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最終準備書面 (事実編)

第六 一九六〇年以降、法廃止に至るまで

一 一九六〇年以降の状況(負の遺産の蓄積)

一九六〇(昭和三五)年以降、被告国の絶対隔離絶滅政策はより一層の完成を見ることになる。
まず、収容者の数は、全患者数の九四パーセントにまで達し、その後も法廃止まで同じ水準を維持した。

患者総数 在所患者数
昭和三五年 一一五八七人 一〇六四五人 九二%
四〇年 一〇六〇七人 九八七四人 九三%
四五年 九五六五人 八九五八人 九四%
五〇年 一〇一九九人 九一六六人 九〇%

(但し五〇年から沖縄県の患者数も含めることになった)

六〇年 八四五二人 七五六八人 九〇%
平成 二年 七三四八人 六五九七人 九〇%
六年 六四八四人 五八二六人 九〇%

(甲一二〇号証の三)

そして、患者らの平均年齢は、昭和五〇年代には五〇歳から六〇歳に達した。

昭和四七年 五四歳
昭和五〇年 五六・一歳
昭和五四年 五八・五歳
昭和五七年 六〇歳

(以上、乙一〇九号証「全患協ニュース縮刷版2」二四三頁、三九四頁、乙一一〇号証「同縮刷版3」一一六頁、二四八頁)

「そのころ(昭和三〇年代)患者さん方、回復者も含めて在所者の方々でも三〇歳代の方が多いわけでありまして、そういう意欲に燃えていた方々を地域社会に戻って活躍していただくためにも、その時点において、この法律の見直しが行われればよかった」(大谷調書第一回三四二項)にもかかわらず、放置された結果、
「(昭和四七年には)平均年齢が五十何歳におなりになっていたんですけれども、やはり老齢化ということと、社会の受け入れが非常に厳しい状況になってきていたといことと、それから今までのそういう大変な闘争をやってこられたんですけれども、それに対する無力感といいましょうか・・・・そういうことで昭和三〇年代から四〇年の初めころにかけては、まだまだ外へ出る意欲はあった方はおられたと思うんですけれども、だんだん急激にそれが減少してしまった」(大谷調書第一回三四七項)のである。
戦前、戦後そして二八年新法と、一貫して絶対隔離絶滅政策を貫徹してきた被告国は、一九六〇年以降もかかる患者らのおかれた心理的社会的状況を省みることなく、外出制限の緩和、患者作業の漸次の返還、療養所での処遇の生活保護レベルへの改善でお茶を濁し、何ら積極的に新政策を打ち出すことなく、漫然と過去の政策の負の遺産の蓄積を放置した。
被告国の言うところの「開放政策」、すなわち、「医療・福祉・生活向上政策」とは、このような意味しか持たない。戦前・戦後と一貫して一体として押し進められてきた隔離政策による被害を何ら解消していないのであるから、「開放政策」との名には何ら値しないのである。

二 絶対隔離絶滅政策の廃止・是正措置のないこと
1 全患協の改正要請書(一九六三年)に対する厚生省の見解

一九五三(昭和二八)年のらい予防法制定にあたり参議院厚生委員会は強制隔離条項などによる人権侵害の可能性を指摘し、「近き将来、本法の改正を期す」と附帯決議を行っていた。そして、全患協も、一九六三(昭和三八)年に「らい予防法改正要請書」を厚生大臣に提出し、強制隔離政策の撤廃と退所者の保障、在宅医療の充実等、国の政策の全面転換を求めていた(甲一号証二二七頁以下)。

これに対し、当時の厚生省の小西結核予防課長は、「三九年度にらい予防制度調査会をつくるべく予算要求をしている」、「厚生省としても早く改正したいと思う」と発言して積極姿勢を見せていた(乙一〇九号証「全患協ニュース縮刷版1」五八八頁)。実際、一九六四(昭和三九)年三月に厚生省結核予防課がとりまとめた「らいの現状に対する考え方」においては、「医学の進歩に即応したらい予防制度の再検討を行う必要がある」とし、その方向として「患者の社会復帰に関する対策」、「医療体制の問題」、「現行法についての再検討」の三つを挙げていた。これはまさに、全患協の右要請に沿った見解である。担当課がかかる見解をとりまとめていたことは、当時の厚生省自身の認識を示すものとして極めて重要である。

ところが、その後、「省内で研究しているが現在のところ孤立無援であり、非常に難しい。いわゆる社会の偏見と同じものが省内にもあり、根っこは同じで時間がかかる」(乙一〇九号証「全患協ニュース縮刷版1」五八八頁、同六三〇頁)、「本省で関係者で改正要点を拾い出して事務的な準備をしている。改正の時期はよほど慎重でないと、一度出して叩かれると、また何年か遅れることになる」(乙一〇九号証「全患協ニュース縮刷版1」六五五頁)などと後退し、結局、一九六五(昭和四〇)年当時、法改正は実現せず、現実の法廃止は、この動きから実に三〇年以上遅れたのであった。
大谷氏は、「(昭和三八年の全患協の改正要請が)一つのチャンスであったかもしれない」(大谷調書第一回三六一項)と評している。

2 社会内治療制度の不存在

(一) WHOの提唱した外来治療

一九五〇年代以降、WHOが提唱したあるべき外来(在宅)治療の姿としては、「地域の一般公衆衛生行政をつかさどる保健所が主導権をもつべき」であり、「保健所が十分適応した活動が出来るまでは移動治療班が暫定的な働きをせねばならないだろう」とされている。そして、外来治療にとって最大の問題は規則治療(処方量の七五パーセント以上を服薬)であるとされ、規則治療のための患者教育が重視されている。また「規則治療が行われやすい様に状況に適した方法を研究する必要がある」とされ、「患者の家と治療の場との距離を最小限に短くするためには徒歩で五キロメートルを超えないようにするのがよい」とされている(甲二三六号証WHOの癩対策第八版「癩のコントロール(その1)」。
一方、我が国においては、一九六〇年以降も法廃止に至るまで、外来治療制度は存在せず、薬剤供給、保険医療などについての手当も全くなされておらず、WHOの提唱したあるべき外来治療に全く反するものであった。

(二) 大学病院

戦前からいくつかの大学において外来治療が行われていたことは事実であるが、右外来治療は「絶対隔離政策への異論」として位置づけられるべきものであり(甲一五九号証「成田意見書」六頁)、非合法だが黙認されている存在であって、決して政策的な裏付けを有していたものではない。そこでの治療は、「血の出るようなお金を払わなければ」受けられないものであり(大谷調書第二回六一項)、しかも、診断書にもハンセン病とは記されないまま、逃げ隠れするような早朝・深夜の通院を強いるものだった(大谷調書第一回一九一項ないし一九六項)。

また、入院が可能な体制をとっていた大学病院は京大病院のみであり(和泉調書第一回二三八項)、それらはもっぱら小笠原医師の信念に基づく例外的な方針であった(同二三九項)。

そして、戦後、絶対隔離政策がほぼ完成し、すべての治療が療養所に囲い込まれて行われるようになったために、在宅患者は減少し、大学病院は外来治療から撤退するようになった(甲一五九号証「成田意見書」一〇頁)。したがって、少数の例外を除いて、大学病院においては戦後まで継続して外来治療が行われたことはない。また、戦後まで引続き行われた京都大学等の外来治療も、「絶対隔離政策から漏れた」ごく例外的な非合法の存在でしかなかった。

和泉眞蔵医師は、同大学の外来治療について被告が何らの支援も行わなかったこと、それゆえに、差別・偏見の問題、健康保険制度の不適用の問題、それに由来する大学の費用負担の問題等数々の問題が生じたことを証言している(和泉調書第一回二四二項ないし二七六項、同第二回二六一項以下)。大阪大学の場合もスタッフの信念に基づいて維持されたものであり(同二四二項)、東北大学の外来治療は、当時大学内にあった抗酸菌病研究所がハンセン病を研究していたので、その臨床として進められたにすぎない(同二四二項)。

また、琉球大学附属病院での外来治療は、一九八二(昭和五七)年から開始されたもので、治療の規模もごく小規模で、年間の初診人数は一九八六(昭和六一)年の二五人をピークに、以後、年間数人程度に止まった(甲二五〇号証「琉球大学附属病院のらいの統計と最近経験した症例の提示」七六頁)。

(三) 藤楓協会愛知県支部

愛知県で外来診療所が設置されたとも被告は主張しているが、そこでいうところの藤楓協会愛知県支部の外来治療は、外来治療を受けた人が二〇年間で一五人に過ぎず(乙六二号証)、絶対隔離完成後のきわめて限られたものでしかなかった。

また、こうした外来診療所が、藤楓協会の一支部を運営主体とする外来治療に留まったことは、これが国の政策的位置づけによるものではなく(大谷調書第一回三二八項)、一部の心ある医師らの努力によるものでしかなかったことを如実に表している(なお、甲一〇八号証成田調書第一回七二頁)。
なお、藤楓協会の愛知県支部による外来治療の開設の経緯については、事故退所者になお治療の必要なものが多く、また、軽快退所者についても、近くの保健所や病院で診てもらうわけにはいかず、検査等については療養所に行かざるをえないという事情があったので開設されたとされている(乙六二号証「藤楓協会三〇年史」)。らい予防法の下で外来治療が制度として存在しなかったことが、いかに退所と社会復帰の妨げとなったかは右の開設経緯からも明らかである。

(四) 沖縄の在宅治療制度の不備

(1) ハンセン氏病予防法の時代錯誤性

沖縄では、一九六一(昭和三六)年八月二六日公布施行の「ハンセン氏病予防法」により退所規定及び在宅治療制度が導入された。

しかし、一九六〇(昭和三五)年WHO第二回らい専門委員会報告で特別法の廃止が提唱されたにもかかわらず、かかる特別法を一九六一(昭和三六)年に制定することは、当時の知見に反することに疑いない。
そもそも、ハンセン氏病予防法は、退所及び在宅治療を設けている他は、消毒、強制収容、従業禁止、罰則等らい予防法と条文の順序及び内容がほぼ同一であり、しかも、退所及び在宅治療は非伝染性患者に限られており、一九六一(昭和三六)年当時の知見からはかけ離れていたのであって(施設隔離を非伝染性に限るというのは、一九三〇年バンコク国際連盟らい委員会で既に提唱されている)、時代錯誤的立法であった。
犀川医師も「本土の『らい予防法』と基本的には変わらず、奇異なことに、消毒、届出、強制収容などは旧態依然として残っており、病者に対する真の人間性の尊重の思想に一貫性が見られず、退園許可と在宅治療制度の導入に辻褄を合わせた、かつてのフィリピン政府のとった『大風子油治療』時代のパロールシステムの感じがないでもない」と厳しい批判を加えている(甲二四号証「ハンセン病政策の変遷」二一八頁)。

(2) ハンセン病予防協会(スキン・クリニック)の問題性

沖縄ではハンセン氏病予防協会の那覇診療所、宮古診療所及び八重山診療所において、在宅治療が行われていた。

しかし、それは、所詮、特別な診療所におけるハンセン病本病の投薬治療に過ぎず、患者の症状(後遺症、合併症等)に応じて入院治療することさえ出来なかった。スキン・クリニックで対応できなれば、療養所に入所せざるを得なかったのである。

さらに、犀川園長、長尾園長等療養所医師が巡回で診療を行っていたに過ぎず、一九八七(昭和六二)年、犀川医師が沖縄愛楽園園長を退官し、ハンセン病予防協会理事長兼那覇診療所長に就任するまでは、ハンセン病予防協会には専門医師がいなかった。結局、沖縄でも、本土同様、ハンセン病医療そのものが一般病院から「隔離」されていたのであり、人的体制を含め医療水準が劣悪なものとなったのである(甲二一号証「意見書」一四頁参照、和泉眞藏作成)。

また、ハンセン病予防協会は、特別な施設であり、スキン・クリニックには「ハンセン病予防協会」との看板も掲げてあるため(甲九八号証「沖縄愛楽園写真撮影報告書」写真一〇九、一一〇)、スキン・クリニックに出入りすること自体により患者のプライバシーが侵害される危険性が高く、在宅患者の通院を阻む大きな原因となる。沖縄の原告も「あっちに行ったら、らい病しかあっちは出入りしないから、また周囲は健康者だから、これはばれるんじゃないかと、それを警戒して、あっちは出入り一切しませんでした。」と述べている(原告四二番尋問調書四八七項)
隔離政策を前提として例外的に特別な施設で軽症患者等を在宅治療したとしても、それは一九六〇(昭和三五)年WHOのインテグレーション(一般保健医療との統合)の指針に反するのであり、ハンセン氏病予防法による在宅治療も、根本的に世界のハンセン病対策から立ち後れていたと言わざるを得ない。

