないかと、私どもも考えております。」(甲二号証「日本らい史」二六五頁)

(四) プロミンによる治癒に基づく政策変更

これら一九四七(昭和二二)年、四八(昭和二三)年の答弁から、つぎのことがいえる。

第一に、戦後日本は国際社会に復帰はしていなかったが、「プロミンはすでにアメリカではらいの特効薬として確認せられ」と武藤議員が述べているように、海外の知見に関する情報収集が可能であった。

第二に、当時すでに、アメリカでは、プロミンの特効薬としての評価が定まっていたことである。

第三に、「わが国におきましても実験の結果は好成績を上げておると報告」されていたことである。

第四に、これら情報を厚生省や国会議員が、逐次収集していたことである。

第五に、この点が最重要の事実であるが、これら知見に基づき、厚生省が従来の政策を変更すべきと考えていたことである。従来の政策は、いうまでもなく「らいの根絶策」、「全部死に絶えるのを待つ五〇年対策」である。

これを転換する必要性を、すなわち、一九四七年には、「患者の治療」を目的とすべきこと、一九四八年にはさらに一歩進めて、「社会復帰」を政策目的とすべきことを明言した。

つまりこれは、厚生省の政策責任者が、戦前からのハンセン病対策の本質を怒りとともに正確に把握したうえで、これを全面的に見直すべきと考えていることを明らかにしたものであり、正に画期的な見解表明であったというべきである。

4 プロミン予算化

プロミンの画期的な効果は、治験に参加した患者らが最もよく知るところであった。患者らは、プロミンをすべての患者に行き渡らせるため予算化を求め、厚生省は大蔵省に昭和二四年度予算でプロミン治療費六〇〇〇万円を要求し、いったんは六分の一に削られたものの、五〇〇〇万円が予算化された(甲二二〇号証「倶会一処」一七五頁)。

塚原太郎国立病院部政策医療課高度・専門医療指導官は、一九四九(昭和二二)年四月のプロミン予算化をもって、「不治の病から治る病気へ」となった画期としている(甲一一五号証・第二二回ハンセン病医学夏期大学講座教本「行政Ⅱ」一一五頁)。

大久保一郎国立病院部政策医療課高度・専門医療指導官も、平成九年の第二〇回ハンセン病医学夏期大学講座教本において、同旨を記載している。

5 菌陰性者の増加

第二次大戦後、プロミンの治療効果によって園内では菌陰性者が多数となり、現実に誰の目にも多くの症状固定者、治癒者を認めるようになった(甲一号証二一七頁、岩尾調書三五八項)。

国立療養所における菌陰性者の割合は一九四八年(昭和二三)には約二六パーセントであったが、一九五〇(昭和二五)年には三七パーセント、一九五五(昭和三〇)年には七四パーセントと急激に増加していった(甲二一九号証・長尾「国立らい療養所の現状と将来」九八頁Fig4)。 

6 国際的な知見の流れ

国際的な知見・政策は、戦前から、患者の人権と公共の利益の調整をはかって、治療こそ予防と考えて、開放政策を進めてきた。戦後の一九四六(昭和二一)年から一九五二(昭和二七)年にかけての国際的知見・政策も、スルフォン剤の画期的な効果を背景に、治療こそ予防という考えを、より一層明確に唱えるようになり、その考えは、隔離不要、外来治療、社会復帰という大きな流れを形成するようになっていった。

(一) 第二回汎アメリカらい会議(一九四六年)

第二回汎アメリカらい会議が一九四六(昭和二一)年にリオデジャネイロで開催され、スルフォン剤の効果について種々の論文の発表がされた。この会議ではファジェットの画期的研究が最も重要な発表と評価された。ファジェットによれば、プロミンあるいはダイアゾンの効果は、六ヶ月で二五%、一年で六〇%、三年で七五%、四年で一〇〇%が軽快、四年間の治療で五〇%或いはそれ以上が細菌的には陰性となるというものであった(甲一七二号証「国際らい会議録」二一二頁から二一六頁)。

(一) 第五回国際らい会議(一九四八年)

第五回国際らい会議が一九四八(昭和二三)年にハバナで開催された。この会議では、経口投与の可能なDDSを初めとするスルフォン剤の有効性が確認された(甲一七二号証二一八頁から二四一頁)。

この会議の報告書には「一九四六年リオデジャネイロにおける意見乃至この国際会議を通じて、一九三八年のカイロ会議以来の治療に目覚ましい進歩が見られるに至ったことは明白な事実である。」(甲一七二号証二二一頁)「結局らいの治療薬として選出できるものはスルフォン剤であると云うのがこの会議の意見であった」と記載されている(甲一七二号証二二二頁)。

この会議では、施薬所又は外来診療所を「この両者ともらいの管理には欠くべからざる重要性(原文 fundamental importance)をもっている」と位置づけて、これらは「交通便利な、しかも人口密度の高い地域に設けるべき」とされており、外来治療の重要性が認められている(甲一七二号証二三三頁)。

隔離については、「非伝染性の患者は隔離することなく、一定の正規な監視下におく」(甲一七二号証二三五頁)、「伝染性のらい患者は隔離する。隔離の様式、および期間等は臨床的、社会的条件又は特殊な地方的条件等によつて異なる」(甲一七二号証二三五頁)としており、隔離を限定している。

また、社会復帰に関しては「らい患者及びその家族の社会的援助は対らい政策に基本的必要性を占めるものである」とし、政府に対し「らい療養所を退所できる患者に社会復帰上の援助を与えること」を求めている(甲一七二号証二四一頁)。

さらに、一般国民の教育に関しては、「らいは初期のうちに治療を行い、しかも治療に熟練と経験を積んだ専門医の監督下に患者が規則正しく治療を受けるならば、らいは治癒し得るものである」と啓蒙することの必要性を強調している(甲一七二号証二三七頁)。

7 WHO第一回らい専門委員会報告(一九五二年)

(一) WHO加盟

一九二八(昭和二三)年、公衆衛生に関する国際行政機関として世界保健機構が設立され、一九五二(昭和二七)年の講和条約締結前であるところの一九五一(昭和二六)年、日本もこれに対する加盟が認められた。

したがって、遅くとも一九五一(昭和二六)年のWHO総会からは、厚生省の代表が出席していたはずであり、以降、WHOの年次総会に、わが国政府の代表が出席したことは明らかである(なお、犀川調書第二回・一四九項から一五一項。同三六五項から三七一項)。

一九五四(昭和二九)年から執行理事会のメンバーにも選出されている。

日本政府がその加盟国として、WHOの政策・見解を尊重して公衆衛生政策を実施しなければならないことは当然である。それは国際連合のその他の機関と同様である。

(二) WHO第一回らい専門委員会報告

一九五二(昭和二七)年、WHOらい専門委員会が第一回報告をまとめた(甲一七二号証「国際らい会議録」二六〇頁から二八三頁)。

同報告は、スルフォン剤の顕著な効果と広範な使用がらいの化学療法とらい対策の方法を全面的に変革したこと、すなわち、隔離はもはや不必要となり、感染性の患者でも在宅のまま外来で治療できるようになったことをWHOの名で承認した画期的なものである。

報告では「スルフォン剤治療がかつてのいかなるらい治療形式よりも非常に優れている」とされ、とりわけ経口薬DDSが、「価格が安く、使用方法が非常に簡単」で経口的に投与できることなどの理由で高く評価された(甲一七二号証二七五頁・二七七頁)。

このような治療法の進歩を背景に、らい治療がらい管理に「最も有力な適した武器」と位置づけられた(甲一七二号証二六五頁)。この報告は、スルフォン剤という画期的な治療薬を得たことによって、一九三一年に国際連盟の癩委員会が出した「癩予防の原則=らい公衆衛生の原理」によって既に指摘されていた「治療は予防である」という考え方を、より一層明確に打ち出したものである(甲一〇八号証成田調書第一回五〇頁)。

また、この報告では、隔離について「最近のらい治療の目覚ましい効果を考えると、強制隔離に関する実施については再考を必要とする」としており、強制隔離政策の見直しを勧告している(甲一七二号証二六九頁)。

(三) 専門委員会報告についての厚生省の認知

被告国・厚生省は、一九五三(昭和二八)年のらい予防法改正論議の段階で、このWHO第一回らい専門委員会報告を知っていた。被告は当時国際情報の入手が困難であったというが、この情報を入手していたことは、つぎの二発言より明らかである。

(四) 参議院厚生委員会での政府委員の発言

らい予防法改正のための国会審議の中で、昭和二八年七月六日の参議院厚生委員会において、厚生省公衆衛生局長の山口正義が「先般(厚生省の)医務局長が出席されましたWHOの総会におきましてらいに関する特別委員会の報告がございますが・・」と発言している。この発言からも、昭和二八年の予防法改正の論議の段階で、厚生省の医務局長がWHOの総会に出席し、国際的な知見及び政策についての情報を得ていたことが明らかである(甲六号証の三二、三頁下段)。

(五) 厚生省聖成結核予防課長の発言

らい予防法が成立した直後の、一九五三(昭和二八)年八月一〇日、厚生省の局長、課長らと全患協の代表者らが交渉した。その記録によれば、ハンセン病の伝染につき医学的実証があるかという議論に関連し、厚生省の聖成結核予防課長が「・・・(ハンセン病の)伝染力は激甚なものと思えない。先般世界保健機関の報告でもフィリッピンでは伝染率は・・・」と述べている(甲一号証一六四頁)。

(六) 隔離に関する専門委員会報告の見解ー被告主張の誤り

被告は、WHO第一回らい専門委員会報告の一部を引用して、(日本型の)強制隔離が肯定されていたかのように主張している。

しかし、それは意図的な誤読である。

一九八八年のWHO「らい対策の方針」は、「五〇年代のはじめまでに、スルフォン剤の顕著な効果と広範な使用はらいの化学療法とらい対策の方法を全面的に変革した。隔離はもはや不必要となり、感染性の患者でも在宅のままで外来で治療できるようになった」と述べている。

ハンセン病予防事業対策調査検討会中間報告も、同じ立場である(甲一号証三五三頁)。

見直し検討会において、和泉参考人も、WHOがダプソンによる外来治療で治るといったのはすでに一九五〇年代であると述べている(乙一八三号証の三・一八頁)。大谷座長も同じ立場である(同一一頁)。

ここでいう「五〇年代のはじめ」が、一九五二年のWHO第一回らい専門委員会報告を指すことは疑いない。したがって、同報告が「隔離はもはや不必要」との立場に立っていることは明白である。

つまり、報告が隔離を認めているという被告の主張は、文書の一部をとらえて曲解しているに過ぎないのである。

そもそも、この隔離とは、我が国の隔離政策のように患者を社会から排除し追放するいう意味をもつ隔離(セグリゲーション)ではない。「隔離」と訳されているが、原文では、患者を社会の一員と認めたうえで、感染性のある時期に治療のために社会内で一時的に分離するという意味のアイソレーション(isolation)という言葉が用いられているのである。

つぎに、「隔離という方法で患者を移すとか、子供の方を患者から引き離すとかすべきである」という記述を根拠にして、隔離が肯定されているとも被告は主張している。しかし、この部分は、ハンセン病に感染しやすい乳幼児に限っては、患者と子供を引き離すことが一時的に必要という趣旨で書かれているに過ぎず、強制隔離政策を一般的に肯定する趣旨で書かれているわけではない。このことは、被告の引用箇所の前後の文章を読めば明らかである(二七一頁)。

さらに、被告は、「強制隔離の法的力を残して置くことは、保健当局にとって得策である」との記述から、この報告が強制隔離をなお肯定していると主張している。しかしながら、この記述についても、その前後の文脈を無視して評価することはできない。この前に、「伝染性の症例のみ(が)隔離の形式に従う必要性がある。伝染性らいに対する隔離の程度、隔離のよい基準、適用する強制力の度合等は、国や地方に依って異って来る。らいが流行地でない様な所や、らいが拡がる傾向のないところでは、らい患者に対して何等かの監視が必要であると云う届出制度をとって、治療を行って行けばそれでよい」と述べ、また、この後に「資源が充分にあり、らいが流行しているような国においてさえ、強制力は説得という方法が失敗したときにのみ適用すべき」とする。また、「家族を別々に分離させ、家庭をやぶり、不時の生活不能者を作ることになる」から、「伝染病のらいをある施設に強制隔離する事は理論的には効果的な事であるが実際には非常に好ましくない事である。」とし、「かかること(強制隔離)に対する患者の恐怖と、ある施設に長く止らねばならないこと、又かつて施設にいたということだけで汚名がつくことを考えると、ますます患者は己のらいであることを隠し、その結果治療を何時までも受けないことになり、接触者に対しかえって危険をもたらすようになる。」と指摘しているのである。そして、「強制隔離に関する実施については再考慮を必要とする」というのが、以上の文章に続けて記載された最終的な結論である(二六九頁)。

すなわち、この報告書は、参加各国の立場に配慮して込み入った表現をとりながら、最終的結論としては、治療こそ予防の最大の武器という立場に立って、強制隔離政策の見直しを勧告しているのである。

被告が強制隔離を肯定していると誤読することに対し、これを翻訳した犀川証人が、本件法廷において、次のとおり厳しく批判している。

 「私の翻訳したものを一箇所だけ、あるいは都合のいいところだけお取りになっているのは非常に心外ですね。」「その次を読んでください。それだけれども強制隔離を実施するのはこのましくないということが書いてあります。」「法の介入をやめて治療をするんだということが一九五二年のWHOの第一回専門委員会の精神であります。そこを読んでいただかないと、私の論文の都合のいいところだけを読んでいただいたんじゃ大変困ります。心外です。」(犀川調書第二回三二頁)。

8 小括

以上のとおり、一九五三年当時すでにプロミンの効果は明らかであったし、国際的には患者の隔離は否定されていた。この点は、一九九五(平成七)年の「らい予防法」についての日本らい学会の見解も、認める事実である(甲一号証三四六頁)。

四 厚生省による政策のさらなる展開
1 一九五〇年当時の状況(根絶策策定から二〇年経過)

一九五〇(昭和二五)年のハンセン病患者の総数、在所患者数、在宅患者数、収容率は次のとおりである(甲一二〇号証の3「我が国のハンセン病患者数の推移」)。

患者総数 一万一〇九四名
在所患者 八三二五名
在宅患者 二七六九名
在所患者の患者総数に対する割合 七五%

旧法制定(昭和六年)当時である昭和五年の患者総数が一万四二六一名、在所患者三二六一名、在宅患者一万一〇〇〇名であり、在所患者数は患者総数の二三パーセントにすぎなかったことと対比すると、患者収容数は飛躍的に増大していった。

