古賀克重法律事務所ブログ

福岡県弁護士会所属弁護士 古賀克重(こが かつしげ)の活動ブログです。

集団訴訟を現代化した薬害エイズ訴訟の意義とは~薬害根絶フォーラムシリーズ1

薬害根絶フォーラム福岡の開催が迫る

全国薬害被害者団体連絡協議会(薬被連)が10月15日、薬害根絶フォーラム(第19回)を初めて福岡で開催します。

薬被連は、「薬害根絶」を目指して1999年10月、薬害被害者団体が結束して立ち上がった団体ですが(代表世話人・大阪HIV薬害訴訟原告団の花井十伍さん)、現在では10薬害12団体が参加しています。

フォーラムの第1部では、薬害被害の実態報告が予定されており、 薬害肝炎から全国原告団代表の山口美智子さん、MMRから栗原敦さん、スモンから古賀道子さん、サリドマイドから高瀬春子さん、イレッサから近澤昭雄さん、ヤコブから坂野晴美さん、 HIVから後藤智己さん、陣痛促進剤から出元明美さん、筋短縮症から徳山千鶴子さん、HPVワクチンから梅本美有さん・邦子さんが被害を訴える予定です。

フォーラムの福岡開催を間近に控えて、加盟団体の訴訟について自分自身の経験に照らしながら数回のシリーズで振り返ってみることにしました。第1回は薬害エイズ訴訟を取り上げたいと思います。

薬害エイズ訴訟とは

薬害エイズ訴訟とは、血友病患者の治療のためや未熟児新生児メレナ症や産科出血等の患者に投与された非加熱の血液凝固因子製剤により、免疫不全を引き起こすHIV(免疫不全ウィルス)に感染した被害者が国および製薬企業を被告として提訴した事案です。

血友病患者は、補充療法として使用した血液製剤に含まれていたHIVウイルスに感染し、当時根治療法がなかったエイズを発症し命を落としていったのです。日本国内の血友病患者約5000名のうち、血液製剤によるHIV感染者は1800名とも2000名ともいわれています。

一方、製薬会社は、1982年末頃には、HIVが血液を介して伝播する可能性が高いことを認識していました。また国も、1983年7月にはエイズ研究班を設置し、非加熱製剤の危険性を基礎づける事実を把握して、国内血液を原料とするクリオ製剤への転換、加熱製剤の早期承認を目的とした検討を行っていたものの、対策は後手に回りました。その後、1985年にようやく加熱製剤が承認されましたが、製薬会社は非加熱製剤の回収を行わず在庫出荷を継続したため被害が更に拡大しました。
被害者は、1989年5月8日に大阪地裁、1989年10月27日に東京地裁にそれぞれ提訴しました(拙著「集団訴訟実務マニュアル」日本評論社・245頁)。

東京訴訟は1年5月の弁論期日、2年6月の総論立証(証人8名)、各論1年3月(原告本人ら61名)を経て1995年3月に結審し、大阪訴訟は2年4月の弁論期日、2年11月の総論立証(証人5名)、8月の各論立証(原告本人ら71名)を経て同年7月に結審しました

東京原告団は結審日の1995年3月27日に「全面解決要求書」を公表し、同年8月21日に和解を上申しました。同年10月6日、東京地方裁判所および大阪地方裁判所からの同時和解勧告を受けて、和解交渉が本格的に開始しました。
そして薬害エイズ訴訟は、1996年3月、和解確認書の締結と和解成立によって全面解決しました。

薬害エイズ訴訟との関わり

私は司法試験に合格した1992年、47期司法修習が開始するまでの間、東京地裁で法廷傍聴したり、親戚の顧問弁護士を紹介してもらい法律事務所に出入りするなど、「実務の空気」に触れるようにしていました。

その中で「薬害エイズ訴訟という大型裁判が行われている」と初めて耳にして興味をもち、法廷傍聴したのが始まりです。
1993年4月に司法修習が始まると、修習生の有志で薬害エイズ東京弁護団の弁護団会議を傍聴させてもらったり、裁判傍聴後の支援者集会に参加しました。
そこで当時、エイズ訴訟の事務局長をしていた鈴木利廣弁護士(司法修習28期)に出会い、「福岡で弁護士するならちょうど九州で弁護団が立ち上がるから参加したらどうか」と勧められました。1995年、福岡で弁護士登録するとともに同年立ち上がった九州弁護団に参加。そしてハンセン病違憲国賠訴訟・薬害C型肝炎訴訟で一緒に闘うことになる、八尋光秀弁護士(薬害エイズ九州弁護団代表・36期)や浦田秀徳弁護士(薬害エイズ九州弁護団事務局長・38期)と出会ったのでした。

「被害の余りもの甚大さ」「製薬企業・国の体質に対する憤り」はもちろんですが、さらに修習生として新鮮だったのは複数の弁護団員が詳細に準備したレジュメに従って、喧々諤々の議論を行う弁護団会議の様子でした。因果関係をどのように立証するか、当時は「多重感染論」などを議論していました。真剣かつ緻密に、しかし明るく議論する法曹実務家の空気に惹かれたことを今でも覚えています。

この司法修習生時代の薬害エイズ訴訟との出会い・東京弁護団傍聴がきっかけとなり、その後、ハンセン病違憲国賠訴訟に取り組み、薬害C型肝炎訴訟の事務局長を勤めることにつながっていきました。
その意味で、私個人の弁護士経験の中にも大きなインパクトを残し、そして影響を与えた訴訟だったといえます。