(五) 療養所における「外来治療」の実態

被告は、昭和五〇年代以降は入所させずに外来治療を行うのが「通常」となり、外来治療が「原則」になったと主張している。

これに対し、大谷氏は、昭和四七年以降の新発患者四一五名は治療を受けようとすると入所せざるをえない状況であったこと、昭和五〇年以降入所した人が再入所を含めて九五八人いることについても外来診療制度の不備が原因となっていると述べている(大谷調書第二回六五項以下)。そして、「地域社会で受容されるという態勢にもっていくということが一番大きな大事なこと」であるのに、ハンセン病について「一般医療の中で取り扱うという制度は法廃止までできなかった」と述べている(同六八項以下)。さらに、隔離を定めた法の存在、地域社会で生活しながらの外来治療・在宅診療の機会がないこと、差別偏見を解消したり社会復帰を促進する施策がきわめて不十分であったこと等を背景として、法廃止の際の衆参両院の附帯決議でそれらの必要性がうたわれたとしているのである(同八九項以下)。要するに、一般医療に統合されず、僻地にある強制隔離施設で行われる「外来治療」は、量的にも質的にも全く貧弱なものにとどまらざるをえないということである。

また、被告は、法廃止前においては新規発生患者のうち七~八割は当初より「外来治療」であったと主張するが(被告準備書面二三九頁)、これは一九九〇年代における一医師の経験にすぎない。実際には、被告の調査によって、当初より療養所で「外来治療」をし一度も入所しなかった者は昭和四〇年以降は二一・八パーセント、同五四年以降は四五・九パーセントにすぎない(乙第一三五号証の一)。つまり、入所した者がそれぞれ七八・二パーセント、五四・一パーセントもいたことになる。これはプロミン以降のハンセン病治療の進歩と隔離の弊害に対する内外の批判の強まりを考慮すると、むしろ極めて低い数字というべきであり、「外来治療が事実上定着」などといえるものでは到底ない。この数字は、「原則として、治療は外来で行う」とする知見(甲七号証「ハンセン病医学」一九一頁)や右の一医師の経験に照らせば、療養所への原則入所の扱いが法廃止まで維持されていたことを逆に裏付けるものといえる。
さらに、大島青松園が高松出張所で行っていたとされる「外来治療」についても、月一回のきわめて限られたものであった(和泉調書第二回一八二ないし一八五項、一九五項)。多磨全生園の外来診療についても、絶対隔離完成後の療養所中心主義の域を出るものではない。同園は他園と異なり都心近くに位置するため、相対的に外来治療者が多く、他園でも同様に行われていたと評価すべきでないが、それでも、一度も入所したことのない通園患者は年間一一人から二一人に過ぎないこと、同園を退所して通園している者は同園の入所者数の一〇分の一を大きく下回ることなどからすれば、同園の外来治療が限られた意味しか有していないかったことは明白である。しかも、外来治療の内容は十分とは言い難いものであったのであり(甲一〇八号証成田調書第一回七六頁以下)、大多数の入所者について社会に戻すという意味でのリハビリテーションの体制は全く欠けていたのである(同八〇頁以下)。

3 社会復帰をめざす政策の不採用(貧弱な社会復帰支援策)

ローマ会議は、正式名称が「らい患者の救済と社会復帰のための国際会議」であり、ハンセン病患者の保護と社会復帰のために必要な道徳的、社会的および医学的援助を宛得ることを奨励した(甲第一号証)。国際的には一九五〇年代から、患者の社会復帰が政策目標された。

こうした国際的な流れを受け、一九六三(昭和三八)年、人権を無視した「らい予防法」を即時改正せよとして、改正要請書を厚生大臣に対し提出した(甲一号証二二八頁)。そのなかで、全患協は、法の目的として治癒者の社会復帰を目的とすべきこと、退所者の保障を法文化べきことを要求した。

この問題に対する厚生省の消極姿勢および法改正なき社会復帰支援策の限界は、一九六三(昭和三八)年八月九日の全患協の求めた「退所者の保障」要求に対するつぎの回答に明らかである(甲一号証二二六頁)。

「この要求は殆ど予防法の改正を前提としているようだが、将来のことは別として厚生省としては現行法に則って運営していかなければならない。どのような施策も法律の根拠が必要である。」

厚生省の良心的な官僚たちが、翌(昭和三九)年に、ハンセン病が治る病気であることを前提に患者の社会復帰を目的とする政策転換を求める「らいの現状に対する考え方」をまとめ(乙一一二号証)、法改正を企図したが、この企てが省内の偏見という「見えない厚い壁」に阻まれ、挫折してしまったことは前記のとおりである。

患者の社会復帰がのびなかったのは、らい予防法改正に消極的であった厚生省の姿勢に原因がある(甲一号証二二六頁)。厚生省は終生隔離・絶滅をめざす「らいの根絶策」および予防法にあくまで固執し、社会復帰を原則とする開放政策に転換しなかった。この「らいの根絶」政策を内実とする予防法のもとでは、社会復帰支援策ならびに退所者支援策は、きわめて例外的な施策としてしか位置づけられなかったのである。

一九七〇(昭和四五)年当時、患者の社会復帰を推進しようとした療養所のケースワーカやカウンセンラーたちが、予防法の厚い壁に阻まれて、これを果たせなかった事情については、同年発行された「らい医学の手引き」(甲一二四号証)の「らい医学と社会」(二七九頁以下)や「精神状態」(一六二頁以下)に詳しい。

らい予防法は完全隔離主義を基本原理とし、そのことに重点があり、入所治療に関する規定はわずかに更生指導の条項(第一三条)があるに過ぎない(二八三頁)。法施行当時、国立療養所長あてに送付された事務次官通知の「福祉に関する事項」の意味するものは、リハビリテーションの理念からあまりにもかけ離れている(二八七頁)。

更生指導の予算措置としては、リハビリテーション費や就労助成金などがあるが、いずれもきわめて低額で実際はあってないにひとしい(二八四頁)。社会復帰者に対しては、退所者支度金及び旅費が療養所から支給されるほか、政府が藤楓協会に委託している就労助成金の支給と世帯更生資金貸付の制度があるが、両者とも一般国民にも同様の制度があり、社会復帰者を特に厚く支援するものではない。退所直後から自立できるまでの生活保障は、特に考えられていない(二八七頁)。

「再発再燃」という、被告がらいの非「治癒性」の論拠とする問題も、実は社会復帰支援策の貧弱さからくる過労や外来診療の不備による服薬の不規則性にもとづくものであることが指摘されている(三一八頁)。

社会復帰支援に関する問題の本質は、大多数の入所者の置かれた厳しい状況、すなわち、強制隔離政策によって故郷の地域社会や家族・親族から切り離され、生活手段と仕事を奪われた結果、退所しても就くべき仕事も帰るべき場所もない状況にあること、療養所の貧困な医療や患者作業によってその病状・後遺障害を悪化させている者が多いこと、強固に根付いた社会的差別偏見のため社会復帰してもハンセン病を隠して生きていかなければならないこと、さらに、断種等により子孫のいない患者がほとんどであるため老後を助け合う家族がいないこと等々の強制隔離政策によってつくり出された困難を被告国がきちんと見据え、国の責任においてこうした困難を克服する施策を行うことにある。強制隔離政策を改めないまま、軽快退所者に対する僅かな貸付金や技能指導を行った程度では、退所しようにもし得なかったというのが大部分の入所者にとっては現実だったのである。
一九七二(昭和四七)年の時点で平均年齢五四歳を越えるに至った患者らにとって、こうした貧弱な支援策にもとづき、社会復帰することは著しく困難であり、それは、この後ますます厳しいものとなっていった。
そして、一九七二(昭和四七)年以降、療養所内の処遇については、患者ら及び全患協の粘り強い運動にともない、その改善が段階的になされていったが、強制隔離政策と本質的に矛盾する社会復帰支援策については極めて貧弱なままにされたため、社会復帰へのハードルはますます高いものとなっていった。社会復帰施策をともなわない療養内部だけの処遇改善施策は、いっけん福祉施策に見えても、その本質において「収容継続のための施策」でしかないのである。かって第七回国際らい会議(東京)において、小沢医務局長が「入所患者の療養、生活必要費の全額国費負担」など一見収容者の福祉施策と見えるものについて、その本質を「収容促進のための施策」と位置づけたことがあったが(甲一号証一九八頁)、これと同じことである。

3 国が作り出した差別・偏見とその放置

(一) 厚生省所有渡船「せいしょう」における差別

一九七二(昭和四七)年、大島青松園では新造船「せいしょう」を造船することになった。ところが、この船の設計において、従来通り職員席と患者席を区別する設計であることが判明した。患者自治会が強く反対したが、結局、職員席と患者席を区別したまま造船され、浸水した(甲三号証「全患協運動史」一八三頁)。
このように、被告国は、一九七〇年代になっても自ら患者に対する差別・偏見を助長し続けていた。
そして、この区別が廃止されたのは、実に一九八五(昭和六〇)年になっていた(長尾調書第二回二一五項)。

(二) 消毒による自殺

沖縄が本土復帰後、当時の犀川沖縄愛楽園園長が、ある回復者に対して一時期の愛楽園での治療を進め入園させたところ、町役場職員が「らい予防法」に消毒規定があることを理由に、犀川園長の反対を押し切り、その入園者の自宅を消毒したために、家族は家から出なければならなくなり、それを悲観した入園者が自殺をしたという事件が起こった(犀川第一回三六〇項、長尾調書第二回三七項)。
まさにらい予防法が作り出す差別が、患者の生命まで奪ったのである。

(三) ゲートボール協会、老人会の加入拒否

愛楽園ゲートボール協会の名護市ゲートボール協会の加盟登録や南静園老人会の平良市老人連合会への加入は、一九九六(平成八)年のらい予防法廃止まで認められなかった(甲一四九号証「沖縄愛楽園開園五〇周年記念誌」二一六頁、甲一五〇号証「宮古南静園ホームページ」)。
らい予防法が存在し、差別を助長し続けていたために、入園者は社会から「隔離されなければならない存在」と捉えられ、差別・偏見を受け続けていたのである。

(四) 郵便物の消毒

一九八一(昭和五六)年、今だ、郵便物には消毒消印が押されていたり、患者地区は不潔、職員地区は清潔と分けられていた(乙一一〇四今泉陳述書、長尾調書第二回二一〇項、二一一項)。
まさに、恐怖宣伝の遺物が戦後、そして現代まで一貫して続いており、社会の偏見差別を強固に広げ、固定化していたことを如実に物語るものである。

(五) 差別偏見を助長する教育(甲三号証「全患協運動史」一六六~一六八頁)

一九七三(昭和四八)年、教育出版発行中学保健体育教科書が伝染力の強い急性伝染病である痘瘡とらいを同一項目(「第三学年 病気とその予防 (6)とうそうおよびらい」)で扱い、「的確な予防方法がないため、現在でもなお、そうとう数の患者がいる」と誤った記載をしていたことが判明し、全患協は厚生省と文部省に対し記載の改訂を申し入れた(乙一一〇「全患協ニュース縮刷版2」二七七頁)。
とりわけ、同社発行中学保健体育教師用指導書では、「らいはらい菌によって皮膚からくさっていく恐ろしい病気であることを説明する」と偏見をあおる指導方針を記載したうえ、「現在では、らい予防法という法律によって患者の数が少なくなったことを理解させ、今後の対策にも考えさせる」としてらい予防法の強制隔離政策を是認させる内容となっていた。
こうした誤った教育が行われていたことにより、一九七〇(昭和四五)年に栃木県下の高校生一九八〇人に行われたアンケート(乙一一〇「全患協ニュース縮刷版2」一三二頁)では、ハンセン病を「恐ろしい伝染病と思う」と答えたものが四三パーセントにのぼったほか、病気の性質について、「遺伝病である」二〇パーセント、「原因不明の悪病である」二一パーセント、「絶対に治らない病気である」二六パーセントとの結果となっており、さらに、この病気をどう思っているかという問いに対し合計五九パーセントもが恐れているか敬遠していると答えていた。これはまさに、被告国が、教育によって若い世代にまでハンセン病患者らへの差別と偏見を再生産し続けていたことを示すものである。

(六) 差別と偏見による悲劇

被告国の強制隔離政策のもとでつくり出され、助長されたハンセン病患者に対する差別・偏見のもとで、ハンセン病患者とその家族は、結婚・就職差別、一家離散などの被害を数限りなく受けてきた。
その中には自殺や一家心中という悲劇的な事件も少なくなかった。
一九八〇年代・九〇年代に入ってからも、このような全く痛ましい事件が相次いでいる。
要するに、被告国の政策が戦前戦後そして現在に至るまで一貫して一体のものとして継続し、その結果同様の被害を作り出し続けていることを如実に表しているのである。

  1. 一九八一年一二月、秋田で、軽い皮膚病をハンセン病と思いこみ、母親が二児を絞殺し、自分も自殺を図り未遂に終わるという事件が報道された。この問題にふれて松丘保養園長荒川巌は、「従来の国家的偏見を断ち切って本来の医学的理解に基づく新秩序に、軌道修正する法改正が、どうしても必要である」とらい予防法の撤廃を訴えた(乙一一一「全患協ニュース縮刷版3」二三二頁)。
  2. 一九八三年一月、香川県で、自分も娘もハンセン病にかかっていると思いこんだ三六歳の母親が小学三年生の娘の布団の中にガスを引き込んで死なせ、自分も意識を失ったが夫に見つかり一命をとりとめるという事件が起きた(乙一一一「全患協ニュース縮刷版3」二九三頁)。