2 第二次無らい県運動の決定

一九四九(昭和二四)年六月二四日、二五日、全国ハンセン病療養所所長会議が厚生省で開催された。その議事内容を記録したものが、桜井メモである(甲二一〇号証「全国所長会議メモ」)。記録者の桜井方策氏は当時松丘保養院の院長であり、光田健輔の信奉者として有名である。

会議の冒頭あいさつに立った東局長は、「過去四〇年を顧みて反省し将来の根本策を計画すべき年である。四〇年前と現在とは情勢全く異なるから必要なら予防法を変えてもよい」と述べている。まさに、前年の国会答弁を維持した基本姿勢である。

ところが、会議では、何故かこの局長発言は無視されたままである。続いて挨拶した尾村療養所課長は、「根絶を常に頭におけ。運営の重点は収容を徹底するにあり、次は治療」と発言し、根絶策を否定した東局長の国会答弁を全面否定するに至っている。

これを受けて小川予防課長が「無らい運動を展開しよう」と提案し、その運動による新患者の収容の方法として、「非常に軽快したものは退所させたら如何か、神経型の古い者など出して代わって重いのを入れたら如何か」と発言したのである。

この小川発言は、(1)無らい県運動を提唱しつつ(2)終生隔離を止める、という二面性を持つものであった。

会議では、愛生園の光田健輔園長が、このうちの後者に激しく反対し、「それは生兵法大けがのもとだ。軽い神経型で皮膚反応+の者の神経に新しい菌をみた例あり、軽快者だとて出してはいけない。遺言しておく」と発言したことが、同メモに明記されている。これは終生隔離論者としての光田健輔の本音が率直に吐露されたものであるが、この発言に特徴的なことは、光田健輔が、小川課長をハンセン病に関して素人扱いしていること、遺言との強烈な表現を用いて、終生隔離政策の変更をしてはならないことを厳命していることである。

こうして会議では、結論として、無らい運動を行うことが決定され、そのために、療養所の収容力を増強すること、患者の一斉検診を実施することが決定されたのである。

この所長会議は、戦後におけるハンセン病政策の決定において、極めて重要な転機となったものと言うべきである。

東局長の「らい根絶策からの転機」の考えや小川課長の「終生隔離の見直し」発言が完全に否定され、戦前からハンセン病患者の絶対隔離・絶滅政策が、戦後も新たな無らい県運動(いわば第二次無らい県運動)の展開によって維持拡大されることが確定したからである。

この第二次無らい県運動の存在こそは、戦後における国のハンセン病政策が、単なる戦前の絶対隔離政策の消極的、受動的な延長ではなく、日本国憲法とプロミンの登場という新たな状況下において、絶対隔離(完全収容)と絶滅(終生隔離と優生手術)とを目指して積極的且つ徹底的に展開されたことを明らかにするものにほかならない。

3 第二次無らい県運動の展開

こうした第二次無らい県運動の実施決定を受けて、先ず療養所の増床計画が一九四九(昭和二四)年からスタートし、一九五〇(昭和二五)年から本格的に展開された。甲二三八号証井上謙著「らい予防方策の変遷」二頁によれば、以下のとおりである。

一九四九年 三五〇床
一九五〇年 一六五〇床
一九五一年 一〇〇〇床
一九五二年 一五〇〇床
一九五三年 一〇〇〇床

これは、厚生省が三〇年でらいを根絶することを目標にしたものであったが、五か月で全国一斉検診を行うことを決定するとともに、検診を強化し、「各市町村の衛生官と警官が協力してらい容疑者名簿を作る」「伝染病届出規則を厳重にして医師の届出を強化する。」「保健所では一般住民からの聞き込みや当初で容疑者発見につとめる。」(甲八〇号証「昭和二五年五月二九日付新聞記事」)なども決定した。

こうして、一九五〇(昭和二五)年八月、らい根絶を目指して全国一斉に「未収容らい患者」の実態調査が実施された。その結果、「未収容らい患者」の総数が二五二六名と把握され、都道府県別の数も明らかにされるに至った(甲二四号証「ハンセン病政策の変遷」一二三頁表四二)。なお同調査により、増床計画は、一九五三年をもって、全患者収容能力を備えるに至ったものとして終了することになる。

このような、都道府県別の未収容患者の把握により、厚生省は、各都道府県に対し、「未収容らい患者」の一掃を指示したのであり、その収容状況を毎年報告するよう義務付けたのである。

例えば、大分県保健環境部が毎年一回発行する「公衆衛生年鑑」(甲二三三号証)には、厚生省への報告としての未収容らい患者の年末の数が掲載されている。

また、「静岡県医療衛生史」(土屋重朗著)にも、「昭和二四年(一九四九)政府は患者の完全収容を決定し、国立らい療養所の増床計画をたてた。」と明記されている(同書四九八頁)。

なお、国立療養所年報(甲二二七号証)によると、各年度ごとの新入所患者数は、

一九四九年度 九四一名
一九五〇年度 七七二名
一九五一年度 一、一五六名
一九五二年度 六五四名
一九五三年度 五六八名
一九五四年度 五六五名
一九五五年度 六〇八名

となっており、ピークが一九五一年前後であったことか明らかである。

また、甲一号証「らい予防法廃止の歴史」一八頁の第一表(資料厚生省)によれば、

一九五〇年 一二月末日現在の在宅患者 二、七六九名
一九五五年  〃   一、一一二名

とされており、この当時、新発見患者数が年間三〇〇~四〇〇名であった(甲二四号証二七一頁資料3)ことを考慮すると、この五年間に如何に大量の「未収容患者」の収容が強行されたのかが数字のうえで基礎づけられている。

まさしく国をあげての無らい県運動が展開されたのである。

4 第二次無らい県運動による患者収容の過酷さ

第二次無らい県運動による患者収容の苛酷さについて、一九五二(昭和二七)年に、らい予防法改正促進委員会が「らい予防法による被害事例ー強制収容・懲戒検束等の実態」としてまとめたものがある(甲一号証一一七頁以下)。

これによれば、戦後になっても、国の隔離政策の遂行が、無抵抗の病人とその家族に対していかに有無をいわせぬ屈辱と生活破壊を与えていたかということが分かる。しかも、これらは氷山の一角に過ぎないのである(甲一六七号証、甲一号証「らい予防法廃止の歴史」一一八頁)。

(1)熊本県の昭和二六年九月収容者は、収容当時家庭の事情で今しばらくの入所の猶予を願ったが保健所により出向いてきた係官は聞き入れず、今度の収容に応じなければ占領軍当局に上申し、彼等の手によって強制収容することになるが、そのときはいかなる処置をされても責任は負わないと恐喝されたという(一二三頁)。昭和二五年一月収容の熊本の男性も同様である(一二四頁)。

(2)昭和二五年四月収容された福岡県の男性の場合、強制収容される直前、保健所側より何の予告もなしに家の内外を消毒され、一日として居住していることは不能の状態に陥れられ、この消毒行為により、周辺の未知の人々にまで、らい患家であることを宣伝する結果となり白眼視された(一二八頁)。

第二次無らい県運動による患者収容の苛酷さについては、ほとんどの原告が証言している。なかでも、原告番号九番は、昭和二五年から昭和二八年にかけての三年間に亘る執拗かつ威圧的な強制入所の状況について、つぎのとおり証言している。

警察官から「どうしても行かんと言って行かずに人に病気を移したら刑務所に入らなきゃいけないぞ。」「どうしても行かなきゃ手錠かけて行くぞ」と言われた。「そこまで私を追い詰められたし、蛇が蛙狙ったみたいにトコトン追い詰めて、何が何でも捕まえて行く。逃げたら山狩りするとおっしゃるものでもうこれ以上は逃げ延びることは出来ないんだなと思って観念した」(原告九番調書一八項ないし一一二項)。

見直し検討会でも、患者収容の過酷さが確認されている。

大谷座長は、「ともかく入らなければ大変なことになるぞ・・・家族もみんなそういう受け止め方で、実際問題として何度も来られますと、とてもじゃないが家にはおられなくなるし、家が村八分になってしまうというわけ」であると発言した(乙一八三号証の五・一〇頁)。

高瀬委員は、昭和三八年に長島愛生園に収容されたところ、やはり、厳しく県なり町村の方から入所すべきだというようなことがあったので、やや強制的に収容されたと感じていると述べている(同一一頁)。

村上委員は、診断がついたのちの勧奨の段階で「保健所の職員が来て、家じゅう全部盛大に消毒して回って、近所中の人に、あのうちは危ないうちだから近寄っちゃいけないということを三日に一遍ずつぐらい来てやる・・・それで、おまえは頑張るならば幾ら頑張ってもいいけれども、そのうちに命令がくるぞ。命令も受けなければ結局強制で入るんだぞというようなことを言われながら、三日に一遍ずつぐらい盛大に近所じゅう誰もが気がつくような華々しい消毒をして歩く」例を紹介している(同一二頁)。

こうなると、ふつうは「親戚じゅうが家族会議を開いて全員が、おまえ一人が療養所に入ってくれれば家族は救われるんだからというような形で説得する」ことになる(同)。

さらに見直し検討会では、患者収容の過酷さゆえ、首つりの数が相当な数になっていることも確認されている(同一〇頁大谷座長発言)。「明くる日行きましたら、家の人が家を空けたままでじっとしている。それで、患者はどこに行ったと聞くと返事もしない。そうすると、裏の納屋で首をつっている」という具合である。

5 第二次無らい県運動が作り出した差別・偏見による被害

第二次無らい県運動の結果、本人だけでなく家族、親戚までが結婚、就学、就職、交際等社会生活のあらゆる分野において陰に陽に不当な差別を受けるようになった。病気を秘密にしようとして数多くの悲劇がみられ、つぎに見るとおり、遂には自殺、一家心中にまで至った例もある。

(一) 熊本一家心中事件

昭和二五年八月三一日、熊本県八代郡の山中の小部落において、ハンセン病を病む父親を息子が殺害し、自らも自殺するという悲惨事が起きた(乙一〇九号証「全患協ニュース縮刷版1」六二頁・三頁)。

当時五七歳の父親は、戦前昭和一二年頃からハンセン病を罹患していたが、二四歳の息子が、「自分の就職、結婚にも父が生きていては駄目だと思い将来に対する希望を全く失い」、父を殺しともに死を決したというものであった。

まさに、戦前からの国の強制隔離等によって地域社会に強く根付いた差別・偏見が戦後まで引き続いていることの証左であり、その差別・偏見によって引き起こされた悲劇である。

(二) 山梨一家心中事件

昭和二六年一月二九日、山梨県北巨磨郡において、保健所による消毒を悲観して一家九人が心中する事件が起きた。

同年一月二七日、村役場から保健所へハンセン病患者の発生報告と消毒依頼がなされた。明後日、消毒へ出発する準備をしているところに一家心中の急報が入ったものであった。

家族は、「らい病だから家内を消毒する。」と言われ、同家では伸ばしてくれるように申し込んでいた矢先であり、消毒を恐れ、また強制収容・強制消毒を恐れての一家心中であることは明らかであった(乙一〇九号証「全患協ニュース縮刷版1」四一頁)。

(三) 藤本事件

一九五一(昭和二六)から一九五二八(昭和二七)年、いわゆる藤本事件が発生した(甲一号証一四六頁)。ハンセン病患者であった藤本松夫は同村の者から患者であることを当局に密告されたとして、同人を惨殺した疑いで逮捕され、原審で死刑判決を受けた。しかし「ハンセン病偏見によるえん罪ではないか」として全国療養所在園者を中心に救援運動が起こったが、それも空しく患者藤本松夫は異例のスピード裁判で早々と死刑を執行されてしまった。ハンセン病に対する偏見ゆえに捜査も審理も十分でなく、死刑執行のみが急がれたのではないかとの疑問は今も消えていない。

(四) 収容・消毒によって発生した差別・偏見

前記「らい予防法による被害事例ー強制収容・懲戒検束等の実態」(甲一六七号証、甲一号証「らい予防法廃止の歴史」一一七頁以下)にも、収容・消毒によってもたらされた差別・偏見による被害事例が紹介されている。これらの被害が厚生省の政策や措置によるものであることは明らかである。

(1)昭和二五年収容の大分県の男性の場合、役場において一般検診があり、その節検診にあたった女医が事務員に、娘がらいであると漏らしたことから、村民の間に広まり、娘は死を覚悟するまで日夜悩んだという(一二一頁)。

(2)昭和二六年三月に収容された福岡県の男性の場合、両親とともに保健所員も同道、熊本恵楓園に向かった留守宅を保健所より予防衣着用の上に、留守中の姉妹の面前で、白昼家の内外にわたり消毒されたために、近所の未知の人々の知るところとなったばかりか、一時は非常に恐怖感を与える結果となった。

(3)先に紹介した昭和二五年四月収容の福岡県の男性も同様である(一二八頁)。

五 戦前から引き続く国の政策による差別

以上の事件が端的に示すように、戦前、全国で展開した無らい県運動により、ハンセン病の伝染性が不当に強調され、強制収容や大規模な消毒により恐怖が煽られた。その結果として、社会の隅々までハンセン病に対する差別と偏見が根付いたのである。
戦後も、被告国は、かかる差別・偏見を除去するどころか、第二次無らい県運動などにより、差別・偏見を煽り拡大し続けた。
「偏見は自然に生まれるのでなく、作られるものだ・・というが、史上でこの事例ほど、それをはっきりと示すものは他にない。らい偏見の根を・・増幅し、固定化し、強固ならい偏見・らい差別に作り上げたのは、完全隔離主義の行政そのものであった。日本のらい対策の推進者はその点で、取り返せぬ、つぐなえぬ過誤を犯したのである。」(甲三号証「全患協運動史」一六五頁)。

六 患者らによる法改正運動

日本国憲法施行による権利意識の高まり、プロミンによる治癒者の増大及びプロミン獲得運動を通じて高まった患者運動は、その後さらに全国的に組織化されるとともに、いわば「火に油を注ぐ」形になった三園長発言を経て、全国の患者の力を結集しつつ、激烈ならい予防法改正運動へと向かっていった。