薬害エイズ訴訟の意義~集団訴訟の現代化の先鞭

「和解成立後の薬事法改正」、「行政担当者の刑事立件」、「薬害オンブズパースンの立ち上げ」など薬害エイズ訴訟の意義・成果は多数指摘できますが、ここでは以下の3点を指摘しておきたいと思います。

まず、訴訟の支援が特定の団体に限らず、実名公表した原告の訴えに共感した大学生・市民の中にも幅広い共感を勝ち得たことでしょう。
戦後の集団訴訟、水俣病であったり四大公害訴訟は、当時の時代背景をうけて、どうしても労働組合など特定の団体に対する支援要請が中心にならざるを得ませんでした。

ところが薬害エイズ訴訟は弁護団員自体も党派を超えて、医療問題を手がける弁護士のみならず多数の新人弁護士も参加しました。例えば東京HIV訴訟原告弁護団員の中で、過去に薬害訴訟の経験のある弁護士はわずか1名だけでした(「薬害エイズ裁判史」第1巻訴訟編・日本評論社・4頁)。

そして解決の局面にあたっても、党派を超えて全政党に対して等しく理解を求めていきました。従来のように各団体に対する支援要請にくわえて、党派を超えて幅広く理解を求めていく取り組みは、後のハンセン病違憲国賠訴訟や薬害C型肝炎訴訟のモデルケースになったといえるでしょう。

次に原告のプライバシーを守るため、原告番号制度が採用されるほか、訴訟における意見陳述や原告本人尋問においても、傍聴席と法廷の間に衝立が設けられるなど様々な工夫が行われました。その後の同種訴訟のモデルケースとなりました。

司法研修所編の「大規模訴訟の審理に関する研究」や最高裁事務総局民事局監修「計画審理を中心とする複雑訴訟の運営に関する執務資料」においても、薬害エイズ訴訟の取り組みはかなり紹介されています。このように裁判所における「集団訴訟」審理にも多大な影響を与えました。

さらに原告団弁護団が「解決までの期限」を切って早期解決を目指すという取り組みも、過去の集団訴訟には余りない発想でした。というのは戦後の集団訴訟はその時代背景もあり、短期間での解決は標榜できないような困難な訴訟も多かったからです。

これに対して薬害エイズ訴訟は、「損害賠償金をとるだけでは解決にならない、企業に勝っても国に勝たなければ意味はない、3年で1審勝訴判決をとり原告が生きているうちに全面解決を実現しなければならない、という重い課題を背負ってスタートした訴訟であった」(薬害エイズ裁判史」第1巻訴訟編・日本評論社・5頁)のです。

多数の専門家証人の尋問が行われ、判決ではなく和解協議が1年ほど行われたこともあり、結局、1989年の提訴から1996年の和解成立まで7年かかりましたが、「3年解決」という目標設定がなければその解決はさらに遠のいていたことでしょう。

このような集団訴訟解決への目標設定は、ハンセン病違憲国賠訴訟の「2年解決目標」(1998年提訴し2001年勝訴判決で3年で解決)、薬害C型肝炎訴訟の「3年解決目標」(2002年10月提訴して2007年1月救済法成立の5年弱で解決)につながったのです。

以上のように薬害エイズ訴訟は、いわゆる集団訴訟の近代化・現代化の先鞭として位置づけられる裁判だったと評価できるでしょう。

なお集団訴訟を近代化したといえる薬害エイズ訴訟において、大阪原告団と東京原告団は、「良きライバル」として切磋琢磨して競い合うように訴訟を継続し、そして解決を勝ち取りました。
そしてその後も課題解決のために自発的な活動を継続していることも忘れてはなりません。例えば東京原告団は専門医療機関との3者協議などに力を注いでいますし、大阪原告団の花井十伍さんは薬被連の代表を長く務めています。

つまり薬害エイズ原告団の今にも続く地道な取り組みが、各薬害団体の取り組みを一つにまとめ、被害の風化を防ぎつつ今後の薬害再発防止を訴えていくという薬被連のまさに原動力になっているともいえるでしょう。

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参考文献

「薬害肝炎裁判史」(東京HIV訴訟弁護団編・日本評論社)
「集団訴訟実務マニュアル」(古賀克重・日本評論社)
「温故知新~薬害から学ぶ~薬害エイズ事件」(医薬品医療機器レギュラトリーサイエンス財団)

投稿者プロフィール

弁護士 古賀克重
弁護士 古賀克重弁護士
弁護士古賀克重です。1995年に弁護士登録以来、患者側として医療過誤を取り扱っています。薬害C型肝炎訴訟の弁護団事務局長として2008年の全面解決を勝ち取りました。交通事故も幅広く手掛けており、取扱った裁判が多数の判例集で紹介されています。ブログではその主たる取扱い分野である医療過誤・交通事故について、有益な情報を提供しています。

弁護士 古賀克重

弁護士古賀克重です。1995年に弁護士登録以来、患者側として医療過誤を取り扱っています。薬害C型肝炎訴訟の弁護団事務局長として2008年の全面解決を勝ち取りました。交通事故も幅広く手掛けており、取扱った裁判が多数の判例集で紹介されています。ブログではその主たる取扱い分野である医療過誤・交通事故について、有益な情報を提供しています。