一九九〇年代に入ってもこのような偏見による悲劇が相次いだということは、ハンセン病に対する社会の差別・偏見がらい予防法の下で根強く存在し続けていることを示すものであり、らい予防法によって強制隔離政策を維持し戦前以来の根強い差別と偏見を一掃してこなかった国の責任は大きいというべきである。

(七) 小結(絶対隔離絶滅政策の継続)

国はらい予防法の見直しを行わず、絶対隔離政策を維持し続ける一方、療養所内の劣悪な医療・生活環境の改善を求める全患協の強い要求と運動に対してのみ徐々に療養所内の処遇の改善を行った。こうした国の態度は、一九七二(昭和四七)年に大谷藤郎氏が国立療養所課長に就任した後も基本的に変化していない。例えば大谷氏は、当時、鈴木禎一全患協事務局長かららい予防法改正への協力を求められ、「迷った末」に断った経緯について『らい予防法廃止の歴史』(甲一)で反省をこめて振り返っているが、このとき法廃止に躊躇した一つの理由として、「驚くべきことだが、いやむしろ経過からいえばあたりまえというべきか、廃止に反対しらい予防法に固執する保守的な教条主義者はこの時になってもまだまだ医師にも役人にも多かった」と述べている(同二五三頁)。すなわち、戦前以来の絶対的強制隔離政策に固執する頑迷な療養所の医師や厚生省内の勢力の存在が、らい予防法の廃止を遅らせ続けたのである。

結局、国の絶対隔離政策は一九九六(平成八)年のらい予防法廃止に至るまで転換されることなく継続されたのである。

三 患者ら、原告らの被害

患者らに対する具体的な隔離措置に目を向けても、全患協の努力により徐々に処遇改善されてきたとはいえ、基本的には、以下述べるように、一九六〇年以前と同様の状況であり、被告国の隔離政策及び措置による被害は継続していた。

1 住環境

大部屋での雑居生活や開所以来の木造建築による劣悪な居住環境は、解消されないのみならず、昭和五〇年代以降は、老朽化などその深刻さを増し、現在に至るまで継続している。

(一) 老朽化と雑居生活

栗生楽泉園では、一九七九(昭和五四)年に至ってようやく、昭和七年の開園後に立てられた旧棟が立て直された。これを伝えた全患協ニュースには(乙一一一号証「全患協ニュース縮刷版3」一二〇頁)、「雨漏り家屋から喜びの新居へ」との標題で「昭和七年の開園後まもなく建てられた旧棟は、吹雪が天井裏に吹き込み、溶けて滴になり、室内は時ならぬ雨漏りに悩まされ続けてきた。押入の雨漏りに気づかず、行季や布団を腐らせてしまった等々、きびしい思い出の多かったところである。」と建替え前の深刻な状況を伝えている。
沖縄愛楽園では、一九七一(昭和四六)年ころ、病棟でさえ壁には大きな亀裂が入り、雨漏りで病床が水浸しになるほどであった。当時の犀川園長は、「私もかつて台湾、フィリピン、ベトナム、インドの療養所を訪ねたが、こんな惨めな病棟は珍しかった。」と述べている(甲一五一号証「門は開かれて(抄)」一六三、二六四、二七一頁)。
さらに、松丘保養園では、深刻な設備の老朽化が進み、患者らの通常の生活はもとより生命の危険にさえさらされていた。
昭和四八年七月の「老朽設備の事例と問題点」によれば(乙一一〇号証「全患協ニュース縮刷版2」二七一頁)、

  • 木造二階建独身寮(建造昭和一三年)
    昭和四〇年四月五日、階上から囲炉裏が落下するという事件が起こった。
  • 木造平屋建独身寮(建造昭和一三年)
    保安度 四九〇八(昭和四二年度調べ)
    現在では三〇〇〇を下回っていると思われる
  • 治療棟・病棟
    いずれも昭和一三年に建築したものを一部手直しをしたものであるが、既に十数年を経過し、天井、壁等の剥落が頻発している。
  • その他
    園内の建造物の大半が老朽化している事例として、昭和四三年一月三一日正午頃積雪による木炭倉庫の倒壊がある。」

というすさまじい状況であった
ついに一九七七(昭和五二)年二月には、老朽化した施設が豪雪により倒壊するという事件が起きたが(乙一一一号証「全患協ニュース縮刷版3」二頁)、昭和六〇年代に至っても、木造建築が切替不自由者棟に残されていた。このように、豪雪による危険性が指摘され続けていたにもかかわらず、被告による施設切替は昭和六〇年代までずれこんだのである(乙一一一号証「全患協ニュース縮刷版3」四〇八頁)。
なお、同園においては、一九八二(昭和五七)年一〇月にようやく雑居生活が解消されたのであり、昭和五〇年代後半まで療養者は雑居生活を余儀なくされていたのであった(乙一一一号証「全患協ニュース縮刷版3」二一〇頁、二六四頁)。

(二) 夫婦舎

「終の棲家」としての療養所は、夫婦生活を営む場所でもあった。既に述べてきたとおり、断種などを条件として夫婦舎への居住が許されてきたが、昭和五〇年以降はその老朽化とともに、手狭さ・プライバシーの侵害などが問題とされていた。
奄美和光園では、昭和五二年にようやく二室制の夫婦舎が建てられた。四畳半に二間だけだったものが、二室になったものである。
これは、昭和二九年に夫婦舎が建てられて以来、二三年を経過して「多湿地帯の蟻害と毎年のように台風に襲われ、形だけの建物が多く、特に昨年の一七号台風の際は遂に住めなくなった・・ぐらい腐食がひどくなって」いたものである(乙一一一号証「全患協ニュース縮刷版3」二二頁)。しかし、それでも入居できるのは全体の二〇パーセントにすぎず、残りの八割は、昭和二九年の老舎での居住を余儀なくされていた。
このように、昭和五〇年代以降も全患協の年次要求により、ようやく居住環境が整備されつつあるにすぎない状況にすぎず、老朽化した舎での共同生活ないしプライバシーのない生活を余儀なくされ続けている。

2 貧困な医療

貧困な医療のレベルは、一九二八(昭和二八)年闘争、一九六四(昭和三九)年闘争、一九七三(昭和四九)年闘争など、全患協主導の運動により漸次改善されてきたとはいえ、他の国立療養所などに比べて著しいお粗末な体勢であったことは、一九六〇年以降も変わりがなかった。

(一) 他の施設と比較した医師・看護婦数

医師・看護職員数の少なさは、他の医療施設と比較しても一目瞭然であるが、昭和六〇年代に入ってもこの状態に変わりはなかった。
例えば、昭和六一年度に至ってもなお、精神病院、循環、ガン、国立療養所、国立病院のいずれと比較して、ハンセン病療養所の一〇〇床あたりの医師の配員率は著しく少ないことが明らかである(乙一一一号証「全患協ニュース縮刷版3」四二八頁・「グラフで見るハンセン病療養所」)。
また、看護職員数の設置主体別の比較においても、一〇〇床当たりの看護職員数の占める比率は、国立病院の四九・二パーセントを最高に、個人病院でさえ二八・四パーセントあるにもかかわらず、ハンセン病療養所は一一・六パーセントと群を抜いて最低の数字である(厚生省「病院調査」昭和五二年度末、乙一一一号証「全患協ニュース縮刷版3」一二七頁)。
このように、昭和五〇年代、六〇年代に入っても、その貧困な医療基盤に変化はなかった。

(二) 少ない定員を満たさない医師・看護婦数

以上のとおり、他の施設とも比較し異常に少ない定員配置しかなされていないのみならず、さらに、その少ない定員さえ充足したことが一度もないという根深い問題点も継続したままである。
昭和五八年段階においても、「全国一三の施設のうち一施設だけが充員され、残る施設は定員を充員できずに四苦八苦しているのが実状」であり(乙一一一号証「全患協ニュース縮刷版3」二七四頁)、同年一月一日時点の医師数は、定員一三六名に対して一一六名しかいなかった(同・二八三頁)。
例えば、奄美和光園では、「さる(五八年)八月に内科医が退職され、園長も含めて二名の医師が診療に当たっている状態である。園長は施設長として、出張などがたびかさなり、毎日の診療が出来ず、副園長が毎日の雑務などを処理しつつ昼夜追われている。・・・・なにしろ奄美和光園は遠隔の地にあり、医師補充は皆無の状態である。・・・医療のパニック状態を一日も早く解消していただくよう、心からお願いするものである。」(同)という信じがたい状況であった。
沖縄愛楽園では、本土復帰(一九七二年)後しばらくは、医師の定員数がわずか三名にすぎなかった(甲一五一号証「門は開かれて」三三一頁)。一九七四(昭和五九)年には、内科医不在のため、入園者が死亡するという事件が起こっている(甲九七号証「沖縄愛楽園関係年表」)
宮古南静園では、一九八一(昭和五六)年当時でさえ、医師二名、医介補一名(医師免許を有していない者)で二七一名の入園者の治療に対処しており、医師不在、短期間の派遣医師の入れ替えによる治療方針の一貫性欠如によって、難治らいとなった症例が一一名もあり(甲一四四号証「診療」開園五〇周年記念誌四五頁より)、ハンセン病の専門医療機関とは名ばかりである。一九八二(昭和五七)年、長尾園長が就任してからは、副園長が不在という異常事態が続き、一九九五(平成七)年、園長病休不在により、南静園の運営は危機的状況に陥ったことさえあった(甲一四六号証「園長不在五か月を越える」、甲一四七号証の2「九五年各支部5大ニュース」全患協ニュースより)。
このように、他の国立医療機関よりも低く押さえれた定員数であるにもかかわらず、その医師数さえ充足されなかったため、高齢化し合併症などの問題を数多く抱えた在園者らにしわ寄せが来るような状況が、今なお続いているのである。

(三) 少ない医薬品予算

さらに、人員の問題のみならず、そもそも医薬品予算自体が極めて低いものであった。
昭和五六年時点においてさえ、一人一か月五〇〇〇円足らずであり、一日当たりわずか一五八円であった(乙一一一号証「全患協ニュース縮刷版3」二一一頁)。ハンセン病の治療はもとより、高齢化による合併症の増加を考えた場合、異常に低い数字であることは明らかであるし、他の国立医療機関の医薬品費は「数倍以上」である(乙一一一号証「全患協ニュース縮刷版3」二一七頁)。

(四) 医療過誤事件の発生

このような医療体制は、現実に死亡事故という悲惨な結果まで引き起こし、刑事事件として立件されて裁かれた(甲一四一号証判タ七七〇・七五)。
判決では、「星塚敬愛園側において、未だ研修期間中出会って、医療知識、技術が未熟出、実際の診療経験にも乏しい被告人を、整形外科医として診療に従事させるに当たり、その指揮監督上の配慮が必ずしも万全でなかったことが本件医療事故発生の一因となったことを否み難く」と端的に療養所における医療の問題点を指摘しており、昭和五〇年以降現在に至るまで、その医療の場としての問題を抱え続けていることが明らかである。

3 患者作業

「これほど患者が要求しなければ療養所はよくならないのか-」
これは一九七三(昭和四八)年七月の厚生省交渉に参加した宮古南静園の代表の言葉である(乙一一〇号証「全患協ニュース縮刷版2」二七三頁)。
この言葉に端的に表されるとおり、昭和四〇年代・五〇年代も、患者作業の返還は、患者らの強い要望にもかかわらず遅々として進まなかった。

(一) 作業人員

例えば、患者作業に従事する患者の数を見ても、一九七三(昭和四八)年三月三一日の時点において、全国一三園において実に二九一五名に渡っていた。

松丘二〇四名、東北一七五名、栗生二六〇名、多磨二二八名

駿河一三七名、長島三〇〇名、邑久二三二名、大島一三九名

菊池三七八名、星塚二七九名、奄美一五七名、沖縄三一四名、宮古一一二名

そして、その中の八九〇名は不自由者であり、軽症者のみの作業だけでは、園の運営がまかなえていなかったことが明らかであった(乙一一〇号証「全患協ニュース縮刷版2」二七二頁)。

(二) 全患協による作業返還の通告

右情勢をふまえ、全患協は、強行に患者作業の返還を厚生省に迫る方針を採用した。
すなわち、昭和四七年七月行動において、全患協は厚生省当局に対して、作業返還を昭和四八年三月三一日付けで行うことを最終通告した(甲三号証「全患協運動史」一五九頁)。この全患協の最終通告に対して、厚生省は、「作業返還を一年間延期してもらいたい」と申入れるなど「泣きついた」が、全患協は作業返還の実施の基本線を譲らなかった。
かかる段に至っても、厚生省の態度は不誠実を極め、一九七三(昭和四八)年四月二四日、療養所課の辻林補佐が作業返還について長島愛生園に来訪したが、「本省としては作業返還に対応する措置は全くない。」という無責任な発言をしたため、強く抗議され「本省に持ち帰って説明し、後日回答する。」と早々に引き上げざるを得ない一幕まであった(甲三号証「全患協運動史」一六〇頁)。