1 権利意識の芽生え

一九四五(昭和二〇)年、第二次世界大戦は日本の敗戦という形で終結した。一九四六(昭和二一)年に新憲法が公布され、基本的人権がうたわれることにより、戦前旧らい予防法によって非人道的な取り扱いを受け続けていた入園者も「園内に権利意識、人間としての尊厳の意識というものが芽生えた」(原告番号一一八番(曽我野一美)調書二項)。

こうして入園者も権利意識を高め、人間としての権利回復を目指した運動を次々と起こしていったのである。

2 特別病室事件

一九四七年(昭和二二年)八月一五日、一七日と楽泉園で初めての患者大会が開催されたが、その中では、在園者の生活改善要求のほか、特別病室に対する不満が噴出した。その後、厚生省の調査団が調査に入るも、園側を擁護する立場を崩さないため、運動はさらに広がり、同年九月二一日には国会調査団が派遣され、その様子が朝日新聞やNHKニュースで報道されるなど社会問題化した。

こうして特別病室は事実上、廃止されたのである(甲二二一号証「風雪の紋(栗生楽泉園患者五〇年史)」)。

3 プロミン獲得運動

以上のように日本国憲法の公布後、権利意識の高まりとともに患者運動も活発に行われ始めたが、さらにこの運動に火をつけ、いわゆる「五三年闘争」の下地を作ったのが、プロミン獲得運動であった。

一九四三(昭和一八)年アメリカにおいて、プロミンがハンセン病治療に有効であることが公表された。戦後すぐに日本でも開発が手掛けられ、一九四六(昭和二一)年には治験が開始された。

従来不知の病とされてきたハンセン病が治療可能とされたことにより、全国の療養者に明るい希望の灯をともし、「プロミンが、特にL型の人たちに著効が現れたということで、治療面における療養所の夜明けが来た。そういうことを実感致しました。」(原告一一八番四項)という状況であった。

一方で、政府のプロミン購入予算は十分ではなく、投与者全員には行き渡らなかったため、まず一九四八(昭和二三)年に、多磨全生園で「プロミン獲得促進委員会」が結成され、請願書を提出するなど積極的に政府への働きかけを行った。また既に成立していた「五療養所患者連盟」(前述)本部の星塚敬愛園が右委員会へ運動資金を送るなど、療養所間の連携をさらに深めつつ、この運動は全国に波及していった。

そして一九四九(昭和二四)年、昭和二四年度の予算折衝にてプロミンの予算が大蔵省により大幅に削られたことから、多磨全生園は全国の園自治会に電報で事態を伝えるとともに、ハンストを行うなどの運動を行い、さらに時の大蔵大臣池田勇人に面談するなどして、要求通りに増額させた予算を国会において通過させた。

こうして各療養所の支援を受けた多磨全生園を中心とした運動により、要求通りのプロミン予算を獲得したのであった(甲三号証「全患協運動史」三四頁。甲二号証「日本らい史」二六一頁以下)。

4 全らい患協(全国国立らい療養所患者協議会)発足

「らい予防法は人権無視の憲法違反であり、治る時代に沿った内容に改正させよう」という主張が急速に高まる気運の中で、全患者の総力を結集するための全国組織が必要とされ、一九五一(昭和二六)年二月一〇日、全国国立らい療養所患者協議会、すなわち、全らい患協が結成された(甲三号証「全患協運動史」四〇頁、甲一号証「らい予防法廃止の歴史」一四七頁)。

5 三園長発言ー時代への逆行

全らい患協は立ち上がり、療養所内での各種の待遇改善要求のほか、懲戒検束権・強制隔離政策を全面的に見直す予防法改正問題につき議論し、政府に対する請願を開始したが(甲二号証「日本らい史」四一頁)、かかる患者達の動きに逆行する事件が起きた。

一九五一(昭和二六)年一一月八日、第一二回国会参議院厚生委員会が開催され、当時のハンセン病の国立療養所所長であった光田健輔(岡山・長島愛生園)、林芳信(多磨全生園)、宮崎松記(菊地恵楓園)の三園長が、患者の意思に反しても収容できる法律の必要性、断種の必要性、逃走罪などの罰則の必要性などを証言したのであった。

例えば林は、一方では「現在相当有効な薬ができました・・その治療の効果も相当に上がりまして、各療養所におきましても患者の状態が一変したと申してよいのでございます。・・治療の問題はもう一歩進みますれば全治させることができるのではないかと思うのであります。」というハンセン病治療の知見に関する認識を示しながらも、未収用者患者に関しては「速やかにこういう未収用の患者を療養所に収容するように、療養施設を拡張していかねばならんと、かように考えるのであります。」と述べた。

また光田も、収容に関して「強権を発動させるということでなければ何年たっても同じことを繰り返すようなことになって・・」と述べ、さらに委員からの質問に答える中で「手錠でもはめてから捕まえて、強制的に入れればいいのですけれども・・」「そういうものはもうどうしても収容しなければならんというふうの強制の、もう少し強い法律にしていただかんと駄目だと思います。」などと述べ、さらに宮崎も、徹底的な完全収容が必要などと光田と同旨の証言をしたのであった(甲六号証の二二「参議院厚生委員会会議録第十号、甲二号証「日本らい史」二六七頁)。

6 予防法改正運動

(一) 予防法改正案と運動開始

一九五二年(昭和二七)年五月、全らい患協は、改正試案を決議した。

同試案はつぎの事項を求めていた。

  1. らい予防法は保護法的性格をもったものとする。
  2. 強制収容の条項は削除する。
  3. 全快者または治療効果があり病毒伝播のおそれのないものの退園を法定する。
    この場合、必要とする者に対してはアフターケアー的施設及び就業斡旋を考慮する
  4. 病毒伝播のおそれのない者の一時帰省を決定する。

注目すべきは、右試案の内容が、四四年後の「らい予防法の廃止に関する法律」の構造と全く同じということである。

それゆえ、右条項は、いずれもしごく当然の要求であったし、当時の国際的医学的見解にも合致しており、正義にかなうものであったと大谷氏は評している(甲一号証一四九頁、岩尾調書第二回三六七ないし三六九項)。

同年一〇月一〇日、全らい協は「らい予防法改正促進委員会」を組織し、また「らい」の名称を排する立場から組織名も「全国国立ハンセン氏病療養所患者協議会」(以下、「全患協」という)と改めるなど、予防法改正へ向けて実質的な取り組みを強め、法改正に向けての国会活動を開始した。

(二) 改正に消極的な厚生省

全患協は、長谷川保らに法改正に向けての協力を要請し、これを受けて長谷川は、一九五二(昭和二七)年一一月、内閣に対して旧らい予防法に関する質問書を提出した。

これに対する回答が、同年一一月二一日付の内閣総理大臣答弁書である(甲六号証の二三)。

この答弁書において、当時の吉田首相は、旧らい予防法は、日本国憲法に抵触しないと明言し、当面法改正を考えていないことを明らかにしたのである。政府あるいは厚生省としては、同年一一月段階においては、無らい県運動(増床計画)も「順調」に推移し、厚生省・療養所内の見解も統一されたことで、旧らい予防法を当面改訂する必要はないとの判断であったことが明白である。絶対隔離・絶滅政策を展開していくことが決定されれば、「旧らい予防法」の基本的枠組みを改訂する必要は全くないからであった。

こうした厚生省内の消極的な動向を知った全患協は、一九五三(昭和二八)年一月、「らい予防法改正草案」の作成に着手し、これを長谷川議員らによる議員立法として国会に提出することを決定した。

この動きに驚いた厚生省は、長谷川議員らに圧力をかけ、政府提出法案として、「らい予防法改正法案」を提出することにするので、議員立法としての法案提出を見送るように説得したのであり、同議員がこれを受け入れたため、画期的な「全患協草案」は、日の目を見ることはなかった。

7 政府案によるらい予防法改悪と反対闘争

(一) 厚生省による抜き打ちの法案提出

厚生省は当初、改正の必要なしとの態度を崩さなかったが、衆議院厚生委員会が多磨全生園に現地調査に入り、衆院厚生委員会案として改正案が国会に提出されそうな情勢になるや、一九五三(昭和二八)年二月一〇日急遽、予防法改正の方針を決定した。

厚生省主導の改正に大きな危惧を感じた全患協は、厚生省に対して強力な働きかけを行う方針を決定するとともに、再三に渡って改正内容の提示を求めた。しかるに厚生省側は、終始明確な言明を避けた上、同年三月一四日、抜き打ち的にらい予防法改正案を提出した(甲三号証「全患協運動史」四八頁)。

その内容は全患協の危惧通り、強制隔離の方向を明確に打ち出すなど願いからは大きく隔たったものであった。この間わずかに二か月、厚生省がほとんど議論せずに、従来の絶対隔離絶滅政策を維持しようとしたことが明らかである。

(二) 政府案どおり予防法成立

全患協及び各園は政府案に対し激烈な反対運動を展開したが(原告番号一一八番調書、甲二三二号証鈴木禎一調書)、八月六日、らい予防法改正案は参議院に上程され、九項目の付帯決議が行われたのみで原案のまま通過した(甲一号証一五〇頁以下)。

なお、同年八月六日以降も全患協主導の座り込みは続けられ、同年八月一〇日から一三日までは、全患協と厚生省側の会談が行われた。

七 新らい予防法の構造と機能
1 旧法と同じ基本的枠組み

新法は、感染源対策としての患者の隔離を主体とした法律である(らい予防法の廃止に関する法律案理由説明甲一号証三九八頁)。

旧法の基本的枠組みに変更はない(岩尾調書二一七項、乙第一七九号証岩尾「らい予防法の廃止」一五五頁)。

大谷氏はこのことを、客観的にこの改正内容をみれば、旧法(癩予防法)の文語体をやさしい口語体に代えたというばかりで、旧法の人権無視の隔離思想や体系をそのままうけつぎ、みるべき進歩のかけらさえなく、戦後の基本的人権の確立、ハンセン病化学治療法の革命的進歩、就中欧米諸国の開放外来治療の推進の実状に対してなんら答えることがなかった(甲一号証一五二頁)と厳しく批判している。

2 新法の理念と予防方策としての隔離偏重

法改正の基本理念として厚生省は、国会において、「らいを社会の蔓延から予防し、公共の福祉をはかるためには、患者を施設に隔離することが唯一の方法であると考えている」と述べている。これでは、旧法の隔離思想とまったく変わっておらず、当時の国際的見解とは大きく異なっている。ハンセン病が「不治の病」であることを前提としており、全くの誤りである。

また、「患者収容・隔離」をハンセン病予防の唯一の方策としており、治療による予防方策が全く考慮されていない。「治る時代」を迎え、治療によって患者の伝染力が弱まるにもかかわらずである(甲二四号証「ハンセン病政策の変遷」一三七頁)。

3 隔離(入所強制)の要件

隔離(入所強制)の要件について、法六条一項、四項は「らいを伝染させるおそれがある患者」と定める。右文理を根拠に、法が無限定な隔離を認めていたものではないと被告は主張する。この点は、患者の全員隔離という「旧法の人権無視の隔離思想や体系をそのまま受け継いだのか」という問題と関連し、重要である。

この点は、「癩患者ニシテ病毒伝播ノ虞アルモノ」と定める旧法三条一項の「文語体をやさしい口語体に代えたというばかりで、旧法の人権無視の隔離思想や体系をそのまま受け継いだ」ものと解さざるを得ない。

一九五〇(昭和二五)年の「全国らい調査」では、収容患者八、三二五名、未収容患者二、七六九名であり、病床数は八、三五〇床であった。ところが、厚生省は同年、病床の本格的拡充に着手し、一九五三(昭和二八)年までに一三、五〇〇床とした。他方、同年の患者調査によれば、収容患者一〇、四二三名と推定未収容患者を含めた一三、八三七名であるから、日本の全患者の完全収容は可能だからである(甲二四号証「ハンセン病政策の変遷」一二三頁以下)。

犀川氏も、かつて、昭和一〇年、日本のハンセン病を根絶するため「患者一万名収容」を計画し、「らい根絶計画」を立案した「治らない時代」の政策を、新時代に入っても再び採り、昭和二四年ころから起こっていた「らい予防法」改正の機運に対しても、相変わらず、「患者隔離」政策で対応しようと考えていたとしか考えられないと評している(同号証一二五頁)。

実際、一九五〇(昭和二五)年に七五%であった収容率が、法制定後も、一九七〇(昭和四五)年の九四%まで一貫して増加している(甲一二〇号証の三「我が国のハンセン病患者数の推移」)。

また、同法は非伝染性患者の治療について触れていない。これでは非伝染性の患者も治療を受けるためには療養所に入所しなければならず、同法は全患者を隔離する立場であると解さざるを得ないのである(甲二四号証「ハンセン病政策の変遷」一三七頁)。

4 退所規定が存在しないという問題

新法は、回復してからの退所や、社会復帰については一片の規定もなく、病気が治って社会に戻る場合を考慮していない(甲一号証二一頁)。

この点は、終生隔離という「旧法の人権無視の隔離思想や体系をそのままうけついだのか」という問題と関連し、重要である。

WHOは、法制定の翌一九五四(昭和二九)年、「らい患者の隔離はらい予防の最も重要にして議論のある問題と考えられがちであるが、隔離の終了すなわちらい患者の解放と解放の条件も、それに劣らず重要なことがらである」旨、諸国の政策責任者に対し注意を喚起している(甲一七号証「近代らい法規の展望」四五頁)。

この問題について、被告は、治癒すれば退所は当然として規定しなかったと主張する。

しかし、全らい患協の改正試案が、「全快者または治療効果があり病毒伝播のおそれのないものの退園を法定する。この場合、必要とする者に対してはアフターケアー的施設及び職業斡旋を考慮する。」ことを要求していたし(甲一号証一四九頁)、医務局予防課長も退所規定の附加による法改正を考慮した発言を行っていたのであるから(甲一二四号証「らい医学の手引き」二八三頁)、意図的に、厚生省が退所規定を定めなかったことは明らかである。

結核予防法、性病予防法あるいは精神衛生法では、いずれも入所を解除できる状態を明示していることと対比しても(甲一二四号証「らい医学の手引き」二八五頁)、厚生省の悪意は疑いない。

この点について、法制定の翌一九五四(昭和二九)年、WHOは、何ら解放について規定していない九か国の中に日本を含め、法的保護がなければ患者は当局の施策のまま、無制限に隔離されるかもしれないと警告した(甲一七号証「近代らい法規の展望」四五頁)。

また、一九七〇(昭和四五)年、患者の社会復帰に努力していた栗生楽泉園のケースワーカーであった松村譲氏は、右WHOを引用しつつ同法を批判している(甲一二四号証二八四頁)。これは、当時においても、退所規定が明定されていないことが、社会復帰の妨げになっていたことを端的に示すものである。

仮に、法の運用で退所が認められるとしても、その後の治療やフォローアップにふれていないことも問題であり(甲二四号証一三七頁)、社会復帰の阻害要因となった。

5 「強制」の意味

法六条が一項で勧奨、二項で入所命令を定めていることから、三項による入所のみが「強制」入所であると厚生省は理解している。つまり、物理的・有形的な方法による隔離のみが強制であり、社会的・心理的な方法による隔離は、すべて患者の自発的意思に基づくものであるとの立場である。「強制」を非常に限定的に理解するわけである。

この点は、厚生省見直し検討会(第五回)において、決着済みである。すなわち、厚生省の元次官であった幸田委員も含めてすべての委員が社会的・心理的な方法によるものも、強制隔離だと理解すべきであるとした(乙一八三号証の三・九頁以下)。

吉永委員が「やはり、治療的にも、生活的にも、そういう社会的な圧迫という面からいっても、それしか選択の余地がなかったということを我々は強制というふうに普通理解しますので、やはり我々が使ってきたところにあわせていくべき…我々がしてきたことというのをきちんと、我々が生活の中で使われている言葉で記すべき」であるとまとめている(一三頁)。言葉は柔らかいが、厚生省のご都合主義に対する厳しい批判となっている。

厚生省は本訴訟において、ハンセン病が治るようになった時期について厳格な定義をしてみたり、隔離の要件について法文を厳密に解釈してみたり、従来誰も使ったことがない言葉を使用しているが、同じ批判が妥当するものというべきである。

また、「強制」の意味をこのように社会的・心理的な方法を含むというふうに理解すれば、「強制」隔離がいつまで続いていたのかに関する原被告の理解の分かれ目を明らかにすることにつながる。すなわち、被告が退所・外出が自由になった主張する場合、壁・巡視・懲戒検束権の行使などといった物理的・有形的な方法を使用しなくなったことをもって、退所・外出が自由になっているに過ぎないのである。

しかしながら、社会的・心理的な方法による隔離は、その後も続いていたのである。あからさまな暴力・有形力を行使しなくなったのは、社会的・心理的な強制によりその必要がなくなったからに過ぎない。すなわち、社会的・心理的な「見えない壁」が入所者の社会復帰の妨げとして立ちはだかってきたのである。

6 福祉に関する規定の機能

新法はまことに貧弱ながら福祉に関する規定を導入した。その位置づけであるが、一九五八(昭和三三)年の第七回国際らい学会議(東京)において、小沢龍医務局長が「収容促進のため」の施策に過ぎないことを認めている(甲一号証一九八頁)。

7 新法の脆弱性

厚生省は、全患協の法改正運動を押さえ込むために、政府案を提出して、かろうじて国会の承認をとりつけたが、立法を基礎づける事実の脆弱性ゆえに、参議院厚生委員会により「近き将来、本法の改正を期する」との付帯決議が付された(甲一号証一八六頁)。

これは新法を基礎づける立法事実の脆弱性に対する立法者の不安の現れに他ならない。厚生省及び国会は、近き将来における改正を期して、法成立後も立法事実ならびにその改正の必要性について、調査検討を義務づけられていたというべきである。

ところが、厚生省及び国会は、法廃止まで四四年も、この調査検討を怠ったものである。

八 被告の主張に対する反論
1 らい予防法の死文化

なお、被告は、昭和二六年前後において、「人権意識の高まりとともに、療養所内の処遇の改善が順次行われるとともに、物理的な強制力を用いた強制収容も事実上行われなくなり、らい予防法が死文化したとも評価できるような状況となった」(被告準備書面一一二頁)と主張する。
しかし、二八年闘争以前の全国の園の状況は、既に詳論したように、未だ大部屋に一〇名前後が居住させれていたほか、患者による泊まり込みの病棟看護、患者による不自由者棟における不自由者看護、断種・堕胎などが行われており、患者らの処遇は戦前と全く同様であったことは既に述べたとおりである。
また、原告番号九番の証言からも明らかとおり、警察権力による山狩りの収容に代表される、「第二次無らい県運動」と称すべき物理的強制を伴った強制収容政策が継続されていたのである。昭和三〇年、四〇年まで強制収容が行われていたことは、らい予防法見直し検討会にて議論されているとおりである。
このように、らい予防法が死文化していないからこそ、全患協は、前述のように、身を挺して「二八年闘争」を展開したものであって、「昭和二六年前後において既に処遇改善され、物理的強制もなくなり、らい予防法が死文化していた」などとの被告の主張は、何らの根拠なく事実を歪曲するものに他ならない。

2 隔離を正当化する医学的知見は存在しない

被告は、準備書面「第二 ハンセン病対策の変遷」の部分において、ハンセン病の「感染経路」、「感染・発病」、「予後・治癒」について様々な文献を引用している(同書面一九頁~三九頁)。これはハンセン病の伝染力及び予後の悪さを強調して、絶対隔離絶滅政策、いわば「日本型」隔離政策を正当化しようとする趣旨と思われるが、いずれの文献からも日本のハンセン病政策を正当化できない。被告準備書面の六八頁~七〇頁(「癩予防ニ関スル件」当時の知見)、同一三四頁~一四〇頁(「らい予防法」制定当時の知見)の部分に引用されている文献を含めて、ここで検討する。

(一) 感染経路について

被告は、ハンセン病の感染経路が必ずしも明らかになっていないとして、乙二五号証、乙二八号証、甲七号証等を挙げている。
仮にこれらの文献で、日本のハンセン病政策を正当化しようと考えているのであれば、被告の主張は全くの失当である。
けだし、感染経路が明らかになっていないことは、ハンセン病伝染予防の目的で患者を隔離することの必要性が曖昧であったことを示すものに他ならないからである。
なお、被告は、「癩予防ニ関スル件」当時の知見として、乙一二〇号証「北里柴三郎 破傷風菌論」を挙げている。
「我々衛生学者より見れば一種の伝染病なるが故に、之が取扱方法もまた結核と同じく伝染病の取扱をなさざるべからず。然れども結核のごとく唾液及び喀痰中に細菌存在するものにあらざれど、癩病結節或いは潰瘍中には該菌存在するを以て、衣服・手拭い・食器などの共用を厳禁せざるべからず。」
いかにもハンセン病の伝染力が強いと言わんばかりであるが、この文献の無意味さは、以下の文章を見れば明らかである。
「癩病菌を採り人体に接種すれば直ちに之に感染するものにして~」「之を動物に試みるに、食物により伝染せしむることを得べく、且つ接種すれば尤もよく感染す」
この文章は、一八九六(明治二九)年に書かれたものであると思われるが、当時の知見としても誤りであることはあまりにも明白である。ハンセンがらい菌を発見した当時、その師であるダニエルセンとの間には伝染病か遺伝病かの論争があり、ダニエルセンはらい患者の結節の人体への接種を何度も試みているが、誰にも伝染はしなかった(甲一号証九六頁)。またらい菌の培養、動物への接種も、らい菌発見から百年以上成功しないままであったことはよく知られている(同号証四四〇頁)。
要するに、北里柴三郎は、らい菌の特徴について全く理解しないまま、被告が引用する文章を書いていると云わざるを得ないのであり、この文章の内容がナンセンスであることは、ハンセン病の専門家であれば、当時から十分に分かっていたものである。

(二) 感染・発症について

(1) 類結核型(T型)の感染力

被告は、一般には非伝染性とされている類結核型(T型)からの感染も否定されていないとして、乙九八号証、乙一一二号証、乙九七号証、乙二四号証等を挙げる。
しかし例えば乙九七号証、乙二四号証は、類結核型(あるいは神経型)が感染源となると論じているわけではなく、単に、類結核型から境界群、あるいは結節型への病型移行が見られる例があると論じているに過ぎない。
乙一一二号証は、「感染源となったと推定されるものを病型別にみると、らい腫型を感染源とするものからの発病率は一五・七%で、非らい腫型のそれからのものは二・九%であった」と論ずるが、ここでいう「非らい種型」が「類結核型」のみを意味しているのか、あるいは境界型を含むのかは不明である。
乙九七号証は、類結核型からの感染の可能性について両説紹介した後、結論として「T型が全癩患者の九〇%も占めている癩の濃厚地で、長期間以前として癩の高い罹病率を維持しているような地域があるということは、T型の反応期は、その割合は不明だが、伝染性になると思われる」というWHOの考え方を紹介している。
これらの文献から言えることは、類結核型の感染性は極めて小さく、反応期あるいは境界型や結節型に病型移行した際に、伝染性になる可能性があるということに過ぎない。
問題は、そのようなわずかな可能性まで考えて、T型を隔離の対象とするか否かという問題である。それを肯定するのであれば、「ハンセン病患者は全て伝染の危険がある」という絶対隔離に行き着かざるを得ない。そのような考え方は国際的には否定されていたことは、本準備書面で紹介してきた国際らい会議などの見解から明らかである。感染源になるかどうか不明なものまで隔離の対象とするような絶対隔離が許されないことは、隔離される側の人権を考えれば当然の帰結である。

(2) 幼児への感染

被告は、ハンセン病は幼児における濃厚接触による感染の可能性が高いとされていたとして、乙二六号証、乙二五号証、乙二四号証、乙一〇八号証等を挙げている。
歴史的に、乳幼児に対する家庭内感染は問題になってきたことは確かである。しかしそれをもって、絶対隔離が正当化されるものではない。
被告の挙げている乙二六号証は、「例えばロジャースはインドで癩親と共に生活した小児の発病率は三七~四四%であったが、隔離した場合のそれは〇・五%に過ぎなかったと報じ~」とし、乙二五号証は「フィリピンのルイスのいうところによると、癩患者の子どもでその家庭に育った子どものうち四二%は癩になったが、初生児のうちに早く両親から隔離したものでは癩になったのは僅かに一・五%に止まったという。これは癩が初生児に感染しやすい統計の一つであり、伝染を予防する方法を示している。」と論じている。これはハンセン病の親と、幼児とを分離することを推奨しているのであって、この「分離」は、乳幼児の保育環境の整備さえ行えば可能なことなのである。
また、被告は、「第一回WHOらい専門委員会報告」(乙二二号証)が、乳幼児に対するらい予防は「隔離という方法で患者を移すとか、子どもの方を患者から離すとかすべきである」と述べていることを挙げる。しかし、この文章は、「ある国では、らいの親から生まれた子どもは予防施設や、それに類似した施設に移している」と続くのであって、患者隔離を推奨するものでないことは明らかである。
いずれにせよ、家庭内に乳幼児が入るかどうかを問わず隔離の対象とする日本のハンセン病政策を正当化するものでないことは明らかである。

(3) 成人への感染例

被告は、「成人への感染や夫婦間の感染も怖れられていた」として、医療従事者への感染例、夫婦間感染例、及び外国における大流行の例についての書証を提出している。

  1. 医療従事者への感染例
    外国における医療従事者への感染例として挙げられているのは、乙九六号証、乙一一三号証である。
    乙九六号証については、訳文から理解できるのは、九〇七人の伝道師の中で一二人のハンセン病発症例の報告があるというだけのことであり、この一二人がハンセン病患者とどのような接触があったかは不明と言うほかない。 乙一一三号証については、著者の犀川証人自身が、療養所で感染したのかどうかについては決定する根拠がない、と証言している(第二回調書六六項及び三五七項)。
    日本での療養所職員の感染例として挙げられているのは、乙一四四号証、乙一三一号証、乙九七号証である。このうち医学論文としての体を為しているのは乙九七号証のみであるが、その内容は療養所に勤務しているうちに光田反応が陽転した看護婦がいたと言うに過ぎない。これを「ハンセン病に罹患した」と引用する被告の準備書面は、事実を歪曲するものである。乙一四四号証及び乙一三一号証は、いずれも随筆である。確かに、療養所職員が発病したという内容を含んでいることは確かであるが、その職員が療養所で感染したかどうかは不明というしかない。
    仮に、療養所での感染例が数例あったとしても、それがハンセン病の伝染力の強さの根拠になるわけではない。一般社会から隔離せねばならないほどの強い伝染力を持つ疾患であれば、療養所職員の感染は後を絶たないはずである。現に結核は、看護人に感染しやすいことが指摘されている(甲二四四号証「内科書中巻」三七二頁以下)。これに対して、少なくとも日本の療養所においては療養所職員の感染例がないことがむしろ常識とされていた(甲六二号証)。
    いかにハンセン病の伝染力が微弱であるかの証左であり、このことは仮に一、二例の感染性があったとしても揺らぐものではない。
  2. 夫婦間感染
    被告は、夫婦間感染を示す文献として、乙二五号証及び乙二六号証を挙げる。
    乙二五号証では、調査した中に、夫婦間感染例が八例あると述べるが、これは調査対象者の〇・五八%に過ぎない。また乙二六号証の趣旨は、「親子・同胞間の感染がしばしば見られるのに対して、最も接触が多い夫婦間の感染が少ないことが遺伝説ないし素因説の根拠であるが、それは小児が成人に比較して感染しやすいからに他ならない」というところにある。いずれにしても夫婦間感染が稀であることを示す文献である。
    このようなわずかの夫婦間感染が、隔離政策を正当化するものだと考えるとすれば、絶対隔離絶滅政策を策定・遂行してきた厚生省の体質は未だに変わっていないと考えるほかない。最も濃厚な接触が行われる夫婦間の感染がこれだけ稀であれば、そのほかの一般公衆に対する伝染の可能性は限りなくゼロに近いと考えるのが普通である。
    夫婦間の問題であれば、ハンセン病と診断した医師がその配偶者に感染の危険がゼロではないことを教えればいいだけである。すなわち隔離という手段は不要であり、衛生教育で充分解決可能である。そのうえでどのような夫婦の関係を持つかは、配偶者の自己決定に委ねるべきことであって、政策を以て敢えて隔離し、引き離すようなことではない。
  3. 外国の大流行例
    ここで被告が挙げる書証は甲一三号証と、乙八〇号証である。甲一三号証には、ハワイ及びナウルでの流行例、乙八〇号証にはメーメル地方での流行例が挙げられている。
    確かに、このような流行があったことは歴史事実である。しかし、日本のハンセン病政策を考える場合、「日本においてどうであったか」ということをまず考えるべきである。日本においては、一九〇七年の「癩予防ニ関スル件」に至るまで予防対策が採られていなかったにもかかわらず、このような大流行がなかったこと、当時から日本におけるハンセン病は伝染病と言えるほどの伝染性をもっていなかったことは、甲一三号証の著者である和泉証人が述べるとおりである(甲二一号証「和泉意見書」四頁)
    また被告は、甲一三号証で「明治三三年の全国調査で全国の患者総数三万三三五九人、らい関係家族九九万五三〇〇人であることが明らかになり、近い将来一〇〇万人近い患者が出ることが予測された」とされていることを「癩予防ニ関スル件」制定当時の事情として挙げる。この予測をしたのは光田健輔であるが、予測される「一〇〇万人近い患者」というのが「らい関係家族九九万五三〇〇人」のことを意味しているのは明らかであり、極めて杜撰な予測と言うほかない。しかもこの予測が全く的はずれなものであったことは、日本のハンセン病患者が、「癩予防ニ関スル件」制定以前からほぼ直線的に減少している(甲二一号証六頁及び図4)ことにはっきりと示されている。
    被告が指摘するような外国の大流行例が、日本のハンセン病対策、とりわけ一九二五年内務省衛生局長通牒以降の絶対隔離政策を正当化しないことは明らかである。