(二) 遅れる作業返還

全患協による強行な返還要求にもかかわらず、厚生省の対応は後手後手に回った。
一九七六(昭和五一)年時点においてさえ、全国一三の療養所において、消毒・義肢工・畳工・教師補助・盲人世話・綿工・治療助手・薬配・ミシン・郵便配達・下水清掃・浴場係などが患者作業されており、返還未了であった(甲三号証「全患協運動史」一六一頁・表31「作業返還調」)。
次に、各園を見ても、例えば菊池恵楓園では、

土木業務一三名が昭和五〇年三月まで

残飯回収係が昭和五〇年三月まで

東西浴場・労働風呂係五名が昭和五二年三月まで

薬配夫四名が昭和五三年六月まで

普通寮付添夫三名が昭和五三年六月まで

盲人係世話係六名が昭和五五年二月まで

補修夫四名が昭和五六年三月まで

ミシン部七名が昭和五八年二月まで

購買部用度配達係三名が昭和五九年六月まで

用度係九名が昭和六〇年四月まで

いずれも患者作業として行われていた(検証指示説明書・添付・別表1)。

こうして、昭和五〇年代から六〇年代にかけても、かなりの重作業を、患者の手によって行わざるを得なかったのである。

4 小結(未だ続く患者らの被害)

以上のように、昭和二八年のらい予防法反対闘争、昭和三九年の六・五逃走に続く一大闘争である、一九七二(昭和四七)年の「総決起集会」において、医療の充実、不自由者看護切替の促進、患者作業の全面返還、舎の建替え、差別医療の廃止など様々な問題点を提起したが、詳論したとおり厚生省の対応は、遅々としたものであった。

こうして、患者らに対する隔離措置は、戦前・戦後そして一九六〇年前後の状態と一体不可分のものとして、現在に至るまで患者ら、原告らを苦しめ続けているのである。

四 被告の主張に対する反論
1 外来治療中心の医療の不存在

被告は、いくつかの大学、藤楓協会愛知県支部、および各療養所における外来窓口の存在により、あたかもハンセン病治療の中心が外来治療となっていったかのように主張する(被告準備書面・二三四頁)。

しかしながら、戦後における社会内での外来治療の実態は、らい予防法の下での絶対隔離・療養所中心主義の政策に反する例外的措置として僅かに存在したに過ぎない。
これらは、被告が政策として位置づけたものでは全くなかった。そして、地域的にも、質・量の点でも、極めて限られたものでしかなかった。

こうした一般医療と切り離された差別的な医療体制が、療養所の医療を一般医学から隔離し、療養所の医療水準が低くなることを、もたらしてさえいたのである(和泉調書第一回二二七項)。

また、一九九四(平成六)年の日本らい学会見解における「外来治療の定着」という表現は、九〇パーセント以上の患者が隔離されていたことを前提とした、右のような極めて限られた範囲での外来窓口の存在を意味するものにすぎないのであり、決して外来治療が社会内で一般的に行われていたことを意味するものではない(和泉調書第二回一九三ないし一九五項)。

2 実施要領と指導票の意味するところ

被告国は、準備書面において、在宅患者に対しては、昭和三六年秋に、都道府県担当者会議で「未収容らい患者の自宅療養実施要領」を示して、在宅療養を認めたい意向を伝え、昭和三七年三月には、公衆衛生局長通知により「らい患者指導票」の作成を指示して、入所の要否や医療の要否等の把握がなされたと主張する。

既に昭和三〇年代後半には在宅医療を認めていたと主張するが如くであるが、これもまた歴史的な事実を全く歪めるものと断じる外はない。

(一) 小沢医務局長発言-隔離主義の方針

先ず検討しておくべきことは、一九五八(昭和三三)年一〇月東京で開催された第七回国際らい学会における厚生省小沢龍医務局長の発言である。

同局長は「日本は、従来よりらい予防対策として隔離主義をとっており、「わが国には)まだ在宅の未収容患者が相当であり、これらが感染源となっているので早期に収容することが望まれ、これが収容促進のため…施策が行われている」と述べており、これを大谷氏は、「日本の完全隔離主義を間違って誇っている」と酷評している。(甲一号証一九七頁以下)

以下詳論するように、被告国がその主張の証拠として挙げる「在宅患者名簿」や「らい患者指導票」の作成及び「未収容らい患者の自宅療養実施要領」等は、いずれも、この小沢発言にいうところの完全隔離促進のための施策の一環にすぎないのである。

(二) 「未収容らい患者の自宅療養実施要領」について

第一に、この実施要領なるものは、いつどのようにして策定されたのかが全く不明であり、その原本の存在すら不明である。国が証拠として引用しているのは、全患協ニュースの報道内容であって、原本ではない。厚生省が国の方針として確定したものであるなら、その原本が存在するはずであり、その不存在は、この要領が正式文書ではないことの何よりの証拠である。

なお、この全患協ニュースは、一九六二年三月一日のものであり、「昨年の秋、各県の担当官を招集し、在宅医療を認めたいとの意向が伝えられた」と報じるのみで、この実施要領がその席で配布されたとは記載していないし、この要領がいつ、どのような機関で策定されたかも記載されていない。
同ニュースの小見出し(リード部分)に「未だ法制化されていないが、本要領から在宅療養の骨子はうかがい知れる」と書かれていること、一九六一年秋以降に正式文書として策定された痕跡がないことからすると、これは厚生省内部で案として記案されたにすぎないものが、半年後に松丘保養院(甲田の裾)を経て全患協に伝わったものではないかと解される。事実、その後に発せられた公衆衛生局長の「らい患者指導票」に関する通知(乙第一三三号証によると一九六二年三月一六日)にも、この「実施要領」は全く引用されていない。

第二に、その表題から明らかなとおり、在宅患者はあくまで「未収容らい患者」として位置付けられているほか、冒頭において「伝染性のらい患者に対しては療養所への入所を勧奨し、極力入所させるようにつとめること」と明記しており、「在宅治療」を進めるものとは到底言えない。あくまで収容が原則とされていることが明らかなのである。

第三に、「収容」か「未収容」か、厚生省としての対応を分ける決め手となるのは、「伝染性」の有無にされているところ、一九六一年秋ないし一九六二年三月の時点では、既に第二回WHO専門委員会の報告書が一九六〇年に刊行され、インテグレーションの考え方が広く浸透していた時期である。同報告書では、「らい療養所」は「らい反応期」にある者や、足穿孔症等の合併症で専門的治療を要する者、後遺症患者等のための一時入所場所と位置付けられ、入所者は最小限度に止め、外来治療所で実施するのが原則とされている。
このような報告書が刊行されて二年以上を経た時点で、なおも「伝染性」の有無を基準とし(その基準すら明確でないまま)、「伝染性」患者を極力入所させる等という要領はまさに時代錯誤もはなはだしいと言わざるをえない。

第四に、「要領」における「在宅療養」とは、国立療養所の医師(指定医)の判断により、同医師の巡回によって行うこととされており、国立療養所でカルテを作成することとされているということである。したがって、あくまでも、国立療養所による以外でのハンセン病治療を認めないという建前は変更していないということを意味するのである。
以上からして、右「要領」をもって、被告が外来ないし在宅治療を認める政策を採ることになったとは到底評価できないことが明らかである。

(三) 「らい患者指導票」について

被告国は、「らい患者指導票」の存在(乙一三三)や通知(乙一三四)の存在をもって、「未収容患者の・・・・フォローアップを行っている。」(被告準備書面二三七頁)とし、「外来治療中心の医療」の理由付けとして主張する。

しかしながら、右指導票は、その制定の趣旨について「(ハンセン病の)絶滅を期するため、主としてらい療養所へ収容されてない患者についての指導を強化するため」と明記している。 また、同通知においては、未収容患者一名につき一票ずつ指導票を作成するよう指示し、転居の際には転出先に指導票を送付することまでが求められている。

しかも、その記入要領には、指定医による入所の要否の判定結果を必ず記載することが求められており、その目的が、「収容すべき未収容患者の把握」にあることが明らかである。

要するに、被告が同通知に関して述べるところの「フォローアップ」というのは、むしろ「絶滅政策の一貫として未収容患者を管理していた」ということを意味するにすぎないのである。

そのことは、その二年後の一九六四年一二月に厚生省結核予防課長の発した「らい患者指導票について」(乙第一三四号証)が、その趣旨・目的を「未収容患者の把握に努めてきた」と露骨に記載していることからも明らかなのである。

第七 被告の主張に対する反論

各時代における被告の個別主張に対する反論は、各事実経過に対応して行ったが、さらに、被告の概括的な主張についても(特に、被告準備書面・「第三 被告の主張」・二六〇頁以下)、ここで反論を加えることとする。

一 療養所の存在意義

被告国は、療養所の存在意義として、(1)差別偏見など世間の迫害からの保護、救済施設、(2)介護を要する者のための介護施設、(3)治療のための医療施設、(4)予防のための隔離施設との四つを上げた上、「原告らはそのうちの隔離施設としての側面のみを重視するが、存在意義は変遷したものである。そしてそのことは、法廃止にあたり全患協が強制隔離政策による損失の補償として、療養所でのすべの処遇の維持、継続を求めたことに端的に表れている」と主張する(被告準備書面・二六七頁)。

1 基本的視点の問題点

被告は日本の療養所の存在意義を、「古来からあったラザレットやらい院等のハンセン病患者施設」についての一般論から説明しようとしている。しかし、日本の国立療養所は、古来からのらい治療施設が変遷して現在の療養所に至ったなどといったものとは全く異なる。すなわち、日本の国立療養所(その前身であった公立療養所も含む)は、一九〇七(明治四〇)年の法律第一一号「癩予防ニ関スル件」制定以来、特に旧癩予防法以後、明確な国家的目的と意図(ハンセン病患者絶対隔離・絶滅政策)の下に設置され、運用されてきたものだからである。この基本的視点なしにハンセン病治療施設の一般論を論じるのは、国の絶対隔離絶滅政策遂行の手段としての療養所の存在意義をことさらあいまいにするものというべきである。
また、療養所の存在意義を検討する際に不可欠なことは、なにゆえに「療養所」でなければならないのか、すなわち、故郷・家族から切り離され、長期間の隔離を強いる施設でなければならないのかという視点である。隔離が患者の自由を奪い、人間関係と生活基盤を破壊する著しい人権侵害であることは明らかであり、まして日本の療養所のように人里離れた僻地に終生にわたるほどの長期間にわたり患者を隔離するものであれば、人権侵害の重大性はいうまでもない。この人権侵害の観点から療養所の存在意義が正当化できるものかどうかという検討が求められているのである。

2 国策として設置された「療養所」の存在意義

右の観点から、日本の療養所の存在意義をあらためて概観すると次のようになろう。

(一) 法律第一一号のもとでの療養所

すでに繰り返し述べたとおり右法律は放浪らい患者の放置に対する欧米諸国からの批判を国辱とし、その取り締まりを求めるものであった。法案の提案理由説明を行った吉原政府委員は次のように述べている。

「わが国におきましては、このらい病患者というものが、あるいは神社仏閣あるいは公園等にはいかいいたしまして、その病毒を伝播するのおそれがあるのみならず、また一方におきましてはずいぶんこれらの患者が、群衆の目に触れますところにはいかいいたしておりまするのは、外観上よほど厭うべきことであろうと思いまするので、これらの取り締まりをなすことが必要なりと考えまするのであります」(甲二・六五頁)

こうした取締的発想で患者らの収容が行われたため、収容方法と療養所内での扱いは患者「救護」とはほど遠く、犯罪人同様のものであった。収容は警察官の手で行われたし、療養所内では、「監獄より一等を減じるという位にやっていく」という池 内才次郎初代全生病院長の言葉に象徴されるように、強制収容所そのものの非人間的な扱いが行われた。

他方、治療としては当時は大風子油の皮下注射がほとんど唯一のものであったが、「大風子油の皮下注射なら湯の沢部落や田端、日暮里辺の病人宿でも使っていた」とされており、何も療養所でなければできない治療であったとはいえない。

次に、強制隔離による人権侵害の正当化という観点で見た場合、「外観上よほど厭うべき」だからといって隔離が正当化されるものではないし、「病毒伝播のおそれ」といってもその伝染力が微弱であり、コレラやペストなどと同列に扱えないことは当時から知られていた。

また、放浪患者の救護という点で見ても、一般の病院で救護体制を整えればよいだけのことであって、わざわざ特別の療養所を設置する必要性はなく、まして本人の意に反して強制収容する理由はない。

被告は、同法の下の療養所は、保護救済施設の面が強調され、同時に介護施設、医療施設、隔離施設の意味を持つ施設であったとするが、右のとおり、同法の下でも療養所の基本性格は国策によって明確に位置付けられた強制隔離収容施設というものであり、介護施設、医療施設、隔離施設としての機能が仮にあったとしても、その基本性格ゆえに大きく歪められたものとならざるをえない。強制隔離による人権侵害が正当化されることにはならないのである。

(二) 旧癩予防法のもとでの療養所

右の法律第一一号「癩予防ニ関スル件」を大改正して一九三一(昭和六)年に制定された「癩予防法」が強制隔離の対象をすべてのハンセン病患者に拡大するものであり、絶対隔離絶滅政策を推進する根拠となったこと、そしてこの法律の下で全国的に無癩県運動が展開され、患者を権力的にあぶり出し、民衆にハンセン病に対する恐怖と偏見を植え付けたことはこれまで繰り返し述べてきたとおりである。