(三) 治療・予後について

(1) 予後について

被告は、予防の必要性を主張するために、ハンセン病の予後が悪いことを強調している。その趣旨で被告が引用するのが乙二八号証、乙一一六号証、甲七号証を挙げている。
乙二八号証は「結節型は約一〇年、神経型は約二〇年の経過の後に死亡する。発病から死亡までの平均日数は一一年四ヶ月であり、特に急激に増悪して死に至ることもあり、数年の経過あるいは病勢停止をみることもある」とされている。昭和一〇年代の療養所内の統計であると考えられるが、ハンセン病患者にどのような医療が施され、どういった原因で死亡するのかについては問題にされていない。
和泉証人は、この当時の療養所内における在園者の死亡原因について、患者作業によって手足に傷を負い、そこからの感染症で死亡する例、あるいは感染症を繰り返すことによる腎不全で死亡する例、さらには重症の患者を他の患者が介護することによる二次感染で死亡する例を挙げている。また療養所の居住環境の悪さの中で、結核によって死亡する例が非常に多かったことも指摘している(第七回口頭弁論調書和泉証言二四三~二四七項)。要するに、ハンセン病そのものでの死亡例よりも、療養所内における患者作業あるいは住環境の劣悪さが影響しての死亡例の方が圧倒的に多いのであり、この二八号証をもってハンセン病の予後が悪かったことを強調するのは全く無意味である。
乙一一六号証はまさにその和泉証言を裏付けるものと言える。昭和六年~昭和二三年における長島愛生園において、最も多い死亡原因は結核であって、ハンセン病そのものによる死亡は、喉頭のらい腫病変による喉頭狭窄よるものまで加えてわずかに三・六%に過ぎないのである。 この乙一一六号証でも明らかなとおり、結核は当時の代表的な致死的疾患であった。ハンセン病と結核とは、慢性の感染症という意味で共通するが、最終準備書面・責任篇で詳細に述べるとおり、その予後は結核の方が遙かに深刻だったのである。
甲七号証は、ハンセン病の予後の悪さを強調しているようにも読めるが、それは「確実な治療薬がない時代」、すなわちスルフォン剤登場以前のことを述べている。なおスルフォン剤登場以前においても自然治癒例が決して珍しいものでなかったことについては、甲六四号証、甲五〇号証、甲五一号証に示されているとおりである。

(2) 治療について

被告は、プロミンなどのスルフォン剤の治療効果に限界があったことを示すものとして、乙二五号証、乙二六号証、乙二八号証を挙げている。
被告は、乙二五号証の「プロミンによってよく軽快はするが、未だ完治と断定するまでに至っているものはない」という文章を引用するが、その後は「しかしだいたいにおいて非常によい結果を得ている」と続いている。実際にこの文献の一〇〇頁に示されているデータを見れば、一〇七例のうち効果がなかったとされているのは三・二%に過ぎない。しかもそのほとんどは神経・斑紋型の例であり、結節型についてはほぼ九九%効果があるという極めて目覚ましいものである。
乙二六号証にはプロミンの投与により、神経らいが増悪した例、結節らい及び斑紋らいに対しても「稍効」にとどまるとされた例、効果が不明とされた例が記載されている。しかしこの研究の結論は、二〇〇頁の「プロミンは結節・斑紋等の皮膚症状に対しては大風子油が遠く及ばないほどの卓効を示すが、神経症状に対しては殆ど効果を示さない。これに対しプロミゾールは結節・斑紋に著効を示すとともに神経症状にもある程度有効である。」という文章なのである。
すなわち、いずれもプロミンの、結節癩(らい腫らい型)に対する卓効を示すものである。 乙二八号証「内科書中巻」(昭和三一年)は、プロミンの薬効を紹介しつつ「確実な治療法は未だ無い」としている。しかし甲二四四号証は同じ「内科書中巻」の昭和四一年版であるが、結核についても以下のように述べる。
「現在の抗結核薬は、制菌的であって殺菌的とは言い難いのみならず、病巣によっては薬剤が結核菌と接触しがたい場合や、その効力が減ぜられる場合があり、抗結核薬には自ずからその効果に限界がある。」(四三〇頁)
「病巣は石灰化してもその中の結核菌はなお生存しうるので、病理学的治癒を診定することは困難である。したがって治癒と称するのは臨床的治癒であって、しかも、これも不確実であって、再発がないことは期しがたい。」(四五五頁) この「内科書中巻」が確実な治療法として記載するのを待っていては、隔離政策は未来永劫変更することはできない。

(3) 小括

以上のとおり、被告が準備書面で引用する医学文献に、日本の絶対隔離絶滅政策を正当化するような知見は含まれていない。とりわけスルフォン剤登場以降、その治療効果が顕著なものと認められていたことは、被告が引用する文献からも明らかであり、絶対隔離絶滅政策を変更しなかった被告の誤りは明白である。

3 「ハンセン病に対する社会認識」を政策の根拠とする誤り

被告は、準備書面において、ハンセン病が古くから差別・偏見の対象となっていたことについて様々な文献を引き、「ハンセン病は、一般に感染力は弱いといわれてはいるものの、その感染力とは別に、その病気の持つ特殊性によって恐ろしい病であると社会的には認識されていたのであり、このこと自体は何人も非難できない。したがって不治の時代のハンセン病につき、その感染力が弱いことをもって、予防対策の必要がなかったというのは、この病の特殊性を看過したものである。」と主張している。
この主張は、医学的知見からは日本のハンセン病政策を正当化できないことを自認したものに他ならない。そして、このような社会の差別・偏見を政策の根拠とせねばならないことこそが、日本のハンセン病対策が公衆衛生目的から懸け離れた絶対隔離絶滅政策であることを何よりも雄弁に物語っている。
第一回WHOらい専門委員会報告(乙二二号証)が指摘するとおり、「らい管理に関して政策を決定するのは、あくまで公衆の保健衛生の立場からであって、決して公衆の恐怖とか偏見から行われるのであってはならない」のである。この報告自体は一九五二年のものであるが、ここに示されているのは公衆衛生の一般論である。
本件で問われているのは、公衆がハンセン病を恐ろしいと感じることの当否ではない。そのような公衆の恐怖や偏見に基づいて政策を決定した被告の責任、さらには、公衆の恐怖や偏見を煽り、それを利用して政策を遂行した被告の責任がまさに問われているのである。

第四 WHO第二回らい専門委員会議までの知見・見解と政策の継続
(一九五三年から一九六〇年ころまで)

一 差別法廃止、社会復帰を求める見解へ

さきにみたとおり、一九五三(昭和二八)年当時、国際社会においては、ダプソンによる外来治療により、在宅外来治療を行うべきで、隔離が不要であるという見解は当然のこととして動かぬものとなっていた。これ以降、国際社会の関心は、隔離不要見解からさらに歩を進めて、差別・偏見を助長する特別法の廃止や患者の地域社会への復帰をうながすものへと進展していった。患者の人権に配慮した当然の流れである。

1 国際的な知見・政策

(一) 第六回国際らい会議(一九五三年)

第六回国際らい会議は、一九五三(昭和二八)年一〇月にマドリッドで開催された(甲一七二号証二八四頁から三一一頁)。この会議では、スルフォン剤について、「一般的に見て、全ての病型を含むらいの治療においてスルフォン剤の効力は確定的なものとなってきた」「スルフォン剤は過去一二年間の臨床実験の結果、過去における他のいかなる治療薬より効果的であるという証明がなされていることに委員会は同意している。」とされた(甲一七二号証二九三頁)。

(二) MTL国際らい会議(ラクノー会議・一九五三年)

MTL(the Mission to Lepers)の国際らい会議が、一九五三(昭和二八)年一一月、インドのラクノー市で開催された(甲一七二号証三一二頁から三二七頁)。この会議は、犀川証人が参加され、国際的知見と国内の知見の開きのあまりの大きさに当惑された会議である。

この会議では、「らいは個別的疾病ではなく、らい流行地においては一般的公衆衛生上の問題である。恐怖及び偏見のない公衆衛生の原理に基づいてらい管理政策を樹立せねばならない」というインテグレーションの基本原理が確認された(甲一七二号証三一三頁)。
そして、「特殊ならい法令は廃止され、らいも一般の公衆衛生法規における他の伝染病の線に沿って立法されることが望ましい」とされた(同三一五頁)。
また、隔離は開放性らい患者に限り、隔離は治療のための一時入所であり、軽快者は速やかに社会復帰し、外来治療の場で引き続き充分なる治療を行うこと、そのための治療所にはもちろん一般病院保健所や一般医療機関に外来治療を附設することが強調されたことは被告自身が準備書面で認めるとおりである。
社会復帰については、「社会復帰態勢は、患者が施設に入所した当時から、彼の能力、可能性、予後を判断して、開始されなければならないと云うのが本委員会の意見であった。」とし、社会復帰後についても、社会および政府は、患者を援助する必要があるとしている(同三二五頁)。

(三) WHO編「近代癩法規の展望」(一九五四年)

これはWHOが各国のハンセン病対策を調査してまとめた論文並びに提言である(甲一六号証)。
WHOは、「緒言」において、一九三一(昭和六)年の国際連盟保健機構のらい委員会が「らい治療の進歩の結果、多分に管理的、警察的な取締に基づく古い方法を、近代的知識と社会状態に即応して修正しうるよう諸規則の調整が必要である」という意見を提出したことや、一九五二年のWHOらい専門委員会も、現行の実施対策を修正する必要性を主張したことを紹介している(甲一六号証三九頁)。
また、「過去一〇年間に或る国々でとられた対策を検討すると、隔離政策がどちらかといえば自由な所では、癩は減少し、ほとんど全く消失しているのに、一方、峻烈な対策が採られたにもかかわらず癩の発生は余り又は全く変わりがないところがある」と指摘し、隔離政策に疑問を投げかけている(甲一六号証四〇頁)。

(四) ローマ会議(一九五六年)

「らい患者救済及び社会復帰に関する国際会議」すなわち、いわゆるローマ会議は、マルタ騎士修道会によって、一九五六(昭和三一)年四月一六日から一八日までの間、ローマで開催された(甲一七二号証三二八から三二九頁)。
世界五一カ国から二五〇名が参加し、日本からも藤楓協会濱野規矩雄常務理事、林芳信多磨全生園長、野島泰治大島青松園長の三名が参加した(甲一号証一八八頁)。
この会議は、「らいに感染した患者には、どのような特別法規をも 設けず、結核などの他の伝染病の患者と同様に取り扱われるべきである。従って、すべての差別的な法規は廃止されるべきである」として、すべての差別法の撤廃を勧告した。差別・偏見への対処として、啓蒙手段を注意深く講ずべきことも決議された。
また、病気の早期発見及び早期治療のための諸方法が採用されるべきこと、社会復帰の援助と奨励が決議された(甲一号証一九二頁、甲一七二号証三二九頁)。

この会議では、その名称からも明らかなように、社会復帰政策の重要性が指摘されたが、このことの意義は大きい。東京訴訟において成田証人は、「社会復帰という意味では、リハビリテーションの最も大きな目的である全人間的復権ということが私はこのとき初めて出来たと思っています。ですから、ローマ会議というのは、節目として最も重要とは言いませんが、極めて重要な会議だったと思います」と証言している(甲一〇八号証成田調書第一回・六九頁)。

(五) 第七回国際らい会議(一九五八年)

第七回国際らい会議は、一九五八(昭和三三)年一〇月一二日から一九日までの間、東京において開催された(甲二一八号証)。
治療については、第六回国際らい会議で確定的に確認されたスルフォン剤の優位が変わらないことを確認した。
患者の管理については、「癩の管理の原則は、患者の早期発見と早期治療にあることを、医学関係の人々、患者及びその家族、そして一般社会人に知らしむべきである。」として早期発見・早期治療の重要性を強調した。

予防については、「らいの予防を流行学的見地から見ると、少数の患者の感染性を除くより、多くの患者の感染性を減少させるほうが更に有効である。かかる見地から外来患者治療に必要な病院は、患者の大部分がくるのに便利な位置に置くべきであり、また適切な病院数が必要である。もし、病院が開設できなければ移動病院でも使用すべきであろう。」と述べて、外来治療の重要性を強調している(甲二一八号証五〇頁)。

そのうえで、この会議は、社会問題分科会において、「政府がいまだに強制的な隔離政策を採用しているところは、その政策を全面的に破棄するように勧奨する。」「病気に対する誤った理解に基づいて、特別ならいの法律が強制されているところでは、政府にこの法律を廃止させ、登録を行っているような疾患に対して適用されている公衆衛生の一般手段を使用するようにうながす必要がある」と決議している(同五二頁)。

(六) 第二回WHOらい専門委員会報告(一九五九年)

前述のローマ会議と同じく、この報告書は、第一〇章「法制度」において「癩は他の感染症と同じ部門に置かれ、同じように公衆保健当局によって取り扱われるべきであるという最近の諸会議の見解を当委員会は強く支持する。これらの原則と一致しない特別立法は廃棄されるべきである」と勧告している(甲一九六号証「一九六〇WHOらい専門委員会第二回報告二七頁、抄訳六頁)。