被告もこの法律の下での療養所の主たる意義が隔離施設にあることを認めるようであるが、あわせて保護救済施設、介護施設、医療施設も重要な目的であったとも主張している。

しかし、療養所内で行われた強制的な患者作業、強制労働、断種、重監房に象徴される違法かつ無惨な懲罰等の数々の事実を見れば、隔離施設以外の目的として被告の主張するものは、隔離収容という主たる目的遂行のためにほとんどその意義を認められなくなっていたといっても過言ではない。そのことは、医療施設どころか患者作業や強制労働によってかえって多くの患者の症状を悪化させ、重篤な後遺症を残したことを見れば明らかである。

なお、この患者作業の問題については、成田稔証人も強調していたところであるが(同人の証言第一回八頁)、すでに一九六三(昭和三八)年の「リハビリテーションについての厚生省内研究会中間報告」において、「らい変形が神経障害に原因するのは当然だが、その大部分が日常生活の不注意による手足の損傷を誘因としている」と指摘されていた(甲一六・五七六頁)。

次に、強制隔離による人権侵害の正当化という観点で見た場合、「病毒伝播のおそれ」及び患者救護の必要性については法律第一一号についての右に述べたとおりであるが、さらに前記のハンセン病に対する国際的知見の推移に照らして、より一層強制隔離を正当化する根拠は乏しくなったというべきである。特に、無癩県運動の大規模なキャンペーンや不必要に派手な収容と消毒のデモンストレーションによりハンセン病をあたかもコレラやペストのような急性伝染病のように扱い、民衆に恐怖と偏見を植え付けたこと、そして、故郷で家族と共に生活し、生業にもついていた患者(その中にはほとんど治癒していた軽症患者も少なくなかった)をあぶり出して強制隔離したことは、絶対隔離絶滅政策の完全実施のためにあえてパニックを創り出し、権力的に著しい人権侵害を行ったものというほかなく、正当化の余地はおよそ全く考えられない。したがって、療養所の存在意義はまさにこうした政策の手段として評価されるべきものである。

(三) 一九五三年らい予防法の下での療養所

らい予防法(新法)は、日本国憲法の制定後、「特別病室事件」に端を発する人権闘争、プロミン獲得闘争、らい予防法闘争と、ハンセン病患者らが旧癩予防法下の絶対隔離絶滅政策の変更を求めて運動に取り組んだのを押さえ、旧癩予防法の強制隔離主義を引き継いで制定された。このことは、療養所の拡張と未収容患者の摘発・収容、「癩刑務所」の設置(また、新法制定後の各療養所での留置所の設置)、三園長証言、新法制定をめぐる国会審議などの新法制定前後の経過を見れば明らかである。

療養所の性格についても、新法制定前後で何ら変化したわけではない。すなわち、ハンセン病治療が一般医療と切り離され、療養所に隔離収容されなければできない法制度となっていたこと、療養所内では患者による病棟介護や不自由者付添、患者作業が新法下でも長く行われたこと、断種や妊娠中絶が行われ続けたこと、これらは療養所の基本性格が旧法下と同様の隔離収容施設であったことを如実に示している。

他方、確かに新法下において医療や患者作業等の点で徐々に患者の待遇改善がはかられ、療養所が医療施設、介護・福祉施設としての機能を果たすようになったことも事実であるが、これらの待遇改善は、既に述べたとおり、全患協や患者らの当然の要求と長期にわたる運動によってようやく実現されたものであり、しかも、その内容はなお極めて不十分といわざるをえないものである。特に、本来の医療施設という意味では、絶対隔離政策の下でハンセン病医療が一般医療から切り離されていたために、医師の定員充足や他科との連携による総合的医療が現在もなお大きく立ち後れたままである。

次に、強制隔離による人権侵害の正当化という観点で見た場合、伝染性のおそれが極めて微弱であるという従前からの基本認識に加え、プロミン等の新薬の開発によりハンセン病が治癒する病気となったこの時代に、強制隔離政策を維持する正当性は旧法下以上に存在しなくなったというほかない。したがって、療養所の強制隔離のための特別の施設としての存在意義を正当化することは、旧法下以上に不可能というべきである。

3 個々の患者の入所動機によって隔離政策は正当化されない。

また、被告は、療養所の存在意義を患者の入所動機によって正当化しようともしている。すなわち、「自らの病気を治そうとして入所した場合」、「体の変形のために人前に出るのをいやがり自ら望んで入所する場合」、「ハンセン病自体は治癒したが高度の後遺症のために安全に生活できる場所として、あるいは必要な介護をうけるために療養所にとどまるといった場合」には隔離目的の犠牲という認識は全くないか、あっても希薄であるというのである(被告準備書面二六四頁)。

しかしながら、仮にこうした入所動機が存在するとしても、問題はやはり、「なぜ隔離施設である療養所なのか」という点である。病気治療の目的なら病院など適切な診療機関があれば十分だし、後遺症の介護が目的ならリハビリセンターや在宅介護の充実で対応できる。家族や故郷との絶縁等の大きな不利益を伴う療養所にあえて入所する必要は全くない。つまり、強制隔離政策によってハンセン病が一般医療から切り離され、隔離施設である療養所に入所しなければ治療も介護もうけられないという法制度が作られているからこそ、こうした目的を持つ患者は療養所に入所せざるを得なかったのである。

また、「体の変形のために人前に出るのをいやがり」云々というのは、何もハンセン病患者だけの問題ではなく、事故や他の病気で身体を損傷した障害者についてもありうることである。こうした問題に対しては社会全体の障害者への差別偏見の解消措置や啓蒙活動によって対処すべきであって、差別偏見の存在を前提としてそのシェルター(避難所)を設置するというのでは、行政が差別偏見の存在を是認し、助長することになってしまう。ましてハンセン病患者の場合には、一九〇七年以来の強制隔離政策と無癩県運動によって国自身がつくりあげた差別偏見により、患者が地域からあぶり出され、療養所に入所せざるをえなくなったのであるから、これをもって患者自らが入所を希望したとして療養所の存在意義を正当化することができないことは明らかである。

4 療養所の医療福祉施設への変遷という主張に対して

また、被告は、新法下において療養所の存在意義も変遷し、予防のための隔離の必要を後退させ、医療福祉的措置が課題とされるようになった結果、「ハンセン病療養者にとっては、療養所は、医療、ケア、生活施設としてなくてはならない場所へと変化した」とも主張する(準備書面二六六頁)。
しかし、ここでもやはり問題は、「なぜ隔離施設として療養所が維持されなければならないのか」ということに尽きる。医療福祉的措置は、何も強制隔離施設である療養所で行う必要はない。むしろ、患者のリハビリテーションと社会復帰のためには、「隔離施設である療養所」ではなく一般医療への統合と在宅医療の充実こそが必要だったはずである。そのような医療体制がらい予防法のもとで全く予想されていないため、患者は療養所にて療養せざるをえないのである。
さらに、被告は、「全患協が療養所の存続を望んでいた」ともいうが、全患協はらい予防法闘争の後も次のとおり繰り返しらい予防法の強制隔離条項の改正と在宅医療の充実を求めていた。

(一) 一九六三年のらい予防法改正要請書

全患協は一九六三(昭和三八)年の第八回支部長会議でらい予防法改正を全面に掲げた運動方針を決定し、同年九月に、厚生大臣宛のらい予防法改正要望書を提出した(甲一六・五八一頁)。この要請書は、強制入所や消毒等の条項の削除など強制隔離政策を根本的にあらため、医療と福祉の充実と退所者への保障を求めるものである。そのうち、医療の点については患者のほとんどが療養所に入所している状況をふまえて、療養所における医療の充実を求めているが、同時に、「在宅治療、入所治療を問わず、国の責任に於いて総べての患者が、近代医学の恩恵を受けられるように医療システムを確立した抜本的な医療管理の改革を行うことが緊急にして重要な課題である」(第九項)、「国は各都道府県に大学病院、公立病院等数カ所を指定し在宅患者の医療管理を国費によって徹底的に行って頂きたい」(第一六項)として、在宅医療と退所者の医療管理を求めている。らい予防法改正により強制隔離政策が廃され、国の過去の政策によってつくられた差別偏見の解消が政策として取り組まれるとともに、こうした退所者の保障と在宅医療体制が整備されれば、当時まだ青壮年であったハンセン病患者の多くは退所し、社会復帰または在宅治療に移行できたはずである。

この点について、大谷藤郎氏は、「昭和三〇年代に軽快退所者が非常にたくさん出ていたとき、そのころ患者さん方、回復者も含めて在所者の方々でも三〇歳代の方が多いわけでありまして、そういう意欲に燃えていた方々を地域社会に戻って活躍していただくためにも、その時点において、この法律の見直しが行われればよかった」と述べている(甲四七の一・三四二問答)。
これに対し、当時の厚生省は、同年一〇月に行われた全患協の陳情に対し、小西結核予防課長が「三九年度にらい予防制度調査会をつくるべく予算要求を している」、「厚生省としても早く改正したいと思うが、長く療養所に関係している者の頭が変わらないから難しい。」と発言しており(甲一六・五八八頁)、厚生省自身も法改正の必要性を認識しながら結局これを怠ったことが明らかである。

(二) 大谷課長時代

被告は一九七二(昭和四七)年に大谷藤郎氏が国立療養所課長に就任した後の療養所内の処遇の改善を再三強調するが、この時期にも全患協はらい予防法改正を求めていた。何よりも、当時の鈴木禎一全患協事務局長が大谷課長本人に対し、「先生が法律改正をやるといわれるのなら、全患協は全面的に協力して闘う」と申し入れたことは、大谷氏自身の認めるところである(甲一号証「らい予防法廃止の歴史」二五三頁)。これに対し、大谷氏は「迷った末」、らい予防法には手をつけないで療養所内の処遇改善に取り組むことにしたとするが、その選択について同氏は、処遇の改善は「療養所内だけのことで、外の社会では今までと同じだった。らい予防法廃止を見送った私の選択は果たして正しかったのかどうか。」と率直に述べている(同二五四頁)。

この時期、全患協は一九七五(昭和五〇)年と一九七六(昭和五一)年に、「将来の療養所のあり方研究会」を、全国の支部代表らを集めて開催し、らい予防法改正問題を主要議題として議論しており(甲一七・三七三頁、同四二七頁)、前記の予防法改正要請書を基本的にふまえ、隔離主義による条項(従業の禁止、消毒、質問及び調査、外出制限など)の削除、在宅治療の促進、退所者及び家族に対する援護措置等の具体的法制化を改正要求としてとりまとめている(同四二七頁)。従って、大谷課長ら厚生省が法改正に積極的に取り組めば全患協はそれに十分応じる姿勢を持っていたのである。

以上のとおり、全患協はらい予防法の強制隔離政策を撤廃し、在宅医療と退所者の支援を要求し続けていたのであり、療養所内の待遇改善のみでよしとしていたわけではない。患者の高齢化により退所と社会復帰が困難となり、また長年の隔離生活により療養所が事実上の生活拠点となるなかで、結果として、療養所内の待遇改善が患者らの大きな要求となったにすぎない。全患協の運動によってそれがある程度実現したとしても、ハンセン病患者はすべて療養所に隔離するというらい予防法による法制度は全く変化していないのであって、隔離施設としての療養所の存在意義、その本質は何ら変わらないのである。

なお、ハンセン病患者らの多くが療養所にとどまることを望み、らい予防法廃止を望まなかったという点を被告は再三援用して療養所の存在を正当化しようとしているが、大谷氏はその証言で患者らのそうした心理の安直な引用を次のように戒めている。

「前回と今回の証言を通じて感じますのは、ハンセン病療養所に入っておられる療養者の方々を、私たちのように自由気ままに社会で生きている人間と同じようにお考えになるのは非常な間違いであるという印象を受けております。やはり国家が一生出ることがないということで入れて、しかも子供さんを奪う権利も認めておいて、そしてその方に人生観、世界観というものが備わってきているわけでありますから、そういうお考えについて私たち社会でそういうのを横目で見て、何もしてこなかった人間が、そういう人のお考えについてとやかく言えるあれはないというふうに私は思います。」(大谷調書第二回一一七項)。

5 福祉的措置は法の改廃を遅らせる根拠とはならない

被告は、入所者に対する福祉的措置がらい予防法の「弾力的運用」をその根拠とするものであったから法廃止ができなかったとか、「入所者に対する関係では人権制約的規定は存在しないに等しい運用が政策的に実施され」ていた等と繰り返し主張する。要するに、らい予防法の人権侵害的法規定は空文化し形骸化していたが、福祉的規定はそれを根拠としているので改正または廃止できないという倒錯した論理である。

そもそも、人権侵害的規定の改廃と福祉的措置は全く別次元の問題である。前記のとおり全患協はらい予防法闘争以来、らい予防法の強制隔離、消毒等の人権侵害的規定の改廃を繰り返し要求していた。また、らい予防法成立の際の参議院厚生委員会の附帯決議においても人権侵害的諸規定について「近き将来、本法の改正を期する」と明記されていた。こうした全患協の一貫した要求や附帯決議の存在に照らせば、被告の「福祉的措置」云々の主張は、長らく人権侵害的規定を故意に放置してきた自らの怠慢を弁解する口実にすぎない。

全患協の一九九一年四月の「らい予防法」改正に関する要請書は、福祉的措置の継続と人権侵害規定の改正について次のように明快に区別して要求している(甲一号証二六六頁、二六七頁)。

「私どもの過去の八〇年は「健康社会を防衛する」という国の政策によって、強制的に隔離された生涯であったことは否定できません。このような条件の中で私どもの人権をどのように評価され、どう扱われてきたか、今後はこのことが政策決定の主題にされるべきであります。・・・今後の療養生活に関しては、国の政策によって通常な社会から、はじき出されてきた者であり、最後まで国が責任を持つべきであります。」「・・・外出制限、秩序維持、従業の禁止、物件移動禁止、秘密保持、病名変更、家族援護などに関し、私ども自身の口から要請したいのであります。条文の多くは時代錯誤も甚だしく、空文化しておりますが、それらが依然としてハ病者と家族の名誉を傷つけ、恥ずかしめていると同時に偏見や差別、社会的迷妄の根拠になっている点も間違いありません。」

二 入所者への補償・処遇の継続の評価について
1 厚生省の従来の見解

被告国は、法廃止にあたり特別の措置として処遇の維持・継続を図ることにしたが、これは厚生省の幹部が昭和三〇年代から述べているところであるとともに、全患協の要望でもあったと主張する(被告準備書面・二八二頁・二八三頁)。

しかし厚生省は、例えば昭和五二年度の予算要求行動において、当時の本田課長が、「従来は生活・医療面の充実で、それをカバーする形がとられてきたと思うが、国として、過去の不始末をどのように認めていくかは、非常に難しいし大きな問題がある。実現にむかって課長として、研究し努力したい。」(乙一一〇号証「全患協ニュース縮刷版2」四一一頁、甲八二号証の11)と述べるなど、厚生省自身の考え自体としても一貫して処遇の維持・継続のみにより、損失の補償として事足りると考えていたものではない。

2 全療協の要望

一方、全療協自体は、既に詳論したとおり、処遇の改善とともに損失の補償を一貫して長年に渡り主張してきたものであって、処遇の維持・改善のみにより損失の補償が事足りるとの見解は取っていなかった。このことは、全患協が毎年掲げる運動方針の中に、処遇の改善項目とともに、「強制隔離政策によってうけた損失の補償」項目が必ず存したこと、しかも運動方針のまず第一項目に挙げられていたこと、法が廃止された後である現在の全療協の運動方針としても、「損失補償」が掲げられていることなどから明らかと言うべきである。

そもそも、全療協は、療養者の最低限の処遇改善などを要求することにより、療養者の利益を図る任意団体であって、各療養者の個別請求を放棄させる権限は有していない(今泉第二回二一一項、岩尾第二回)。そして、全患協に加入していない療養者がいることからも明らかなように、全患協という任意の団体と厚生省との交渉内容が、各個別原告らの被告国に対する損害賠償請求の障害事由となり得ないこともまた当然である。事実、見直し検討会における廃止の答申を受けて、岩尾証人が各療養所において説明会を実施した際、療養者から、法が廃止されても損害賠償請求は留保したいとの意見も出されていたのである(甲一五九、岩尾証人第二回一三九項)。

要するに、療養者の最低限の利益を図る全療協としては、らい予防法廃止当時、個々人に対する金銭要求を組織としての運動方針として採用しなかったにすぎない(今泉第二回一一〇項)。

3 国の恫喝

しかしながら、被告国は、繰り返し、法廃止当時の全患協の態度を持ち出した上、「損害賠償請求がいささかでも認められるとすれば、同じく過去の行政の結果に対して給付されるという側面を持つ『処遇の維持継続』は果たしてその根拠があるのか、もう一度見直さなければならなくなると思う」(乙一七二号証・岩尾陳述書)などとまで主張するに至った。

そもそも、日本国憲法において保障される「裁判を受ける権利」とは、周知のとおり、裁判の結果によっていかなる不利益も受けないことを意味するのであって、かかる主張は、原告らの裁判を受ける権利を侵害するものである(今泉第二回三二三項)。
要するに、被告国の主張は、平均年齢が七〇歳を越え、帰る故郷も身よりもいない原告らに対する恫喝であるとともに、裁判を提起していない療養者らを牽制するものであって(今泉第二回一九二項)、極めて卑劣である。

4 見直し検討会の限界

(一) 国の主張の前提

そもそも、「過去の損失保障は、法廃止に伴う処遇の維持・継続ですべて事足りる」との被告の主張は、法廃止に伴う見直し検討会において、過去の行政についての評価が十分に議論されたことが大前提である。この点は、当時、エイズ結核感染症課課長であった岩尾總一郎も認めるところである(岩尾第二回一五九項、一六〇項)。

(二) 見直し検討会の限界

しかるに、見直し検討会は、座長であった大谷氏が「見直し検討会としては何か、要するに基本的には今の患者さんの療養所処遇というのは継続してあげてほしいという強い、これははっきりした決定事項なんです」(甲一八三号証の6「第六回見直し検討会議事録」三九頁)と率直に認めるように、法廃止と処遇の維持のみが目的であった。

そのため、過去の行政の評価に対する検討については限界があったことが明らかである。

すなわち、スケジュールとしては、半年で報告書を提出し、翌春には見直し法案を提出することが既定路線であった(岩尾第二回一二項)。また、委員のメンバーには、元厚生省の保健医療局長、元事務次官、現役の療養所所長など厚生省関係者で占められるとともに、四名もの厚生省の事務方も参加していた一方(同三二、三三項)、他のメンバーはハンセン病問題に詳しくないメンバーであり(同三七項)、厚生省関係者が見直し検討会の議論をリードした(同三八項)。さらに、過去の政策に対する評価は、第六回会議のみで行われ、資料としては、甲一五六号証の資料4から8までのみにて行われた(同四九項)。しかも、その資料は原資料でなく、岩尾証人らが手を加えた二次資料であり、内容は、三園長発言は詳細に記載があるものの全患協の反対運動については記載がない(同五六項)、プロミンの効果についても記載がない(同五二項)という極めて偏頗なものであった。

このように、スケジュールも半年と区切られていたこと、回数も八回と区切られていること、委員も厚生省関係者により占められていること、資料の量はもとより内容も極めて杜撰なものであることからして、国の過去の政策に対する議論は極めて不十分にしか行われなかったは明らかである。

そして、大谷座長も、率直に認めているとおり、

「国の責任、歴史上の責任、誰がどうだったかという責任につきましてはあまり追求していない」

「この見直し検討会はそもそも『現存するらい予防法についてどうするか』という意見を国から求められている国の委員会なんでして、国の責任を歴史的に明らかにせよという裁判の性格を持った委員会ではないわけですね」(岩尾第二回一二〇項、甲一号証「らい予防法廃止の歴史」三八五頁)

「何度も申しますけど、今回の報告書で国の責任問題に対する追求というものについては、なまぬるい点はあったかも知れませんけど、それについては国の委員会の限界として、私の能力の限界としておわびいたします。国の責任、個人の責任については別の次元で追求していかなければならない」(甲一号証「らい予防法廃止の歴史」三九二頁) と繰り返し述べる通りである。

以上のように、見直し検討会においては、過去の行政に対する評価は全く議論されていないに等しいのであるから、「処遇の維持・継続にて補償問題は解決している」との主張は、そもそも前提を欠くものであり、その意味でも失当とのそしりを免れない。

三 患者作業について
1 被告の主張

被告国は、強制労働について、(1)健康保持及び精神慰安と明確に位置づけていた療養所もあるなど患者作業が全般的に強制労働的な要素を持っていたとは言えない、(2)懲戒処分を背景にした労働の強制は事実上ありえなかった、(3)最も遅い療養所でも昭和四〇年代後半には、従来患者が行っていた作業の全部又は一部を療養所側の責任で行うとの決定がなされた(被告準備書面・二二乃至二三頁)、(4)人手不足の療養所において、同病者が相互扶助の精神の下、患者ができる範囲で作業をするのは当時の情勢下ではやむを得ないことであった。(5)することのない入所者あるいは若い活力を持て余す軽傷者などはこれを歓迎し、作業によって作業賃の給付が受けられるのは入所者にとってメリットであった(被告準備書面・二二三頁)などと主張する。

患者作業の実状、強制である評価、原告らが受けた被害については、既に事実経過の各項において繰り返し詳論したとおりであるが、再度、被告の主張につき反論する。

2 (1)(精神慰安)について

患者作業が存しなければ、ハンセン療養所の運営が成り立たなかったことは歴史的事実として、各原告はおろか、大谷、和泉、犀川各証人も認めるところである。

患者を「統制する手段」として、「精神慰安」と位置づける療養所があったとしても、それは療養所側の名目にすぎず、
患者らにとっては、実質的に強制労働であったことを否定するものにはなり得ない。十分な医師・看護要員数が取られた上で、軽作業だけが行われたのであればともかく、詳論したように、在園者数に比較して圧倒的に医師数・看護要員数が少ない状況の中、不自由者看護・病棟看護などの医療作業、金工、左官、義足工、洗濯などの重作業、僚友の火葬さえ行われたのであって、「健康保持及び精神慰安である」との被告の主張は全く説得力がない。

3 (2)(労働の強制の不存在)について

既に詳細に主張したとおり、強制作業の種類は、園内における日常生活全般に及んでいた。例えば、病棟看護・付添看護を含む「看護関係」、道路修理、木工、畳表替え、食事運搬、衣類洗濯などの「生活関係」、学園教師、少年舎、少女舎などの「教育関係」、火葬、肥料くみ取り、薪割り、風呂焚き、下水掃除などの「雑務」など、療養所の運営全般にさえ渡っていたのである。

患者が働かなければ、患者自身の生命に影響が出るとともに、療養所自体の運営に支障が出たのであって、その意味において、強制以外の何者でもない。

懲戒処分を背景にした労働の強制があったとは、原告らは主張していないのであって、「右背景がないから労働の強制とは言えない」との被告の主張は、論理のすり替えであるとともに、事実のねつ造というべきである。

4 (3)(四〇年代後半の返還決定)について

昭和四〇年代後半に、療養所の責任において行うとの「決定」がなされたとしても、既に詳論した通り、現にその「返還」がなされたのは昭和六〇年以降なのであって、被告の主張は何ら意味を持たない。

そもそも、「昭和四〇年代後半の返還決定」というのも、昭和四七年七月行動で、全患協が厚生省当局に、作業返還を昭和四八年三月三一日付けで行うことを最終通告したのが発端である(甲三号証「全患協運動史」一五九頁)。この全患協の最終通告に対して、厚生省は「作業返還を一年間延期してもらいたい」と申入れるなど「泣きついた」が、全患協は作業返還の実施の基本線を譲らなかったものである。厚生省はあくまで患者作業によって療養所の運営を行おうとしていたし、作業返還に対して積極的な対応を取ろうともしなかったのであり、全患協から突き上げられた結果としての「返還決定」は、何ら国の責任を免責するものではない。

5 (4)(相互扶助の精神)について

また、被告は、「人手不足の療養所において、・・・・当時の情勢下においてやむを得ないことであった」と述べるが、そのような「当時の情勢」は、被告が絶対隔離撲滅政策を採ったが故に引き起こされた結果にすぎない。既に述べたとおり、患者定員を無視して、絶対隔離政策を邁進させたが故に、全国一三の療養所においては、大部屋での雑居生活、通い婚、そして患者看護を含めた強制作業を行わざるを得なかったのである。

「相互扶助の精神」と言えば聞こえは良いが、被告国の政策によって強制収容された療養者らにとって、互いに助け合わねば生死にかかわる状況であっただけにすぎず、被告国の政策を免責するものでは何らないのである。

「入所者は次のようなことをしばしば聞かされた。『おまえも不自由になり、病気が重なって盲人になるかも知れない。そのときは他人に面倒をかけるのだから、元気なうちにつとめておけ』と。これが患者看護の出発点なのである。義務の強制である。他から隔絶された療養所という一つの社会で、相愛互助はたしかに必要なことであるが、強制された相愛互助でも、すがりつかなればならなかった入所者こそ無惨であった」(甲三号証「全患協運動史」八七頁)。

6 (5)(作業賃のメリット)

被告はさらに「することのない療養者ないし軽症者は歓迎し、作業賃を得られるメリットもあった」などとも主張する。

そこでいう作業賃は、「囚人並み」の低さであったことは既に述べたとおりである。二四時間労働の病棟看護を行ってさえ、たばこ一〇本さえ購入できない金額であり、その低さは、創設時だけにとどまらず、現在まで続いている。

そして、作業を行わされたのは、国の言うように「軽症者」のみではなく、重症者や盲人なども、ガーゼ集め・ガーゼ再生・洗濯などの作業をさせられたことは既に述べたとおりである。