これは我が国のらい予防法の廃止を勧告していると受け止めるべき記述である。
この報告書では、「らいのキャンペーンは、究極的には一般的な保健サービスに統合されるべきである。」とし(同一三頁、抄訳二頁)、「登録患者の治療を確保する方法として・・・調査、健康教育、治療は一般病院、診療所(施薬所)、保健所でなされること」としている(乙三四号証一四頁・英文和訳(2))。
これは、らい対策を一般保健医療活動の中で行うという、インテグレーションの考え方である。

犀川証人は、本件の法廷で、本報告書について「スルフォン剤、ダプソンによって患者の伝染源を弱める、あるいはなくすことができるので、ハンセン病対策というのは特別のところ、いわゆるらい療養所というようなところで治療するものではなくて、一般公衆衛生の場で、すなわち、ハンセン病を特別な病気とするんじゃなくて、一般感染症と同じレベルで公衆衛生の場で取り扱う、いわゆるインテグレーションということが鮮明に主張されたのであります」と述べている(犀川調書第二回八一頁)。

また、東京訴訟において、成田証人は、本会議について「要するにインテグレーションということの意味は、ハンセン病の患者はどこでも誰にでもいつでも治療を受けることができるということ」、「この会議の最も重要なことは、ハンセン病が普通の病気になったということだと思います」と証言している(甲一〇八号証成田調書第一回七一頁)

(七)

以上のように、一九五三(昭和二八)年から一九六〇(昭和三五)年にかけての国際的知見及び政策も、治療薬の進歩にしたがい、隔離不要の知見をますます進展させてゆき、隔離不要、インテグレーション、社会復帰という流れを一段と押し進めていった。

2 疫学的減少の知見

法廃止時の担当課長である岩尾証人は、法を廃止すべきであった時期について、「疫学的には、社会経済状態の向上に伴いハンセン病の発病が減少することが知られており、現在の日本のように衛生水準が高くなると新たなハンセン病の感染・発病者はきわめて少なくなるといわれているが、このような知見が確立した時期はいつかについては、らい予防法見直し検討会でも検討されていない」と陳述する(乙一七二号証四頁)。

しかし、遅くとも一九五八(昭和三三)年に、このような疫学的減少の知見を厚生省が有していたことは、同年に小沢龍医務局長が第七回国際らい学会議(東京)でおこなった発表により明らかである(甲一号証一九七頁)。すなわち、同発表は、「現在の患者数は、一九〇四年の実態調査時の患者数三〇、三九三名と比較すれば、約二分の一に減少しており、更に入院患者、在宅患者いずれもが平均年齢が高年齢になっており、これらのことは日本におけるらい流行が極期を過ぎたことを示している」と認めている。

3 菌陰性者の増大とダプソン(DDS)の普及

プロミン等スルフォン剤投与の効果によって、国立療養所における菌陰性者の割合は一九四八年には約二六パーセントであったものが、一九五〇年には三七パーセント、一九五五年には七四パーセント、一九六〇年には七七パーセントと急激に増加し、圧倒的な多数を占めるようになった(甲二一九号証・長尾「国立らい療養所の現状と将来」九八頁Fig4)。
ダプソン(DDS)の有効性は、国際的には、一九四八(昭和二三)年の第五回国際らい会議から注目を浴びるようになり、一九五二(昭和二七)年の第一回WHO「らい専門委員会」では、ダプソンの治療成果を踏まえて「らい対策」の在り方が論ぜられ、種々の提案が行われた。

わが国では、これに遅れること五年の一九五三(昭和二八)年から、ダプソンの治らい効果についての研究発表が行われ

経口薬ということであれば、一九四八(昭和二三)年一一月の東医務局長の答弁のなかに出てくるプロミゾールも経口薬なのである。したがって、ダプソンの普及が諸外国に比べて遅れたから、一般在宅外来治療への取り組みが遅れたという主張は本末転倒である。療養所の医師たちにその気があれば、プロミゾールを使った一般在宅治療は十分に可能だったからである。

4 被告の主張に対する反論

(一) 再発の問題

  1. 被告は、一九五一(昭和二六)年の第二四回日本らい学会でプロミンの効果が確認されたが、同時に光田健輔らは、スルフォン剤が真にハンセン病に特効的に有効であるかは、約一〇年の経過をみる必要とあると考えており、この時点でハンセン病が「治る時代」を迎えたとは判断していなかったとし、ハンセン病が治る時代を迎えたのは、我が国でスルフォン剤の治験を始めた昭和二一年から一〇年を経過した昭和三一年以降ということになると主張している。
  2. 一〇年後再発の可能性が指摘されるからと言って、現在軽快している者を隔離することが正当化される道理はない。再発すればそのときに適切な治療をすればよいだけの話である。再発はあくまで臨床医学上の問題であって、隔離を正当化する理由にはならないのである。
    そして、初発の時と異なり、再発の時には、患者は早期に再発に気がつき、早期の治療を受けることも可能である。
    また、再発という意味では、真に再発の問題が解決されたのは一九八一年の多剤併用療法からであるが、だからと言って、ハンセン病の国際的な知見がこのときまで隔離を正当としていたものではない。
  3. 被告は、ラクノー会議において、再発の可能性に関して、スルフォン剤の真価は一〇年経過しないと分からないと指摘する学者がいたということを紹介した犀川一夫証人著の「ハンセン病政策の変遷」を引用している。
    しかし、犀川証人は、本件の法廷で、前記記述については、光田か ら「お前はプロミンが根治薬と決めていいのかを、そのミュアーやコクランに聞いてこいという指示を受けましたので、個人的に聞いたことでありまして、その学会でそういうことが議論されたのではございません。」と証言している(犀川調書第二回・一一七項)。
    現に本会議の報告書中には、そうした議論は紹介されていない。
  4. そもそも、再発を考慮すると一〇年経過をみなければ新薬の真価は分からないということは、スルフォン剤が再発さえ防ぐような「根治薬かどうかという純粋な、治療薬の学問的な問題(甲一〇一犀川調書第一回二四六項)」であって、隔離の要否の判断とは関係がない。また、一〇年間の観察を要するというのは、ある意味ではどのような疾病にも共通する事柄であって、観察の必要性の問題と隔離の必要性は全く別の問題である(甲第一〇八号証・成田調書第一回五六頁から五八頁、同調書第二回八九頁)。
    「もしかしたら一〇年後に再発するかもしれないから、今は軽快しているけれども隔離を続ける」などということが正当化されるはずがないことは明らかである。ハンセン病は再発すれば早期に自覚症状が出るから、再発した場合には、その時点でそれなりの治療を行えばよいだけのことであり、再発の可能性は隔離の根拠とはなりえない(和泉調書第一回二〇〇項)。

(二) 難治らいの問題

難治らいの問題も同様の理由で隔離を正当化する根拠とはならない。

一般的に言って、薬というものは全ての患者に効くということはないので、どの病気のどの薬にも難治ケースということはあり、難治ケースがあるからといって、隔離が肯定されることはない。人道的見地からは、長期の治療が必要になればなるほど、隔離をしてはならないということになる(和泉調書第一回二〇一項から二〇二項)。

二 全員隔離政策の完成とその継続
1 全員隔離政策の完成

戦前の無らい県運動、そして戦後の第二次無らい県運動の展開により、全国の患者数全体に占める在所患者の割合は、次のように目に見えて増加の途をたどった。

患者総数 在所患者
明治三九年 二万三八一九人 二二六人 一%
大正一四年 一万五三五一人 二一七六人 一四%
昭和 五年 一万四二六一人 三二六一人 二三%
昭和一五年 一万一三二六人 八八五五人 七八%
昭和三〇年 一万二一六九人 一一〇五七人 九一%

(以上、甲一二〇号証の3 「我が国のハンセン病患者数の推移」)

このように、一九五五(昭和三〇)年には、実に九割以上の患者が収容されることになった。これは、「らいの根絶策」の前段である患者の全員隔離政策がほぼ完成したことを端的に示すものである。この事実がひとつの画期をなすことは、一九九五(平成七)年の日本らい学会見解でも指摘されている(甲一号証三四五頁最終行)。

2 終生隔離政策に基づく軽快退所制限

(一) 菌陰性者の増大と終生隔離政策との相克

新薬プロミンの登場による「治る時代」の到来を迎え、国立療養所における菌陰性者の割合は一九四八(昭和二三)年には約二六パーセントであったものが、一九五〇(昭和二五)年には三七パーセント、一九五五(昭和三〇)年には七四パーセントと急激に増加し、圧倒的な多数を占めるようになった(甲二一九号証・長尾「国立らい療養所の現状と将来」九八頁)。こうして治癒した患者らは、当然のごとく社会復帰を強く希望した。本来であれば、これら七四パーセントの患者らは退所できて当然であった。

しかし、こうした事態は終身隔離政策と真っ向から矛盾するものであり、同政策にかたくなまでに固執する厚生省はこれを何とか制限しようと謀った。

(二) 軽快退所制限

(1) 軽快退所に対する国のスタンス

厚生省は、一九五七(昭和三二)年に形式的な退所基準を作成したものの、その内容はむしろ退所基準と言うより、これを制限する「退所制限基準」と評すべきものであった。

厚生省は、それを各療養所に具体的に指示することはなかったし、積極的に在園者に説明して軽快退所を勧めるようなことはしなかった。

終身隔離政策を貫こうとして、新法に退所基準を明記しなかった厚生省は、この「軽快退所基準」さえも全く公けにしなかったのである。同基準は患者らには「厳秘」にされ、「積極的に患者の退所を行わせる意図を含むものではない」とわざわざ注記されていた。このことが厚生省の退所に対する消極的スタンスを如実に物語っている。

(2) 軽快退所基準の内容の欺瞞性

軽快退所基準の内容が実は、「軽快退所制限基準」にほかならないことを次に検討する。
「準則」では、先ず斑紋型及び神経型の退所基準について、こう定める。

  • 病状固定を判定するためには、少なくとも一年以上の期間について観察すること
  • 皮疹が消褪してから一年以上当該部位における知覚マヒが拡大しないこと
  • (ロ)の知覚マヒの拡大がなくなってから、二月に一回ずつ皮疹の消褪した部位のなるべく多数ヶ所からスミヤーを作って検鏡し3回以上ことごとく菌陰性
  • 大耳、正中、尺骨、橈骨、後脛骨、各神経及びその他の皮膚神経の腫脹が著明でないこと
  • 光田氏反応 一〇×一〇ミリメートル以上であること

その厳しさは、単にその判定までの期間が「一年以上」という長期間に及ぶだけでなく、頻回の精密検査なしには退所基準に該当するか否かの最終判断が下されないという点にも存する。
さらに、この基準では、その判断を受ける入所者の側としても、その趣旨を理解したうえで、再三再四受診しない限り、充足されないということにもつながるのであり、入所者に基準自体を公表して周知徹底させることが不可欠ということになる。ところが、この基準は前述のように厳秘とされているのであって、これでは、退所のための基準たりうるはずがないのである。

その余りの厳しさに大谷氏も「厳格きわまりないもの」と批判してさえいる(甲一号証「らい予防法廃止の歴史」二二〇頁)。

この一九五六(昭和三一)年五月という時期は、第一回WHO専門委員会報告から四年後であり、マルタ騎士修道会によるローマ国際会議の直後である。世界の潮流は、「差別待遇的な諸法律の撤廃」「在宅治療への転換」「社会復帰への援助の必要性」に向けて大きく動き出しており、少なくとも閉鎖的(T型)患者についての隔離の必要性は、医学的にも社会的にも全面的に否定されているという時代に、かくも厳格な退所基準を定立するということは、「T型についても、あくまでも退所させない」、「退所は例外的にしか許さない」という従来の方針を頑迷に堅持することを示したものと言う外はない。
しかも、右「準則」には、「その他(希望事項)」として次の二項目が退所基準として規定されている。

第一が、顔面、四肢等に著しい畸形、症状を残さないこと

第二が、退所後、家族又は隣人との不調和のおそれがないこと

である。

多くの入所者が、患者作業による後遺症と長期の隔離による家族との断絶にさらされている。その入所者の退所基準として、かかる条項が規定されていること自体が、本「準則」の本質をまさに端的に表しているという外はない。しかも、「顔面等に症状を残さないこと」という要件は全く意味のない不合理な規定であって、まさに退所させないための「準則」である。

原告本人尋問において複数の原告が証言したとおり、退所を希望しながら、この条項の故に手指の変形や喪失を理由に退所を拒否された入所者は少なくないのである。

以上のように、「軽快退所」は被告国が積極的な政策として進めたものではなく、非公然に容認されたものにすぎず、その実態も退所できたのはごく一部の限られた者のみであって、「開放政策」どころか被告国の絶対的強制隔離政策を逆に裏付けるものというべきである。

(3) 見直し検討会での議論

そして、以上の軽快退所に対する国のスタンス及び基準の意味については、らい予防法見直し検討会においても確認された。

つまり、第七回らい予防法見直し検討会において、大谷藤郎氏はこの点を率直に認め(乙一八三号証の7「らい予防法見直し検討会議事録」三一頁)、「軽快対処基準とか何とかいうのは確かにあったんだけれども、これは本当に患者さんに恩きせがましく~そういうとお医者さん方には悪いけれども、実態というのは甚だあれであったので、これだけみると、いかにしてあったかのごとく出て来るんだけれども、そこのところは、私個人的には感情的に多少引っかかるところがあるんですよね。設けていったことは事実なんだけれども、決して積極的にしなかった訳で、園によって、お医者さんによっても違っていた訳なんです。」と述べている。

続けて、「結局、全患協とか、世界の進歩とかいうことがあったために、そのために軽快対処基準みたいなものがつくられた訳なんですよね。だから、軽快対処に先にありきではなかった訳なので、全患協を鎮静させたり、国際的な摩擦を多少~心恥ずかしいというような点で、こういうようなのが真相なんですね。」と述べている。

さらに、「肝心の自分の家へ帰して職業に就かせるというようなことは結局やられなかった。一部の人だけに恣意的に、統治のために使われていたというのが真相なんですよね。」とさえ述べた。
ちなみに、大谷氏のこの発言に対して、厚生省関係者はおろか現役の療養所所長からも何らの異議は出されていない。

以上から明らかなとおり、軽快退所基準の作成は、被告国の絶対隔離政策を何ら変更するものではなく、むしろその政策を正当化するものでしかなかったことが明らかである。

(4) 軽快退所制限の結果

厚生省が策定しようとした「軽快退所基準」の実体が軽快制限規定に他ならなかったことは、その結果が端的に証明している。

すなわち、軽快退所者数は同基準策定作業の四年後である一九六〇(昭和三五)年をピークに減り始め、法廃止までの間に軽快退所できたものは二〇〇〇人に満たない。これは、全国の療養所に眠る遺骨の数が二万三〇〇〇柱にのぼること(岩尾第二回四八〇項)と対比して、ほとんど退所することがなかったと評するほかない数字である(甲三二号証、岩尾第二回四六八項、四七七項)。

3 社会復帰政策の懈怠

新法成立時に参議院厚生委員会で付された附帯決議には「退所者に対する厚生福祉制度を確立し、厚生資金至急の途を講ずすること」と定められていた。しかしながら、終身隔離政策に固執する厚生省は、右附帯決議にしたがい社会復帰支援策を充実させることには消極的であった。

(一) 貧弱な社会復帰支援策

一九五七(昭和三二)年五月一七日、衆議院社労委で、ハンセン病の社会復帰問題が取り上げられ、厚生省は「予防法改正の際、付帯決議として退所者に対する厚生福祉制度を確立し、厚生資金支給の道を講ずるとあったが、その趣旨がなぜ実行されないのか」と追求された。これに対し、中垣政務次官は努力の足りない点を認め、「昭和三三年度は退所者に対する厚生福祉制度の確立を努力したい」と回答した(甲三号証「全患協運動史」一三八頁)。
こうして、重い腰を上げて被告国が創設した社会復帰支援策は、以下述べる様に、様々な意味において極めて不十分なものでしかなかった。
一九五八(昭和三三)年から開始された更生資金貸付は(1)生業資金、(2)支度資金、(3)技能修得資金の三つに分かれている(乙四一号証「世帯更生資金貸付運営要領について」)。それぞれ限度額は(1)五万円(一回限り)、(2)一万五〇〇〇円(一回限り)、(3)月額一五〇〇円(原則六ヶ月最高二年)であり、五年、三年、三年以内に償還することとされている。
この点、総務庁「家計調査年報」によれば、一九六〇(昭和三五)年当時の勤労者世帯一ヶ月の家計総額全国平均は、五万九六五三円であるから、かかる金額では、一か月の家計にも満たないのであって、いかに不十分か明らかである。
しかも、右の金額は限度額であって、常に限度額一杯の貸付が受けられるわけではなかった(なぜならば、乙三八号証の一、二には同制度の一九六〇(昭和三五)年の精算額が記載されているが、これによると、「生業資金」は、一一人に対し合計三七万円、「支度資金」は、三人に対し三万円しか支給されておらず、一人あたりに換算すると、前述の限度額に満たないからである。)
さらに、貸付要件として、「軽快退所者であり、所得が少ないため僅少な出費等によって生活を脅かされるおそれのある者、自立更生に必要な資金の融資をほかから受けることが困難な者」とされるとともに、原則として独立の生計を営む保証人が一名以上必要とされた。
しかしながら、「軽快退所者であり」という要件では、要するに、退所前には貸付を受けることができないわけであり、社会復帰の準備としては使用できないのであって極めて不合理な規定である。くわえて、社会復帰者は親族と断絶していることが多く、しかも自立更生に必要な融資を受けることが困難であるからこそ貸付を希望しているにもかかわらず、保証人を要求することは極めて困難を強いることになる。
以上のとおり、極めて低廉な金額であるとともに、極めて不合理かつ厳格な貸付要件では、隔離され社会との交流の途絶えた患者に対する社会復帰の支援としては到底十分なものとはいえない。
事実、制度の利用は極端に少なく、一九六二(昭和三七)年の一七件が最大であった(甲三号証「全患協運動史」一三八頁)。

4 つくりだされた差別・偏見とその放置

患者らに対する差別偏見は、とりわけ一九三一年癩予防法制定後のすべての国民を巻き込んだ無らい県運動の全国的展開によって日本社会の隅々まで国民諸階層の意識深く根付かせられた。

新らい予防法は、こうしたハンセン病患者に対する差別偏見を取り除くどころか、旧法の隔離思想を引き継ぐことによりこれをかえって固定し、強化するものとなったのである。

こうした差別偏見は、単に被告国が消極的に解消策をとらずに放置し続けたというだけでなく、らい予防法のもとで強制隔離政策を継続し続けたこと、すなわち、患者らを療養所に強制隔離されるべき存在として差別的に扱い続けたことにより、国が創り出し、そして増幅していったものにほかならない。

(一) 強制収容に伴う消毒

戦後のハンセン病患者らの人権闘争とらい予防法反対闘争にもかかわらず、患者に対しては前記のとおり「勧奨」に名を借りた強制収容及び、次のように差別的な消毒事件もあった。

一九五四(昭和二九)年一月二七日、長島愛生園に入所するために大阪駅からある患者が出発した後、見送りに来た娘に駅員が消毒薬を浴びせかけ、患者の立っていたところすべてを消毒した。患者の家には警官と白衣の係員が戸をこじ開けて押し入り、手当たり次第消毒し、両隣の隣家も消毒した。そればかりかメガホンで付近に消毒を呼びかけたため、家の前は黒山の人だかりとなってしまった(乙一〇九号証「全患協ニュース縮刷版1」一二六頁)。

また、一九六一(昭和三六)年二月二一日には、国鉄鹿児島本線の列車に無賃乗車していた浮浪者風の男を駅員がハンセン病患者と誤信し、当該車両の乗客を他の車両に写して大々的な消毒を行った。これは、「きたない浮浪者=ハンセン病患者」という偏見が根強く残っていたことを示しているとともに、戦前からの消毒処置方法を国鉄当局が改めずに継続していたことを示している(甲三号証「全患協運動史」一七六頁)。

(二) 藤本事件

一九五二(昭和二七)年六月、熊本県下で起きた殺人事件の容疑者としてハンセン病患者藤本松夫が逮捕された。容疑を争ったものの、一九五三(昭和二八)年八月、熊本地裁出張裁判で死刑判決を言い渡された。

その後、控訴審(一九五四年一二月)、上告審(一九五七年八月)ともに棄却となったが、三度の再審請求を行った。

全患協や支援者が数回の現地調査を行い無実の証拠を積み重ねていた矢先、処刑は再審申立を却下する前に押印され、遺書を書く時間も与えられずに、しかも家族にも本人にも予告なしに、一九六二(昭和三七)年九月一四日、死刑が執行された(甲三号証「全患協運動史」六七頁)。

この事件では、捜査当局がハンセン病感染のおそれと偏見から容疑者取り調べを公平かつ十分に行わず、証拠物件も危険物扱いにして十分な検証をしなかったとされているうえ、公判手続も療養所内の仮法廷及び菊地医療刑務所内の特設法廷で非公開で行われた。

「裁判は刑務所内の特設法廷でひとりの傍聴人もなく、憲法の基本的人権として保証している反対尋問さえさせないで、裁判記録をあつかうにもゴム手袋をもってし、記録をめくるためには竹の箸を使用するという前近代的な態度であった。」(甲二号証「日本らい史」二四四頁)

ハンセン病患者に対する差別と偏見に満ちた捜査、裁判手続が行われたことが明らかである。

「こうしてこの事件は問題を残しつつ歴史の暗闇の中に消えていった。」(同二四四頁)。

(三) 全生園殺人事件

一九六〇(昭和三五)年一月七日夜、多磨全生園の患者が園から五〇〇メートル離れた用水掘りで絞殺死体として発見された事件が起きた。

警察は園の医師の協力の下、入所男性全員の身体検査を行い、かつ、アリバイ証明を求めた。さらに、この事件を報道した読売新聞は、「野放しのライ患者」との大見出しの下、全生園の患者らの状況を虚実取り混ぜた興味本位の記事で書きたてた。

しかも、厚生省国立療養所課はマスコミに対して、「患者が無断外出した場合、外出先がわかればただちに消毒するよう指示している。無断外出が多いといことが本当なら施設、患者に厳重注意する」とコメントして、差別偏見を解消するどころか、積極的に差別偏見を助長したのであった(甲一二二号証「一九六〇年一月一一日付け読売新聞」)。

(四) 邑久高等学校新良田教室へのお召し列車

一九五五(昭和三〇)年に長島愛生園内に邑久高校新良田分室が開校したが、全国の療養所からの生徒の移動は、普通列車に連結した特別貸切車にて行われた(甲一一〇号証「隔絶の里程」二三一頁)。

合格・進学と社会復帰への希望に胸をふくらませて進学してきた青年たちは、「貨物列車に繋がれたボロ客車に乗せられ、貨物列車のダイヤのため操車場に数時間も止められ、疲れ果てて愛生園にたどりついた。」(甲三号証「全患協運動史」一七六頁)。

しかも、岡山駅につくと、「愛生園の職員や、駅員などもまじって二〇人ぐらいが、われわれを出迎えてくれたのです。そのいでたちに驚かされました。みんな、白い帽子に白マスク、長靴をはいて、白い予防着です。それでわれわれの目の前で、いっせいに消毒を始めたんです。・・・クレゾール液か何かを、噴霧器みたいなものでまいて、徹底的に消毒して見せました。」(甲二二六号証「近代日本のハンセン病と子どもたち・考」七三頁)という状況であった。

このように、入学前に非情な差別・偏見の現実を知らされるとともに、「新良田教室」への偏見・差別を国自らの手で積極的に助長したものに他ならないのである。

かかるお召し列車は、実に一九六三(昭和三八)年まで続けられ(甲二二三号証「風と海の中」二五六頁)、世間の患者に対する差別・偏見を助長し続けた。

(五) らい予防法の下で起こり続けた差別事件

右のように旧法下でつくりあげられた差別偏見を被告国はらい予防法の下で固定し、再生産し増幅し続けたのであるが、その結果生じた差別事件は枚挙のいとまがない。

(1) 竜田寮児童通学拒否事件

一九五四(昭和二九)年四月、熊本の菊池恵楓園附属竜田寮児童がかねて要望していた近くの黒髪小学校への通学が教育委員会に認められ、通学しようとしたところ、PTA会長ら一部父兄によって激しい反対運動が展開された。

「らいびょうのこどもといっしょにべんきょうせぬよう、しばらくがっこうをやすみましょう」等のポスターを多数貼って、「同盟休校」を呼びかけた(甲四七号証の4647「「写真撮影報告書」)。明白な人権侵害として国会でも問題とされたが、事態の紛糾は長引いた。

この事件の発生後の一九五四(昭和二九)年五月一〇日、佐賀県下である患者家族が事件の紛糾を苦にして自殺するという痛ましい出来事も起こった。

患者自治会は、本館前に座り込み、ハンストを行うまで行ったが、結局、翌年四月、竜田寮児童を園外で引き取り通学させるという極めて不十分な形で終結させた。その後、竜田寮児童は、各地の施設に分散させられていった。

「肉親にハンセン病患者が居る-ただそれだけの理由で不当な扱いを受けた竜田寮児童、偏見、差別の深さ、根強さをなまなまと示したこの事件は、全患協の歩みの中でも、最も暗うつな忘れることのできぬものであった」(甲三号証「全患協運動史」一七一頁)。

(2) 沖縄読谷高校入学取り消し事件

一九六〇(昭和三五)年二月、沖縄の読谷高校で愛楽園を退園して地元中学に復学していた元患者が、高校入試に合格しながら面接で愛楽園退園者とわかり合格を取り消された。同校では前年も同様の取り消しを行っており、不当な差別以外の何ものでもなかったが、国が固定した差別偏見は、教育者の間にも根深くはびこっていたのである(乙一〇九号証「全患協ニュース縮刷版1」四二二頁)。

(3) アマチュア囲碁十傑戦への出場拒絶事件

一九六四(昭和三九)年、菊池恵楓園の患者が朝日新聞支局主催のアマチュア囲碁十傑戦に応募したところ、主催者側から「患者さんが会場に来られると、社会人とのトラブルが懸念される」として出場を断られた。患者自治会の抗議によりいったんは出場が認められたが、数日後に本社からの指示として再び出場拒絶を通告してきた。翌年からは出場が認められるようになったが、この事件は根強いハンセン病差別・偏見をおそれその解消に正面から取り組もうとしない新聞社の姿勢を示したものといえる。

(4) 入園者投票権問題

一九六五(昭和四〇)年一二月、「村政研究同志会」が、沖縄愛楽園入園者は「村政に直接関係ない」として屋我地村長選の選挙権を行使することに反対して、現行市町村選挙法改正を要請した。それを受けて、屋我地村議会が「村政における愛楽園入園者の投票権は不適当」との決議を出したため、入園者の怒りが爆発した。入園者の強い抗議で右改正は阻止できたが、知識階級及び議会による「前近代的なナンセンスな行為であり、特殊な偏見の事例」である(甲二四八「開園三〇周年記念誌」六九頁)。

(5) テレビ放送「ある結婚」中止事件

多磨全生園から社会復帰した青年が、同園の看護婦と数々の困難を乗り越えて結婚し、たくましく生きていく姿を描いたNHKテレビ・ドキュメント「ある結婚」が、一九七二(昭和四七)年二月一日の放映予定を前に突然中止された。その理由は、病気を隠して社会復帰していた別の元患者から、「偏見の壁はまだまだ厚い。」として中止の申し入れがあったことによると発表された。その後、全患協らの強い上映要請で数カ所の手直しをして放映されたが、この事件は社会復帰者が置かれた厳しい状況と差別・偏見解消が容易でなかったことを端的に示している。
実際、このドキュメントに出演した青年の勤務先では、一部の従業員から一緒に働くのは困ると意見が出され、実際に辞めた従業員もいたほどで(甲三号証「全患協運動史」一八二頁)。

(6) 愛生園患者、バス乗車拒否事件

一九七二(昭和四七)年、長島愛生園の患者団体が県庁を訪問するためにバス会社に配車を依頼したところ、いったん承諾したにもかかわらず三日前になって断られた。以前患者を乗せた際に同乗職員だけ消毒して運転手には何の手当もしなかったことが組合の問題となったとのことであった。これが不当な差別偏見によるものであることは明らかであり、自治会の抗議の結果、バス会社は全面的に陳謝した(甲三号証「全患協運動史」一八二頁)。