7 以上、要するに、かかる被告の主張は、自ら邁進させた絶対隔離終生隔離政策に伴う、「強制作業」を正当化せんとするだけの詭弁にすぎない。

四 処遇改善について
1 被告の主張の欺瞞性

なお被告は、「戦後、療養所内の処遇改善が行われ・・・・改善を見たのは記述のとおりである。」(被告準備書面二一八頁以下)と主張する。

被告の書証引用における態度は、主張全般において、文献の発行者、文献の中における文章の文脈、執筆者の意図、執筆の背景などを一切無視して、自己に都合の良い「表記」を一部のみ引用し、あたかもそれが療養所の実状であるかのような立論を組み立てるところにあるが、処遇改善に関する被告の主張も、まさにその類である。

例えば、被告は、乙一二五号証を引用し「昭和二六年当時の菊池恵楓園が開放的で明るい村落といった雰囲気であった」(同書面二一九頁)などと主張する。

しかし、同号証は、国立療養所菊池恵楓園発行の「恵楓」の中の、「『入所をおすすめする』と入所者の代表増重文さんは恁う語っています」というタイトルの文章の抜粋である。これはそもそも被告が発行した雑誌の中の一文章であり、しかも療養所への入所を薦める記事であるから、療養所に不都合な点を登載することはあり得ない。事実、不自由舎介護については触れられておらず、逆に、「養豚養鶏などで収入をうる方法があり日常生活を潤している」という記載に至っては、患者らが養豚や養鶏を療養所内において行わなければ、日常生活にさえ事欠くという当時の療養所の実態を粉塗する内容になってさえいる。

しかも、これは「恵楓」の創刊号であって、一九五一(昭和二六)年八月発刊である。つまり、「二八年闘争」が開始される前であり、園側の締め付けが相当に厳しかったことは容易に推測できるとともに、自治会発行ではなくて、園側が発行したものであることに留意しなければならないのである。

かかる背景事情を無視した上、被告自身が発行したプロパガンダ文書の記載を証拠として引用する態度はあまりにも厚顔というべきであるとともに、まさに事実を隠蔽するものでしかない。

2 処遇改善の不十分さ

昭和五〇年代以降においてさえ、大部屋による雑居生活、深刻な設備の老朽化による生命の危険、他の医療機関と比較して質量ともに余りに貧弱な医療体制、患者作業による療養所の運営、外来治療中心の医療の不存在など、被告の言うところの「処遇改善」は余りにお粗末なものであったことは詳細に述べた通りである(本書面二五八頁、二九八頁以下)。

例えば、住環境一つとってみても、昭和五〇年代以降の全患協のスローガンには、「施設整備」の項目が必ず挙げられており、昭和五四年度のスローガンとしても「施設整備と別枠整備の促進」として、「四 不自由者棟を早期に整備するように要求する。 五 個室制(四・五畳以上)夫婦に二室制居住整備の促進を要求する。」などが掲げられているが(乙一一一号証「全患協ニュース縮刷版3」九九頁)、このスローガンは現在に至るまで継続しているのであって、国の言うところの「処遇改善」は、単に戦前の余りにもひどい状態から脱したことしか意味しない。

3 処遇改善の意味するところ

そして、何よりも重要であることは、処遇の改善は、被告国の絶対隔離絶滅政策を何ら変更するものでないことである。
被告らの言うところの「処遇改善」とは、療養所内に強制隔離された患者・元患者らの不満に一定限度で答えて、不満を解消させ、あくまで強制隔離政策を円滑に維持・継続するためになされたものにすぎない。

処遇の多少の改善は、らい予防法による強制隔離政策の変更を示すものでは何らなく、逆に絶対隔離絶滅政策遂行の一環として位置付けられるべきものなのである。

五 差別と偏見について
1 因習的な差別偏見と強制隔離政策による差別の質的相違

ハンセン病患者に対する差別偏見に関する被告の主張は、病気による身体の外貌の変形、醜状による差別を不当に強調して、古来からある因習的差別偏見と国の強制隔離政策によって創り出された差別偏見を薄めようとするものといえる。

しかし、これはたんなる「嫌悪」にとどまる因習的差別偏見と、強烈な伝染力を持つ恐ろしい病気という「恐怖」をもたらす国が創り出した差別偏見との本質的差異をあえて無視するものである。しかも、右の「恐怖」は新旧らい予防法によって公権的な烙印(スティグマ)を押され、現実にも終生にわたる強制隔離や消毒、断種等の対象とされたことにより一層強められている。

実際にも、ごく一部の放浪らい患者を除く大部分のハンセン病患者らは故郷で家族と共に生活し、その多数が生業についていた。にもかかわらず、こうした患者らも新旧らい予防法の絶対隔離政策と無癩県運動によって故郷を追われ、家族親族との絶縁を余儀なくされ、さらにはプロミン以降に病気が軽快してもその多くが郷里に帰れなかったことをみれば、国の創り出した差別偏見の大きさは明らかであろう。

大谷氏の『現代のスティグマ』はこの点について、次のように明快に断じている。

「明治、大正、昭和と三代百年以上にわたって、ことに第二次世界大戦をはさんだ戦前戦中戦後の時期には、ハンセン病に対するスティグマ、差別、迫害は、民衆の単なる嫌悪の感情だけにとどまらず、法律により様々な制限が制度化され、国家の名により、日常的に地域社会からの排除が進行し、それがまた民衆感情にはね返って、らい患者は忌むべく汚れたバイ菌を撒き散らす者とする行き過ぎた偏見が、あたかも社会の正しい常識であるかのごとく、一層根強く強固なものとなった。」(甲二三号証一九頁)

2 国の政策はどうあるべきだったか

そもそも差別偏見に関する国の政策の根本的誤りは、本来因習的差別偏見の解消に取り組むとともに、患者に対して適切な治療を給付すべきであるにもかかわらず、それどころか差別偏見をほとんどパニックの域に達するまで誇張し煽りたて、それによって絶対的強制隔離政策を推進したことにある。

国が本来なすべきことは何だったか。

それは、古来の業病、天刑病という誤った観念を払拭し、近代的な医療政策の中にハンセン病を位置付けることであった。ハンセン病は通常の疾病であり、遺伝病でもないしコレラやペストなどの急性伝染病でもない。こうした基本的知識を啓蒙すべきだったのである。

また、早期に適切な医療を受けられる環境を各地に整備し、神経麻痺による二次被害を防ぐための啓蒙を行っていれば、後遺症や外貌の変形により苦しむ患者も減ったはずである。

特に、プロミン導入以後は、治るものであることを積極的に啓蒙し、適切な治療とリハビリテーション、社会復帰実現のための環境を整備することが求められていたのである。

これらの政策が実施されれば、ハンセン病も早い段階で結核などの他の疾病と同様に扱われ、因習的差別偏見も解消に向かったはずである。

3 実際に国が行ったこと-差別偏見の固定と増幅

しかるに、被告国が行ったことはこれらと全く逆であった。

(一) 因習的差別偏見の存続を前提にした政策

まず、国は因習的差別の解消に取り組むどころか、その存在に立脚した政策を行った。

そのことは、ハンセン病を一般の疾病と区別し特別扱いする政策、すなわち、伝染力の弱い疾病にすぎないのにハンセン病患者の存在を「国辱」とし、「民族浄化」のために「根絶」すべき対象として絶対的強制隔離政策を推し進めたことにはっきりとあらわれている。まさに、国自身が因習的差別偏見の上に立ってハンセン病患者を差別していたというほかない。

因習的差別偏見の解消に国がおよそ無関心であったことについては、古来の因習的差別偏見と結びついた「らい」という病名を「ハンセン(氏)病」に変更するように全患協がらい予防法闘争以来繰り返し要求したのに対し、国が一九九六年のらい予防法廃止まで全く無頓着だったことを見ても明らかである。これについては、らい予防法成立時の参議院厚生委員会の附帯決議の第八項に「病名変更については十分検討すること」と明記されており、全患協の一九六三(昭和三八)年のらい予防法改正要請書にも第一番目の項目として次のように強調されている(甲一・二三二頁)。

「昭和二八年本法の改正が行われた際、附帯決議九項目の中に「病名については充分検討すること」ということが国会で決議されており、それ以来今日まで要請してまいりましたが、未だその実現をみないことは遺憾であります。しかし、ジャーナリズムの間では「ハンセン氏病」という呼称が使われ次第に普及しつつあります。

天刑病、罪障説、不治の病、あるいは、強制隔離等「らい」にまつわるいまわしい因襲、迷信と暗い歴史は筆舌につくしがたいものがあります。こうした背景の中から偏見が形成されたといえます。またハンセン氏病行政のゆがみと齟齬を生む要素であったことは否定できません。・・・」

このように差別偏見に苦しむ当の患者らが病名変更を切実に要求し、ジャーナリズム等でもそれが受け入れられていったにもかかわらず、国がこれを一顧だにせず法廃止まで変更が実現しなかったことは、差別偏見問題に関する国の姿勢を端的に象徴するものである。

(二) 新たな、より強力な差別偏見の創出

次に、国は、因習的差別偏見の解消に取り組まなかっただけでなく、それ以上に強力な差別偏見を創出した。すなわち、隔離撲滅されるべき強力な伝染病という差別偏見である。

このことについてこれまで繰り返し述べてきたが、

  1. 新旧らい予防法において、強制診察、強制入所、従業禁止、消毒、外出禁止、物件の移動の制限等の諸規定を定め、ハンセン病があたかもコレラやペストのような急性伝染病と同じような病気としてハンセン病を扱ったこと、
  2. 全国津々浦々で無癩県運動を展開しハンセン病の伝染性を不当に強調する「啓蒙」活動をしたり、見せしめ的な強制収容や大規模な消毒により「恐怖」を煽り立てたこと、
  3. 隔離施設としての療養所を全国に設置して患者全員入所をほとんど完全に実現し、かつ、ハンセン病医療を一般医療から切り離して隔離療養所のみに徹底して、ハンセン病患者は隔離されるべき存在という印象を目に見える形で固定したことなど、挙げればきりがない。

『日本らい史』(甲二)の著者である山本俊一氏は菊池恵楓園の自治会誌「菊池野」四〇九号(一九八八年)に掲載された論文「らい予防法の問題点と将来展望」の中で、国のハンセン病政策の基本的な誤りとして、(1)強制隔離策の採用、(2)遺伝説否定の不徹底、(3)伝染力の誇張を挙げている。このうち②は右の(一)で述べた内容であるが、(3)について同氏は、衛生行政当局が事実に反してハンセン病を「あたかもらいが強力な伝染病であるかのように取り扱ってきました」としたうえ、その理由について次のように説明している。

「そもそもなぜこのようなやり方をしたのかを考えますと、要するにらいに対する予防活動を政府が行う場合、「感染力が弱い」というようなことでは困るわけで、「感染力が非常に強い」と言えば、予防目標がより容易に達成できるということから、結局手段を選ばないで意図的に病気の危険性を誇張したと思います。あるいは政府自身が誇張したというのは少し言いすぎかもしれませんけれども、その誇張宣伝されている状態を政府が容認した、そのままにしておいた、ということは紛れもない事実であると思います。」

この山本氏の説明は、前記の新旧らい予防法の諸規定や無癩県運動、新法制定の際の三園長証言等の本質を鋭く突くものといえる。すなわち、国はハンセン病患者絶対隔離撲滅という政策目標を達成するために、あえて強力な伝染力を持つ恐ろしい病気としてハンセン病を宣伝し、強制収容や消毒で地域社会に意図的にパニックを引き起こして差別偏見を強めたのである。

なお、右の点は「らい予防法」についての日本らい学会の見解においても、「隔離の強制を容認する世論の高まりを意図して、らいの恐怖心をあおるのを先行させてしまったのは、まさに取り返しのつかない重大な誤りであった」と明記されている(甲一・三四六頁)。

(三) 国自身が差別偏見に固執し続けたこと

さらに、こうした差別偏見の誇張を利用したハンセン病政策を続けたことにより、被告国自身が、厚生省や療養所の職員を含め、ハンセン病に対する差別偏見にとらわれ、長くこれに固執し続けたことも、重大である。

そもそもらい予防法の制定自身が差別偏見にとらわれたものであったことについて、一九八七年(昭和六二)年三月に療養所所長連盟が厚生大臣に提出した「らい予防法」の改正に関する請願書は次のように述べている(甲一・二五七頁~二五八頁)。

「旧法が、日本国民の血の浄化と癩者の撲滅を期して、絶対隔離を基本としたことは周知であります。新法は昭和二八年七月二日に、第一六回国会の衆議院厚生委員会に提出されましたが、その理由を山懸勝美厚生大臣は、制定以来五〇年を経た旧法が現在にそぐわないためとしています。昭和二二年ころにはじまったハンセン病の化学療法は、当時すでにめざましい効果をあげていましたし、WHOの強制隔離規定の修正を求めた勧告もあって、ハンセン病の治癒性に対する社会の認識にも変化のきざしがありましたから、厚生大臣の説明はむしろ当然なことといわなくてはなりません。しかし、実際には、ハンセン病をめぐる社会的偏見が、なお根強く残っていたのも確かであり、法文の用語や表現は異なっていても完全隔離の基本原理を新法でも変更しなかったのは、偏見に基づく社会通念が支配的であったことを示しています。」

また、新法下における軽快退所基準において、「顔面、四肢等に著しい奇形、症状を残さないこと」といった伝染のおそれと無関係の外見にかかわる「希望事項」が加えられたことは、患者は終生療養所外に隔離されて出られないという差別偏見を維持し、終生絶対隔離政策の建前に国自らが固執し続けたことを示すものである。

さらに、恐ろしい伝染病という差別偏見が厚生省や療養所職員に徹底していたことは、前記の大谷課長時代以前には全患協役員さえ課長室に入れなかったこと、療養所において、職員が出入りするときには白衣や長靴で防護・消毒する異様な慣習が長く続けられていたことなど、これも枚挙にいとまがない。

4 時代の変遷により差別偏見が解消するか

被告は、国によってつくり出された差別偏見が存在したとしても、「時代は変遷しており、社会の構成員もこれに応じて変遷し世代交代している」から、差別偏見も希薄化していると繰り返し主張するが、無知・無関心層の増加によって強固なスティグマとなっている差別偏見がただちに解消するわけではない。

既に詳論したとおり、、具体的事実として近年に至るまで差別偏見事件は数限りなく起こり続けている。また、患者らの多くが故郷に帰ることができず、家族・親族と絶縁状態であるという事実も厳然として存在している。

そして、そうした差別偏見事件が起こり続ける根拠も存在している。すなわち、前記のとおり強烈な伝染病という差別偏見に基づくらい予防法と絶対隔離政策実施の施設としての療養所の存在である。らい予防法と隔離施設としての療養所が存在する限り、差別偏見は更新され続けるのである。このことは、厚生省委託事業によるハンセン病予防事業対策調査検討中間報告書においても次のように指摘されている(甲一・三五五頁)。

「・・・若い世代にはハンセン病に対する差別偏見はなくなったといわれている。しかし、それは必ずしも「真実を理解して差別を克服した」というものではないから、なにかのきっかけによって思いがけない問題は起こっている。らいについては、日本社会の深層において今なお根強い嫌悪感・差別意識が存在している。」

「患者を「社会から隔離しなければならぬ」としている「らい予防法」の存在はなお一層らい患者に対する偏見差別を強めているものと考えられ、学校教育、医療以外の行政の面等においても悪い影響を及ぼしている」

他方、過去に自己または他のハンセン病患者らが受けた強烈な体験(強制収容、消毒、断種、家族・親族との絶縁など)に基づいて差別偏見を恐れる患者ら自身にとって見れば、国が目に見える形で積極的に差別解消措置を行うことなしに「時代の変遷によって差別偏見が解消した」などと言ってみても何の意味もないことである。なぜなら、ほとんどの患者らは差別偏見を受ける可能性を恐れて自らが(元)患者であることをひた隠しにしており、差別偏見を現実に受ける前に回避することに神経を費やしているからである。そして、差別偏見を受ける可能性は、過去の体験に加え、強制隔離や従業禁止を定めたらい予防法と隔離施設としての療養所が存在する限りその根拠を有するのである。

患者らにとって差別偏見が真に解消したといえるためには、一般社会の中でハンセン病(元)患者であることを隠さずに安心して生活できるようになることが重要であり、そのためには差別偏見の根拠となっているらい予防法が廃止され、療養所が隔離のための施設でなくなることが最低限必要なのであり、加えて差別偏見を創り出し誇張してきた過去の政策の誤りを国が明確に認めて、その積極的解消策を目に見える形で、すなわち、無らい県運動に比すべき規模で実施することが何よりも求められるのである。

六 軽快退所と終生隔離

被告国が積極的に軽快退所を勧めることなく、むしろ絶対隔離絶滅政策を戦前・戦後・新法制定後・一九六〇年以降と一貫して継続してきたことは既に詳論したとおりであるが、ここで再度、反論を加えることとする。

1 「暫定退所決定準則」の作成経緯が意味するもの

被告国は、旧法及び新法ともに軽快退所を当然に認めるものであったとし、「その判断基準の明確化のために」退所決定暫定準則を作成したが、「公表されなかった」だけである旨主張する(準備書面二〇九頁以下)。 しかし、これは全く事実に反する。

大谷「法廃止の歴史」によれば、この準則なるものは、一九五六年五月二三日、駿河療養所で開催された国立らい療養所課長会議において、「秘文書として厚生省国立療養所課長から医務部長に配布された」(同書二一七頁)ものであるが、「しかし、この文書が本当に公式文書であったかどうかについて、そうでなかったと解釈している人もあり、存在を知らなったという人もあり、未だにその間の経緯は謎めいている。」とされている。

大谷氏は、部外者ではない。一九五八(昭三四)年に厚生省に入り、一九七二(昭四七)年には、国立療養所課長に就任している。つまり、この「暫定準則」の作成者である国立療養所課長の後任者である。その後任者に公式文書として引き継がれてはいなかったのであり、その故に大谷氏はその間の経緯は謎だというのである。このような公式文書などが果たしてありうるのだろうか。退所規定のない「らい予防法」に関する「退所決定準則」が公式文書として存在していたのであれば、これは極めて重要な文書であり、療養所課長に当然引き継がれるはずであって、大谷氏が知らないということ自体、端的に公式文書でないことを物語っている。

さらに、このことは、次の三つの事実によっても基礎づけられる。

第一は、この文書が「療養所長会議」ではなく、「課長会議」に配布されているということである。
公式文書であれば、所長会議に提示され、その了解を得て周知徹底がが図られるはずである。当時は未だ愛生園園長は光田健輔である。この厳格な終生隔離論者が内容はともかく、退所基準なるものを公式に決定することに異を唱えないはずがない。

第二には、暫定と表示され、しかも厳秘扱いとなっているということである。
そもそも公式文書であれば、秘密扱いされることはありえない。その存在を関係者に周知されてこそ公式文書たりうるはずである。

第三には、その原本たるやいわゆるワラ半紙にガリ版刷りされたものだということである。
これは、公式文書としてはありえないことと断言することができる。一九五一(昭二六)年発行の国立療養所年報すら正式に印刷されているからである。少なくとも、その周知を図ることが前提とされていないことが明らかであると言わざるをえない。
以上のように、公式文書でないとともに、同基準は「必要最小限」の準則とされ、各療養所長が「一層高度のものを定め」ることができるものとされていたため、療養所によってはさらに厳しい運用も見られたのであるから、被告のいうように「判断基準の明確化のために」設けたとは到底言い得ないことが明らかである。

2 患者らが知り得なかったこと

また、被告国は、乙第一〇九号証及び乙第一二七号証を提出し、「退所決定準則は、全患協の知るところとなった」旨の主張もなしているが、これも全く事実に反する主張である。

乙第一〇九号証の全患協ニュースは、「準則」が配布されてから二年後の一九五八(昭和三三)年一二月一五日発行であり、厚生省の退所決定暫定準則を報じているものではなく、菊池恵楓園に「治癒軽快退園診定委員会」が設置されたという記事にすぎず、主として退所申出の手続が記載されているだけで、退所基準自体は示されていない。

また、乙第一二七号証も、「伝染しない人は退所できるので勇気を持って社会復帰すべきである」旨の談話が「姶良野」に載ったというだけであり、退所基準は全く示されていない。しかも、当時(一九五六年七月)、「姶良野」は各舎に一冊しか配布されておらず、その内容を入所者の大半が知りえたとは到底言い難いところである。

したがって、患者らが退所基準を知り、その基準を充足するための検査を進んで受けるという状況にはなったことが明らかである。

3 「軽快退所者」と終生隔離

被告国は、新法制定前の昭和二六年から、プロミンによる化学療法の発達等により増加した菌陰性者が軽快退所するようになり、昭和三三年以降の一〇年間は全国で毎年約一〇〇名の退所者があったとし、前記「準則」による退所者は累計で約三〇〇〇人にも及ぶとも主張している。
しかし、「軽快退所者」の存在はハンセン病患者に対する終生隔離政策の変更をいささかも意味するものではないとともに、その主張は事実に反するものにしかすぎない。

(一) 軽快退所者の存在と終生隔離

先ず、明らかにしなければならないのは、「軽快退所者」の存在と終生隔離政策との関係である。
すべてのハンセン病患者を療養所に隔離する絶対隔離政策下においても、これに従うことなく、在宅のままで通した患者も例外として存在したわけであるが、絶対離政策を策定推進したことと、例外としての在宅患者の存在は何ら矛盾するものではない。

同様に、収容した患者を死ぬまで隔離するという終生隔離政策を推進し続けたということと、死亡以外の中途退所者が例外的に存在したこととの間にも何ら矛盾はない。その政策に反して、例外的に退所したのであれば、政策の推進自体とは何ら相反することはないからである。

問題は、その軽快退所が「政策」として認められていたかどうかにあるのであって、軽快退所者の「存在」自体にあるわけではない。既に繰り返し述べたように、公式な軽快退所基準も存在せず、そしてもちろん公表もされず、確たる退所支援策もないという状況下で、入所者の大半が軽快退所できず、一部のものが例外として退所したにすぎないのであるから、その一部の例外の存在のゆえに、終生隔離政策が廃止されたということには到底ならない。

(二) 軽快退所者「数」の意味するところ

(1) 被告の主張する「数」の欺瞞性

まず、被告の主張するところの「全国で毎年一〇〇名の退園者」がありとする、「ハンセン病政策の変遷」(一四〇頁)からの引用部分は、同一三九頁に明記されているとおり、「隔離政策の下では必ずしも治癒軽快者とは限らず、転所者、強制退所者、一時帰省から帰らない者などを含んでおり、また軽快退所者の内には再発再入所者もあった」ものなのである。
要するに、被告の主張する「毎年一〇〇名の退園者」には、他のハンセン病療養所へ転園した者、強制退所者、引いては死亡者まで含まれているのであって、右数字をあたかも軽快退所者の実数であるかのごとく主張する国の態度は、事実を意図的に誤導するものにほかならない。

(2) 軽快退所者数から読みとれるもの-終生隔離

国立療養所年報や「日本のらい」(乙第五三号証)によって、「軽快退所者」の推移を表にすると以下のとおりである。

入所患者数(A) 在園者数(B) 軽快退所数(C) C/B%
1950 8,699 69 0.79
1951 1,156 9,486 35 0.37
1952 654 10,092 43 0.43
1953 563 10,304 49 0.48
1954 566 10,761 80 0.74
1955 608 10,927 79 0.73
1956 524 11,027 72 0.53
1957 480 11,087 86 0.76
1958 481 11,075 108 0.98
1959 427 10,785 163 1.51
1960 362 10,645 216 2.03
1961 338 10,492 169 1.61
1962 338 10,339 134 1.30
1963 304 10,163 125 1.23
1964 (161) 307 9,994 119 1.20
1965 (140) 259 9,874 91 0.92
1966 (103) 212 9,715 117 1.20
1967 (112) 211 9,537 117 1.22
1968 (127) 210 9,354 74 0.79
1969 (121) 194 9,164 67 0.73
1970 (132) 169 8,651 67 0.77
1971 (178) 218 8,526 38 0.46
1972 (117) 161 8,401 47 0.59

まず、指摘しておかなければならないのは、この年度毎の「軽快退所者」の数や累計数にさえ、一旦軽快退所した後再入所した者の再退所あるいは再々退所が含まれているということである。その実数がどれほどであるかは明らかにされていないか、少なくとも国立療養所年報において再入所者の数を公表するになった一九六四年以降においては、「軽快退所者」の数より「再入所者」数が上回っていることが明らかであり、このダブルカウント数は決して無視できるものではない。

ただ、このように無視できない再退所及び再々退所を含んでさえ、この推移表から明らかなとおり、「軽快退所者」の割合が極めてわずかである。その割合は、最も「軽快退所者」の多かった一九六〇年度においてすら在園者数の二・〇三%にすぎず、殆どの年において一%未満にすぎない。全在園者の中で菌陰性者の占める割合は明らかにされていないが、それにしてもこの少なさは、どのような意味においても、政策として「軽快退所」が実行されたとは言いえないことの決定的な証拠である。

次に、「軽快退所者」の数の増加が一次的なものにすぎず、菌陽性者の減少と全く相関していないということも明らかである。

「軽快退所者」の存在が、政策としての変更を意味するのであれば、その数は菌陽性者の減少とともに増大していかなければならない。

ところが、軽快退所の数は一九五八年から一九六〇年にかけて増加した後、減少しはじめ、一九六八年以降は一気に減少し、一九七一年以降に至っては、一九五二年のレベル以下にまで低下している。

一方、菌陽性者は年々減少し、一九六〇年に入所者の三〇パーセント、一九六八年に二〇パーセント以下、一九八五年に一〇パーセント以下、一九九四年には二・三パーセントに減少している(甲二一九「国立らい療養所の現状と将来」(長尾論文)九四頁、九八頁Fig4・傍線が患者総数、白抜きのグラフが菌陽性者の数、黒グラフが菌陽性者の患者総数に占める割合)。

この事実は、こうしたわずか数年間の「軽快退所者」の増加が、菌陰性者の退所という「政策の故」でないことの端的な証左である。

以上のとおり、軽快退所者数の実数が著しく少なく、ほとんどの年において一パーセント未満であること、増加が一時的なもので年毎に減少する菌陽性者の割合に比例していないことからして、むしろ終生隔離政策に変更がなかったことを表しているというべきである。

以 上

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