(7) 小括

以上詳論したとおり、一九五三(昭和二八)年の新法制定後も、被告国は、戦前にその絶対隔離絶滅政策によって作り出した差別・偏見を解消する努力はおろか、むしろ差別・偏見を作り出す過剰な消毒、お召し列車、マスコミへのコメントなどを通じ、積極的に差別偏見を助長し続けたのであった。

5 菊池医療刑務支所及び留置所移管問題

(一) 医療刑務支所

一九五三(昭和二八)年三月、全国唯一のハンセン病患者専用の刑務所として、定員を七五名とする菊池医療刑務支所が、菊池恵楓園に隣接して設立された。
これは、一九五〇(昭和二五)年の第七回国会衆議院厚生委員会において、療養所懲戒検束規定の効力について質疑が行われ、新憲法下においても有効であるとの再確認がなされたが、右審議は、さらに代用刑務所設置まで発展し、厚生省と法務府との協議により、設置の方針が決定した。そして当時の菊池恵楓園の園長曰く「昭和二四年一〇月、その際全国一〇か所の国立らい療養所長も集まったのでのあるが、・・(その時に)らい刑務所を恵楓園で引き受けてもらえないかとのことであった。・・・そしていわゆる多数決によって、新設を予定されるらい刑務所は菊池恵楓園にもってゆくことに決定した」ものである(甲二号証「日本らい史」二三五頁)。
国は、刑務所まで一般社会と隔離する、徹底した隔離政策を実施したのであった。

(二) 留置所移管問題

さらに、被告国は、一九五四(昭和二九)年六月一五日、厚生省医務局長通達で療養所内の監房を警察に移管し、らい患者のみの留置所を療養所近辺に建設しようとした。この策動は全患協や地元住民らの反対でほとんど実現しなかったが、被告国が旧法下同様に療養所内の秩序維持を強権的にはかろうとしていたことと、新法制定後も隔離収容政策の完成を目指していたことを端的に表している。

(三) 隔離政策の強化と差別・偏見の助長

以上の医療刑務支所設置と留置所移管問題は、国が、強制隔離政策を継続していたことの証左であるとともに、国自ら差別偏見を助長したことに他ならないのである。

事実、全患協は、留置所移管問題が出た際、「このたび全生園の近接地に建てられつつある留置所は、当局者のいかようの詭弁があろうと、明らかに、かつての収容所的な考えの復活であり、世の人々の偏見をますます強めさせることになりましょう。」、「留置所の設置は世人の偏見をますます助長することであります。」として、留置所設置に断固反対していた(甲八二の2「全患協ニュース」七六号)。

6 収容促進による全部隔離政策の継続

この時期における厚生省の見解を示すものとして、一九五八(昭和三三)年に小沢龍医務局長が第七回国際らい学会議(東京)でおこなった発表がある(甲一号証一九七頁)。

「日本におけるらい患者数は、一九五八年三月において推定一五、〇〇〇名であり、このうち施設に収容されている患者数は一〇、八三四名である。未収容の登録患者数は一、〇九八名であり、未登録患者は約三、一〇〇名と推定されている。

日本においては、従来よりらい予防対策として隔離主義をとっており、これらの患者に対する収容施設として、国立が一一施設一三、九五〇病床、私立が三施設三一一床あり、計一四施設一四、二六一病床ある。

現在の患者数は、一九〇四年の実態調査時の患者数三〇、三九三名と比較すれば、約二分の一に減少しており、更に入院患者、在宅患者いずれもが平均年齢が高年齢になっており、これらのことは日本におけるらい流行が極期を過ぎたことを示している。

しかし、まだ在宅の未収容患者が相当あり、これらが感染源になっているので早期に収容することが望まれ、これが収容促進のため次の如き施策が行われている。

(中略)

なお以上の外に、近時プロミン等サルファ製剤の治療により軽快退所患者増加の傾向にあるが、かかる患者に対して療養所内において種々の職業補導を実施し患者の社会復帰を円滑化するよう努力している。また、社会復帰を促進するために退所患者に対し生業資金貸付制度が一九五八年より発足した」。

ここでは、収容促進による全員隔離政策の継続が端的に表明されている。すなわち、「らい予防対策としての隔離主義」を従来よりとっており、厚生省からみれば在宅患者は「未収容者」にほかならず、九割以上の患者が隔離され、疫学的にも患者が顕著に減少(二分の一)している事実さえ承認しながら、「まだ在宅の未収容患者が相当あり、これらが感染源になっているので早期に収容することが望まれ」るという考えなのである。

全員隔離・終生隔離政策のもとでは、いっけん福祉施策と見えるものも「収容促進のため」の施策に過ぎず、軽快退所、職業補導、生業資金貸付制度という、いっけん社会復帰のための制度も「なお書き」で処理されるにすぎない例外的施策という位置づけになってしまうのである。

7 「見えない壁」の構築

こうして、被告国のハンセン病患者に対する全員隔離政策は完成し、そして継続された。一九三〇年の「らいの根絶策」から二五年以上をかけて完成された全員隔離体制は、すべての国民を巻き込んで推進されるなかで内面化・習慣化・規範化され、すべての国民の心のなかに心理社会的な「見えない壁」を厚く構築してしまったのである。患者やその家族の心といえどもその例外ではない。

三 患者ら、原告らの被害

一九五三(昭和二八)年、らい予防法が改正されたが、附帯決議の実現は患者らの要望にもかかわらず、遅々として進まず、生活環境の整備は後手後手に回っていた。それは全患協の闘争を通じて毎年毎年、何とか勝ち得ていくような状況であったのである。このような状況は一九六〇(昭和三五)年のローマ会議時点でも変わりはなかった。

1 外出制限

熊本県では、療養所当局と警察・検察庁による「脱走患者一斉検束」が行われ、農繁期の貯めに一時帰省していただけの入園者に対して、一九五八(昭和三三)年三月二八日、「らい予防法」第二八条の罰則規定(過料五〇〇円)を適用するという事件が起きた(甲八二の2「全患協ニュース」)。

その他にも、外出を制限する事例が相次ぎ、例えば、邑久高校の開校式に際して、愛生園を訪問した患者らが追い返される事件が起きた(乙一〇九号証「全患協ニュース縮刷版1」一九五頁)。

「最近方々の療養所で患者の外出制限を強化しようとする傾向があらわれている。これに対する抗議に対して、当局は答える-『らい予防法の条項を忠実に履行するに過ぎない』」とも論じられており(同二二九頁)、国が外出制限の条項をいかに厳格に適用したかが明らかであった。

また、一九六一(昭和三六)年一〇月二七日、全患協各支部代表が厚生省交渉を実施した際、厚生省は、療養所からの外出自体が違法であると主張し、各支部代表との面会を拒もうとさえした(甲八二号証の5「全患協ニュース」一八一号)。

さらに、一九六〇(昭和三五)年、多磨全生園の患者が園外で死亡した事件に関し、読売新聞は、「外出は親族の死亡、財産処分、相続など特殊な事情がある者以外は許されない。それも厳密な健康診断を行い、感染のおそれがないと認められた軽症者に限って園長から許可書が発行されている。これ以外は全て違反外出というわけだ。」と当時の療養所を取り巻く状況を報じている(なお、岩尾証人は、この実態について「取材をして書いたんだとすれば、そうだと思います。」-岩尾第二回四三六、四三七項-と認めている)。そして、厚生省国立療養所課は、「無断外出が多いということが本当なら施設、患者に厳重に注意する。」とまで述べていた(甲一二二号証・読売新聞)。

このように、被告国は、らい予防法改正後においてさえ、むしろ外出制限を強化することにより完成した絶対隔離政策の維持を図っていったのである。

2 住環境(継続する大部屋生活)

ハンセン病療養所が「療養所」とは名ばかりの「収容所」であり、その生活環境は極めて劣悪であったことは既に述べたとおりであるが、その状況には、新法改正後も変わりはなかった。 既に詳論したように、全国一三のすべての療養所において、戦前・戦後と引き続き患者らが大部屋に居住させられていたが、新法改正後も全く同じ状況であった。 例えば、開所以来、二四畳の大部屋に九名、もしくは二一畳に八名の雑居生活を強いられた大島青松園においては、一九五二(昭和二七)年三月の時点においても、創立以来四三年間手を加えられていない家屋が五棟もあり、そこには五〇数名の療養者が生活していた。一九五七(昭和三二)年に至って、二四畳の大部屋を一二畳の二部屋に分ける作業が行われたが、それでもやはり一部屋四名の共同生活を強いられた。その後、順次個室化が進みだしたものの、ようやく完成したのは一九六九(昭和四四)年の夏であった(甲八七号証「青松園時系列表」八頁)。
また、長島愛生園においても、一〇畳、一二畳半の部屋に独身者は四名から六名、夫婦は一二畳半、一〇畳、六畳に四組から二組が生活せざるを得なかった。その後不自由者独身者の個室化がなされたのは一九六六(昭和四一)年九月であったが、一人あたり三・七五畳という四畳半もないスペースであった。軽症独身者の個室化はさらに遅れ、一九六八(昭和四三)年三月にようやく着手された(甲九〇号証「長島愛生園年表」六頁、甲一一〇号証「隔絶の里程」一八五頁)。しかも、以上のような整備が、予算次第の無計画に行われた結果、様々な様式の居宅に分かれ、療養者間の不平等、引越の際の障害になった。つまり、一棟も一八室から二室、独身四畳半、五畳、六畳、十畳、夫婦舎も四畳半と三畳、四畳半二間、六畳二間、六畳と三畳という具合であった(甲一一〇号証「隔絶の里程」一八七頁)。
さらに、沖縄愛楽園では、一九六〇年代でも、電気もないばかりか(甲一五一号証「門は開かれて(抄)」一六三頁)、水道施設も不完全であり、一週間も雨が降らないと給水不足を来たし、足にギブスをした患者でさえも自らバケツで水を運ばざるを得なかった(甲二四八号証「開園三〇周年記念誌」七〇頁)。また、沖縄は台風被害も大きく、療養所内の貧弱な家屋はしばしば倒壊した(甲九七号証「沖縄愛楽園写真撮影報告書」写真五〇)。
このように、患者らは、全く変わらない劣悪な居住環境により、多大な精神的、肉体的苦痛を余儀なくされ続けていたのである。

3 貧困な医療

(一) 在園者数と比較した医師・看護婦数

まず、開所当時から療養所では医師・看護婦よりも、巡視などの数の方が多いなど著しく少ない人員しか配置されていなかったことは既に述べた通りであるが、かかる状況はらい予防法制定後にも変わりはなかった。
例えば、菊池恵楓園では、一九五九(昭和三四)年まで隔離の壁の外を巡視が巡回して逃走を見張っていたが、看護人と巡視の数は毎年ほぼ同数であった(検証指示説明書・別表3「在園者と医師・看護婦実数の対比」)。
そして、その後も右のように医師数は二〇名前後で推移しており、在園者の数に比して医師数の数の少なさは明らかである。

一九五九(昭和三四)年 在園者一七〇四名 医師一五名
一九八八(昭和六三)年 在園者一〇四二名 医師一九名

また、大島青松園でも、五〇〇名から七〇〇名の在園者に比して、医師数が一〇名を越えることはなく、医師数の不足は明らかな状況であった(甲八七号証「青松園時系列表」一〇頁)。
これらの医師一人あたりの患者数は、一九五九(昭和三四)年九月時点の全国一三の療養所において、八一人から一六八人に対して医師一人という異常な比率のままであった(乙一〇九号証「全患協ニュース縮刷版1」四〇三頁・「昭和三四年九月現在における医師の勤務状況」)。

(二) 病棟看護切替の遅れ

被告の強制隔離・絶滅政策によって収容された患者らが、その作業を行わなければ療養所の運営が成り立たなかったことは既に述べたとおりであるが、特に、病棟での看護まで患者が行っていた事実は、「療養所」が「収容所」であったことを如実に物語るものである。
そしてかかる病棟看護の職員への切替は、一九五四(昭和二九)年に厚生省により指示されたが、以下述べるように、全一三の療養所の全ての病棟看護が職員に切り替わったのは一九六〇(昭和三五)年以降であった。
前述した一九五三(昭和二八)年のらい予防法闘争において患者らが作業放棄を行った際、療養所側は全職員を動員したり、パートを依頼せざるを得なかった(甲三号証「全患協運動史」八八頁)。かかる闘争は、病棟看護の問題点をクローズアップさせ、昭和二八年の第二回支部長会議にて、病棟看護切替の要求を明確にした(同八九頁)。
こうして、一九五四(昭和二九)年四月、厚生省は病棟の完全看護切替を指示したものの、職員の増員自体が極めて不十分であったため、満足な切替はできず、大半の施設において部分的な切替に終わらざるを得なかった。
例えば、一九五四(昭和二九)年一〇月時点における、病棟床数一五二一に対して、切替床は六三〇と半分以下であり、他の未切替床では患者看護に頼らざるを得ない状況が継続していた(同・八九頁・表八「病棟看護切替現況表」)。
そこで全患協は、四年後の昭和三二年に開催された第三回支部長会議で、看護婦は重症者三人に一人、その他は二〇人に一人を計上し、完全看護を早急に実施するようにねばり強く要望を続けていった。
例えば、大島青松園では、昭和二九年八月時点では、入所者七〇〇人・ベッド数九六に対して、わずか三四床の切り返しか実施できなかった(甲三号証「全患協運動史」八九頁、甲二二二号証「閉ざされた島の昭和史」一八九・一九〇頁)。そして全病棟における職員への切替が終了したのは昭和三五年であり、実に六年の月日を要した。

(三) 不十分な職員看護

このように、一九六〇(昭和三五)年前後には、病棟での患者作業は職員へと返還されたが、その内容は極めて不十分であり「完全看護」と称するには極めてお粗末なものであった。
第一に、看護婦数が少なかったため、療養所によっては「職員看護」といいながら、療養者が補助を行わざるを得なかった(甲三号証「全患協運動史」八九頁)。
第二に、開所以来患者作業により病棟看護を行ってきたため、配膳室や看護婦詰所などの設備が不十分であり、「職員看護」の実質を備えるだけの設備がなかった。
第三に、病棟での表面上の職員看護への切替がなされた一方、療養所の大半を占める不自由者棟での看護は切り捨てられ、患者作業による不自由者看護が残存し、不自由者看護が職員に切り替えられたのは昭和五〇年代であった。

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